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2024-03-25 1:16:33

第百九十五回 その目で世界を見てみたい

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以下の本を起点に「批評」をめぐってわいわい喋ってます。

原田裕規『評伝クリスチャン・ラッセン』(中央公論新社)

速水健朗『ケータイ小説的。 “再ヤンキー化”時代の少女たち』(原書房)

サマリー

ポイエティークRADIOでは、風邪を引いた話や家の引っ越し準備、忙しい日々などを話しながら、柿内正午さんと奥様がリラックスしてお話ししている様子を感じます。ファンの中には、趣味の非マス性や批評の目の届かないものを好む方々もいます。ビジュアル系バンド文化や2.5次元舞台についてもお話ししています。また、イケメンバンドのゴールデンボンバーが、メタ的に歌詞を解析してネタ化することでファン層を広げたことに触れています。批評の方向性や重要性についても触れ、文化人類学的なアプローチやメタの視点の重要性を語っています。また、ベタな言葉へのアプローチやメタ的な要素も必要であると論じています。また、ある批評家が批評のアクセスポイントの欠如や批評の現状について話し合っています。最近見た舞台「デーニッシス」について熱を込めて批評し、舞台演出の素晴らしさに感動しました。演劇においては、演技だけでなくスタッフワークも重要であり、天の天外の作品にはその素晴らしさがあると感じました。批評や解釈は作品の様々な魅力を引き出します。演劇を通して世界を見る人々が増えることが望ましいと語られています。

風邪を引いた話と忙しい日々
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。 ワイトは私、柿内正午と奥さんです。どうぞよろしくお願いします。
風邪を引きました。 風邪?
風邪じゃないのかな? 熱、熱を出しました。
あの、ちょっとその話を。 一晩だけね。
一晩だけね。あの、なんかすごい忙しくてね。
忙しいっていうのも色々あるからね。
あのー。 どっからよ、だって。
でもなんかそのね、今引っ越しに向けてあれこれですね。
引っ越しっていうかリフォームがね。 まあリフォームもね。
まだ引っ越しの準備をしてないからね。 そう、引っ越しにまつわるね。
ま、とかさ、あと新類の結婚式とかね。 あったね。
あとなんかお祝い事とかね。
まだとにかく家のことと、まあそういうような。 長距離移動して深夜ラジオとかね。
そう、人付き合いと、あとそうそうそう、あの岐阜でのね、販売とラジオと、
あとはなんかとにかくプロレスをね、見に行ったりとか。
まあ色々やっててさ。
でなんかもう毎回毎回だからなんか、あ。
であなたは結構その間に何個かさ予定飛ばしたりしてたじゃん。熱出して。
であなたが熱出す度に僕もどっかのタイミングで倒れたい。
どっかのタイミングで倒れたいが今ではないって思いながらずっとやりてて。
でちょうどこの週末予定がないじゃんって気づいたんだよね。
あのー金曜日ぐらいに。
であそっか今週別に何も久々に予定がないんだって思って。
で土曜日がさ、ちょっとすごい天気悪かったじゃん。
でああこれ無理だって思って。
ちょっとなんか体だるいし、なんかよくわかんない、背中バキバキだし。
なんかちょっとだから、うっすらそこの時点でちょっと神経痛みたいなのあったし。
これちょっと、ちょっと、あの、揉みほぐし屋さんに行こうって。
でちょっと背中の血流がやばいから揉みほぐし屋さんに行こうって思って行ったんだよ。
リラックスして喋る楽しさ
でホットペーパービューティーで調べたの、いろいろ。
調べてさ、で出てきたところがさ、なんか二分化されてて口コミが。
片屋、もうなんかいつもどこに行っても物足りなさを感じてたけど、
すごい一生懸命、あの強めに押してくれるからすごいスッキリしましたとか、なんか最高でした。
生まれ変わったかのようですって言ってる人とかがいてさ。
で片屋もう一面にはなんかすごい、なんかめっちゃあの、
2階まで行かないとエレベーターがないような古い雑居ビルで、で壁とか全部ポロポロに剥がれてるし、
なんか入り口もすごい分かりにくいし、なんか照明暗いし変なにおいするし、なんかタオルもめっちゃ毛羽立ってるし、
なんか店員さんもなんかあんまり日本語が多分上手じゃなくて、一疎通が全然取れないから超怖かったみたいなので、
もう絶対行きたくないみたいな人とに二分化されてたの。
僕が好きなとこだって思って行ってきたんだよ。
どっちも正しかった。
言ってることはどっちも正しくて、
どっちの側面をより評価するかっていう感じで、すごかったよ。
だってもうね、あの二言しか喋んなかったの。
なんか60分コースでいいかって言われて、入った途端に。
でも確かにそれで予約してるからはいって言って、その後にどこ疲れてるって言われて、背中が…
以外はもうずっともう施術にめっちゃ集中されてて、
でやばかった。もうなんか全ての筋をねじり切られるかと思うくらい強かった。
それはね、合わない人は合わないよね。
でもね、終わった後生まれ変わったように血流がよくなってポカポカして、
その日一日ずっと目覚めとした気持ちだったのがね、最高もうできるって思って。
でやったー!みたいな感じで一日バリバリと作業してたんだけど、
そっから4時間くらい経ってね、
であなたとご飯に行く約束してたんだよね、僕は外で別のことやってたからさ、
で終わったらご飯行こうかみたいなこと言ってたんだけど、
なんかね夕方になるんですよ、だんだんね、揉み返しかと最初思ったの。
やっぱりあんだけ強くやられると反動でちょっと筋肉痛っぽくなるよなーって思ってたんだけど、
だんだんん?これなんか筋肉じゃなくて神経がなんか来てる気がする。
あれ?なんか体の表面ポカポカすんだけどなんか内側が寒い、冷たいみたいになってきて、
ちょっとあなたと外食するの無理だからちょっと一旦帰るって言って帰ってさ、
すごいガタガタ震えながら帰ってきてさ、カコン糖飲んでさ、
リッスンの流れと無駄な時間
もうそのまま寝てさ、なんか38度くらいまで熱も上がって、
カコン糖のあれだと思うけどね、上がってさ、そっから14時間くらい寝てたんだけど、
っていうのが昨日で、ようやくだから熱出せたなっていうのと、
そこでこうぐっすり寝てさ、元気になった結果今すごいね、
朝までまだちょっと熱下がってないかもみたいなこと言ってる間にさ、
親が学校にもう今日は休ませまして連絡した瞬間に元気になるぐらいの元気さで、
今めっちゃテンションが上がって、なんかよくわかんないけどすっごい元気にハツラツとして、
やっぱりね、一日熱出してね、戻ってくるといいっすよね。
野口生態のさ、野口なんだっけ、野口なんとかさんの風邪の効用?風邪の効能だっけ?
っていう本があるじゃないですか。
あれはだから要するに風邪ひいちゃいけないみたいなイメージがあるかもしれないけど、
むしろ風邪をひかないことのほうが怖いんだというか、風邪を一度ひいたことによって、
風邪っていうのはあれだから要するに、OSの更新の時の再起動みたいなもんだから、
野口春夜か、春夜なのかな、読み方わかんないけど、風邪の効用って本は、
OSのアップデートのために一回再起動しないとダメでしょと、
だから風邪っていうのは要するに自分の体がよくなくなった時に直すためにあるやつなんだから、
下手に薬飲んで直しちゃダメだよみたいなこと言うわけだけど、
まさにそんな感じで一日寝つたして一日寝込んだことによって、
今僕はすっげえ元気。
なんならリッスンっていう講演日記を始めたんですけど、
リッスンっていう講演日記を最近はもう講演日記と言いつつ毎日の更新あきらめて、
5分でやるっていうのもあきらめて、とにかく本の話を、
読んだ本の話をしようっていうので、
全然最初の講演日記の更新は全て何も残ってないんですけど、
喋ってたんですよ。
その時に、とりあえず、
最近はね、やっぱり一人で喋ると緊張しちゃうから、
奥さんに前に座っててもらって、
奥さんはそこでね、そうしたけど数回とかさ、
何かしら別のことやって作業しててもらいながら、
僕は目の前でとにかく喋るってことをしてたんだけど、
さっきこの録音の前にね、一人で40分くらい喋ってんの。
2本撮ったから。
2本撮って、40分くらい一人でビヤーって喋って、
もうこんだけ喋ったら落ち着くだろうって思ってたから、
こっから先は奥さんと一緒に、
もうなんか落ち着いてね、お喋りができればいいやって思ってたはずなのに、
やばいよ今ほら、もうずっと僕が喋ってる。
口が回る。
口のケイレンスがすごい。
やばいよ今もう坂道くんなみにこう、
ケイレンスが200くらい上がって、
うるさいしかー。
もうね、上り坂なのに笑顔だよ。
怖いよー。
一緒に喋るって楽しいねー。
まあね、40分私はこう、
一応あなたが一人で喋る程度だからさ、
そしらぬ顔をしてるっていうのでさ、
あなたはそれ、多少フラストレーションというかさ、
うずうずしてる。
一人で秋葉原まで帰ってたようなもんだから。
毎日。夏休みは毎日。
今は一緒に走れるから超楽しいよ。
ドラッグストアレースだ。
っていうような気持ちでいますけど、
声日記のね、いつの間にかさ、
僕はとにかく工藤文化さんと山本ポテトさんがやっている
働き者ラジオっていうね、
ポテキャストでそういうのがあるらしいっていうのを聞いて始めたんですけど、
その後にね、工藤さんも始めたし、
両田さんもね、脱団オブザデッドでおなじみの、
両田さんも始めたし、
あと海猫座メロン先生もね、
始めてね、
なのでどんどんどんどんそういうこう、
友達がリスに。
すごいね、なんかさ、
それこそその、
いにしえのインターネットみたいな空気があるって、
工藤さんが言ってたじゃん。
すごいバトン文化みたい。
そうそうそうそう。
5人に回すみたいなさ。
このままどんどんね、増えていったらいいなっていう風に思うんですけど、
すごいさ、面白くてさ、
メロン先生のやつとかめっちゃ面白かったね。
二重窓の良さをね。
プロだった。
二重窓の良さを月に販売してくれるんだけど、
マイクのノイズキャンセル機能によってそもそも、
窓の外の音が入ってない。
すごい静かですが。
最高だったんですけど。
っていうのをね、やってたりするんですけど、
やっぱりあれ僕もさ、最初公演日記始めた時は、
一人で喋ろうと思ってたから、
一人でパソコンに向かって喋って撮ってたの。
であんまりだからなんかショボショボしててさ、
この前のさ、録音の時もあなたにさ、
なんかあんまり、
なんか楽しそうじゃない?
ってあなたに言われたじゃん。
だからそんなに言うんだったら、
じゃああなたに前に座らせて、
あなたに聞いてもらうわって言って、
その後の回撮ってるわけだけど、
ノイズに違うじゃない?
全然違うね。
僕のテンションが。
でもさ、これさ、
僕だけかなって思ってたらさ、
やっぱりその、
今始めたさ、
工藤さんと涼太さんとさ、
メロン先生と始めててさ、
やっぱりさ、工藤さん、
工藤文子さんとさ、涼太さんはさ、
結構だから、
人と喋る時は割とこうさ、
ハツラツとしているけれども、
やっぱり一人で喋ると緊張するというか、
どこにどう喋っていいか分かんないんだなっていうさ、
テンションの戸惑いを感じるじゃん。
やっぱりだから、
みんなそうなんだなって思って、
みんなそうなんだって思って安心してたら、
メロン先生のあまりの変わらなさに、
さすがや。
さすがやって思った。
思ったっていうね。
話をさっきしてましたけど、
2人でね。
しましたね。
そうそうそうっていうね、感じで。
だからこのリッスンにね、
みんな来てくれたらいいのに。
だから公演日記で、
あの人も始めないかなって言ったら、
勝手に圧を感じて始めてくれるかもしれないから。
これまでそういうね、流れが来てるからね。
そうだよね。
あ、でもね、ちなみにね、あのね、
今の流れはさ、ライフの流れだけど、
ライフの流れ以外のところで言うと、
夏目大さんが初めて公演された。
ああ、はいはいはい。
元々YouTubeで。
元々YouTubeとかで15分だけやるみたいなのとか、
いろいろ音声で元々やられてたから、
それを今リッスンでやってるみたいなんだけど。
これもね、結構面白くてね。
うん。
なんかね、無駄な話とかをしてて。
なんかその、夏目先生は割とツイッターが好きでね。
うん。
夏目先生もいつでもEXとは呼ばない話なんだけど。
うん。
で、なんかすごいこう、
無駄な時間を過ごしてしまってるなって思いながら
それをやってるんだけど、
多分、でもツイッター辞めた時期があるんだけど、
辞めてた時期も別に同じぐらいの時間、
別の無駄なことをしてたと。
だからなんか無駄なことっていうのが、
もう全部なくしていってしまうと、
なんか心の余裕みたいなのがなくなるし、
なんか無駄だから歩いてるわけじゃなくて、
なんかドブにしてる時間も大事。
趣味の非マス性と批評の目の届かないもの
大事って言うとまたちょっと違わっちゃうんだけど、
必要なんだよねみたいな話をしててさ。
うん。
結構いい話だよなとか思ったりね、
してたんですけど。
うん。
なんか割とそういう、
結構夏目先生もそういう感じで、
ワンテーマについてちゃんとこう、
端的に話すみたいな感じで聞きやすいと思いますので。
うん。
ぜひね、聞いてみていただいて。
僕のは、あのー、
最新のやつは氷伝クリスチャンラッセンっていうね、
いい本について紹介してたんですけど、
5分縛りだったはずが26分喋って、
一人で。
なんかさ、あのさー、
こう、
しょぼしょぼしながらさ、
このルールに一旦適応してみるみたいな、
そこから意味を見出そうみたいな、
全問答は何だったんだよっていう、
全てをぶち捨てて、
向いてることをやってるよね。
でもね、
でもいいんだよ、それで。
てかね、あのね、
それに関してはね、気づいたの。
ルールにのっとってやることには大事だったの、結構。
それはそれで。
それは何で大事だったかっていうと、
なんか一人でやることをやってみたかったんだよね。
僕は。
一人で声でやることにやってみたかった理由として、
喋る練習がしたかったの。
なんかその、やっぱり、
そのー、
あ、言ってたね。
そのフィラーとかさ、入っちゃうのはあるし、
なんか僕の話っていうのは、
なんか苦点が打たれない。
ずっと喋っちゃうから、
単的に喋る練習をするためには、
シャドーイングじゃないけど、
なんかこう、自分だけで喋るっていうのをやって、
そこで自分で組み立てた文章を書くように喋るってことが、
できたらいいなっていう風に思ってたわけ。
なんですけど。
なんか、
結構無理そうだし、
まあいや、練習すればできたかもしれないけど、
その練習苦しいし、
何よりね、あなたにね、あんまりそうやって、
楽しそうじゃないし、
あんまり可愛くないってあなたに言われたのが、
もうなんかね、
やる気なくした、そこで。
だって夢に見たんでしょ、あなた。
夢に見た。
夢に見たのはちょっと別なんだけど、
僕今さ、週刊読書人でね、
文芸辞表っていう、
月に1回、
毎月出てる文芸誌の小説を読んで、
それについて評価するっていう、
お仕事をしてるんですけど、
なんかね、
それの編集者の人が、
なぜかあなたになってて、奥さんになっててね、
奥さんがなぜかその週刊読書人に勤めてて、
僕の辞書についてボロカス言うっていう、
フィードバックしてくるっていう夢を見たんだよ。
で、なんか、あなたのいいところは、
可愛げだけなのに、
可愛げだけで他の、
欠点は見逃してあげようみたいな感じになるところが、
で、かろうじてこういう媒体に載せてもらっているのに、
なんかそこを自覚しないで、
なんか可愛げすらなくなってしまったら、
もうあなたただの、
愚図の素人ですよね、みたいな。
なんかわざわざそんなの掲載する意味がわかりませんみたいなことを、
ダメ出しされて、
没を食らうっていう夢を見たの。
めっちゃショックで。
でも今、
改めて聞いたら、
それに近いこと言ったことあるね、私ね。
うん、あるよ。
普通にそれはクライアントワークとして。
そう、あるよ。
あったわ。
あるよ、だから。
演劇やってた頃にそういうことあなたに言われたからね。
私がスタッフで雇われてて、
あなたは主催だったから、
あなたが決めてくれないと、
こっちは何もできない。
で、
そういう根回しというかね、
情報共有が苦手なのは、
まあ知ってて受けてるから、
いいんだけど、
いいんだけど、それによってこっちの負担が増えてるっていうことは、
自覚して、
それを愛嬌でね、
シャンシャンにしてやろうというスタンスで、
こっちは受けてるから、
せめて愛嬌、
って言われたじゃん。
愛嬌がなくなる芝居ならやめちまえみたいな感じだった。
っていうのを言われて、
そこで別に、
僕はね、もともと演劇やってた時は、
割と僕は、これはデトロメタルシティの受け売りなんだけど、
自分のお母さんにね、
いい感じねって言われる芝居をやりたいっていうのをコンセプトにして、
芝居をやってたわけよ。
それはなぜかというと周りが割と、
親が見たらどんな顔するの?みたいな芝居をやってたから、
露悪的な芝居をやってたからこそ、
僕は別に、
福祉とかないですけど。
両親にいい感じねって言われるような芝居をやるわ、
っていう方向でやってたんだけど、
それで言うと僕の今の原動力は、
奥さんにいい感じねって言われたい、
なんだなっていうことにね、
気づいちゃったんだよ、この前この録音の時にあなたに、
なんか全然楽しそうじゃないし可愛くないって言われて。
だからもうルールとか、
ルールとかいい。
可愛いでてっぺん取る。
いや可愛いも別にね、
みんなにとって可愛いじゃなくて、
あなたが面白がってくれないものを作ってもしょうがないっていうことにね、
気づいてしまったからね。
ずっとそうだよね。
ルールは大事なんだけど、
ルールっていうのはなぜ大事かっていうと、
そういう別のとこにモチベーションを作るっていうことが大事で、
ビジュアル系バンド文化と2.5次元舞台
ルールの代わりになる人がいるんだったら、
その人の方がルールより大事というか、
その人がルールになるっていうことなんだよね。
なんとも言うけど、僕は割と恋愛の的なところがあるからね。
別に恋愛に限らずだけど、
だいたいこの人が言ったらそれっていうのになりがち。
それをある程度抑制するためにもルールというのは本来大事なんだけどね。
そうだね。
っていうのはあるんですけど、
今回に関しては別にそっちでルールを優先するほどルールにインセンティブがない、
ということでね、さっさと前にして26分喋りましたけど。
そうなんだよね。
っていう感じです。
そうだからなんかちょっと責任を感じるよね。
あなたがダサくなったら僕はもうダサくなる。
だってプロレスとエステの話ばかりしてる。
プロレスとエステの話はダサくないでしょ。
でもさ、
でもさ、
プロレスとお嫁生活が好きな人にとってはさ、きっとさ、
なんかおしゃれな丁寧な暮らしからどんどん遠ざかってるみたいなさ、
心があるんだろうなって思うんですけど、
ここで無理矢理接続しますよ。
さっき40分聞かされた話のアンサーをね。
そうだね。
40分2本だから、
1本で40分だったわけじゃないけど、
ラッセンの話と携帯小説の話の本をね、
1冊ずつね、紹介して、
計40分だったわけだけど。
これはリッスンを聴いてくださいな。
聴いてください。
だからそれを踏まえてなんで、
聴いてない人は一回リッスンの方に行ってもらって。
あれか、リッスンでもポッドキャストも聴けるのか。
そうだ、リッスンでポエテ・グラジオを聴いてる人も多分いるから。
はいはいはい。
じゃあ一回止めて、
声日記の方を聴いてもらった体で話しますけど、
最後携帯小説のところでさ、
ハイメズ・ケンローさんの携帯小説的ね。
批評の側が追いついてないんだと。
そういう保守的なことをずっとやってると、
どんどん先細りになっていくんじゃないかな、
っていうところで締めたじゃない。
それで言うと、私はずっとずっとっていうのは、
小学生ぐらいから自分の趣味が、
趣味が悪いと自分で思っているわけではないが、
どうにも私の趣味というのは、
マスじゃないらしいということに、
それなりに抑圧を感じて生きてきた。
でそれをもう自重的に、
私は悪趣味だからっていうことで、
まず話題に上がるのを避けてきたっていうスタンスがあり、
でそれをね、怖くないよ怖くないよってされた結果、
一方に一回エーステの話をするみたいな人間になっちゃったわけだけど、
で、
なんかそれもそうだし、
あと今リフォームのことをずっと考えてるわけ。
で私は148センチしかない。
まあ低身長よね。
でなると、薄々知ってたの。
あの職場で、だから成人男性の企画に合わせたオフィスデスクで仕事をすると、
すぐカラーがバキバキになるし足つかないし、
なんか世は私に合ってないなっていうのを思ってたけど、
それは趣味に関してもそういうことなのかなって。
で、だから別に私はこんな、こんななんていうの尖ったかっこいいものをわからない、
世はバカだみたいな考え方は全然ないんだけど、
別にこれがみんなにもてはやされてたら嫌だなって思うし、
チケットが取れないライブや舞台を基本的には忌避する傾向があるので、
そこそこ埋まっててそこそこ盛り上がってるけど、
チケットの争奪性の心配をしなくていいぐらいのカルチャーが好きなわけ。
で、それってものすごく豊かじゃないと存在しえないんだよね。
必ず財産が取れるというものしか生き残らない世界っていうのは、
それこそ叫ぼうそれしているから。
で、だからマスじゃないこと、ポピュラーではないこと自体は全然気にしてないんだけど、
なんとなく自分の好きなものを後ろ暗く感じるっていうのは、
それこそ批評が、批評の目が行き届かないものを好みがちであったっていうことと表裏一体だし、
あるいはそういうものを愛好するファンたちが言葉を持たないっていうことの罪だなっていうふうに思って話を聞いてて。
ゴールデンボンバーのネタ化
だから具体的に言うと、ビジュアル系と呼ばれるバンド文化、
ないしバンギャーという生き物たちと2.5次元舞台が、
わかりやすく私にとってそういう、ちょっと気軽に聞かれてもこれを言っても、
どうせめんどくさいことになるから言わんとこみたいな趣味なわけなんですけど。
だからさっき携帯小説的の話を聞いてて思ったのは、
その前にラセンでベタとメタとネタっていう話をしてたけど、
なんかゴールデンボンバーって偉いのかもって思った。
でもそれはそうだよね。ゴールデンボンバーはまさにそこに対して非常にバランスを取っているよね。
別にさ、やたらか恋人が死ぬとかさ、あの丘ってなんだよっていうことはさ、みんな思いながら別に聞いてるわけ。
そのビジュアル系によく出てくる歌詞に対して、
いや別にそれはさ洋楽の歌詞和訳したらがっかりするみたいな話じゃんっていう感じなわけさ。
でもそれに対して、なんだろうな、それはベタっていうことじゃん。
でもそれをメタ的に解析してネタ化する人っていうのがあんまりいなかった。
まあいたけど、なんか拒んじゃねえみたいな感じでさ、大当たりする人がいなかったから。
で、ゴールデンボーマーがやったのは、なぜかめめしくてかばっか受けしたおかげで、
その参考を成立した状態で、かといって別に本人たち、というかキリュウインは武器好きだから。
観光大使みたいなもんよね。
ちゃんとリスペクトがあった上で、それをネタ化して、
バンギャル文化も含めて、なんとなく間口を広げたっていう。
ゴールデンボーマーのライブ自体は私結構苦手なんですけど、下ネタが多すぎて。
批評の向かう方向とメタの視点
でもキリュウイン賞の姿勢自体は割と好きだなっていうことはずっと思ってて。
だからゴールデンボーマーへの功労ってあるんだなって。
やっちゃうことは批評だもんね。
やっぱりああいう人がいないと、すごい内輪の文化って、
溝は深まれど、愛好されることが減っていくわけじゃん。
観光大使っていい表現だね。観光大使が必要だよね。
言ってみればヒャダインとかもニコ動文化の観光大使みたいなところがあったりさ。
って勝手にすごい腑に落ちてたんですけど。
でもそうなんだよ。実は内輪という意味だと批評文化も変わらないんだよね。
どこも内輪なんだけど、むしろそこの外側のものをどう取り込んでいくかということを、
それこそ本当は批評側がやるべきなんじゃないのっていう話なわけだよ。
携帯小説的はかなり昔の本で2008年の本だからね。15年経ってるんだけど。
例えばこの15年の時点でアドガキに何が書いてあるかというと、
携帯小説というのは非差別文化と考えてみようというようなことを書いていくわけで、
携帯小説というのは、郊外ヤンキー少女という現代社会における主演化されている、
特に批評的な意味では主演化されている人たちの非差別文化なんだよっていう話をしてて、
ここからちょっと引用すると、これは都市オタク少年というキーワードから思い浮かべることができるオタク系トライブとは
本書が取り上げるような浜崎歩美、ヤンキー系少女漫画、そして携帯小説、
これらをひっくるめたヤンキー文化の市場規模はオタク系文化の市場と比べても遥かに大きい。
浜崎のアルバムも携帯小説も再生期にはミリオン、そして一段落した今でも10万部以上の数字を持っている。
だがそれにも関わらず、批評の対象としては極めて軽んじられている。
多くのオタク論が幅を利かせている中、なぜかヤンキー論はほとんど出てこない。
この国においてはヤンキー文化全体が非差別文化なのだ、という書かれ方をしていてちょっと飛ばしますけれども、
批評は死んだ、批評が機能していないと言われるようになってもうずいぶん経つが、
そもそもの原因は批評の向かう方向が間違っているのだ。
間密を阻害すること、携帯小説を阻害することでしか自分たちの有意義をアピールできないところに現代史、純文学の行き詰まりがある。
批評はその延命策に追随するばかりだから機能しないのだ、というふうに書かれていて、
これはまさに今あなたが言ってくれたような話でもあるんですが、あるんですが、
一回ちょっと間違いしますね。
この本が2008年に出ているわけじゃないですか。
この後に表伝クリスチャンラッセンという本が出ている。
これが昨年の末ぐらいに出ているんですけど、
要するにこの本、携帯小説的に言われていたことは何かというと、
メタ視点にばかり構えていると、ベタなものの切実さであったり、
ベタなものの文脈を取りこぼしちゃいますよ、ということが語られていると言えるじゃないですか。
それはそうだ、と。
多分一定の人が結構なったの、この後、2008年以降に。
その結果何が起きたかというと、ラッセンがパチンコになったりする。
ヤンキー文化というものをメタ的に捉える、
批評的に確かにそういうのはあるよね、と言って取り入れるみたいなことをする文化自体は結構出てきた。
その象徴的な存在というのは何かというと、
桃黒だと思うんですよ。
桃色クローバーZは、それこそプロレスとアイドルとアニメみたいなものの結節点によって、
吉田豪とか、あれ?吉田豪だっけ?
あってる?
あってると思うよ。
あれ?デビルマンは吉田豪?
あれ?
それは永井豪。
永井豪か。いつもここからごちゃになるんだよ。
吉田豪で合ってたっけ?それデビルマンじゃなかったっけ?と思ってたんだけど、吉田豪か。
みたいな界隈として、アイドルとかを大真面目に語ることが恥ずかしくなくなった時期。
それまでのアイドルとかアニメって、そういう批評的な文脈にまだそんなに入らなかった時期。
大手を振って入らなかった時期があったはずなんだけど、今だともう別にさ、
それこそエロゲとかについても大真面目に語ることに対して何の手前もないと言って、若くなってるじゃん。
要するに批評的なメタゲームの中で、普通に安心安全な台座になっちゃってるわけですよ、アイドルとかっていうのが。
でね、桃黒はね、このね2003年のジャケットにラッセン使ってんの。
でこれがもうラッセンにとっては決定的に致命的なネタ化の行き着く果てだったんだっていう書き方がこの表伝クリスチャーラッセンに出てくるわけ。
だからこの形態組織的な時期に、その批評のタームに上げていくことがまず何より大事だと。
メタの地平だけで安住にしてないで、ちゃんとベタなところまで批評というものは見ていかないとダメなんだってことをやっていった結果、
ベタなパフォーマンスであるというパフォーマンス自体がなんかちょっと普通にやっていいものになっていった結果、
ラッセンのネタ化みたいなものが桃黒的な方向で進行していってしまって、
それは要するに全てがネタになる世界になっちゃったんだよね。
ゴールデンボンバーとか岡崎太夫とかもそうじゃない。
結局そのメタの批評的な目線をどうアウトプットするかというとネタ的にしかアウトプットできない。
全てを結局冗談めかしてネタとして消費していくようなあり方しかできないってなってくると、
結局それはやっぱりベタに本気ではないんでみたいなエクスキューズになっちゃうわけじゃない。
その外し方がやらしくねみたいなことを今この表伝クリスチャーラッセンで語ろうとしていることだと思うわけですよ。
自体がより進行しているというか。
メタとベタの対立っていうところから、
お前らちゃんとベタから目を離すなよ、目を背けるなよっていう話を形態小説的に2008年にしていたとすると、
携帯小説とヤンキー文化の批評
2022年、2023年の段階で原田雄貴は表伝クリスチャーラッセンで何をやろうとしているかというと、
メタとベタのゲームからネタ的に逸脱して安全圏にいるみたいなあり方で、
冷笑的に振る舞うことっていう事自体が違くねみたいなこと。
ちゃんと人生にベタに設置しようぜっていうことをやりつつ、
そこにきちんと設置するためにはむしろメタ的なものも必要になってくるんだよ。
ネタでごまかすなよっていう話をしていくわけだよ。
それは非常に実感的にわかるという感じがしてね。
絶妙なの、携帯小説もラッセンも。
モモクロはネタ的に語る人がなくなっているわけじゃなくて、
アニメとかもアイドルとかも基本的にネタ的に誤魔化さずに語れる、
非常的にも安全なものになってしまっているけれども、
それについて語るとした途端に舞いを潜められるようなものについて、
ちゃんとベタに語るってところが一番大事なことなんじゃないかっていう風に僕は思うわけですよ。
それでいうと、今僕らの共通の趣味である天語はちょうどいいと思う。
で、プロレスはだからそういう意味だけどね、結構もうすでに蓄積があるからうるさがたたちが語っている原説がある。
でも今のプロレスってそんなに語られないでしょ。
今のプロレスと天語は多分ね、ラッセン的なものとして我々は同じに語れる場所なんじゃないかな。
安全権に乗るトリガーはやっぱり経済的なインパクトなの?
いやー、なんなんでしょうね。
経済効果のないものを批評に値しないみたいな基準がある?
いや、むしろ経済的なインパクトがあるものの方が軽んじられてきた経緯はあるわけだよね、
経済小説的にもそうだけれども。
だって批評というものは文学においては文学にだけ適用されていてさ、
経済小説には適用されないみたいなところがずっとあるわけだから。
だからどちらかというと何かの批評的な界隈に取り込まれているか取り込まれていないかみたいなところだと。
クラブに入会しているかしていないかなんだと。
で、それはじゃあなんでその言説空間の中に取り込まれるか取り込まれないかが決まるかというと、
素朴に言葉を持っているオタクがその界隈にいるかどうかなんだと思うよ。
そもそも孤立している界隈のオタクは別に言葉にすること自体はできるのかもしれないけど、
言葉にし方が内向けの言葉だからダメなんだと思います。
そういう意味で言うと。
そもそも共通の語彙を使って特殊な世界について語るっていうのが本来の批評の役割だと僕は思うので、
そこをそもそも外側から見たときにどの語彙が通用してどの語彙が通用しないかっていうのを見極めができてないと、
もうそもそも共有できなくなるよね。
だからベタの人がベタの地平のまま語るっていうのは難しいってことじゃない?
ベタの人たちがベタの地平のまま語ること自体はできるかもしれないけど、
それは他の人にとっても伝わらないってことじゃない。
だからベタなまま語るためにはメタのテクニック必要なのは間違いない。
メタがないことがカルチャーの一つの要件に含まれている場合、
その内部から批評的な言葉が発生するのは極めて難しいということだよね。
結局文化人類学的なアプローチをされざるを得ないわけじゃん。
非差別文化へ分け入ったっていう。
外から留学して馴染んで、どこまで染まるかはあれだけど、
一回そこからメタに引いて語るわけじゃない。その留学生はね。
そこからちゃんとうまくいくのかっていう。
だから批評の生まれる場所っていうのはどこかっていうと、
その作品とかそのパフォーマー自体のことはすごい好きだけど、
その界隈のことをどうしても好きになれないみたいな人たちから生まれてくるんだと思うんだよ。
身に覚えがあるね。
やっぱりね、馴染めない。馴染めなさからしか始まらないと思うんだよ。
だからメタな視線っていうのは、やりたくてやってるわけじゃなくて大体の人は。
そもそもメタ100%で没入できないなっていう、なんかうまくいかないっていう気持ちから、
なんか疎外観から始まっていくもんだと思うんだよ。
そもそも外側からの批評を必要としないくらいの市場規模のものっていうのは、
メタの没入だけで別に経済が回るから、
わざわざそこで外に出す必要なくなるっていう話でもあると。
だからやっぱり僕らは、今年に入ってから新日本プロレスにハマっているけれども、
多分東京ドームや高楽園が毎回毎回もう超満員になるぐらいの新日本プロレスにハマれたかっていうと、
多分微妙だと思うんですよ。
今の新日本プロレスだからハマれた一番の理由は、まだ満席になってないからだと思う。
要するにまだ席が空いてる。その席を一つでも埋めれるかもしれないっていう気持ちが、
じゃあここにまだアクセスをしていないけれども、一度知りさえすれば、
この席に座るであろう人たちってのはどういう人かっていうことを考えて言葉をつくすわけですよ、こっちは。
意味もおせっかいにも、余計なお世話として。
この言葉のつくし方のモチベーションっていうのはまさに、
今の現状と自分たちの思っているものとのギャップっていうところから始まっているわけだよね。
っていうことだと思いますわよ。
さらに言うと、今のプロレスを見ている人たちよりも、
僕らと同じような楽しみ方ができる人っていうのはもっといるはずっていう気持ちで言葉をにするわけですよね。
天吾とかもそうです。若い男の子たちが可愛い以上の感想をもっとちゃんと見たいからこそ、
もっと演劇として見る人たちの数を増やしたいみたいな気持ちが。
演劇なのになんで演劇の見方をしないのか、すっごい不思議なんだよね、ずっと。
ユリイカの2.5の特集がものすごいつまんないわけ。
あれクッソ最低だった、特集。
結局面白かった論考は、鈴木裕樹と村田光の対談とシャトナーさんだけだったわけ。
マジでさ、客側、プレイヤーの側の話が面白いのは当たり前なんだよ。
批評のアクセスポイント
観客側がちゃんと面白い話をしろよって話なんだよ、これは本当にさ。
急に怒りだしたけど。
あんまり見たことないけど頼まれたから書きましたみたいなね。
そもそもリスペクトがなかったけど。
あれはね、最悪だったね。
なんだろうなってなりましたけど。
本当にさ。
凄いあれのシャトナーさんの温度感はめっちゃそうなるよねっていう。
なんかこう丁寧に演劇側から今2.5っていうものが何をしようとしているかを説明した上で、
別にアニメ原作だからとか関係なく普通に演劇としてやってるよっていうことがもうちょっと伝わるといいなみたいな話を多分してたと思うんですけど。
いや本当にさ、だからそれで言うと本当にもうさ。
っていうか別に歌舞伎も宝塚も散々やってるじゃんっていう。
本当にさ、天後の仕事をしたいね僕は。
書き物仕事としては。
あの、てかなんか、なんていうの、まともなやつがない。
てか天後とプロレスについて、ちょっとちゃんと真面目にパフォーマンスや演劇として真っ当に扱って称するみたいな仕事をちゃんとしないとダメだと思う本当に。
ラッセンみたいになってるよ。
今すぐ氷田クリスタンラッセンみたいな仕事を2.5次元舞台にするべきだと思います。
ラッセンになっちゃうの?
ラッセンになっちゃうよ。
それは困る。
それは困るけど、でも多分プロレスってラッセン。
プロレスは長らくラッセン的なものではあったでしょうね。
だって橘隆がさ、プロレスっていうのはさ、なんだっけ、心性と知性が足りてない人だけが見るものって。
同時に欠如しているものが好むものみたいなね。
同時に欠如しているものが好むものみたいなことを言ってたらしいからね。
でもそれもプロレスが人気だっただけの話でさ。
プロレスの人気が下手になってからはもう大丈夫なわけだよ。
天吾とかもこのままだと評価されるのは廃れてるからだよ。
だから今、天吾が評価されてるのかされてないのかわからないんだよね。
だから市場規模としてはされてるわけでしょ。
だからまさに携帯小説とかラッセンとか同じような規模のものとしてあるんですよ。
でもね、そこで売れてるからいいじゃんってダメなんだよ。
売れてるかどうかの話ではなく、評価されてるかどうか。
今あなたが言ってる評価されてるってのは批評的な意味で評価されてるかって言うんでしょ。
でも市場としては評価されてるわけじゃん。
だからそこの軸は全然違うものでさ。
ベタに経済的には評価されてるっていうので別にもう満足してるわけでしょ。
分かんない。満足してるの?
知ってなかったらもっとまともな記事を出すでしょ。
いやだからそもそも演劇の記事というものがさ、どこで誰がアクセスするのっていう。
まず前提で言うと今ここまでの話、批評が権威を持ったものとして話してるけど、
批評というものに誰がアクセスするのよっていうところはずっと疑問なのよ。
それはね、悲しくなる話だな。
なんかその分断とかさ。
でもとりあえず既存の批評みたいなのについては別に僕もどっちでもいいから置いとくわ。
批評の市場というものがどんだけあるか、今実態としてどんだけあるかって話は別にしてもしょうがないかしないけど、
潜在的に批評が求められてるのは間違いないと思うんですよ。
じゃなかったら、ツイッターであんなにソースも不明瞭な、よくわからない、知ったような口を聞くツイートが定期的にバズったりしないでしょ。
なんかそのゲームの考察とかさ、今考察と言われているものたちがあんだけ求められてるのは、
あれは要するに潜在的には批評というものへの欲望だと僕は思っているんですよ。
それはそう思うの。
それだけを考えてる人が繰り出すすげえ蛇文の方が、
ひらめいちゃったから書いてるみたいなものより面白いに決まってるけど、
存在してるはずじゃん。おそらくは。物によっては。
批評の検索方法
それをどうやって見つければいいの?
どこにあるの、それは。
論文な?何な?雑誌な?
スバルとか読めばいいの?
でも真面目な話は文芸師がやればいいと思う。
だからどこでそういうものが読めるかわからないから自分たちで。
いやいや、どこで読めるかわからないからっていうか、どこにもないからだよそれは。
じゃあどこにあるの?
ないんだよ。
じゃあ今までずっと話してた批評されてないの。
アイドルとかアニメは批評されてるっていう、批評されてるの。
アイドルとかそういうのはいくらでもあるじゃん。
それこそさっきのユリイカもあるしさ、文章もあるしさ、吉田豪の記事もあるしさ、いくらだってありふれてるじゃん。
だからそういうの読まないもん。
それこそそういうものに興味を持って、今月のユリイカは興味がありそうって思って買うと毎回がっかりするわけじゃん。
それはユリイカが悪いよ。
でしょ?ユリイカは悪いでしょ?
でもユリイカはちゃんと批評の入り口がわからない人にリーチするようなお題を持ってくるのは偉いと思うわけ。
中身が伴ってないことが多いだけで。
でもその先がないの。だから。
じゃあユリイカで満足しなかった人は何を読むの?
ユリイカに寄稿してる人で検索すれば色々出てくるよ。
ハズレばっかなのに。
その寄稿してる人の中でいい人がいれば。
だってシャトナーさんしか納得できなかったんだよ。
それはないってこと。そんなしないってことじゃん。だからやっぱり。
早かった。ユリイカ早かった。
ユリイカ早かったんだよ。
ユリイカにたまにはまともなやつがあって、そのたまにあるまともなやつから探していくのが一番早いよ。
ユリイカだったらね。
ユリイカ以外は何があるんですか?
ユリイカ以外は地道に本屋で探しなさい。
それは短調を出せる人ってこと?
短調を出せる人が一番早いよね。
でも短調が出せるような規模にまでもうすでに受け入れられてたらさ、そもそももっとまともになってるだろうって話ではあるから。
そもそも短調が出るところまでどうやって盛り上げればいいのかとかそういう話は僕にはわからないよ。
だからその存在は知っている気がするが、
というかなんとなくそこの素性に挙げられているとカルチャーとして認められたみたいな気持ちになるものが批評であり、
実体を感じられないものが批評だと思っているからまさに権威だなって思う。
いやでも批評した意味だと今あれだよ、文芸師だと文章とかが一番強いですよ。
あれもだって小説よりも批評なんかめっちゃ載ってんだもん。
でも文芸師って言うよね。
文芸師って批評は文芸だからね。
文章に載っている批評はさ、文芸の批評だけをするの?
いや、だってあれだよ。
なんでもするの?
あれだよ、安倍晋彦さんのジムに踊る人々とかも。
あれはだからちょっとエッセイ的な景色でもあるけど批評ともいえる文章ですが、
あれとかは文章だからね。
文章を読むというものについてだけでも書けるみたいなのがワクワクする話だよね。
だからなんかやっぱりアイコンが必要なのかな。
演劇だったら細胞先生を呼んでおけばいいとかさ。
でも細胞先生もすぐいるね。
でもだから細胞先生以外でさ、知らない訳私は演劇について喋ってくれる人。
安倍晋彦さんとか。
交通事故的に知ってるだけじゃん、ツイッターのおかげで。
検索、情報へのリーチの仕方がわかんない。
なるほどね。
だから批評という壇上において天皇が評価されてるかどうか、
批評の文化資本
訴状に挙げられてるかどうかすら知るすべがない訳。
でもそれ知るすべがないぐらいのところにしかまだないのはないのと一緒でしょ。
いやだから多分他の題材でも同じことが起きるの、私にとっては。
それは起きないと思うけど起きるの?
全然違う話な気がする、それは。
批評に限った話じゃなくない?今のあなたの話だと。
ググれかすってこと?
いやマジでそれ。
ググれかすっていうか、ググって出てくるものかどうか置いといて、
検索というのは別にウェブにおける検索機能以外にも色々ある訳じゃないですか、
論文だったら参考文献からさ、調べていくとかさ、
著者名だったりさ、歳人に入ってて論文検索するとかさ、
あらゆる参照項っていうのは、
一つのドキュメントさえ見つけてしまえばそこからの相互リンクっていうのは
見つけられる筋道っていうのも作られている訳じゃないですか。
そこにアクセスしないみたいなのに関しては、
いやだってそもそも検索してないんだからそうじゃんとしか言えない。
まず大事としてね。
そもそも検索の取っ掛かりになる最初の取っ掛かりすら見つかってないんだけどっていう話に関してはまたちょっと別の話で、
それは確かに批評というものが一つ、
初めのアクセスするポイントっていうのはどこで出会えばいいのかっていう問題は
すごい大きな問題だし大事な論点だと思うんだけど、
でもそれぶっちゃけ批評に限った話じゃなくねっていうか、
なんならそもそも舞台を見に行くっていう時に最初の一番初めにどの舞台を見に行くみたいなのって
誰がどうやって決めてるのみたいな話って、
たまたま親が連れてってくれてたみたいなそういう文化資本を持っていないような中で、
いきなりぽっと何か見てみようって思って何見に行けばいいかわからない。
その初めの一歩ってどうすればいいのっていう問題と別に同じ話だと思うわけ。
そもそも僕は批評あれこれ読んでるからこういう話ができるけど、
これは別にそれだけの話というか、
もうすでに検索できるだけの文明が持ってるってだけの話で、
そうじゃない人から急にどこから言い換えるかわからないからそれは違うよって言われても意味わかんないわけだよ。
それこそだからあなたはVK好きだっていう時に、
あなたの中でもそのVKの中でもレイヤーとしてこのVKは自分にちょっとピンとこないけど
これは来るみたいなのがわかってるわけじゃなくて、
分かんない人から10%買いにVKとかよくわかんないし何から聞くかわからないし、
そもそもどこからアクセスすればいいかわからない時点で意味はダメじゃないみたいなこと言われてもさ、
ダメじゃないとは言ってないけど。
は?ってなるわけじゃん。
割とそこは違う話だと思うよね。
だからそもそもないと思うよ。
やっぱり天后のまともな批評というもの。
そうか。
結論としてはね。
結論としてはね。
だからそういう意味でもないと。
じゃあ頑張って。
もっと現れた方がいいと思うし、それをやれるのは僕なんじゃないかって思い始めた。
頑張って。
このポインティックラジオね、誰が聞いてるか知れませんけど。
誰かいない?編集者の人。
僕にチケット代出してくれたら、全ての天后レビューするよ。
取材費出してくれるんだったら、別に正直ちゃんとギャラ出さなくてもいいから、
その代わり原作の漫画全巻買えるだけの取材費はいただいて、
原作全巻買える取材費と、舞台を2,3回見れるだけの取材費を合わせていただければ、
それだけで10万円くらいになるけど、
いただければ僕何だって書けますよ。
ゆくゆくはだから僕ちょっと天后についてあれこれ書いて、
シャトナーさんにインタビューとかしたいわ。
それこそさ、そういうのを今担ってるのってさ、スパイスの編集部の天后担当の人とか、
いくつか媒体はあるんだよね、天后の記事を載せてくれる媒体って、
そのうちの一個が急遽廃刊することになったんです。廃刊というか、更新しませんってなったから、
多分もう一人か二人がやってて、やめるんだなっていう感じだけど。
でもだから層が薄いというか、本当に数人で取材をしてるっていう感じで、
演劇のスタッフワークの重要性
別にそれ自体はさ、仕事のやり方としてそんなにウェブ記事なんて層が厚いわけじゃないですよ。
しかも今すでにある媒体っていうのはさ、必然的に切り口として既存のファンに向けて書いていくじゃん。
既存のファンに向けて書いていくってなったときに、フォーカスが当たるのが俳優になってしまうっていうところに限界があると思う。
その俳優が何も考えてないとかそういう話じゃなくて、むしろ実演者としての鈴木裕樹もそうだし、
他のインタビューで語っている人たち、それこそね、僕らは特にパフォーマーとしてすごい評価してるわけじゃないけど、
荒巻のインタビューとかも面白いもんね。ちゃんとパフォーマーが、俳優がきちんと演技というものについて
ここまで考えているんだっていうことに関しては非常に多くあるわけ。
俳優が語る演劇論は確かに充実してる。既にそれは。
それもだからそこに批評性がないかといったらないわけじゃないから、批評というものは何もないっていうのは確かに嘘かもしれないんだけど、
俳優目線ではない。この俳優目線ではないっていうのは、俳優が自分で語る演技論もそうだし、
俳優の演技について語る評価みたいなものもあるよ。それは。
でもそうじゃなくて、舞台芸術として総合的にそれを判断する視線っていうのは決定的に欠けているっていうところが何よりも僕の不満なところで、
だからさっき取材費として原作の全部買わせていただければって言ったけど、最悪僕は原作読まなくてもいいと思う。
天后に関しては。だからむしろ今、演出にインタビューするとしても絶対に原作との話しかしないわけじゃん。
それがね、天后において一つネックになってしまってる気がしてならない。そうじゃなくてもっと舞台表現として何をしているのかっていうところに
フォーカスを当てるっていうその力点の置き方が不在なんだって話を多分僕はしたい。
それでいうと、オーベロンっていう天后の映像スタッフを主に多くやっている映像制作会社があって、オペとかもやってるし、
松崎さんの現場はめっちゃやってる。他もめっちゃやってる。
天后以外もやってたりするんですけど、オーベロンが年一で自主企画やってるんだよね。
今までは自分たちの公演をやったりしてたんだけど、今年はスタッフフェスをやりますって言って、
池袋グリーンの下にあるベースシアターを一週間借りて、街沿わの各セクションのプロフェッショナルを呼んで喋ったり、ワークショップをやったりしますっていうのをやってて、
それのね、誰を呼ぶかが発表された時に各セクションに説明が一言ついてて、2.5ならではの現実ではありえないアクションを実現するたてしみたいな煽り文句がついてて、
その一個一個がね、すごい天后ならではのスタッフワークってめっちゃあるよねみたいな。
それこそダブルオーガンダムの舞台とかさ、どうやってモビルスーツやんのっていうのはさ、見た後だったらさ、やってたなーって思うけどさ、
たぶん原作ファンないし、あれが存在する前よね。ガンダムを舞台化してどうするの?バトルどうするの?っていうのをさ、みんなやってんだよね、各セクションが。
だからそれをね、ちゃんと各セクションにキャッチをつけてくれただけで、すごい今回楽しみにしてて、私は音楽、優さんと浅井沙耶香さんなので、これは行かなきゃいけないなと思って行くんですけど、結構他の回も気になってるので。
他の回どこが人気なんだっけ?アクションだっけ?
縦と正面が土曜日だったのかな?土曜日の末装がいきなり売り切れてて、それはどういうことなの?
梅坊だからかな?でも梅坊日曜日だよ、振付は日曜日。
そうそう、っていうので結構気になってるというか、なんかそっちからの課制、スタッフサイドからの課制はすごい良いよなって。
それは良いと思いますね。
てかもうスタッフワークなんだよな、演劇はさ。
てか多分天吾の各セクションがやってることって文楽のスタッフさんぐらいすごい多いと思う。
衝撃状のある程度どこ行っても潰しが利くというか、汎用性のある技術とはまたちょっと違うものを開拓してるっていうので。
新しい技術、革新がすごいたくさんある現場だと思うんですよ。
そう、だからすごい。それが逆輸入されてきたり、あとは少年射中とかわかりやすいけどさ、タイトルロールは天吾のお客さんのついてる子を連れてきて、脇をがっつり自分の劇ラインで固めるっていうことで射中を見てもらうっていうさ。
でまぁ射中の演出の森さん自体がすごい天吾の黎明期から関わってるから、そこでこうね、文化交流が起きるっていう形を取ってる劇団っていうのは結構あって。
だからなんかそれ、その流入の仕方はすごい小物ましいなって思うんだけど。
なんかね、それだけじゃなくて、もうちょっと、それで見る人を育てるところから。
いやこれはすごい大事な試みだと思うけど、やっぱりね観客側に欲しい。やっぱりだから岡田育さんみたいな人がもっとたくさん必要。
見るっていうのはすごいね、めちゃくちゃすごいことなんだよ。見るということに対してもっとねみんな真剣になったほうがいいなっていうふうに思います。このみんなっていうのは文字を媒体に載っける人たちを指している。
ちゃんと言葉を持つ観客というものをピックアップしていくってことをしていかないと、結局その内側からの、内側の論理だけを発信する場にしてもしょうがないからね。演劇っていうのはだって特に一緒に見てる人たちがいることが一番の大きな体験なので、そこの目をちゃんと文字にするっていうことを怠ってはいけないと思いますね。
今のスタッフの4月末から5月にかけての2.5次元ステージフェスティバル、池袋である。これはちょっと面白そうですね。スタッフフェスティバルじゃないっけ?ステージフェスティバルね。
ちなみにこの時、池袋の芸術劇場で無料公演とかいっぱいやってるから、ぜひはしごをすると楽しい。
池袋で演劇作品になっていくっていうね。でも本当にスタッフワークなんだよ。映画とか演劇っていうのは。僕演技力って言葉は結構嫌いというかさ、熱縁って言葉が嫌いなんだよね。
なんかわかるよ。
熱縁って何?
プロレスのことだよ。
ってか感情がどうのみたいな話さ、あれすごい嫌いで。
すごい嫌い。
なんか別にそういう本気で感情爆発させてるのが感動するんだったらさ、この前のニュージャパンカップの辻尾太ほど感動的なものはねえんだよ。
後藤もよかった。
後藤もよかった。
あの二人の感情。
あのニュージャパンカップの決勝戦は、熱縁っていうのはあれのことを言うんだよ。
そうだよ。
でも後藤男な気してたよね。
してた最後。
立ち上がれなくてさ。
っていうことなんだよ。本当に。熱縁が見たいならプロレスに行けっていうのが今僕の思ってることなんだけど話がそれたから戻すと。
演劇においての演技っていうのはね、だいたいスタッフワークでできてるの。
俳優部もスタッフないよ。
演劇における演技なんてだいたい毎回同じことなんだよ。
毎回同じことやるっていうのはスタッフワークなんだよ。
毎回同じことをやる中でアドリブというものが存在するけど、あれはちゃんと今日のマチネはここのアドリブで一回吐けてから戻ってくるのでマイク切らないでくださいっていう打ち合わせがあるんよ。
段取りと調整と臨機応変なその場でのリカバリっていうものが全てなの演劇っていうのは。
だからどれだけ熱印象がどれだけその人が演技がうまかろうが、その調整が全てうまくいってなかったらダメになるものなの。
だから一つのセクションにだけフォーカスを当てるっていう語り方がいかにダメかっていうのがまさにそこなわけですよ。
このポッドキャストで熱弁しましたけど、三宅翔の映画が素晴らしいのはあれは演技力が素晴らしいからじゃないでしょ。
あれはすべての段取りとスタッフワークがかちっとはまってて、俳優も一つのセクションとしてスタッフワークに徹しているからこそ素晴らしいっていうところが一番気持ちいいわけじゃないですか。
演劇もそういうところなんだよなっていうのを思いますし、それこそだから僕は熱をなす前に見に行ったね。
天の天外のブルザンジ事務所のデイニシスという舞台を見に行きましたけど、
僕は天の天外の作品さえ見れれば演劇はそれでいいんじゃないかとかちょっと思ってるところがあるけど、
なぜそれくらい思ってるかっていうとあれはまじでスタッフワークだから。
正直俳優たちは声出してるだけでいいって嘘なんだけど、みんな段取りでガチガチに決まってるの。
それぞれの俳優一人一人の良さみたいなところは二の次なの。
文字通りスタッフワークに徹した結果、こんだけすごいものができるっていうのが天の天外演出の素晴らしいところなわけじゃないですか。
だから照明と俳優が文字通り等価なんだよね。
すべてが舞台上でその舞台の装置から、舞台の照明から、舞台の音響から、舞台の俳優、すべてが等価に置かれていて、
すべてがきちんと自分の機能を果たすことによって出来上がるものとして提示されていて、
天の天外の作品の素晴らしさ
天の天外の作品っていうのは、僕はそこに毎回毎回最高だなって思うんですけど。
でも天外っていうのは結構似たところがあると思うんですよ。
もっとそういうところを評価していきたいよなっていう気持ちですよ。
はい。
僕としては今言いたいことは言ったかなって感じですが、どうですか?
私の意見は最初から変わってないので、最初から言ってます。
最初から言ってますね。
こういう感じですね。
デーニッシス良かったな。
え?
デーニッシス。
デーニッシスが良かったわけじゃない。
天の天外が良かったんですよ。
天の天外は最高だよ。
本当に最高だよ。
批評とグルメ番組の類似性
デーニッシスもさ、デーニッシスと言いながらデーニッシスじゃないのが良かった。
天の天外はさ、今のところさ、とにかく一回でいいから見てくれっていう気持ちになっちゃうけどさ、
これこそ言語化しておかないとさ、他の人にさ。
そうなんだよね。
それが、批評に素晴らしさがあるとすれば、文芸の批評は一回置いといて、文字では表現できないことを一生懸命文字にするっていう絵になるわけじゃない。
そうなんだよ。
でね、これがさ、面白くてさ、僕はさ、批評がすごい好きだったのとさ、
これはね、たぶんね、
これちょっとこの前誰かがツイッターで言ってたのかな?
批評ってのはね、
田舎で見る東京ローカルのグルメ情報みたいなものなんだよ。
あー、なんか見たかも。
僕も結構それ衝撃だったの。
なんか芸能人がさ、なんか美味しそうなもの食べる番組ってさ、
人が美味しそうなご飯食べてるのって楽しいっていう番組だと思ってたんだけどさ、
東京に出てくると全部知ってる土地になるんだよね。
ここから電車で何分のあそこじゃんってなる。
で、これ結構衝撃なの。
自分がアクセスできるんだと思ってないんだよ。
あの、東京以外のところでああいう番組を見るときっていうのは。
で、実際行くと、あ、こんのぐらいかってなっちゃうんだよね。
そういうテレビで紹介されたお店って。
でさ、東京の人たちはもうみんなそれ知ってるじゃん。
だから知らけるじゃん、だんだん。
だけどね、やっぱりね、批評っていうのは、まさにそういう田舎で見るグルメ番組みたいなところがある。
僕は批評で胸を熱くして、こんな素晴らしい傑作がこの世にはあるんだって期待した作品がいくつもある。
それがこの配信時代になってから映画とかすぐに見れるようになるわけじゃん。
見るわけ。
まあ、別に。
こんなもんかってなるんだよ。
でもここで、グルメ番組は一旦置いとく。
ここで批評との一番違いがあるとすると、
でも一緒なんだよな、グルメ番組は。
あんなに美味しそうに食べれるのと、こんなに面白そうにこの作品を再構成できるっていうのは両方同じことでさ、
自分はこんなに美味しがれなかった。
自分はこの映画からこんなに素晴らしい文章表現を再現できるほど何かを受け取ることはできなかった。
なんで自分は何も見れてないんだろう。
作品の面白がり方
自分はなんて味覚から受け取れてないんだろうって打ちのめされるものになるわけだよ、批評っていうのは。
だからある意味批評から想像、再構成する作品の方がグルメ番組を見てあれ美味しそうだなって思ってるのと同じように
何よりもめちゃくちゃに面白そうなものとして書かれてるの。
優れた批評において作品論っていうのは。
だからやっぱりこの僕がさっきリスンで紹介している氷田クリスチャンラッセンや携帯小説的を読むと
なんてクリスチャンラッセンの絵が面白そうなんだろうとか
なんて恋空って面白そうなんだろうと思うんだけど
多分実際それ読んでも面白くないんだよ。
やっぱりね、面白がれる人がいる。
面白がれるっていう才能をそのまま表現するのが批評の一つの良さだと思うわけです。
だからこの世界をこんなに楽しく面白いものとして受け取れる人がいるんだっていうことが一つの感動なわけですよ。
だから実は僕は批評原理主義というか作品自体のことはあんまり批評のための道具としか思ってないところがあるんだけど
そういう何かをどれだけいかに面白く読み解くことができるかっていうところが
僕は何よりも価値を置いているところで
それは演劇の観客も同じなんだよと。
だからこそやっぱり天后においてもそういう面白い見方をできる観客っていうのを増やしていこうぜっていうのが
今日の僕の言いたいことということにしたいと思うんですがどうでしょうか。
今まとめに入ったけど今のあなたの顔を見るとこのまとめはひっくり返されるんだろうなって思ってます。
いい話だなって思って。
そもそも2.5には原作に対する批評っていう側面があるじゃん。
そうですね。だから原理術と一緒なんだよ。
原作の原作物っていうのはみんなそうだったりする。
原作全部をやるんじゃなくてつまんだり伸びたりしてる。
ここを伸ばすことによってこのシーンをフューチャーすることによって
ここがすごい効くんだっていうそういうさを再現してくれること自体がさ
すごい批評原作の批評として面白かったりするし
この間衝撃的だったのは夜明けのすべて設定めっちゃ変わってるらしい。
それは君のトリアルタイルもそうだったんだけどね。
それはそれもさ一個の批評じゃないけどさなんかその核が変わっていなくて
その核をより伝えるために必要な装置であれば付けたり引いたりするっていうのがありな批評として
その二次創作的な原作物のアダプテーションっていうのはあるし
もう一個言うと一番わかりやすい批評者として
多分一番マウスにあるのは米津玄師なんだよね。
どんだけ考察や推しに対して思いを巡らせてきた男も
米津玄師にイメソン書かれたら負けるっていうさ
なんていうの面白がり方がさもう一個ネタとして出来上がっちゃってるじゃん。
でもそれは無から生まれたわけじゃなくて実際に
こんなにそれこそ推したんかとかさ二次創作とかしてきたのに
米津玄師のこの一曲に勝てないっていうさ
打ちのめされをさたくさん築いてきたからこそあるわけじゃない
だから別にそうたくさんあるんだよね批評というものはね
あるしあるしあるしそれは結構みんな馴染んでるの
そういう形のものには馴染んでるの
なんだけどそれはやっぱりねさっきのヤンキー的な話なんだよ
どういうことかっていうとヤンキーの世界って非常に批評に富んでると思うの本当は
どういうことかっていうとやっぱりなんか怖い先輩に向かって
ちょっとあえてバカにしてるなことを言っても大丈夫だっていう雰囲気を察知して
その場でちょっとその怖い先輩をいじって
怖い先輩からおいお前ってこづかれてへへって済んだ時に
その先輩に向かってこのぐらいちょけれる俺っていうところで
そのさ中でさ自分の地位がグッとちょっと上がるわけだよみたいな形で
芝居の評価と演出家の役割
メタ認知によってこうさ
差異のゲームが行われてるわけだよねヤンキーの世界では
でもさその感じっていうのは外から見ると別に何でもないわけ
なんか似たように見える怖い兄ちゃんたちがさ
なんか付き合ってるだけにしか見えないわけだよ
それを今みたいな形で外から外にも伝わるような形で
また起きている論理の流れっていうのを言語化して整理する人がいるかいないかな
でここが批評の役割でしょ
ヨネーズのやってることとかも外から見ると分かんないんだよねやっぱり
ただの歌詞にしか見えない
そうじゃなくてこれがなぜこのような再構成として優れているかというと
っていうことをきちんとそれまでの文脈まできちんとこう
あの一本数字を通した上で語れる人がやっぱり必要なんだって話だと
僕は思うんですよ
今したかった話と着地点間違えた
間違えたんだちょっともう一回やる
今のあなたの締めと同じことを言いたくて
要するに原作はピンとこなかったけど
舞台で面白かったり映画で面白かったりヨネーズの歌には響いたりするっていうのは
良い批評者の目を通して語られた作品たちなわけじゃない
それはこの携帯小説的とか表現クレイジーな話だよみたいな
まあこれを経てなおその語られている対象には特にピンとこないけど
その語り自体は面白いっていう面白がり方は存在するという上で
ヨネーズや各種演出家たちはそういうも足りるよねって
そうなんだよ
そういうことなんだなって思いましたって言いたかったのに
でも本当にそういうことだと思う
やっぱりそういう人たちが増えるとなっていくのは
やっぱりだからこの作品とかこの題材を通して
この人はどういうふうに世界を見ているんだろうっていうのが
気になるような書き手がやっぱりたくさん出てくるのが
僕としてはすごい嬉しいところなんだろうな
最終的に演劇を演出で見がち
この演出家だから見に行こうってなりがちなのは
解釈であったり世界観っていう言葉はあまり好きじゃないけど
世界の再解釈、再構成の姿勢や手腕が好きっていうところが
結局演劇全体のアート味にめっちゃ関わるからっていうことですね
そうですね
本当にその通りだと思います
なので役者で見に行って外れる気がちな人は
演出家欄をちゃんと見てください
あとは普通になんか外れたなって思ったときに
この人はこの作品の中でどのような
何を題材にとって何を見て
何をどのように解釈しているんだろうっていう見方をしてみると
多分自分の好き嫌いがはっきりしてくるというふうに思いますね
やっぱりダメな芝居
特に天后俳優界におけるダメな芝居っていうのは
見ていると自分
うちらが舐められてるんだってなる芝居多いからね
だから若い男の子にキャッキャ言うだけの
軽い客みたいな扱いの作品として
これ作ってんすねみたいなのが見えるような芝居も多かったりするので
そういうのに対してちゃんと舐めんなって言えるようになるのは結構ね
そういうところからかなっていう
演劇を通して世界を見る
ちゃんとそういう
なんかうまく言えないけど
すごい嫌だった
でも推しは頑張ってたみたいなとき
推しのブロマイドは買っていいけど
プロデューサーと演出の名前は控えといたほうがいい
そしてブラックリストに入れたほうがいい
本当に
その辺の実践は結構すでに蓄積はあるような気もしますけど
SNSを見る感じだと思う
だからそのSNSでそうやって注意喚起していくくらいだよね
なんか普通に会社の後輩が声優のほうから天狗見るようになったけど
なんか最初に見たやつがめっちゃ面白かったんですけど
その俳優が好きなのかなって思ったら次行ったら全然面白くなくて
何なんですかあれはって言われて
それは演出家で弾いたほうがいいっていうことを言ったら
はぁーってなってたから
多分一般
それこそ天狗で初めて演劇に触れるみたいな人にとって
演出家って何やってるかそれ知らないよねみたいな
それはそうだと思いますよ
っていうことを久々に感じた
あとやっぱり演出家に関しては
僕らは衝撃場的なところでやってたから
実は商業ベースに乗ってるところにおいて
要するに僕らがやってたのって
手弁当でまじで演出家が経営的なところまで含め
全部やってるようなところしか知らないから
プロデューサーとかそういうのが入ってくるときに
どの程度の意思決定のルートが違うのかみたいなところは
実はそんなに詳しくない
多分想像してる以上に演出の権限というのは少ない
だなっていうのは
あるんだけどね
わかるんだけどね
っていう感じですかね
ちょっと長くなっちゃいました
いやでも今日はいい話ができたんじゃないですか
はい
はいということで
ポイエティックラジオ
お相手は私かけないしょうこと奥さんでした
どうもありがとうございました
01:16:33

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