それから今度は、まあそんな感じで大学院時代とかも、結局、大学院は大きく3つに分かれてたんですね。
私は政治学の中でも政治専門。政治学専攻の中に公法っていうね、パブリックローですね、の院生と、
それからもう一個、別に民刑事法っていって、いわゆる民事法刑事法の院生と、
まあ大きく3つの分野があったんですね。私がいた法学部には政治と公法と民刑事っていう。
これが意外とね、まあかなり交流はあったんだけども、まあ微妙な壁もなくもなかったんだけど、やっぱりこれもかなり関係なく壊して、政治の人間とだけ喋っててもつまんない。
逆に民刑事の人とは喋る機会、結構あったかな。公法の人間とも喋る機会あったかな。
でもやっぱり見えない壁が、なんとなくブロックされてるところがあったんだけど、そういうのはもう積極的に壊す方向で動いてましたね。
あとは教員との間の壁がやっぱり微妙にあったんですよね。
これもやっぱりなんか、ため口きいて壊してましたね、先生方ともね。
まあ、ため口といってもちゃんと最低限の敬語は使いながらやってたんですけどね。
よく茶飲み場で、いろんな先生といろんな話をさせていただいたし。先生の研究室にコンコンと入ってて、今いいですかと言っては、いろんな話をさせていただいたなっていうのを思い出しますね。
だからもう学生時代以降は、本当に壁を壊したり越えたり、知らない人のところでも平気で行くという人生になってましたね、これね。
本当は子供の頃、幼稚園児の頃はね、もう引っ込み思案で、途中で帰ってきちゃうんですよね、幼稚園行くのが嫌で。
小学校の時もそうですね。もう外行くのが嫌で、学校いるのが嫌で。
もう仲のいい子とだけ、人とだけ付き合って、本当に一人二人三人ぐらいと付き合って、
あとはもうあんまり知らない人というか、積極的に付き合いたくない人生だった。
引っ込み思案な子だったんですけどね、意外とね。おとなしい、おぼこい、引っ込み思案なタイプだったと思うんだけど、どこで変わってしまったんでしょう。
これちょっと今日の10分、この最後までに、たどり着くかどうかわかりません。
それから今度、就職するわけですよね。私立の音楽大学っていうところに就職してしまって。
もう最初の1年はおとなしくしてたんです。もう長居したくなかったからね。
ここは俺のいる世界じゃないと思ってたから。
だけどもう関わることになって、もう関わるなら関わろうということでまた壊しはじめるわけね。
学生との間の壁も壊しはじめるし、職員室っていうか事務室ね、事務室の間にも壁があるんですよね。
教務部、学生部、音大だから演奏部っていうのもあったし、あと庶務部とかね。
あと本部と現場の大学の事務室とか、結構ね、壁がいっぱいあったんですよ。
この壁をとにかく、余計なお世話かもしれないけど、壊せるものは全部壊すということで。
部屋も分かれてたのを、ちょうど建築計画持ち上がったんでね、
その時には、もうとにかくオープンフロアにすると。事務室1本化でオープンフロアにするんだと言ってやったんですけど、かなり事務職員の抵抗があったんですよね、当時。
1年計画遅れたんですが、でも何とか事務長の協力も得て、他の方も協力してくださってやれたんですが。
最初はもう事務職員からは総スカンでしたけど、やってみたら、つまりオープンスペースにしちゃったら、どこでお弁当を食べればいいんですかから始まって、
もうブツブツブツブツ言われて、もう勝手なことやらないでほしいという。
みんなタコツボで安住してたっていうか、そこが居心地よかったんでしょうか。
オープンスペースなんて考えられないとか言われてたんですが、これがやってみるとね、やってよかったと。
学生との距離も縮まったっていう、学生と職員の間にも壁があったんですね。これも壊したりとか。
もうこれ、枚挙に暇がないですね。ありとあらゆる壁を壊してった。
私がいた学園は、大学が3つあったり、高校が1個あったり、幼稚園もあったりしたので、そこにもまた壁があるわけですよね。
これも事あるごとに、壊せるチャンスが来るたびに、壊す方向、壊す方向、壁を壊すっていうことをやってましたね。
飲み会含めてね。いろんな場面でやってました。他のところにも、だから
関わっていく。それは迷惑がられるっていうか、疎まれるっていうかね。
いうところもあったんですが、でもやってみると、逆にやってよかったというふうに、
最後は皆さん、最初は抵抗するんだけど、やってみると、広げてよかったっていう、こういう機会をもっと欲しいですみたいな話にだんだんなってくる。
具体的に話すといろんなエピソードや思い出、本当に山のようにあるんですけどね。
語り出したらたぶん100時間とか喋っても終わらないぐらいあるんですけど、それはまたいずれいろんなところでね、断片を語っていきたいなと。
墓場に持ち込まずにね、語っていきたいなと思ってるんですが、今日はとにかく「壁を壊すと広がる世界」っていうことで、
人生いろいろ、いろんな段階で壁を壊してきた。
その後、札幌の大学に来て、いきなり時間飛びますけど、やっぱりここでも壁を壊す、学科の壁を壊す、職員の部署の壁を壊す。
なんでまた同じことをやらなきゃいけないんだと思いながらですね、学生と職員の間の壁を壊す、教員の学科、教員同士の間の壁を壊す。
あとやっぱり大学の中はやっぱり学部学科の壁があり、また高校との間の壁があり、それも壊していく。
これなんでみんな壁を作りたがるんだろうと、逆にね、よっぽどそこが居心地いいのか、その方が安心感があるのか、安定感があるのか。
やっぱりタコツボに引きこもっているとダメだと思うんですよね。
壊されることにすごく不安感とか警戒感とか恐怖心とか持つ人もいるので、上手にやらなきゃいけないんですけども。
やっぱりこれはオープンに、壊していった方がホモ・サピエンスの社会は進化するというか、エンジョイできるというか、楽しいことが広がるような気がするんですけどね。
ということで人生色々。具体的な話は何にもしてませんが、とにかく学生時代ぐらいからですね、積極的にやっぱり壁を見るや壊したくなるという風になったのはね。
これなんだろう、やっぱり学生時代の1年生、大学1年の時の失恋経験なのか。
いやそれより前だな。それより前から壁は壊し始めたね。
たぶん高校生から大学入る時ですね、大学入る時に、私、関東の高校にいたんですけど、誰も行かない名古屋の大学に行ったんですね。
高校の担任の先生は、3年生の時ね、進路を変えたんですね。仙台の方の大学じゃなくて名古屋の大学に変えたんですね。
なんで変えるんだと。過去に実績ないぞと。もう何十年、十何年遡らないとデータがないとか言われちゃって。
なんでそんなとこ行くんだって。誰も行かないぞって。誰も行かないから行きたいんですってね。
それも一つのなんか、自分の中にある壁も壊したかったんですね。
名古屋に行って、とにかく知ってる人は一人もいない。親戚もいない。友達もいない。誰もいない。家族ももちろんいない。一人暮らし。
これはもうだから、ゼロからっていうか1からの出発ですよね。もう一人からはじめる。
だからそこで、自分が動かなければ、タコツボにいれば、誰一人こう知り合いはできないという
世界にわざと自分の身を置きたかったんでしょうね。1からの出発。
学生時代にはたぶんやっぱり、名前だけで喋ったりした人はやっぱり1000人くだらないんじゃないかなと思って。
そこからやっぱり「壁を壊すと広がる世界」ということで名古屋に飛ぶっていうとこからやっぱり一歩を踏み出したような気がします。
その前段はあるんですよね。やっぱり高校時代までにね。まあその辺はまたおいおい話したいと思います。
ということで「壁を壊すと広がる世界」。いまだに壊し続けてますけど。
じゃあ第2コーナー、第3コーナーでこのテーマをさらに突っ込んでみたいと思います。
はい。ということで、第2コーナー。がんばれホモ・サピエンス。
がんばれホモ・サピエンスってことですけど、ホモ・サピエンスっていうのは実は見知らぬ人とも、初めて会った人ともフレンドリーになれるという能力を一番持った、身につけたそういう人類だったんですね。
そういう人類っていうことの意味は、ネアンデルタール人とかよりもホモ・サピエンスの方が、ホモエレクトゥスよりもホモ・サピエンスの方が、フローレンス人よりもホモ・サピエンスの方が友好性、フレンドリーシップ。
見知らぬ人とでも、笑顔を作りながら話をしながら、コミュニケーションをとって友達になるという。壁を越えるということが、よりできる人類だったっていうふうに言われてるんですね、実はね。
だからこれはもうあちこちで言ってるんですが、ネアンデルタール人はやっぱりコミュニティ、集団、やっぱり2,30人の集団しか作れなかったんじゃないかと。それに対して、ホモ・サピエンスは100人規模の集団を作れるようになったんだっていうね、そういう言い方がされるんですけども。
逆に、ホモ・サピエンスはでも、その壁を作る部分もあってね。100人規模の集団を作ると、その外側の集団に対して張り合って、殺し合うみたいなことも起きたとも言われてるんで。この友好性と敵対性っていうのは、表裏の関係にあるっていうね、そんな話になってるんですが。ただいずれにしても、ホモ・サピエンスはやっぱりそう言いながらね、
100名前後の集団から、やっぱりそこで文字とかいろんなコミュニケーションツールあるいはメディアを発達させてきたことで、やっぱり文字の発明大きいと思うんですけどね、
そのことで、そういった日常的に会話ができる規模を超えてバーチャルにつながれるという。言葉、文字に書かれた言葉を通じて、メディアにそれが乗っかることでバーチャルにつながることができるようになってったっていうね、
部分があって。今やSNSでね、グローバルにコミュニティ規模を拡大してきたっていうことで、これは第3コーナーで語らなきゃいけないんですが。そんな意味で、頑張れホモ・サピエンスですけれども、そもそもホモ・サピエンスはそういう特性を持ってるはずなんですが、やっぱり一方で、さっき言った友好性と裏腹に敵対性を常に持ってる。
友達か敵かっていうね、善か悪か、良いか悪いか、好きか嫌いか、全部二項対立で腑分けする癖があるんですね、ホモ・サピエンスはね。
そうやって決めちゃうと、友達は友達、敵は敵、好きは好き、嫌いは嫌い、こいつはいいやつ、あいつは悪いやつ、内と外ですね。結局、内と外を決めるんですね、ホモ・サピエンス。
ただそこで、実はホモ・サピエンスはそういう中で、やっぱりいろんな殺し合いとかそのことのマイナスですよね。敵対することにはやっぱりあんまり生産性がないと。社会の発展がないと。自分の発展もない、個人の発展もないということで、その敵対性を和らげる文化を身につけてきた。
これがトレランス、寛容の精神っていうことなんですよね。ただその寛容という、トレランスですけど、人を許す、許しの心ですけども、ここが持てる人と持てない人がいるわけね。ここが重要なんですね、今ね。
ホモ・サピエンスにとって、より友好的な世の中、社会を作ろうと思ったら、このトレランスっていうのはもう完全にキーワードなんですね。トレランスっていうのはやっぱり文化なんですね。ホモ・サピエンスの本質にはやっぱりなかったかもしれない、トレランスは。
逆に、やっぱり友と敵っていうね、内と外っていうのはやっぱりかなり明確に作る部分が強かった。でもどこかにそういう寛容の精神っていうのがやっぱり芽生えてきたんですよね。例えば、喧嘩したら仲直りしましょうみたいな話ですよね。
だけどまた線を作って、あの人たちは違うからみたいなふうにしたがるというね、これ常にやりたがるわけね。これはやっぱりホモ・サピエンスが生き延びるためには、あるコミュニティを作ってそこで緊密につながって、自分たちを保存していくっていうか、保持していくっていう、身内で固まってね、
いう部分が必要だったんだと思うんですよね。生存のためにね。生き延びるため。だけど、だからこれ生存環境が悪くなると、敵対性が強まるわけです。生存環境がより豊かというかね、あんまり脅かされない状態になると、やっぱ寛容の部分が広がるというか膨らむということなので、そういう意味ではどういう環境に置かれるか。
経済的にもかなり厳しくなって、環境が厳しくなって、食うものもないというふうになると、そこでじゃあシェアできるかと、食べ物をね。やっぱり自分のものにしたがるっていう。ある程度豊かな社会になるから、そこに寛容、シェアするっていうものも生まれるっていう。
だけど、まあ一杯のかけそばじゃないけども、本当に食べるものなくなったときにそこで殺し合いをしてでも食べ物を奪うのか。それともそこでもシェアして、共に死ぬかもしれないけどシェアするのかっていうところが、突き詰めるとホモ・サピエンスの究極のトレランスという、あるいはシェアする文化が試される瞬間になるんだけど。どうしてもね、いろんな意味でいろんな面で環境が厳しくなると、
自分のところだけ守りたがるっていうところが常に出てくるんだよね。これはね。ホモ・サピエンスね。だから、そういうホモ・サピエンスの本質というか、これまで築き上げてきてしまった特徴みたいなことをちょっと自覚しながらね、やっぱりホモ・サピエンスとして生きていかなきゃいけないんだろうななんてね、まあどうでもいいことを思ったりするわけです。
だからいろんな世の中で、さっき人生いろいろでも語ったようなことを見てると、ホモ・サピエンスだからこうしちゃうのはわかるけど、ホモ・サピエンスなんだからこうしようよみたいなそんな話をね、やっぱり人生のいろんな局面でしてきたような気がするんですよね。
単にその人がどうこうじゃなくて、いや同じホモ・サピエンスなんだからこういうところもあるし、ここで敵だとか自分の身が可愛いとか思うのはよくわかるけど。でもホモ・サピエンスなんだからね、やっぱり寛容、トレランスの精神でシェアするっていうことの喜びというかな、そういう部分をやっぱり味わおうよと。せっかくホモ・サピエンスとして生きてきたんだものなんてね、思ったりする。
ということで、どこまで伝わるかわかりませんが。ホモ・サピエンス、「壁を壊すと広がる世界」っていうことで、やっぱり壁を作りたがる人類なのでね。そこをやっぱり壊すということは、結構、意識的にやってきた部分もあるんだけど、どうしてもね、戻っちゃうっていうと変だけど。やっぱり持ってるんだよね。ホモ・サピエンスはそういう壁を作りたがる性質を持ってる。
だからある程度、意識的に壊していくってことは、やっぱり大事なんじゃないかなと思うんですよね。
まあ引きこもりの問題とかも含めてそうだし、いろんな場面でそういうことを見かけるわけだけどもね。ホモ・サピエンスだもの。
ちゃんと自分がホモ・サピエンスだということを自覚していきましょうみたいな、がんばれホモ・サピエンスでした。
ということで、第3コーナー、SNSあれこれ。
はじめるラジオキャンパス シーズン5 プレゼンテッドバイ キャンパス
「壁を壊すと広がる世界」、第3コーナー、SNSあれこれですね。
SNSの世界もこれはもう本当にね、壁を作った上で攻撃するみたいなことがあったりするわけですよね。
そこで目に見えない壁を作ってるっていうことに気づくか気づかないかっていうのは、とても重要なような気がするんですよね。
でもやっぱなんかあると、やっぱ壁を作って、壁のこっち側から矢を打つというか銃を撃つというかな。
自分は壁を作ってこっちに置いといて、これは例えば匿名性だったり、あるいはSNSでつながった仲間だったり、
そういう壁を作って、壁のこっち側から、壁の外側に向かって攻撃するんだよね。
わかりますかね、このイメージ。
こういうことをね、やっぱりSNS上でよく見かけるわけですよね。
そういうのを見かけちゃうと、まあホモ・サピエンスだものと私は思っちゃうわけで。
だからそういうホモ・サピエンスが、ホモ・サピエンスはSNS大好きなんですね。
それはつながれるから、一つはね、シェアできる、つながれるから。
コミュニケーションがとれるから、見知らぬ人と出会えるから、ホモ・サピエンスはそういう特徴を持ってるから、大好きなんだけども、
一方で、そこのSNSという土俵の上で、土俵の中で、またやるんですね。友好性と敵対性のドラマを繰り広げるという。
壁を作ったり壊したりするっていうね、ドラマを繰り広げるっていう。
これ面白いですね、見ててね。面白いですねって何言ってるのかよくわかんないけども。
それで、まあ私はね、人生いろいろでも語ったけど、壁壊すのが好きだから。
今何やってるかっていうと、ラジオトーク始めたじゃないですか、ラジオトークね。
ラジオトークはラジオトークの中だけでラジオトークをやるつもりが一切ないわけね、私の場合。
それからスタンドFMもやってるんだけど、スタンドFMもスタンドFMの中だけでスタンドFMをやるつもりはないわけね。
LISTENというね、サイトもとてもたくさん使わせていただいてるんですが、
LISTENの中でLISTENという壁の中だけで何かやるつもりも、一切ないわけなんですよね。
これわかりますかね。
でも見てると、やっぱりそこのプラットフォームの中だけでやりたがる人って結構いる感じがしてて、
なんか面白くないな。面白くないっていうか、別にいいんだけど、それはそれでいいんですけども。
やっぱり壁を壊す人生を送り、壁を壊すことがホモ・サピエンスとしてはやっぱり非常に新しい世界を作ると。
世界を広げるんだと勝手に思っている私としてはですね、
SNSのプラットフォームなんていうのは一つの壁であって、
その壁はなるべくない方がいい。敷居は低い方がいい、乗り越えれた方がいい。
完全に壊すことはできないんでね、壁は多少あっていいんだけど、
でもそこがいろいろ穴ぼこが開いてると。穴ぼこが開いてて行き来ができる。
壁はちゃんと行き来ができるっていうね。どこでもドアじゃないけど。
要するに、壁が障害にならない、障壁にならない、バリアにならないっていうことが、とても大事なのかなっていうか。
大事というよりも、その方が嬉しいなということなんですけども。
意外とそういう動き方をする人は、時々見かけるんだけどそう多くない。
やっぱりホモ・サピエンスだもの。壁を作りたがるのかなーなんて思う場面もいろいろあるんですが。
何の話してるかわかりませんが。そんなことでちょっとSNS話で、
最近は何だろうな、それこそいろんな遍歴はあるんですけども。
最近のことで言えばnoteを去年の1月から始めて、
noteの中だけで一生懸命やってる人もいるんだけど、
やっぱりそこで飽きたらずに壁を越えたくなるわけね。
最初はスタンドFMとリンクさせていろいろやろうと思ったけど、どうも展開しきらなくて、
そんな中でLISTENが出てきたり、
あとSpotifyとか、スタンドFMを手を出してやって。
やっぱりこれをそれぞれのプラットフォームの壁の中だけで完結してやろうって気はやっぱりさらさらなくて。
どうしたらこの壁越えて、この壁壊して、この壁越えてもっと面白い広がる世界ができるのかなっていう、
インターネットというコミュニケーションネットワークの中でね、
それができるのかなあっていうことを考えちゃうんですよね。
だからLISTENなんかでもいろんな界隈があるんだけど、
その界隈がやっぱり壁を越えて、いろいろプラットフォームを越えてつながっていくと面白いよなーってね。
真面目に思って。そこに常に新たな出会いがあるから、
やっぱりホモ・サピエンスはグレートジャーニーもしてきたし、
いろんな文化も作ってきたしなんてね、
ちょっと思っちゃったりするんですよね。
だから、まあそんだけなんですけどね。
Twitterとかエックスとかスレッドとかインスタとかいっぱいプラットフォームあるんだけれども、
それぞれのプラットフォームの中だけで考えてると見えないことが、
結構、壁なんか本当はないんだよっていう、とりあえずの壁しかないんだよぐらい。
いつでもすり抜けられるんだよと。
マトリックス、最近ちょっとテレビでBSかな?CSかな?
マトリックスやってるんですけども。
マトリックスの最初のやつから最後のやつまで、最後になるかどうか知らないけど、
ぶっ続けで見れるんですけども。
私DVD持ってるんで。っていうか、
マトリックス最初に出た時はすごく衝撃だったわけ、あれはね。
今となっては当たり前になっちゃってるかもしれないけども、
まさにああいう、
SNSっていうのはちょっとマトリックス的なところがあってね。
VRなんて特にそうですよね。
だからマトリックス空間、
SNSがマトリックス空間だとして、
もちろんその背後には生身の人間がいるわけだけども、
そこでの、やっぱ壁ですよね。
別にそんなの作る必要ないだろうっていうか、
壊しちゃった方が面白いだろうっていうね、気がして。
インターネットっていうのはそれを可能にする。
ついでに言うとRSSもそれを可能にする仕組み。
だからインターネット上にはいろいろあるんだけども、
プラットフォーム作ったりアプリ作ったりとか、いろいろあるんだけども。
それがオープンネス、壁を壊す方向の技術なのか、
それとも壁を作る方向の技術なのかってあって、
これ両方必要なんですよね。
壁がなければプラットフォームもできないわけですから、
両方必要なんだけど、
でもあんまり強固な、行き来不能な壁は作ってほしくないわけですよね。
行き来可能な壁を作ってほしいっていうことなんですよね。
そこに、そういう考え方に支えられてるのが、