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こんにちは、吉村ジョナサンといいます。よろしくお願いします。
僕は、高校生向けの高校古典、高校で勉強するような古文、漢文ですね。
そういった古典についてのポッドキャストをやっております。
今のところは、例えば古文ってどういうものか、とか漢文ってどういうものか、
あとは古文や漢文のジャンルとか、あとは今古文の具体的な作品についての簡単な解説なんかを、
1回につき大体10分くらいですかね、それくらいで紹介しているっていうチャンネルをやっております。
数的にはまだそんなやってないんですけれども、
ゆくゆくはもうちょっと具体的な古文のテキストを使ったりとか、
漢文のテキストを用いて解説をしていくようなことも入れたりとか、
あとは背景になるような古典の学習についてとか、そういったことも紹介していこうかなと思っております。
僕自身はあまり文学の専門家ではないんですね。
古典文学の専門家とか漢文学の専門家ではなくて、
大学は教育学部で、一応ある程度触れてはいるんですけれども、
専門は国語学という、例えば方言とか、あとは言葉の変化とか、あとは文法の変化とか、
そういったことを主に扱うといっても、それもそんなに専門的なことをやってきたわけでもなくて、
基本が教育学部という中で勉強してきたので、さまざまな教科教育に関わることを中心にやってきたんですけれども、
その中でいろいろ学んだことというよりは、
その後、実際の現場で高校の教師を13年間勤めたんですけれども、
実際その13年間勤めた中で、あとはその後は、今度は塾の先生とか、それ以外にもさまざまな教育の機会がありまして、
そういうところで、主に国語を中心とした授業なんかも行っているんですけれど、
その中で、じゃあ高校生が学ぶべき古文とか漢文ってどういうものなのかと、
学ぶべきというか、どういうふうに学べばいいのか、そういったことをずっと考えてきたんですよね。
そもそも古文とか漢文って何でやるんだろうというのはあると思うんですよ。
もちろん歴史的な背景なんかもあると思うんですよ。
大義名文としては、やはりこの国語というものを勉強するときに、ある程度の昔の文章になってくると、だいぶ古文的だったり漢文的だったりするんですね。
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そうなってくると、さまざまな文章を読まなきゃいけない文章に向き合うというときに、
どうしてもそういったものへ触れていないと少し難しくなってくると。
逆に言うと古文や漢文に触れていることによって、例えば明治時代であったりとか、大正、昭和の文学だとか、
または現代の文学でも楽しめる幅っていうのはすごく増えますし、
あとは非常にこの物事の捉え方として、古文的、漢文的な文学なんていうんですかね、
そういう言葉言語的な感覚ってもので捉えることができるようになる。
そういった点も非常にいい点だと思うんですよね。
ざっくり言って、そういうさまざまな理由があるので、一応古文や漢文をやるということになっているんです。
そういう何で勉強するのかってことについては議論されて、それが学習指導要領という、
何を勉強するのかっていうところに落とし込まれていくんですね。
ただその大義名分とか何を勉強するのかっていうのも結構変わっていくんですよね。
その学習指導要領ってやつも10年に1回変わっていくんですけれど、
ただ変わっていくって言ってもいきなりガラッと変わるわけじゃなくて、
10年をかけていろんなことが議論されて、その議論されたことっていうのがちょっとずつ形になってきて、
10年に1回大きく名分化されるという形なんですよね。
ですから別にその10年に1回ガラッと変わるわけじゃなくて、
そこに至るまでいろんな話し合いだったり、議論というものが公にされて、
その積み重ねによって作られていくわけなんですよ。
中でもこの古文や漢文をどう扱うかっていうのはかなり変わってきている。
ただ議論がすごくされているかというと、ちょっとそれも難しいなというところなんですよね。
特になぜ学ぶのかと言われると、結構そのあたりが明確にはなっていないというのは正直なところなんですよ。
それに対していろんな回答はできます。
もちろん明確な大義名分とか議論の模様とかもあるんですけれど、
ただ個人的にはその名分化できないっていうのがまた古典の学ぶ意義なのかなと思うんですよね。
どうしてもとかくこの名分化できるっていうこと、ある意味では名分化できる、
何のためにするかが名分化できるっていうのは、言い方を変えると検証できるってことなんですよ。
評価できるってことなんですよね。
学習っていうのは評価できなければならないっていうのが一つの教育的なスタンスなんですね。
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例えば何かテストをやるとかいったときに何テストをやるかっていうと評価するためなんですよね。
例えば学習の目的があって、その目的が例えばこの単語の意味を覚えるとかいう意味だとしたら、
その単語の意味を覚えているっていう目的が達成されているかをペーパーテストで測るとか、
あとは自分で言葉で人に自分の気持ちを伝えることができるっていうことが目的であれば、
それを何か講堂での授業の行動なんかで評価するなんてこともあったりするんですよ。
だから多かれ少なかれ、あとはどんな形であれとにかく評価ってものを求められるんですけれど、
もちろんこれは科学的な立場っていうか、何か結果を求めてそれによってフィードバックしていくっていうこととか、
あとは何らかの数字数値化する、例えば成績とか点数とかいう数値化することっていうのをある意味では教育では求めているところがあるんですよね。
ただそんなことしなくてもいいんじゃないかというふうにも思うんですよね。
別に何かしらの評価ってものに落ち着かなくてもよいのではないかと。
もっと言うと理論だった背景とか目的とかがなくても学んでもいいんじゃないか。
そこに教育的な価値はあるんじゃないかっていうのが何となく今の僕の実感なんですよね。
もちろん検証するとかそういったことは大事なんだけれども、何となくそういうものによってそぎ落とされてしまう部分っていうのは多々あるわけです。
研究する上でどうしても教育学っていうものを考えたときに科学的な立場に立たなきゃいけない。
科学的な立場に立って、よく言われるように証拠とか評価っていうものがちゃんとある。
そういう状況で教育を行っていかなきゃいけないという説があるんですけど、やっぱり僕の中ではそれはあまり無理があるというか、
いや数値化できない部分はあるんですよ絶対に。
今この社会において大事にされることっていうのは、きっと数値化できない部分だと思うんですよね。
例えばお金とかってすごく分かりやすい数字だと思うんですよ、数値化されているもの。
そういう数値化されているものを大事にするっていうのは一つにあるんですよ。
だけどそうじゃないものも大事じゃないですか。
例えば感情とか気持ちとか、あとは人間関係とか、あとは何を幸福と思うかとか、あとは感性とか表現とか、
そういったものってもちろん数値化可能なんだけれども、数値化しようと思うと取りこぼしてしまう部分っていっぱいあると思うんですよね。
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そういったものを無理やり数値化してきたのが、ある種の教育の欺瞞というか嘘というか無理があったところだと思うんですよ。
そういったものによって取りこぼされてきたものの一つが、教育っていうものの中の古典なんだと思うんですよね。
一般的には古典の価値ってもっともっといろいろあるんですけれど、教育においての古典ってやっぱりそういうところがあるなと思うんですよね。
そういう数値化されている評価とか教育において、ある種の数字というものによって見ていきましょうという動きの中でそぎ落とされてしまっているのが、そういう教育の中の古典だと思うんですよね。
そんな中で、一つ指標となるのが、今回テーマとしては音声と古典というものなんですよね。
ポッドキャストにするっていうのも、基本的にはポッドキャストにしたっていうのは音声で聞けるコンテンツがあってもいいかなと。
視覚的コンテンツだけじゃなくて音声から入ってくるものがあっていいんじゃないかなということがあるんですよね。
もちろんこれもいろんな考え方があるんですけれど、僕自身が大事だなと思う、古典の言い口として大事だなと思うのが、文章自体、テキスト自体のことじゃなくて背景になることとか、概要なんですよね。
バックグラウンドなんですよ。
例えば、そもそも文学にジャンルってものを分けていると、それはどういうことなのかとか、古文ってものがどういったものなのかとか、漢文ってものはどういうものを指すのかとか。
あとは、例えば古文の中では物語っていうのはどういうものがあるのか。
あとはその物語っていうのはどういう意味を指すのかとか。
そもそもこの現代文で言う物語とは結構違うんですよとか、そういうことっていっぱいあると思うんですよ。
いっぱいあるんですね、実際。
そういったことってなかなか勉強できないんですよね。
ある程度の本とかテキストには書いてある場合もあるんですけれど、結構そういうところってあまり取り立たされないことが多くて、
特に僕が想定しているのは、学校じゃないところで古典は勉強してみたいと思ったりとか、
あとは学校で授業を受けているんだけれども、
その中でもあまり頭に入ってこなかったり、そういうものがあったんだけど、
それを全部あまりちゃんと勉強してこなかったから改めて勉強してみたいっていう人たちに対して、
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僕自身が今そういう対象の人たちに対してやるのはやっぱり背景とか前提的な知識なんですよね。
そういうものって全然時間かかんないんですよ、それを知るのって。
ほんと1分とか2分で大体のことって学べるんですよね、そういうことって。
例えば物語には作り物語とか歴史物語とかそういうものがあって、
いわゆる現代でいうフィクションのようなものにあたるのが作り物語ですよとかね、その程度なんですよ。
ただそれを知ってるか知らないからだけで、全然この文章の受け止め方っていうのが変わってくるんですよね。
そういうことがあるので、僕自身としてはそれをちょっとでもいいか知ることができればいいかなって、
そこから始めていきたいなと、そこだけをせめて学べるような、
そういう媒体があってもいいかなっていうのが1つのきっかけなんですよね。
その中で音声ってことに言って言うと、そもそも古典文学っていうのは確実に音声的だったと思うんですよね。
要するに音声で語りすがれていたりとか、基本的には音声で媒介される音声によって伝えられるものっていうのがベースにあって、
それを特別な例として文字になったものがあると。
その中のものがいろんな経過を経て、そのままじゃないかもしれないけれども姿を変えたりとか、書き写されたりとか様々しながら現代に残っているっていうのがいわゆる古典っていうものなんですよね。
ってなるとすべてが音声から必ず始まっていると。
現代文学だと必ずしもそうではないんですよね。
文語っていうと違いますね。文章の言葉ですかね。文章っていうものから始まっているものっていうのがいっぱいあるんですけれど、
古文や漢文ってやっぱり音声から始まっているので、とりあえず音声から入っていくというか逆に言うと、
音声っていうものを全く無視して古文や漢文を受け止めていくっていうのは不自然な感じがするんですよね。
ですから、音声から受け取っていくっていうのはすごく大事だなと思うんですよね。
少し回りくどくなったんですけれど、
僕自身がそういう古典について音声的に触れ合ったのがNHKのラジオで、古典を講読するラジオ番組が結構あるんですね。
で、その中でいろんな方が、アナウンサーの方とか俳優さんとかそういう方が音声にしてくださるものを聞いて、
なんかそれがそのままパッと入ってくるっていうものばかりではないんですけれど、
やはり音声になっているってことをまず意識すること、それを認識することによって古典ってものが始まっていくんじゃないかなと。
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古典があまりにも文字である状態っていうのだけで受け取っていこうとすると、どこか無理があるのではないかと。
こういったこともですね、数字的にというか検証しようと思うとかなり面倒くさいところではあるんですけれど、
でもなんか我々の感覚的に、やっぱり古典っていうもの、文学っていうものの中に音声的な魂というんですかね、
音声的な部分は非常に大きいんじゃないかなとは思うんですよね。
そういったところを踏まえて進んでいくというか、なんかこう音声を踏まえるっていうのが大前提にあって、
最終的には目標としてテストを受けてそれを読解できるっていうところに持っていくと思うと、
もちろんそこでは音声化するっていうことは必ずしも必要でないかもしれませんけれど、
やっぱりここの中で音声化することによってずっと読みやすくなるとか、
これはねやっぱりひらがなで書かれているかな文化であるあるなんですけれど、
やっぱり音声にしてみるとわかることって結構あるんですよね。
音声的に読むと、あ、現代の感覚と似てるなとか、そこにあるリズムとか、あとはその流れとか、
そういったものから受け取って理解できる部分ってやっぱあるんですよ。
っていうとやっぱりこの音声と古典っていうのは切っても切り離せないものだというのがまずそもそもあるんですよね。
でまたそのことを語る中で学ぶことっていうのもまた大事で、
まあ素読っていう文化がありますよね。漢文をそのまんま音読するんですよ。
まあ音読というのはここだ。要するに頭で意味を考えたり、内容を思い浮かべながら読むのではなくて、
ただ単純に読み方をほぼ丸暗記しながら、ただそれを音声化するっていう営みなんですけれど、
それがどれだけどんな効果があって教育的にどんな影響をもたらすかっていうと、
これってやっぱり研究としては難しいんですよ。もちろんそういう試みはされてますけれども、
まあ研究としては少々難しいんですけれど、ただそういった営みは大事なんじゃないかなっていう直感的なものによって行ってますね。
あとはまあどちらかっていうとこう自分の経験則っていうんですかね。
そういうところもあったりします。
まあもちろんそこにね、もうちょっと科学的な検証とかそういうものがあった方がいいっていう考えはもちろんあってもいいんですけれど、
まあそれはそれとして、なんかやっぱ音声大事だっていうことはあっていいんじゃないかなと思うんですよね。
まあなかなかそれはちょっと難しいなっていうこともあるかもしれないんですけれども、
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そういった意味でもこのポッドキャストでもありますけど、結構英語とか語学系のポッドキャストって多いじゃないですか。
そういったものもやっぱりなんて言うんでしょうね。
僕自身はあんまり好きじゃないんですよ、この語学系のポッドキャストは。
ただなんか結果的に英語の、まあ僕も英語そんなわかるわけじゃないんですけど、
英語で何かトピックスを扱ったりとかするのは結構ね、
まあなんとなく聞いてて面白いから聞いたりもするんですけれど、
まあそういったものじゃなくて、何て言うんですかね、目的的にというか語学の目的として、
それをこう、まあ音声をことさにぶってあげるっていうのはまあそんなに好きではないんですけど、
ただ古典っていうものをもっとそういう風に文学っていうものを扱っていくっていうのは、
まああっていいのかなというか、もっともっとあってもいいのかなっていう印象はありますかね。
まああると思うんですけどね、いろんな方がやられたりとかして、
結構個人的にはそういう、なんて言うんでしょうね、教養系のポッドキャスト好きで聞くんですけど、
まあやっぱり志なかばっていうわけじゃないですけど、あんまり継続しない場合とかも多いので、
あとはコンテンツ的には個人的にはやっぱりNHKのラジオっていうのがアーカイブもありますしね、
割と気に入ってるんですけど、ポッドキャストではもうちょっとこうそういうものあってもいいのかなっていうのと、
あとどうしても高校生向けとか初心者向けに対して、
あとその高校生が勉強する範囲とかも踏まえたいなって思ったんですよね。
というのは、少しマニアックなこととか、文学の本当にガチガチの文学ガチ勢からすると、
もっとこういうことが面白いっていうのはいっぱいあると思うんですけど、
それって高校の勉強の範囲で言うと、もうちょっと抑えておいた方がいいかなと思ったりはするんですね、個人的には。
なんかもっとその高校古典として勉強する内容って深くも大事なところはあるんですけど、
やっぱり基本的には非読というか、いろんな古文とか漢文とかいろんな文章とか文学作品というものが有機的につながっていく感じ?
なんか一つのコアなところにずっと深く深く潜り込んでいくことも時には必要なんだと思うんですけれど、
基本的にはもうちょっと浅いところをもっと広げていって、なんかこう俯瞰できるようにというか、
アニメ上に張り巡されて、これとこれがつながってて面白いなっていう感じのことを、
どちらかっていうとメインにした方がいいんじゃないかなとは思うんですよね、個人的には。
だからそういったレベルの調整というか、僕自身がそこまで文学の専門家ではないっていうこともあるので、
まあ程よい感じでレベルを調整したっていうかね、ある程度調整したものとして出せたらいいなっていうのが一つの出発点としてはありました。
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実際自分自身がどういうポッドキャストを聞くかっていうと、まず一つは古典ラジオさん系列ですね。
ですから古典ラジオさんから始まるような教養系、やっぱり教養系結構好きなので古典ラジオさん系列ですね、
例えばゆる言語学ラジオさんとかですね、やっぱり面白いわけですよ、私としては。
そういうものとか、あと少し前だとWeb3とかNFTとかそういう新しい技術とかそういったものについての方も少しハマってた時期もあるんですけど、
最近はそういうのは少しなくなりましたかね。
あとは音楽系ですかね、音楽って言ってもクラシック音楽ですね。
クラシック音楽が私すごく好きなので、そういったクラシック音楽に関わるもの、これ何もないんですけど、私が知っているのがあんまりないんですけど、
そういうものもなるべく聞きたいなと思っているところですね。
なかなかクラシック音楽っていうものを言語化するのが難しい世界でもあるので、難しいのかなと思ったりもするんですけどね。
あとは需要の関係もあるのかもしれませんけどね。
とかいうのを聞いたりはしております。
だんだんとエンディングに向かっていきたいんですけれども、今後の方向性としてはこのPodcast自体をなるべくコンテンツをどんどん増やしていくというか充実させていくのが一つですね。
このコンテンツ自体を単独で聞いてもいいようには作りたくて、なので今の段階で多くの人にパッと聞いてもらうというよりは、
ある程度コンテンツが揃った段階で勉強したい人が一気にこれで何か自分の必要なこととか、
あとは何か気が向いた時とかに流している時にちょっとコンテンツの勉強になればなとか、
勉強したくないなという時にBGM的に流れていればいいかなみたいな、そういうものに適していけたらいいなと思っています。
最初は音声というかBGMとか、あとは間に音を入れたりとかもしていたんですけれど、
ずっと流しっぱなしする上だったらひたすら音声だけの方がいいなと思って、
そうするとずっと聞き流せるし、切れ目もわからずいつの間にかずっと済んでいるというか、
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そういったものが僕個人も好きなんですよね、割と。
メディアリガルって終わった、次だとかそういう番組の楽しみ方をする時もあるんですけど、
雑談とか一人語りをずっと続けていくって、それをもうエンドレスでずっと流しっぱなしにするっていうのが結構好きなんですよ。
だからそんな形でやっていこうかなと思っています。
本当はですね、このポッドキャストをやる前に自分でただこういう感じの語りをずっとしていく、
そういう時もコテンだけじゃなくていろんな話題についてやるものもやってみたんです、ちらっと。
だけどなんか続かなくって自分の中で、僕自身がいろんなノートで文章を書いたりとか、
あとそれ以外にもYouTubeのチャンネルがあったりとか、いろんな表現をやってるんですね。
そういった中でポッドキャストでそんなにやることないなというか、
なんとなくそこでそれをひたすら続けていくっていうモチベーションがあんまりなかったんですよね。
それだったらもうちょっとテーマがあってそれに従ってやっていくっていうものをやりたいなと思って、
あと僕自身が勉強したいというか、やっぱり長年こういう仕事をやっててもなんか忘れちゃったりもするし、
あとは不得意分野があったりもするんですよ。
そういうところを補っていくことにもなるかなっていう、自分自身の勉強にもなるっていうのもあるので、
それくらいの積極性っていうかポジティブな理由、アグレッシブな理由っていうのがあった方がいいなということで、
今そんな風にやっているところなので、このままでとりあえずはコンテンツをどんどん増やしていくってことをやっていきたいなと思っております。
あとは自分自身もいろんな番組とかを聞いて、そこで得たものをこの中に活かしていくとか、
なかなかこの文学についても本当はもうちょっと勉強、そういう面ではしたいんですけど、なかなかそういうこともできないので、
そういうチャンネルがあれば何かこう知りたいなとか教えていただけると嬉しいかなと思っております。
一応この吉村ジョナさんという名前で様々な媒体があります。
NOTという媒体でいろんな様々なエッセス、そこではほとんどコテンとか全然関係ないようなことです大体はっていうものをやっていたりとか、
このポッドキャストにつながるものとして、インスタグラムとツイッターのアカウントもございます。
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そちらはあんまり活動してないんですけれども、一応そちらからいろんな様々なリンクも貼れるし、メッセージをいただくこともできますので、
そちらもよろしければチェックいただければと思います。
あとはいろいろですね、私自身も肩書きが様々ありまして、詩を書いたりとかエッセイを書いたりはもちろんなんですけれども、
それ以外に音楽の活動もしてまして、即興卓上木琴奏者としての活動、あとは作曲もしますし、中小学科ということで絵も書いていたりもいたします。
そういうこととかもやったりですね、今現役の学生もやってまして、久々に大学生にもなっております。
そこで心理学を勉強なんかもしてるんですね。
そういう形でやったりとか、あと最近ではダンスを始めまして、舞踏と呼んでますけど、踊りをやり始めましてですね。
いよいよ思って一体何者なんだ感が出てきてますけれども、そんな活動もしておりますので、
吉村ジョナさんで検索いただくか、ポッドキャストの方からいろいろリンクを貼っておりますので、そちらで検索いただければと思います。
ということで、非常にこの貴重な機会いただいてありがとうございました。
ぜひまたどこかでお会いできればと思っております。
長時間お聞きいただいてありがとうございました。