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はい、おはようございます。本日の放送は、2023年の7月5日、水曜日です。
本日は、第493回目の話となりまーす。
このチャンネルは、福島県小倉市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことを誰々が話をしていくという番組です。
そんな親父のひとり言をお聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。悪気はなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
福島民報という新聞社のツイッターをフォローしているので、
今日は何の日という記事が毎日午前3時に流れてくるんですよ。
先月の6月30日にさえ、こんな記事が流れてきました。
1967年、昭和32年、6月30日、赤戸雄須之助の作者を招き、郡山市で漫画大会。
剣を取った日本一に夢は大きな少年剣士と、当時漫画やラジオ、映画で子供たちに大人気だった赤戸雄須之助の作者、竹内綱吉さんを招いた漫画大会が郡山市の清水座で開かれた。
竹内さんは双葉郡久野浜町、現在の弱岸久野浜町にゆかり、
清水座で映画、赤戸雄須之助が上演されたことを記念した。
ベレー帽姿の竹内さんが太い筆で付いた手に貼られた白紙に赤戸雄須之助を書くと、城内を埋め尽くした少年不安はお喜びだった。
というわけで、当時人気漫画家の竹内綱吉さんが郡山市に来て漫画大会を行ったという記事でした。
竹内綱吉さんが福島県弱岸久野浜町に関係があるというのは知らなかったですね。
当時の新聞記事も載っていました。さらに詳しいことが書いてあるんですね。
郡山市清水座、そこに大英清水座という映画館があったんですね。そこは招待したらしいんですが、
その他にラジオ福島とか香葉屋も公演したみたいです。
ラジオ福島はTBS系ですから、当時ラジオドラマの赤戸雄之助を放送していたんでしょうね。
また香葉屋は当時キャラメルの付録で赤戸雄之助に関するものを付けていたみたいですね。
ちなみにですね、清水座って現在の清水という地域をずっと駅前にありますね。
現在エリート10と呼ばれる駐車場、その辺りにあった映画館だったみたいです。
ですが1969年にはもう閉館になっていたみたいですね。
それにしても新聞の方では竹内綱吉さんが久野浜町出身と書いてあるんですよ。
えー知らなかった。というわけで今回はそれについて調べてみたわけですね。
竹内綱吉さんですが、1922年の神奈川県の横浜市生まれ。
というわけでね、出身というのは正しくないみたいです。
竹内綱吉さんの福島県久之浜町での生活
昭和20年、1945年ですね、復印後ですね、福島県の岩木市久野浜町。
そこに住んでいたことがあったのは事実みたいですね。
当時23歳くらいでしょうかね。
どうして久野浜町に住んだのかというのは残念ながらわからなかったですね。
ですが広野町にとんぼりの眼鏡で有名な、同様作詞した中田誠司さんという方がいるんですよ。
とんぼりの眼鏡の作詞した方。
その方はお医者さんでしたね。
その人と交流があって中田さんのところに滞在した人のリストに竹内綱吉さんの名前もあります。
というわけでこの附近に住んでいたのは確からしいんですね。
その後ですね、東京に行きまして紙芝居屋さんとなるんですね。
当時ですね、水木茂さんとかね、山川壮司さんとかね、絵心がある人がですね、紙芝居で食べていくことができたんですね。
いつ上京したかちょっとわかんないんでね、何年間ですね、久野浜町にいたのかわかんないのはね、残念です。
そして1952年に漫画家デビューするんですね。
30歳の時です。
そして1954年の時にですね、ヤングニックなどで作品が知られた福井英一さんがですね、
赤道須之助の大ヒットとテレビドラマ化
少年画法に赤道須之助の連載を始めたんですがね、
第1回が連載された直後にね、亡くなっちゃうんですね。
これをですね、引き継ぐ形で赤道須之助を描くようになるんですね。
そしてその赤道須之助が大ヒット。
1957年にですね、TBSラジオ。これにラジオドラマ化がされまして、大人気ヒットするんですね。
吉永さゆりさんがね、忍っていうね、女の子の声の役をやっています。
また同じ1957年からですね、1958年にかけてですね、映画会社の代役の方で旧作品、映画がね、映画化されるんですね。
その前半の方はね、中村珠夫さんがですね、忍の役をやっていますね。
ほぼ同時期にですね、大阪とですね、現在のTBSのそちらの方ですね、東京のTBSの方でですね、生放送でね、テレビドラマ化されるんですよ。
というわけで、1957年にですね、突如ですね、赤道須之助の大ブームが起きたみたいですね。
で、これまで来たのはですね、その映画の第2話、赤道須之助、月夜の怪人が上映した頃なんですね。
当時ですね、吉永さん非常に人気の漫画家だったんですね。よくね、高山市まで来ることができましたよね。
自分がですね、赤道須之助を見たのはね、ずっとずっと後のね、1972年のね、富士テレビのね、東京ムービー版のアニメでしたね。
このアニメですがね、非常によく出てきていましてね、宮崎駿さんだとかね、高畑勲さん、出崎治さん、小田部洋一さんなどね、有名なスタッフが参加してるんですね。
ですので、非常に面白いアニメーションでした。
赤道須之助のブームがね、限りが見えてきた時ですね、僕らに連載しました、少年ジェット。それはね、大人気となるんですね。
1959年ですね、3年間連載されるんです。
漫画連載とほぼ同時にですね、テレビドラマが放送されるんですね。
もともとですね、テレビドラマ化を前提としてね、漫画の連載が始まったみたいなんですね。
後の仮面ライダーなんかと同じですね。
制作したのはですね、映画会社のダイエー。そのテレビドラマの第一作なんですね。
赤道須之助の人気があったから、だからね、竹内剛さんね、テレビドラマの第一作のね、スタッフになったんでしょうね。
ヒットした月光仮面、その流れに続けるという風にね、制作したんでしょうね。
スクーターに乗ってね、現れて、そして悪の組織を戦うというストーリーです。
月光仮面のようにですね、ピストルを持つことができませんからね。
シンクギーと同じくですね、相手を怪我させないでやっつけるミラクルボイス。
ウーヤーターというね、あの技を持たせたようです。
今なおですね、少年ジェットですね、その年代の人たちは人気のヒーローですよね。
さすがに自分ですね、見たことはないんでね、詳しいことは不明なんですね。
なぜ普通の少年はね、悪と戦うのがちょっと不思議なんですかね。
まあそういった、毎週ね、名探偵コランがね、事件解決のも不思議ですからね。
それにしてもですね、自分たちはね、子供の時よく見たやつね、山口萌ちゃんのね、赤いシリーズだとかね。
またスチュアーデスモンアタリだとかね、スクールウォーズとかね、そのドラマを作ってきました。
ダイエードラマ、そこの第一作が少年ジェットなんですよね。
竹内さんとは関係ないですがね、その翌年ですね、海底人早草、それをですね、ダイエーが作るんですね。
その時のね、漫画はですね、後に立つとゴプロになります、栗一平さんがね、漫画を描いてるんですね。
残念ながらね、ダイエーはですね、特撮ヒーローの制作をね、ここでやめちゃうんですね。
やめなければね、今はね、かなり面白い作品作ってると思うんですけどね。
竹内綱吉の他作品と逝去
竹内さんはですね、その後のうちですね、少年ジーメンだとかね、東京パトロールだとか、コンドルキングなどのね、多くの作品を発表するんですね。
そして1987年に65歳で亡くなったわけです。
というわけでですね、赤城すなずけ、少年ジェットのその竹内すなよしさんはね、若い頃ですね、福島県に住んでいた。
岩岸久野浜町、そこに住んでいたっていうのは事実のようです。
月光カメラのね、川内康範さんとかね、岩岸ゆかりのね、面白い方も結構多いですね。
ここにもね、こういった方々ね、いるかもしれませんね。
はい、それではまた次回よろしく。
本日もお聞きくださいまして誠にありがとうございました。