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はい、うちあわせCast第45回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
もしなのに10月ということで、もうあと3ヶ月で今年が終わってしまうわけですけども。
聞いてないですね。
全く聞いてないですね。全く原稿もそれほど進んでないんですけども。
6月29日に独夫小猿さんが独学大全という本を書かれまして、
知的生産クラスターにはこれ、たぶん月夜運で誘われる本だと思うんですけども。
何せ分厚いんですよね。
分厚いですよね。
何せ分厚い。ちょっとびっくりする。
たぶん1日2日で読み切れる本でもないんで、
読み切ったらまた紹介したいなと思いつつ、
お勧めながらまた記事とかツイートをしたんですけども。
それで思い出したんですが、
前回、44回に知的生産という言葉についていろいろ言い換え、パラフレーズを考えたんですけども。
その中で、自分たちだけで考えてもあれなんでということを言ったんですが、
その後に思いついて、ディスコードっていうチャットツールって言うんかな。
なんて言ったらいいのかわからないですけど。
開発者向けのスラックみたいなものをイメージすればいいんですかね。
あれはゲーム実況によく使われてるらしいんですけど。
あとはよく人間がチームを組んでゲームするオンラインゲームとかで、
あれで会話しながらとかいうような。
そういうので、僕は自分用のサーバーを一つ建てまして、プロジェクトを開きまして、
そこにチャンネルを作ったんですよね。知的生産の言葉って言い換えないですか。
たくさんの人数が集まったわけではないんですけど、試みとしてちょっと面白いなと思って。
例えばブログで書いたりとか、こうやってポッドキャストで一つ問題提起とか考えたりして、
それが終わった後にディスコードでそのテーマのチャンネルを立てて、
意見があったら書き込むみたいなやり取りする場を立てていけばちょっと面白いんだよ。
ツイッターだとちょっと議論的なものって書きにくい雰囲気がありますし、
メールのやり取りっていうのもちょっと心理的なハードルが高いんで、
それとは違う場所、ちょっと気楽に参加できるけどもSNSほどオープンではない場所みたいなところがあったらいいなと思ってたんで。
なので今後も面白そうなテーマがあれば、それ専用のチャンネルを作って、
ツイッターとかでURLを公開して、興味がある人が参加して書き込むっていうのをちょっとやってみたいなと。
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読学大全もそれをしながら読み進めていけたら面白いなと。
普通の本って素早く読み終わる人もいれば結構時間がかかる人もいて、
読書完了までのスピードって変わるんですけど、
読学大全はたぶん誰もめっちゃ時間かかると思うんで。
そうですね。そもそも全部読もうとしてない人もいるだろうし。
ある種読みながら書き込んでいくっていうのが結構長い期間持続できるかなと。
ちょっとまた、たぶんツイッターでDiscordのURLを公開すると思うので、
興味がある方はラスター2のアカウントをちょっと覗いてみてください。
それが冒頭のライフワークニュースです。
前回すごいいいとこで話を引いたっていう話で、その続きなんですけども、
本の原稿をどう書いていくか、管理するかっていう話で。
やっぱりたくさんが本っていうものを書かれるときに、
最初はたぶんアウトライナーでコスチみたいな、下書きみたいなのをたぶん書かれると思うんですよ。
そのときって、例えばダイアリストを使う場合でも、
1章とか2章とか3章とか4章とかが一つのアウトラインの中にまとまってる感じになってると思うんですよね。
そうですね。まだ章っていう名前がついてないにしても、
その要素が全部一つのアウトラインの中に入ってる感じですね。
それをたぶん今執筆はWordで行われると思うんですけど、
Wordはファイルを作りますよね。
そのときってどうファイル切りします?
ファイル切らないです。
全部が一つ、1章からエンド章まで一つのファイルに入ってる感じですか?
全部入ってますね。
あーそうなんや。章ごとに分けたりしないんですね。
分けないです。
それはやっぱり章を超えた移動があるからということですか。
そうです。
執筆の段階でもそうなるんですね。
そう。だからごめんなさい。
まあといっても、そんなバカ長いものを書かないで、今のところまだ。
10万字ぐらいまでだったらもう余裕でWordが扱えるので、
たぶん20万字でも扱えると思うんですけど、
昔だったら分けなきゃいけなかったんですよね。
まあそうでしょうね。
で、今やっぱりアウトラインとして扱うことを考えると、
一つになってたほうがいいので、分けないですね。
あーそうか。それがやっぱりアウトラインモードがあるWordの強さですよね、あれ。
節ごととか章ごとがらっと動かそうと思って、
普通のエディターに一個丸々突っ込んでおくと、
ちょっとかなり面倒くさいことになりますけど。
それをやると、やっぱり面倒なんで、
06:01
動かしてみようかなと思ったぐらいの動機では動かさなくなっちゃうんですよね。
一回行ってダメだったら戻ってくるみたいなのは激しく面倒くさいですもんね。
なので、Wordの場合は分けないです。
仮に20万字を書かなければならない状態が訪れるとしたらどうします?
まあやったことないんで、それでもタウゼさんが30万字近くを1個のあれで扱えたって言ってたんで。
Wordというか、今のPCならそのぐらいなら扱えるんだろうね。
おそらくはいけそう。
いける限りは1枚で行くっていうことですね、ファイル。
そう、いける限りでは行く。
分けたほうが便利な場面ってあんまり今は想像つかないんですよ。
まあ確かにね、メモリー上の問題がなければ別に1個に入れてもっていうことはありますよね。
そうですね。もちろんこまめなバックアップは必須ですけれども。
そうかそうかそうかそうかそうか。
Wordはファイルが壊れることもあるので。
切実ですね、それは。
使ってる皆さん、本当にそうなんですよ。
中性記録をオンにしたまま客注機能を使ってはいけませんと。
そういうことがいろいろあるんで。
本当は1時間で1個ぐらいバックアップしてますけどね。
そうか。僕の場合は時期によって違うんですけど、
本の執筆業を始めた2010年の頃って、文章を書く装置ってテキストエディット、Macでいうと。
テキストエディットしかなかったんですね。
その前のWindows自体もメモ帳で書いてたんですよ。
そのイチサロー的なものとかって持ってなかったんですよね。
そのOSで標準で付いてるおまけ的なやつで書いてたんですよ。
昔はね、ツールにお金を払ったら負けみたいな感じで持ってたんで。
なるべくフリーソフトとか標準のもので済ませてたんで。
Macに初めて買い替えたときもテキストエディットと、
あのときはことえりか。
エイトックスでことえりでやってたんですよ。
そのときは章ごとにファイルを分けてたかな。
テキストファイルで書いてたと思います。
スクリブナーを手に入れると、今度はスクリブナーというものに全部入れて、
だからワード的というか、管理になりますよね。
全部のテキストがスクリブナーの.srvとかに入ってると。
それが結構長く続いてたんですよね。
09:00
スクリブナーをやめて、テキストファイルに戻ってきたのがつい最近なんですね。
つい最近。
つい最近なんですけど。
テキストファイルで管理するってなると、昔の癖というか、
そうするのが当たり前だろうと思って、章ごとにファイルを作ったんですよ。
1章とか2章とか。
最初はXというプロジェクトがあったとしたら、Xというフォルダーを作って、
そのXのフォルダーの直下に001、002、003みたいなテキストファイルを分けをしたんですよね。
それで書いてたと。
スムーズにいく時期もあり、スムーズにいかない時期もありっていうのを繰り返して、
先週言ったように、新しい方法にたどり着いたんですけども、
新しい方法について論じる前に、
スムーズにいくときといかないときって何が違うんだろうってずっと思ってたんですよ。
文章を書くっていうこと自体に僕が止まることはほとんどないですよね。
書き始めるまでに悩むことがあっても、
さあこれと決めて書き始めたらまあ早いほうなんですよ、僕は。
あんまり困ったり止まったりしないよね。
それはブログの更新とかメルマガとか見てもらったらわかりますけど、止まることがないですね。
連載、リビジョンとかの連載でも書けるんですよ、止まることなく書けると。
メルマガでも1記事が2000字のが5個セットになってるのもすぐ書けますし、
1記事1万字のやつも書けるんですよ。
でも本で止まることがある。
つまり本以外はだいたい書けるんですよ。
でも本だけ止まるんですね。
その本の中でも実は、
筆筆の波を自分で観察してみると、
うまく、すげえ勢いよく書けてるときと書けてないときがあると。
書けてるときは書き下ろしてるときなんですよ、常に。
書けてるときは書き下ろしてるとき。
ゼロベースから頭から書き下してるときはまず止まらないんです。
止まるときは、ざっと書いてあるものを少しずつ肉付けしていくような書き方をしてるときに止まるんです。
そこだけしか止まらない、逆に言うと。
そこで止まるんですか。
そこの段階で止まってしまうんですよ。
それはすごい面白いですね。面白いというか逆ですね。
これに気づいたときに、
新規ファイルを立てて書き下せばいいのではないかという仮説を思いついたんですよね。
続きを書くときに、ファイルの続きじゃなくて新しいファイルで書けばいいんじゃないかと。
管理は明らかに面倒くさくなりますけど、それで書けるかどうか試したら書けるんですよね、これ。
気づいたんですけど、一つの文章を書くときって、真っ白なエディターで書くときと、
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さっき言ったように既に書いてある文章の中で書くときがあるじゃないですか。
書き増やしていくみたいな。
で、書き増やしていくときって、上と下に文章があるんですよ。
ありますね。
で、僕の場合ね、下に文章があるのがまずいんです、多分。
上はまだギリいいんですよ。
まあないほうがいいんですけど、下にあるとダメなんです。
両方あると一番ダメ。
要するに挟まれたところから。
挟まれたところから入ってもダメなんですよ。
白紙のエディターで書けばそれがなくなるんですよね。
不思議なことに、別に白紙のエディターを立てたところで、アウトライン的なものが消失したわけじゃないですよね、別に。
こう書こうっていう指針は残ってるんですけど、でも白紙のエディターで書くと書けるんですよ。
それは要するに視覚的に目に入らなければいいっていうことですか。
おそらくそういうことだと思う。
だからワークフローリーとかのズームって発明やなと僕は思って、そのときより思ったんですよ。
よくなるとそのオーグモードっていうEmacsのスタイルにもナロウっていうのがあって、近寄るっていうのがあって狭めるか。
それも同じじゃないですね。
自分が見てるサブブランチ以外は表示しないっていうやつなんですけど、あれもやっぱり書けるんですよ。
だからやっぱり、執筆っていう行為は脳内の情報処理で考えたらダメだな、
それだけで完結して考えたらダメだなっていうのはちょっと思いましたね、自分で発見したときに。
なるほど。
いいやー、本当に文章を書くって人によって違うんだなと思って、ものすごい痛感しましたね。
だから下に文章があるときに、例えばその文章を一旦Ctrl-Xとかでカットしてしまえば、近い状態で書けるんですよ。
どっか脇に置いとけばいいのか。
文章じゃなければどうやら良さそうなんですよね。
単語が何個か並んでる。いわゆる材料メモって言ってキーワードだけ並べておくことをするんですけど、それだと特に問題ないんです。
書いてある文章と整合させようとしてしまうんでしょうね、きっと。
無意識に下につなげなきゃいけないっていう。
それか、下に続ける文章と今書いてる文章の処理が同時に続きを考えながら、今の文章を考えてしまうみたいなことが起こるのかもしれないですけど。
そこはわからないんですけど。
それでとりあえず、新しいファイルを作って続きを書く作戦っていうのが、
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おそらく僕の中の執筆という行為においてブログを書くのが一番多いんですよね。
書いてきた経験が一番多いんですよね。
ブログを書くっていうのは常に新しいものを立ち上げて、そこに書き下ろしていくっていう形なんですよね。
ブログって書いてあるものを肉付けすることはまずないじゃないですか。
そうですね。
パブリッシュしたものをっていうことはないじゃないですか。
ないですね。
だから僕の執筆っていうアウトプットのスタイルと、新しく書き下ろすっていうのがかなり密接に近づいてるんでしょうね、きっと。
そうですね。だから倉下さんにとって書くっていうのは書き下ろすこと。
っていうことなんですよ、きっと。少なくとも真ん中を埋めるようなものではないんですよ、きっと。
だからここの発見をベースにして、他の書けてる方法を執筆にも持ってこようと思ったわけですね、要するに。
よく執筆以外はみんなその方法で書いてるんですよ、執筆。ほんの執筆以外はみんなその方法で書いてる。
ほんの執筆だけ称号のファイルを立ててっていうやり方をしてたんですよね。
なぜそうするか、分割しないかっていうと、管理がどう考えてもめんどくさいからなんですよ。
続きが読めないですよね、普通に考えても。
それをどう解決したかっていうのが今回の話なんですけども。
一番最初にやったのは、書くファイルと読むファイルを分けたんですよ。
例えでいくと、例えば書くファイルはbody.txtかな。
MDなんですけど、実際はテキストっていうファイルを作るんですよね。
そこに2の1ぐらいは書いてもいいんですよ。別に書いてもいいしか書かなくてもいい。
そこに2の1を書いたとしますよね。
2の2は別ファイルにするんですよね。
2の2はそこに書くと。
この状況ではファイルは分かれてるんですけど、
そのbody.txtの下の方にimport2の2.txtって書くんですよ。
で、自分が作ったスクリプトをパシッと走らせると取り込まれて、
2章の読む用のテキストが別に作られるんですよ。
そこでは両方のテキストがきちんと並んでるんですよね。
で、続きを書いたらまたそのbodyに付け足しても良いし、
つまり2の2テキストって書いた下にimport2の3って書いたら、
この2の3のファイルが取り込まれたテキストができるんですよ。
で、その読み込みはどういう点かな。
最期的になってるんで。
例えばですけど、今bodyがあります、2の2がありますっていう形ですよね。
で、importはbodyの中に書いてあると。
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で、実は2の2にimportを書いても良いんですよ。
2の2のimportを2の3って書いて2の3作っても、
最終的に出来上がるファイルには綺麗に1列に繋がったのができるんですよ。
だからどっちで制御もできるんですよね。
要するに書いてあるファイル名が常にそこに読み込まれてくるっていう感じですよね。
次に読み込みたいファイルを一番下にimport分として書いておけば、
読むファイルは1列にちゃんと繋がったファイルができるし、
書くときは断片的に書いていけばいいという体制を今整いつつあります。
整いつつあると。
はい。だからアウトライン上の操作は、
インポート分の場所を入れ替えるだけでいいんですよね。
じゃあそうすると、例えば2-1と2-2と2-3があったとして、
それがボディで繋がって読める状態になっていて、
2-2と2-3に何か書き加えなきゃいけないと思ったときには、
やっぱり新しいファイルを開いて、そこの中身を書いた後で、
ボディの方では2-2と2-3の間に、例えば2-2の1みたいなファイル名にしたとしたら、
それを書いてスクリプトを走らせると、
その前の2-2と2-3の間にそれが読み込まれるみたいな。
っていうこともできますし、別に直に書いてもいい。
それどっちでもいいですよね。
インポートを使わなければならないわけではないので。
最終的に例えばもう確定して動かしようがないってなったら、
その分岐している2-3のファイルを全部コピーして、
さっきのボディに貼り付けてもいいんですよ、別に。
ファイルにテキストで書いてもいいし、分割してもいいっていう形になっています。
なるほど。
こうすると、さっき言った下にうにゃうにゃ溜まってるやつを、
別のファイルに送っておけばいいと。
繋がりは失われないと。
でも自分が見えるファイルには、自分が今書いてるとこしか見えないと。
それらをすべてVSコードで開いておくと、
シフトコマンドかこうやったかな、タブが移動できるんですよ、左右に。
なので、ほぼ1枚のファイルを見ているのと変わらないんですよね。
全部同じウィンドウの中で見られるってことですね。
だから、UECsやと何とか上下かな、
スクリブナーでも何とか上下、ショートカットは覚えてないですけど、
上下でファイルが移動できるんですけど、上下に。
それと同じことが左右でできるんで、
実は分割してもほとんど困らないんですよね。
分割して困るのは結局通して読めないっていうことだけなんで。
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通して読むためだけのファイルを作ると。
それが一応いわゆる本番環境なんですけど。
なるほど。
これは僕の中ではかなり新しい、
かつこれデジタル執筆法と言っても過言ではないかと思ってるんですけど。
デジタルじゃなきゃできないやり方ですよね、これは。
だから今までそういうのをやろうとも思ってなかったんですけど、
やっぱりテキストファイルベースで書くようになって、
こういう発想もできるようになったのっていうのはちょっと強みやなと。
素朴な疑問として、
テクニカルな意味でそれを必要に応じて繋いで読むことができるのはよくわかるんですけど、
自分の頭の中でそれが、今書いている全体が統合した状態で、
その頭の中で認識できますか、そういう形で。
だから断片的なファイルを書いてるときは、
全体は認識できないです。
あえて認識しないようにしてると困るんですよね。
多分そういうのとかあります。
認識できるのは多分前何書いてたか。
前のファイルだから2の2を書いてるんだって、
2の1の最後ら辺に何を書いてたかっていうのは、
ファイルを移動すれば読めますけど、そこがだけですね。
だから非常にフォーカスが深いとこでしか考えないようにしてるし、
それが多分執筆を加速させてるかなと。
当然ファイルがバラバラになるんで、
いわゆるアウトライン、アウトライナーではなくて
アウトラインが見えないんですよね。
なのでその見出し記号、僕の場合は大体頭に白丸か、
マークダウンのシャープマークかどっちかを使うんですけど、
ファイル全体を走らして、それの行だけを拾ってきて、
アウトラインを表示させるっていう、移動はできないんですけど、
アウトラインを表示させるっていうスクリプトも作ってます。
見出しだけ抜いてくるっていう。
だからそれも2章単位とかじゃなくて、
フォルダーにある全部のあれを拾った上での、
1章から最終章までのアウトラインが見えるようにはなってます。
そうするとほとんど変わらないんです。
いわゆるアウトラインを表示した状態での全体の移動、
つまり1章から3章のジャンプとかっていうのはさすがにやりにくいですけど、
2瞬間だけの移動であれば、特に問題なく操作できます。
おそらくそこの手間よりも、やっぱり書けるっていうことのほうが、
僕の中では価値が相当高いですね。
そっちを優先してるわけですね。
いい感じですね、今のところは。
そうすると、そうやって書いていって、最後まで書き終わった後で、
どうしても仕上げに向けて編集するフェーズがあるじゃないですか。
24:00
そのフェーズになったらどうするんですか?
でもさっき言ったように、ボディに大体移していくでしょうね。
分割をやめて。本文に近づけていく。
そこでも一つで扱うわけですね。
もうだから、書き終わったら多分、その作業は僕は多分いらんと思うんですよ。
いかに文字を増やしていくかっていう工程の中で必要なわけであって、
だからもうできましたっていう場合は、
もう全部、さっき言ったボディテキストに全部集めておけばいいかなと。
今のところは思ってます。
書き下ろすための方法ですよね。
そうですね。
それがね、2万字の1章って一息では書き切れなくて、
やっぱりある程度空いてしまう部分があって、
そこを一週間後に書き足そうとかし始めると、
整合しない何かが出てくるんで、
一回一回を新しい気持ちで書く。
新しい気持ちで書くっていうのは分かってるんですけど、
新しい気持ちで書こうと思ったところで書けないんですよね。
やっぱりそこは身体的にはものが影響してくるんで、
気持ちだけで持っていけるものではないんで。
そのための装置としてのファイル分割とファイル統合。
確か先週、デジタルのメリットっていうのが、
一箇所に集めておいても検索して見つけりゃいいじゃんっていう、
ある種分割できるじゃんっていう話をしたんですけど、
逆も言えるんですよね。さっき言ったように。
分割してるものを一個に見せることもできるんですよね、デジタルって。
その移動って両方使ったらいいんじゃないかなと思って。
そうですね。
なんとなく一つの章やから一個にまとめなあかんと思ってたんですけど、
書くっていう段階では別に分けておいてもいい。
さっきみたいにテキストファイル統合するのって超簡単な話なんで。
さっき僕が言ったスクリプトって、
もうほんまに10行以内で実現できるようなことなので。
だからこのやり方が今のところ僕の中では最適なスタイルで、
実際、先週か今日までそのプロジェクトで着手しようと思った日は絶対に文字数が増えてますからね。
まあそうですか。
今まではやっぱりやろうと思って1時間触って何も進まなかったってことがあったんですけど、
それがなくなってるんで。
面白いですね。面白いですね。
そこまで変わるもんないなとは思いましたけど。
まあ最終的に書き終わるまで、
書き終わってみないと評価はできないと思うんですけど、クライシャーズの中でも。
ただそれはそれとして、
やっぱり自分に合った書き方がどういうものなのかっていうのを見つけるっていうのがすごい大事ですよね。
27:07
すごい大事ですね。
だからそれは特に思いましたね。
僕の場合は書くのが苦手ではない、むしろちょっと得意な方であるにも関わらずできないっていうパターンだったんですけど、
逆に言うと書くのが元々得意ではない人もいて、
得意ではない人っていうのはつまり僕というものが本の執筆の方法しか知らなくて、
断片的に書く方法を知らない人の場合って、書くのが不得意って思ってしまうと思うんですよ。
方法をね。
それが知らなかったら。
でも実際いろいろあるんだって、それ一個一個試していって、
この方法なら書けるみたいなのを見つけて、
それをどう使っていくかっていうふうに広げていくほうが精神的にいいでしょうね、きっと。
何かに耐え忍ぶというよりは。
そうでしょうね。
結局得意、不得意っていうのも方法によって変わってくるんで、
例えば学校なり職場なりで教えられた方法でやったら、
たまたま自分に合わなかったために不得意だと思ってるみたいなケースはすごいいっぱいあるんですね。
あると思います。
僕たぶん、例えばラスタカンパニーがあったとして、
そこでみんなで大量に本を生産する社員がいっぱい雇われるとするじゃないですか。
ラスタカンパニーの社長が、
我が社にはこういうやり方があるんだ、つってパーンつって、
全員にそれを強要されたとしたら、発狂しますもん、そのやり方。
そうでしょうね、きっと。
でもたぶんそういうこといっぱい起こってるんですよね。
起こってると思います、はい。
だから、的不的っていうのが不正とかになっちゃうんですよね。
そうなんですよ。
これがちょっともったいないとか残念というか。
でも逆に言えば、今これ聞いてて、
それがきっかけで書けるようになる人だっているかもしれないわけですよ。
そうですね。
で、チラッとツイッターでもあれしましたけど、
リツイートしたのかな。
やり取りしたことない方ですけど、
自分宛にメールを書くって書いてた方いたんですよね。
その日の分の原稿を書いて自分宛にメールで送る。
たぶん発想としては今の倉下さんのやることと同じようなことだと思うんですよね。
おそらくそれもエディターで書き下ろすんじゃなくて、
30:00
メーラーで書くとより断片感出ますよね、きっと。
そうかもしれない。
構えないで書けるかもしれないですよね。
やっぱりそうです。構えっていうのがあって、
2章のファイルを開いたときに、
どうしてもあるんですよ、何か立ち上がってくるものが。
立ち上がってくるものね。
それはもちろんいいんですよ。
それがないと骨組みの通った文章にはならないからあっていいんですけど、
書き下ろす瞬間にとって僕には邪魔なんですよね。
それはだからリビジョンを今編集してて思ったんですけど、
それはね、整えるときで僕はいいなと今思ってるんですよ。
いいなっていうか、出ないと完成しないっていうかな。
僕が例えば2、3日挫折しただけで方法転換してるんであれば、
もうちょっといきなり過ぎるんじゃないかっていう話ですけど、
僕らの生存戦略っていう本をここ1年ぐらいずっと書いてて、
書けるときと書けないときのスパンがかなり長く続いてて、
どうしようかっていうことなんで、
これだから今までのやり方だと多分完成しないんですよね、きっと。
完成しないものは良いも悪いも言えないじゃないですか。
やっぱり文章の素材となるものを一応の流れに沿って書いたと。
後ろの話は受けて書いてると。
でももしかしたら真っ直ぐの筋は取ってなくて、
ところどころぐにゃぐにゃしてるところがあるかもしれないのは、
構成のところで直しましょうっていう感じのほうがいいなと思ったんですよ。
だからあれですよね。
要するに書き下ろすことと流れを作って、
要するに編集することをより明確に分離したっていうことですね。
だからやっぱり2000字の文章を書き慣れてるとどうなるかっていうと、
書くときに全体を制御しようとするんですよ、おそらく。
あれ書きながら2000字ぐらい制御できるんで、
ここにあれ持ってきてこうしようみたいなのが脳内でできるんですよね。
それと同じ作業を20000字の原稿に働かせてるから、
無理が来てるんじゃないかと思うんですけど。
それを有限化するために、あえてファイルを分割して、
自分にとって今書いてるのはここだけだよと。
他は気にしなくていいよっていうことを、
自分の体にフィードバックさせてるというか。
あれですよね。雑誌演載みたいなものっていうのは、
そういう意味ではそういう効果があるんでしょうね。
より強くあると思います。
書いちゃったことは直せないし、先はまだ書いてないし。
大きいと思いますね。
だからアナログの有限化、原稿用紙も一緒だと思いますね、あれも。
あれは書くのに慎重にはなりますけど、直しにくいから。
でも一回書いてしまったものはもうコンプリートな使いになってしまうんで。
33:05
だから原稿用紙の目の前の今書いてる文章以外は、
たぶん考えないですよね、おそらく。
そうでしょうね。
それはやっぱり筆を進める効果はあると思うんですよ。
デジタルの、たとえば野口雄貴さんがよく、
デジタルっていくらでも直せるから、
簡単に書き始められる効果があるって言われるのは、
僕もそう思うんですけど、
いろいろ同時に考えてしまうっていうのもあるんですよね。
だからやっぱりそこはズーム的なものの機能を使った方が
良いのではないかなと。
だから生字できちゃうから、
昔だったらもう終わったことは直しようがないから考えないんだけれども、
デジタルは直せるから、生字直せるから
いろんなことを考えちゃうっていうところですよね。
今はたとえば2の3を書かなければならないのに、
2の5とか1の8とか7の1でも
これ使えるんじゃないかな的なことを考えだすと、
今書いてることに注意が向かなくなるんですよね、きっと。
だからデジタルなんて言うんやろうな、これは。
気が散るという。
一言言えなかったけど。
だからその利便性・簡易性が広がりすぎているっていうことは多分あって。
雑誌連載とかいわゆる切断装置を外部に設定することによって何とか書けるっていう。
セルフパブリッシングの場合はそういうのがないので、
僕の場合はさっき言ったように、
今日1日そこの原稿、ブログの更新をするかのように書くっていう。
結局セルフパブリッシングって、
著者と編集者が基本的には同じ人間がやらなきゃいけないので、
その両者のモードが同時に発動しちゃうところがありますよね。
ありますね。
僕はちょっとだけ編集者のモードが多分強いですね、きっと。
表に出がちというか。
だからより強い力で抑制しないと多分ダメですね。
だからとりあえず原因は何であれ、
原稿が本当に少しずつ進んでるのは僕の中ではとてもめでたいことなので。
一番重要なのはそうですよね、原稿が進むことが重要ですからね。
当然良い歴とか深みのある本とか何度も読める本とか、
感銘を与える本にしたいという欲望はありつつも、
その欲望を実現するためにはまず書き下さなければならないので。
36:00
そういうような書き手の心理には十分熟知してるはずでもハマってしまうっていう、
理屈ではない部分はどうしても避けがたいですね、これは。
不思議ですよね。その書き方は自分だったら全くできないだろうし、
逆に僕がやるようなやり方を倉下さんに強要したら多分全然書けないかもしれないですね。
いやでも多分だから、どうなのかな。
やり方っていうのが例えばワードの一枚ファイルで書きなさいって言われたら難しいですけど。
やるやただからワードの一枚ファイルを作りながら、
その日書く分だけは新規テキストファイルをコソっと開いてそこで書くみたいなことを多分するでしょうけど。
そうですね。そう考えると僕だから文章を書き下ろすっているときがあんまりないような気がするんですよね。
あーなるほど、なるほど、そっかそっか。
文章を書き下ろすっていう感覚がほとんどなくて、ずっとアウトラインの状態を膨らませていくうちに、
なんとなく文章っぽくなっていくじゃないですか。
そうしたらもうプリントアウトして今度手書きで書き込むんですよね。
その手書きで書き込んだときには、
手書きで書き込んだことを反映するときにちょこちょこ文章化していくというか。
はいはい、わかります。
要するに文章を書き下ろしているのは実は手書きかもしれない。
そうしながら徐々に文章の形にアウトラインが変わっていくんですよね。
あとその関係ない場所に、Aを書くべき場所にBのことを書いてるところがいっぱいあるんで、それをプリントアウトして、
ペンでコソッと丸して、これはこう、みたいな感じであっちこっち動かしていって、それをまた反映してっていう。
だからその、久保田さんが言うような意味での、その日の文のたとえば4センチだり5センチ、書き下ろすっていうことをほとんどしてないんでしょうね。
まあそうなんでしょうね。
僕はRスタイルというブログを10年以上続けてて、特に何年かは毎日更新してたんで、
僕にとっての文章を書くってことは、白紙のエディタに何かを書き下ろしていくこととほぼイコールで、
いわゆるアウトラインとかのアイディアメモというのは、そのきっかけとなる一文を保存しておくだけであって、
39:00
アウトライン上で文章を膨らませてっていうことはほぼないですね。
それだけをとってみても全く違うし。
やっぱり文章が書けてないんだと思うんですよね。
文章が書けないんですよ。
ただその読者の目線で読んだときに読みづれえなとか、文章としてこれはこうなっていけないなっていう、
その読者目線で直したものを奴隷のように直していくっていう。
だから書き手としては文章を書けないんですよね、まともに。
それは最近思いますね。
いわゆるライター的に、今までの自分のアウトラインに全くなかったものをこれについて書いてくださいって言われたら結構困るってことですよね、それは。
そうですね。
そのときはまた同じような書き方で始めるんでしょうね、きっと。文章は書き始めないんですよ、たぶん。
そっちの執筆たる憧れはありつつもできてない。
結局僕はアウトラインで何かを育てたっていうことがほぼなくて、
アウトライナーの中ではアウトラインかリストアを扱う使い方しかほぼできてないんで。
だからその必要がない。そういう意味では書けるんですよね。
そういう形では書けますよね。
だからスクラップボックスとかで短い文章を書くのは非常に僕には向いてますね、あれは。
そうですよね。
そういう意味ではたぶんたくさんにスクラップボックスは向かないんですよね。
その違いはあんまり考えたことはなかったですけども、結構大きそうですね。
僕はそのスタイルの本の文章の書き方っていうのを今聞いて初めて、
ああそういうこともあるんだなって今思いに当たったぐらいなんで。
逆に僕もさっきのクラシタさんの話を聞いて、ああそういうこともあるんだなって。
そこは確かに向き不向き、合う合わないの話になってますね、その段階になると。
そうなんですよね。
大きくは自分が一番書ける書き方っていうのが確かにあって。
ヤママさんが前に、打ち合わせキャストで出たときに出たのが、ヤママさんの一番最初の本なんでしたっけ。
「凡人の星になる」。
あれは編集者の方がいたわけじゃないですか、あの本は。
42:04
普通に書いたら、すごい自分のよそ行きみたいな文章になっちゃったんで、
ブログを作ったんですよね。非公開のブログを作って。
非公開のハテナブログを作ってそこに書いていたみたいな。
ブログの記事だと思って、非公開なんだけど、書いていって、
量が溜まったらそれをくっつけて原稿にしたみたいな。
それも目的は違うかもしれないけど、
やってることは似てるような気がするんですよね。
ブログの記事だと思ってっていう部分がテキストエディターとかでは思えないんですよね、基本的には。
思えるためにツールのほうを変える、環境のほうを変えるしかないっていう。
そうですよね。だから本当に、自分だったらそんなめんどくさいことはしたくないんだけれども、
いつもブログに書いていた感じで書きたいと思ったときに、そうやるのが有効だ。
だからブログに書くのがいいということよりも、それに相当するそれぞれの人のやり方っていうのがきっと無数にあるんだろうなと思うんですよね。
そうですね。デジタルの方が可能性が広いですよね、その方法の。
そうですよね。人の数だけあるような書き方が可能になってしまったのはある意味ではデジタルだからっていうことはありますよね。
まあそうですね。逆にノウハウになれるように鍛錬しなさいっていう方向ももちろんあるわけで、
それでたぶん可能になる部分もあるんですけど、方法になれれば苦痛が多いんですけど悩みはないんですよ。
一個しかないから。逆に方法がたくさんある場合は苦痛は少ないんですけど悩みが多いんですね。
悩みはそうですね。
あと昔だったら原稿用紙で書けないときには、「ああ俺には書けないんだなー」っていさぎよく諦められたもんだな。
今だと、違うやり方だとできるかもしれないみたいな。いつまでたってもそのサイクルが終わらないみたいなこともありますよね。
たしかに。それはありますね。
そうかー、そうか。
だからこの手の話は、一人の知的生産というよりはこういうのを複数人集めないと誤解が生じかねえっていうのがありますね。
誤解というか、やっぱりこれが正解ですと言えるものは何もないっていう。
最大公約数的にそれはあるんだけども。
45:03
だからやっぱりあの書くための名前のない技術でやりたかったことの一つはそれなんですよね。
そうでしょうね、そりゃあ。
DNA的な個性の違いというよりは、その人が歩んできた人生経験の違いなんで。
それもありますね。
違って当然なところはありますよね。
いやそうだと思うんですよ。
それが一番効率の良い方法がその人に最適化とは限らないわけじゃないですか。
ああ、たしかに。
効率が悪いんだけどその人はそれで書けるっていうやり方があって。
僕の場合もプリントアウトするっていうのを挟まないとたぶん書けないと思うんですよね。
そうなんですよ。
メソッドの有効性とかコスパとか効率っていう不統合を考える前に、
書けるか否か問題がまずあるんですよね。
そうなんですよ。
書けないと話にならないっていうのは、もう動かし方一逸なので。
書けないけどこの方法が効率いいから頑張って慣れようっていうのは割と不毛なところがあるんですよね。
そうなんですよ。
でも今ってそれに行っちゃいがちなところがあるんですよね。
たしかにたしかに。
難しいんですよね。
明らかに効率を良くしたほうがいいことも世の中にたくさんあるわけで、
それこそ事務処理とか。
そうですね。
そういうのは、たぶん効率を良くしたほうがいいに決まってると思うんですけど。
そうなんですよね。
書くことは効率がいい方法だからその人が書けるとは限らないっていう。
なんだろう。
ここもたぶんだから。
書くとは何かっていう各々の定義があって、おそらく。
ある種、自分の内面と関わり合いを持つ行為だと思っている人の場合は、
やっぱりその方法が均一的というか確実的というか汎用的なものであってはたぶんならないとは思いますけど。
そうですね。
だから書くことに対するスタンスの違いはもちろんありますよね。
だから書くっていうのがモールス信号のメッセージのようなものであるみたいなことを思っている人は、
そこまで書くことについてこだわらないかもしれないですけど。
なぜ書けないかっていうと、メンタル的なものとの関与があるからなんですよね。
そうですそうです。
何でもいいと思ってる人は、たぶんほんまに何でもよく書けてしまうと思うんですけど。
そうですね。
48:01
だから僕は昔から仕事で、例えばどっかの企業を訪問して、
何とか会社の何とかっていうサービスどうですか、法人向けサービスどうですかみたいな話を聞いて、
いわゆるインタビュー取材的なことをして、それを文章にまとめて提出するみたいな仕事をやってたんですよ、長いこと。
それって効率重視のはずの文章なんですよね、当然のことながら。
事実が事実としてきちっと書いてあればいい文章なんですよ。
でも書けないんですよ、それが。
単純に好き嫌いとかじゃなくて、メンタル的に止まっちゃうんですよね。書けなくなるんですよね。
何やってたかっていうと、ものすごい文学的な表現を多用しながら、
文学であるかのようにそれを書いた後で、出来上がってから文学的な部分を削って出してたんですよ。
はいはいはい。わかりますわかります。
要するに自分が書けるように勢いをつけるために、しなきゃいけない書き方があって。
ただその結果できたものがそのまんまだと適切じゃないことが多いので、後から削ると。
その仕事をやってたときはフリーランスで一人でやってたんで、できたんですけど。
同じ仕事を開催員としてやった時期があって、
そうすると上司が途中で見せろって言うんですよ。
それがシャレにならないんですよ、本当に。
はいわかります。
そういうね、今だから笑い話みたいなもんですけど、本当にシャレにならないんですよ。
確かに。
一行も書けてないみたいなこともあるんですよ。
そうかー。
面白いのは、文学的に書いて、書いたものを直すことができるんですよね、これ。
そうです。直すことができる。
そこでいいんですね。
そこはいらないっていうのは、要するに書き手の目線と読み手の目線があって、
読み手の場合はその提示先の会社なりなんなりの視線ですよね。
そのときにこれは不要だっていうのはもちろん見ればわかるわけですよね。
うーん、なんていうんだろうな。
直さないとわかっているものを伴わないと書けないっていう言い方もできますし、
それを伴えば書けるともいえますし。
文章として出すために、さっき勢いっておっしゃいましたけど、
勢いとかそういうものが必要なんですよね。
51:09
書いてから直せばいいやんっていう発言をさっきしましたけど、
デビジョンの原稿って1回1回はかなり楽に書けて、
で、それ直すときにある程度振動差はあるんですよね。
一歩道しようと思うときに考えないことはいろいろあって。
考えて直したりとか、順番変えたりとか、
新しいものを書き加えたりとかっていうことは、
やっぱり労力としては増えてますけど、負荷としてはかなり小さいんですよね。
そうです。わかります。
何よってデカールということの困難分割制を実施してるわけですけども、
困難が分割されずに、一定以上になると書けないんですよね。
だから文学的な文章を思いついて、
それを消すっていうことをおのなりしたらできるはずなんですけど、
やっぱりそれはできないんでしょうね。
僕が今ファイルを分けて書いてるっていうのも、
もちろん前後が目に入らないようにするという効果もありつつも、
細かいことは後から考えようってことなんですよね。
そうでしょうね。
ファイル2章全体の全体の流れとか、
本全体の流れみたいなことは後から考えようっていう切り替えでもあるんで。
考えてしまうんですよね。
考えると書けない。
考えると書けないのは、僕の場合は、
上司が自分の中に顔を出すような感じが近いと思うんですけども。
いやいや、こんなんあかんやろ。こんな表現を使ったらあかんよって。
その書き出そうとしてるタイミングでそれが言われるんで、
書けなくなるわけですよね。
実際、たとえばこのぐらいの文章は片杉品やろうかっていうのを考えてしまうんですよ。
実際、本当に。
そんなことをいちいち書いてたら、書けるものも書けなくなるんですよね。
結局、その文章が一文が硬すぎるとか、あるいは重すぎるとかっていうのは、
前後と比較しない限りは絶対わからないはずなんですよ。
つまり完成しないとわからないんですね。
それをその段階で判断しようとしてるから、思考が無限ループに入るんですよね。
この表現は例えば硬すぎないだろうかっていうことは、
すでに硬すぎるにしても自分の中に表現が出てるわけじゃないですか。
ある程度は。
だから、出てるものはそのまま出せるはずなのに。
そうそう。デキストレーションに置いてしまえばいいはずなんですよ。
でも僕の中の上司が、「それはちょっとどうかな?」って言うんですよ。
54:00
ああ、そうですかって言って、じゃあどうしようかなっていうふうに、
全身もない疑問に余り込むんですよね。
それが厄介ですね。
ファイルを別にすると、その上司から一旦離れて会議室で仕事をしてるような感じになるんですね、気分的には。
わかりやすい例ですね。
これ大きいなとは思うけど。
ラッシュタカンパリーうざいですね。
やっぱりそれをこだわればこだわるほど、上司が細かく進捗を確認してくるんですよね。
いい本を作ろうと思えば思えるほど、より進まなくなってくるんで。
だから部下を信頼すると。
編集者の視点でいうと、リビジョンってたくさんのファイルも扱ってるんですけども、
そうやって人が書いた言語のようなものなんですね。
手は入れるにしろ。
その気分で多分生きるなと。
だから文章を書くときの自分は、後でこの全てを編集は上司に任せようという気持ちで思うと、やっぱり書けるようになるんですよね。
だから責任の一部を放棄するわけですよね。
そうです、まさに。それをしないといけないっていう。
しかもそのしないといけないっていう気持ちの切り替えは、気持ちを切り替えるだけではできない。
だから僕の場合って普通のテキストエディターなんで、アウトラインモードと印刷モードがないので。
だから読むと書くが一緒なんですよね。
だから余計悪いんですよ。
同じ部屋に2人の人間が顔を出すようなところがあるんで。
見た目が変わらないから。
そうです。
だから書くときは僕の場合断片的で、読むときって統合ファイルを読むんですけど、
未完成のものはインポート文に入れないんですよね。
あ、そうなんですか。未完成の状態で入れるんじゃないわけですね。
とりあえずここまでは読めるようになったってものだけはインポートするんですよ。
だから読むのは助詞に提出できるものだけになってて、
全然文章にもなってないとか、あまりにも単語だけのものとかは共通されないんですね。
初めてこれで読むものと書くものを分けられたんですね。
なるほど。
だから今までは普通のテキストエディターとテキストエディター上のプレビューモードっていうのは使ってたんですけど、
あれって結局スタイルが整えられてるだけで、内容一緒じゃないですか。
だからちょっと弱いんですよね、切り替えとしては。
だから未完成のものとかをアウトライナーで言うと、一旦ちょっとクローズしてしまう。
そこはもうないことにしてしまうっていうような、表示内容の切り替えもできるようなことが今できるようになったってことですね。
57:03
そうか、だからモードを切り替えてるとも言えるわけですよね。
そうですね、おそらくは。
書くときは断片的だし、読むときは別のファイルを開くことによって気分のモードも変えてるっていうのはありますね、やっぱり。
それは結局読むやつなんで、そこを変えてもしゃーないんですよね、結局。
その完成したテキストファイルをいじったところで、もう一回プログラムを始めたら、テキストファイルの断片がまた上書きするんで。
だからそれって結局書き込めないのとほぼ変わらないんですよね。
だからPDFとかを読んでるのに近い。
それ読みながらその場で直したくなったりはしない?
その時は普通に原本のテキストファイルをだいたいいじりますけど、断片的にしたファイルをいじりますけど。
別にさっき言ったように、今言いながら気づいたんですけど、読むほうでコメント付きで書き換えて、それを見ながら後でっていうことも多分できるでしょうね、きっと。PDF的にもできるでしょうね、きっと。
その読むファイルをどれだけいじっても、結局さっき言ったようにスクリプト一発で上書きされるんで、どんな扱いしても何も問題はないっていう。
それはまあそれでも面白そうよな。ちょっとやってみる。
始めたばっかりの方法なんで、いろんなやり方があるんですよね。
章ごとに書いて、説ごとに書いて、ボディに1位をずつインポートしていくのもいいし、断片ファイルごとに次のリンク、次のリンクって書いていくこともできるし、いろいろできるなと思って。
そうですね。つながり、つながり、次、次、次って感じで、常に次のものだけを連結していくこともできる。
そうそうそう。そういうこともできるんですよ。
だからそういう書き方のスタイルってあんまり今までなかったなと思って。
ユーリシーズとかって分割できますけど、あれも結局だからひとつつながりで表示されてしまうんで、あれ、たしかZoomなかったですよね。
ユーリシーズはZoomに相当するものはなかった。
なかったですね。電話は一応表示されるんですもんね。
だからやっぱり長いものを書くときってZoomに相当するものはいるなと。僕の場合は特にいるなと思いましたね。
逆にそれを機能として、スクリブナーとかは機能として持ってるんですけど、やっぱりスクリブナーで新しいテキストファイルを作る代わりに新しいファイルをスクリブナーで作るっていうのではやっぱり大体できないわけですよね、その感覚は。
なぜならば左にバインダーが出てしまうからですね。
ああ、そっかそっかそっか。
あれはかなり構造を意識することなんですね。だから僕の場合はファイル分割のリンクによって擬似的に構造化されてるだけであって、僕のファイル構造としてはただ縦に並んでるだけなので。
1:00:04
しかも別にバインダーも別に、バインダー的なもの、VS構造で言うと左のExplorerって普段は閉じてるんで、文章を書くときは。
構造そのものが目に入らない。見たいときはさっき言ったように、見出し着を拾ってきてアウトラインを取るっていうようなスクリプトで全体を見るんで。
そうか。意図しないときに構造が見えるのが嫌なことですね。
多分嫌というか、それでまた脳の別のモードが発動してしまうのはあると思います。
面白いですね。こういう話をいろんな人に聞くと面白いかもしれないですね。
一応僕とたくさんいわゆるシェイク派じゃないですか。
だんだんと繰り返しながら求めていくっていう。
そうじゃない人たちはどうせめやろっていうのはもっと気になりますけど。
やっぱり人によっては、その日の文を書きました、次の文を書きました。
新しいファイルを作ってでもいいんですけど、次の文を書きました、次の日の文を書きましたってやって、
あ、文字数いった、終わりって言って編集者を出したりする人もいると思うんですよね、プロの書き手さんの中には。
だからすごいですよね、すごいっていうか。
で、お互いにお互いの書き方が信じられねえってこう言ってるわけですけど。
まあそうでしょうね。
たぶん空間認知力とかも関係してると思うんですね、こういうのは。
まあでもとりあえず現状、今年10月入ってそろそろ終わりそうですけど、僕大きな発見の一つですね。
この発見に至れたのはやっぱりテキストファイルで書いてるからですね。
ちなみにそのスクリプトは何を使って書いてるんですか。
パイソンで書いてます。
で、それを走らせるのはVSコードの中から?
はい、ターミナルに入るんで。
で、一応そのコマンド、別にそれ自身も短いんですけど、
ショートカットコマンドみたいなの登録しといて、二文字で発動するみたいな。
だから手間自体はないですね。
慣れてきたら本当にコマンドセーブみたいなものになってくるんで。
なんかターミナルでコマンドを走らせるっていうのは要するにその本体ファイルを作るってことじゃないですか。
まあ読むファイルを作るってことじゃないですか。
それがね、作業の区切りになるんですよね、あれっていうか。
そのテキストエディターだけでやってるとずっと同じなんですよ。
そうでしょうね。
その辺がだからね、ちょっと今までと違うなと。
たくさんの場合はそのアウトラインモードと普通のモードを一気にするようなことが、
テキストモードの場合はなかったんですけど、今の環境ではあるんですよね。
1:03:05
コマンドを打った、今はちょっと読むファイルだっていうような切り替えがあるんですよ。
はいはい。面白いですね、面白いですね。
テキストファイルすごいなっていうのと、プログラミングを覚えておくと便利だねっていう。
それがないとデジタル執筆法の良さはあんまり近づけない気がしますね、なんとなく。
あるところから先はそうでしょうね。
だって、こうやって喋ってると本当に思うんですけど、僕の書き方ってデジタルじゃないですもんね。
アナログ的な作業をデジタルを使って、アウトラインを入れ替えたり売り畳むっていうのはもちろんデジタルですけど。
コアの部分がやっぱりアナログなんだなっていうのを感じますね。
デジタルオンリーだとたぶん書けないかもしれないっていう。
あー、なるほど。
書けるだろうけれどもずいぶん違うものになるんでしょうね。
そうでしょうね、きっと。
エゴ的にどうなのかみたいな話はいろいろあるんですけど。
でもそれを問題視するには、その紙の量を問題視するのであれば、
日本全国に出版されてる大量の本と廃棄される本のことは大問題ですよ。
だからテキストファイルの本って読んだことないんですよね、僕。
世の中にあるかもしれませんけど、テキストファイルを使った仕方っていう本があるんかもしれませんけど、
読んだことなかったんで。
テキストファイルを使って何かいろいろやりましょうっていうのはあんまりないですよね。
だからあれですよ、MS-DOS時代の、それこそアスキー周辺でいろいろ出てたアスキーの連載とかもあったし、
そういう本の中にそういうものがあったんですよね、そういう流派みたいなものは。
でもその時代が終わってからあんまり目にしたことはないですよね。
だいたいワードの本は山ほどありますけど、
テキストファイルっていうのは説明はいらないですね、テキストファイルそのものについては。
メニューもすごい少ないですから、メモ帳とかって。
パソコン的にどう扱うのかっていうのを、もうちょっと紹介してくれてもいい?
1:06:04
いまようやく僕入り口に入ったところなんで。
いや、それこそ暮らし者さんがミッションとしてそれを追ってるのかもしれないですよね。
だってテキストファイルで、例えばリナックス界隈、ユニックス系の界隈でテキストファイルで執筆して、
最終的な出力はテフレみたいな流れはあるけれども、
その中間段階でどういうふうに文筆をするかっていうところの話で、
そのテキストファイルを使って、それこそ昔MS-DOSの時代に書かれていたようなことが文字で書かれた情報ってほんとないですよね。
ないんですよね。
知らないだけかもしれないけど見たことないですよね。
メジャーにはないです。
いわゆる普通の書店の本壇に並んでることはまあないですね。
ないですよね。
たびたび言うんですけど、ファイルの扱いで進化を発揮するのはテキストファイルなんですよね。
それはそうですよね。
複数のファイルの中にある文字列を置換するなんてことは、エヴァノートではまず無理なので。
ようやくいわゆるデジタルツールをどう使っていくかっていうのを、
ツールを変えさずに、より自分でコードを書くよりにできるようになってきた。
それがやっぱりこうしたいってことか、こうできるんですよね。
エヴァノートもこうなってくれたらいいのになってしまうんで。
自分の道具を自分で作れるってことですよね。
しかもそこまで難しい知識はいらなくて、
プログラミングでこんなことができるよっていうことを知ってて、
それをグーグルで得るだけの知識があれば、大体できますね。
もちろんその…。
それが難しい知識なんですよ。
もちろんね、難しいとは思うんですけど。
思うんですけど、機械学習を使って云々観音とか世に比べれば全然簡単なレベルにあるので。
タイムスタンプを変更できるかできないかでもツールの使いやすさって変わるじゃないですか。
それと同じ話がね、もっと広い領域にあるんですよね、やっぱり。
だからそれを手にしてやっぱりパソコンのパソコンたる力が発揮できるんかなと。
1:09:01
そっか、そしたら結城先生とかもやっぱりテキストファイル派ですよね、当然。
最初にTIFF使われるんで、基本的には。
数式の出力なので。
だから書くのはテキストファイルですね。
僕のこのあれもTIFFに追ってるところはありますよ。
僕はテキストからテキストファイルの出力してますけど、
これだからTIFFがPDFを吐くのとほぼ一緒の考え方なんで。
ああ、なるほどなるほど。
僕はテキストファイルの中にテキストファイルを埋め込んでテキストファイルを出力してるだけですけど、
データの移動的には似たようなことをしますね。
でもTIFFっていうかラテフの場合って結局あれって見出しの概念があるじゃないですか。
ありますね。
要するにあれってアウトラインとしては使えるんだよなって思うんですよね。
もちろんそれこそオーグモードなんか使ってる人だと、
そのオーグモードの中でアウトライン作ってそれをテキストで吐き出すみたいなことは多分できると思うんですけど。
できると思います。
それと同じで、例えばワードもアウトラインモードを使った場合、
ファイルはそういう構造を持ってるわけですよね。
出しと本文と出しと階層があって。
だからなんであれがワードファイルになっちゃうのかっていう。
なんかそれは、哲学的な質問ですね。
なぜワードファイルになるのかっていう。
なぜドキュメントファイルになるのかってことですね。
そうそう。
だからあれは、もちろんワードが読めるワードファイルでは保存するんだけれども、
それをテキストエディターで開いたときに、いろいろフォーマットのコードとかが入ってるのはしょうがないとして、
なんでテキストそのものが読めないんだろうなって思っちゃうんですよね。
いちいちエクスポートする必要がありますもんね。
そう、エクスポートしないとダメ。
逆に言えばエクスポートしちゃうと、もうそれはワードファイルじゃなくなるんで。
なくなってしまうっていうのは確かに。
そうするとアウトラインとしては扱えなくなっちゃうわけですよ。
確かに。
もちろんそのへんの問題を解決する方法っておそらくあると思うんですけど。
でもね、昔のMacのEasy Wordとかナイサスライターの前身のソロライターっていうワープロがあって、
あれはワープロのファイル形式で保存するんだけど、テキストエディターで開くとテキストファイル、テキストとして開く仕様だったんですよ。
だから逆に初期のEasy Wordとかはそうでしたよね。
だから逆にEasy Word、ワープロとしてフォーマットした書類を作ってそのまま保存するんだけど、
1:12:09
テキストファイルとしてグレープで検索したりとか、そういうことができたんですよね。
テキストファイルで編集した場合ってワードで開き直せるんですか?
ワードじゃなくて、文字だけの編集なら開き直せる。
へー、すごいな。
ただ間消しちゃったりすると、一緒にフォーマット用のコードがズレちゃったりして壊れちゃったりしたかもしれないですけど。
当時のMacのフォーマットが、リソースフォークっていうのがファイル本体と別になってて。
あー、なるほど。
そこの部分にフォーマット情報を全部保存してたみたいな。
でも今、それができたら、ワードで保存してもテキストエディターで開くと、文字が読めたらいいのになって。
都合のいいことを言うなという人はいるかもしれませんけど、素朴な願望として、自然なものだと思うんですよね。
今はファイルがアプリケーションの中に取り込まれてしまってるんですよね。
それで行き来ができないっていうのはありますよね、確かに。
それが可能なのはMP3とかテキストファイルみたいな非常にプレーンなファイルだけですもんね。
だから要するにそういうことがしたければ、汎用的な技術を覚えろということになってくるわけですけど。
そうですね。
でもオーグモードは一つの答えだと思いますよ、あれは。
他に一切使わなくても、あの中だけで完結できるのが本当に理想かもしれないですよね。
確かに。
あれほしいものがほぼ入ってますからね。
EMACSじゃないオーグモードかもしれないですね。
EMACSってバッファーという概念で画面表示を管理してるんですけど、それがないとて思うようにはいかないと思うんですよね、あれ。
検索結果とかコマンド表示とかもそのバッファーで行うし、普通のテキストファイルの閲覧とかも全てそこで行うんで。
その方式でないとオーグモードは多分きれいに動かない気がしますけども。
でもさっき言ったzoom、narrowができるし、アウトライン、見出しがあるし、見出しの移動も可能やし、
to doとかスケジュールだけを抜粋もできるし、ショートカットキーコマンド一発でメモの入力ができて、そのメモを開くのもショートカットでできて、全体に対する検索もできて。
1:15:08
他に何がいるんやっていうぐらいの。
想像の及ぶ限りほしいと思うものはほとんど全部あるんですよね。
Emacsでないとそれが使えないっていうのはもちろんいいんですけど、その欲しい機能があるエディターがなぜ生まれないのかっていうのは思いますけどね。
特にzoomができるエディターがないのがね、僕には謎of謎なんですけど。
ないですか?
いわゆる僕らが望んでいるアウトラインのzoomって呼べるものがあるテキストエディターは見たことがないですね。
Emacsはオーグモード以前からのナローっていう概念がありましたよね。
この部分だけ表示させるみたいなのがあったと思うんですけど、それをオーグモードの中ではzoomみたいな効果を持つように使ってるっていうことだと思うんですよね。
そういうことができるエディターはあんまりないのか。
その部分のdiffを表示したりとかはできるんですけど、この見出しのレベルだけを表示するみたいなのは少なくとも僕は見たことがないですね。
アウトライナーよりのやつだったら当然ありますけど、タスクペーパーかな。
タスクペーパーって確か思うんですけど、手の物だったら多分できると思うんですけど、
普通の文章を書きますよっていうテキストエディターで、ここからここまでをzoom表示しましょうっていうのはないですね、残念ながら。
アウトライナーだと一番初期の頃からあった機能なんですよね。
あれがアウトラインを扱うものとして認識されてて、もっとずっと大きな意味がある機能だと思うんですけど、本当は。
あんまりそういう認識がされてないのかもしれないですよね。
そうですね。
そんなに二乗的に大きいものを書かないから、あんまり必要がないっていうのはあるのかもしれないですけど。
コードエディターの場合はzoomというよりは特定のファンクションにジャンプの方が便利っていう感じですね、あれは。
コードエディターの場合はそのファンクションだけzoomしてもあんまり意味がないのかな。
てか回数が深くならないんで。
1:18:01
むしろその特定の機能を持っているどこかにジャンプできたらいいっていう感じなんで、zoomの意味はあんまりない。
zoomはやっぱりその、最適的に潜っていけるっていうところが重要なので。
そうか、コードの場合はあれですもんね、zoomするようなものは元から別ファイルになってたりすると思うようになったり。
そうそうそうそう。
そうか、だからそういう単位で別ファイルで文章を作っちゃうっていう考え方もあるかもしれないですよね。
そうですね。いやでも僕はそれに近いですね。
近いですね。
確かにそうやなと思いました。
だから回数上になってない、ただファイルがリンクで繋がっているだけっていうのはそれに近いですね、やっぱり。
だからオブジェクト思考執筆フォーズもちょっと苦しいかな。
その言葉使うのは勇気がいる。
まあまあ断片的執筆フォーズを呼んでいきましょう、こんなん。
面白いですね、こういう話はね。
もし真似したい人は、全体の統合性は後から整えられるはずだから、今はここに集中しようっていう気持ちで書くっていうのが多分ポイントだと思ってください。
そうですね。
書きながら整えようとするとやっぱりちょっと書きにくいんで、
全て未来の編集者に任せて、とりあえず今自分がここで言いたいことを書こうっていう気持ちになれれば、結構筆は進むと思います。
今回はこれぐらいですかね。