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みなさんは、ハロウィン楽しんでらっしゃいますでしょうか。
僕が子供の時はね、そんなハロウィンって、世の中に普及してなかったと思うんですけどね。
ただ学校の、その小学校とか中学校の英語の時間に、
英語圏の文化に触れようっていうことで、なんかハロウィンについて学んだりしたような記憶はあるんですけど、
だんだんね、仮装して、コスプレして、どうのこうのみたいな文化が根付いてきたんじゃないかなと思います。
僕自身はそんな全然やったことはないんですけど、そういうの好きな人はね、年に一度のお祭りだっていうことでね。
ハロウィンそのものの意義としては変わってしまってるのかもしれませんけど、それはそれでね、いいんじゃないかと思います。
今日のトークは、お菓子くれなきゃいたずらするぞっていうね、このフレーズを言語学的に考えていくっていうことでやっていこうと思います。
当然これは英語のトリックアトリートの威厄ですよね。
英語のトリックアトリート自体もまあ面白いかもしれませんけど、
ひとまず今日は日本語のお菓子くれなきゃいたずらするぞっていう、これをね、言語学的に考えるっていうことでやっていこうと思います。
まあこれ日本語母語話者だったら意味はわかるわけですけど、この文には主語っていうのが表れていませんよね。
無理やり入れ込むとしたら、あなたがお菓子をくれなきゃ私はいたずらするぞ。
あなたと私っていうのが隠れているわけですよね。
こういう話をすると日本語っていうのは空気を読む文化に根付いているので、主語っていうのは省略されるんだ、文脈で予想されるんだという人もいるかもしれませんけど、
自分はそうは思いませんね。
こういうお菓子くれなきゃいたずらするぞみたいにわざわざ主語が出てこないのは、明示的に主語が出てこなくても主語がわかる仕組みに日本語がなっているからだと思います。
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これは省略っていうわけではなくて、省略っていうのはあるものが出現するっていうのがデフォルトで、そこからそれを削除するっていうことだと思うんですけど、日本語の場合はその主語が出てくるっていうのをデフォルトに考えなくていい言語だと思います。
逆に英語は主語っていうのは必須なので、そういう言語から見ると日本語の主語は省略されてるっていうふうに見えるでしょうけど、むしろ英語みたいに主語が必須の言語の方がもしかしたら珍しいんじゃないかなっていう気もしないでもないです。
なぜ日本語で主語っていうのが明示的に出てこなくてもわかるかっていうと、まずはくれるとかやるとかあげるとかこういった動詞が一つ関わっていると思います。
今日扱ってるお菓子くれなきゃっていうとこですけど、このくれるっていう動詞は一人称には使うことができないんですね。正確には一人称とその周辺っていうことなんですけど、とりあえず一人称という言い方をしておきます。
どういうことかっていうと、俺がくれるとか言えないんですね。あなたがくれる、彼がくれるみたいに二人称や三人称だったら使うことができるんですけど、一人称には使うことができません。
もっと言うとくれるっていうのは話し手以外の人物が話し手に何か恩恵を与えるときに使うものなんですね。
まあくれてやるみたいな言い方はできなくはないんですけど、そういうのはちょっと例外として置いといて、こういうふうにお菓子くれなきゃといった時点で主語は一人称ではないっていうことがわかるんですね。
むしろお菓子をゲットするのが一人称であるっていうのがくれるという動詞でわかるんですね。
このくれるっていう動詞とよく似た意味の動詞として、もらうっていうのもありますよね。
例えば、お菓子ももらうしいたずらもするぞって言った時に、まあとんでもないやつですけど、これは私はお菓子ももらうし、私はいたずらもするぞっていうことで、両方主語は私、つまり一人称ということになります。
もらうっていう動詞は、そのお菓子をゲットする人が主語になるっていうことなんですね。
まあ当たり前といえば当たり前なんですけど、皆さん無意識に使い分けているところだと思います。
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もう一つ、くれるともらうに加えて、あげるっていう言い方もありますよね。
このあげるっていう動詞は、その恩恵というか利益、この場合はお菓子ですけど、そういったものが自分に向かっている時には使えないんですね。
なので、君が僕にお菓子をあげたとか、彼が僕にお菓子をあげたとは言えないんですね。
自分の方に向かってくる時は、あげたは使うことができません。
なので、お菓子あげなきゃいたずらするぞっていうと、なんか第三者のことについて言ってる感じがしませんかね。
で、それは何でかっていうと、お菓子をゲットするのは一人称ではない、話し手ではないからということです。
今言ったように、くれるとかもらうとかあげるみたいに、利益とか恩恵が行き来するような動詞を、やりもらい動詞とか、じゅじゅ動詞っていう風に言うんですね。
で、こういった動詞は日本語では専門的には認証制限があって、つまり誰が主語になってとか、その恩恵が誰から誰に行ってっていうのが非常に厳格に決まってる動詞なんですね。
こういったものがあるので、日本語は主語っていうのがちゃんと出なくてもある程度予想できるということになります。
さらにこのあげるとかくれるとかもらうとかっていうのは、教えてあげる、教えてくれる、教えてもらうっていう風に補助動詞としても使われるので、その使用範囲っていうのは非常に幅広いんですよね。
だから教えてくれたって言った場合は、これは誰かが、つまり主語は一人称以外が一人称に教えたっていうことがわかるんですね。動詞だけでわかるということになっています。
で、今回のフレーズのお菓子くれなきゃいたずらするぞっていうのは、2つの節からなっています。文のちょっと小さいやつって感じですかね。
お菓子くれなきゃといたずらするぞの2つからなっていて、あなたがお菓子くれなきゃ、私がいたずらするぞっていうことで、前半後半で主語が変わってますよね。
ただ、今やらなきゃ後悔するって言った場合は両方一人称であると。
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こういう風に副文とか言ったりするんですけど、副文の前半と後半で主語が変わることもあれば同じこともあります。
ただ、物によっては同じものしか許さないものもあるんですね。
それはながらっていうもので、テレビを見ながら歯を磨いたっていうのは、テレビを見たのも歯を磨いたのも同一人物じゃなきゃいけません。
私はテレビを見ながら彼女は歯を磨いたとは言えないんですね。
こういう風に前半と後半で主語が同じかあるいは違うかっていうのを、いちいち動詞の変化で表す言語もあります。
これはパプアニューギニアの言語なんかにあって、そういう仕組みをスイッチリファレンスとか指示転換って言うんですね。
日本語にはそういったものはないですけど、物によってはながらみたいに同じ主語しか許さないものもあるというお話でした。
というわけで今回のトークは、お菓子くれなきゃいたずらするぞっていうフレーズから日本語の仕組みをちょっとお話ししてみました。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。また次回のトークでお会いいたしましょう。お相手はシガ15でした。