2023-02-20 11:35

#358 会津若松市が出身地?「コメットさん」などで有名な山際永三監督の話

以前は、福島県会津若松市出身となっていた山際永三監督。「コメットさん」、「帰ってきたウルトラマン」、「ウルトラマンA」などウルトラマンの2期で大活躍され、「シルバー仮面」、「日本沈没」、「あばれはっちゃくシリーズ」など多くのテレビドラマの監督をされた方。最近、会津若松市出身というのが消えることが多くて残念です。

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はい、おはようございまーす。本日の放送は2023年の2月20日、月曜日です。
本日は第358回目のお話となりまーす。
このチャンネルは福島県氷山市在住の特撮アニメ漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをだらだら話をしていくという番組です。
そんな親父の一言が気になりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら、ごめんなさい。悪気はなかったんです。
不幸にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご悲劇のほどよろしくお願いいたします。
自分は福島県藍洲若松出身とですね、これまでですね、記載されていたテレビドラマのね、監督さんがね、いつのまにかですね、その事実がね、消えつつあるんですよね。
その監督はね、山際映像監督です。帰ってきたウルトラマンとかね、ウルトラシリーズ、それあとコメットさんとかね、そういったのを監督された監督さんです。
以前はですね、山際映像監督ね、自分は福島県藍洲若松出身とね、プロフィールにね、書いてあったんですね。
それはね、いつのまにかね、消えてきましてね、現在はね、神戸市生まれの監督となりつつあるんですよ。
確かに兵庫県でね、お生まれになったんですけどもね、生まれてすぐにですね、東京の赤坂、そちらの方に引っ越ししましてね、神戸っていうのはほとんど記憶ないはずなんですよね。
山際監督はですね、父親のルーツがね、アイズハンなんですよ。父親の山際太郎さんはですね、東京大学農学部に入学するほどの方なんですね。
そして日回りからですね、ヒロとなる塩化カリウム、これを作る研究とかされていたみたいなんですね。
対戦中はですね、エリート科学者のね、集まる日本油紙、そちらの方にいたそうなんですね。
そして母親はね、吉子さんって言うんですが、宮城県石巻出身のね、小説家志賀直屋のね、いとこさんなんですね。
その間に大前になったのが山際監督なんです。
東京でね、そういうわけですくすくと座っていたんですが、戦争が始まりですね、空襲のお世話が出てきたっていうので、12歳頃ですかね、1944年の9月にですね、遠航疎開って言うんですね。
それで藍津若松の方に移り住んだんですね。
そして15歳頃ですかね、1947年の3月に赤坂に戻ったそうなんですね。
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そして安沢中学でね、佐藤茂近さんっていう方がありましてね、映画研究会を作ってね、映画界への第一歩を踏み出したそうです。
ちなみにこの佐藤茂近さんっていう人もね、福島県白川市生前の方なんですよ。
4歳くらいでね、東京に行っちゃうんですかね。
とりあえずこの方もね、実は映画監督の後になりましてね、安倉の帝王と呼ばれる方なんですよね。
というわけで福島県にゆっかりになる方がね、中学時代の時にね、引き張っていたってことなんですね。
そして山際監督はね、父親のルーツがあること、育った物心を尽いた時にですね、育っていた相沢鎌厚。
そちらの方をですね、自分のね、出生地としていたんですが、ところがですね、最近それは消えつつあるんですね。
先ほど言いましたようにね、最近は神戸市生前の監督というのでまとめられちゃってるんですね。
東京の出生地というのはわかるんですがね、神戸市になっているのだったらね、相沢鎌厚を出生地にしてほしいなと思うんですよね。
というわけでですね、どなたかですね、山際監督に話をしてね、相沢鎌厚時代の話、そういったのをね、いろいろと記録をお見せさせてほしいなと思っているんですね。
さてさて、山際監督ですよね。どのような作品を監督したのかというとね、女監督時代ですけどね、例えば梶原一騎さん原作で吉田達夫さんがね、絵のね、チャンピオンフトシという作品をですね、1962年に女監督してるんですね。
この年ですね、吉田達夫さんはね、タッツのコプロを作るんですね。で、2年後にね、アニメスタジオになるんですね。その前の時、実写版、そちらの本の作品などを手掛けています。
それから1966年にね、ライオン劇場で茶子ちゃんを監督するんですね。けんちゃんシリーズのね、前の茶子ちゃんシリーズってあったんですね。その4作目です。
それから後、厚見教授さんが主演のね、泣いてたまるかっていうのも1966年ですね。まあ、このきっかけになりましたね。後でね、男は辛いよがドラマ化になりましたね。で、まあ、映画化になるっていうようなきっかけを作ったドラマです。そちらの本を監督してるんですね。
それからブラザー劇場のね、初代のね、コメットさん。そちらの1967年です。以降ですね、ブラザー劇場の作品を手掛けていくんですね。
それからこの1969年にはですね、つぶやプロと組みましてね、恐怖劇場アンバランス。そちらの本も監督するんですね。ただしですね、内容がね、あの時代にあてないっていうね、実際に放映されたのは1973年なんですかね。
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で、ウルトラマンのシリーズはね、帰ってきたウルトラマンの1971年からです。そしてその年ですかね、以前はね、ウルトラマンなんかやってました。武田はそちらの方でね、シルバー仮面やってたんですね。
というのでシルバー仮面の方の方もね、監督してるんですね。そして翌年の1972年ね、ウルトラマンエース。そちらの方の監督してますし、あと桜木健一さんがね、主演していますブラザー劇場のね、熱血さるとびさつけの時代劇。そちらの方なんかも監督してます。
そして翌年の1973年はウルトラマン太郎を監督してますしね。で、さらにその次の年には日本沈没。そしてその次の年にはウルトラマンレオを監督してます。この時にはね、自動モノとしてましてね、ソレイケカッチンっていうね、子供向けのドラマ。そちらの方がやってますね。
そして翌年にはですね、グーグルメダマン。そちらの方の監督をするんですね。あの特撮のね、コメディ番組ですね。あずまひろうさんがね、キャラデザインしてるという変わった特撮コメディですね。
で、その翌年にはですね、昼間の番組の方に移動しましたね。ライオン奥様劇場というので、その夏を3年ほど続けております。
そして1979年にはね、このバカ野郎、てめえの馬鹿さかげんやな、父ちゃん懐かなくて涙出てくれや。っていうので有名な暴れ発着シリーズの第一作、俺は暴れ発着。そちらの方を監督するんですね。
で、翌年のね、男暴れ発着も監督しております。といった感じでね、懐かしいですね。こういったですね、児童向けあるいはファミリー向け、こういった作品をですね、たくさん作っていた方なんですよね。
山際監督ですね。どのようなプロフィールかと言いますね。さっき言ったようにね、アザブ学園、そちらの方でね、映画の同人誌とか作ってね、映画関係取りまして、あと慶応義塾大学文学部、フランス文学科、そちらの方に入学して卒業されます。
そして新東方の映画制作所に入りましてね、内田智監督のね、笠原酒場、1955年にね、そちらの方でね、女監督、そちらの方で勤めるんですね。で、その後はですね、石井輝監督に支持するんですよね。
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石井輝監督って言うとね、後にあの安橋万愛さんとかね、高倉健さんの主演のね、その後70年代ね、アナーキーなね、江戸川乱歩全集、恐怖危機系人間とかね、そういったアングラなイメージありますけどね。
山際監督がね、あの支持した頃ですけどね、あの石井輝監督ね、宇辻健さんのね、スーパージャイアンズ、それを作ってる頃ですからね。
というわけでね、まあ山際監督がね、ウルトラマンを作っててもね、あの違和感なかったんでしょうね。
ところがですね、その新東方なんですが、1961年に倒産してしまうんですね。
この年ですね、山際監督がね、狂熱の果てっていうね、なんで映画がデビューしたんですかね。
この作品ですね、和製ヌーベル番組の一つでね、非常に面白い作品になるシーンですよね。
そして1964年以降はですね、国際放映っていうね、会社の方の専属としましてね、先ほど言ったようなね、子供向け番組、ファミリー向け番組、そちらの方をね、テレビ番組、そちらの方を主に監督するようになるんですね。
そして1969年にフリーランスとなりまして、そして1980年代にね、まあ映画界のテレビ界のほうに、そちらの第一線を引き続いてあった後ですかね。
あの、オウム新日光だとかね、拉致問題とかね、そういった社会的な問題、そういったものをね、評論する活動、そういったものをされていたようなんですね。
現在90歳というとね、まだお元気なんでしょうかね。
ぜひですね、あの特撮アーカイブセンターとかね、お呼びしましてね、帰ってきたウルトラマンとかね、ウルトラマンエース、タロウ、レオ、そういったような話、あれはシルバー仮面の話、そういうのをしながらですね、少年時代を過ごしたね、
合図若松の話をね、いろいろとね、お聞きできればいいのになーなんていうふうに思ってるんですかね。
ぜひともね、どなたかやってくれませんかね。
はい、それではまた次回、ヨシカペン記者の宝の話にお付き合いくださいね。本日もお聞きくださいまして、誠にありがとうございました。
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