1. 千利休生誕5百年記念作品「茶聖あり」
  2. 第1話 秀吉の怒りか 三成の..
2022-05-19 08:59

第1話 秀吉の怒りか 三成の陰謀か 利休、突然の切腹【千利休生誕500年 第1部】

「その日、京都は雷鳴がとどろき、雹(ひょう)が降った」。天正19(1591)年2月28日、天下統一を果たした豊臣秀吉に仕え、茶の湯を究めた千利休が、切腹して果てた。享年70。堺の商家に生まれ、安土桃山時代の武将・織田信長、秀吉の側近として政治的にも絶大な存在感を示したが、秀吉の怒りに触れたという。

政治や武家に通じ、今に至る茶道を大成した千利休は今年が生誕500年になる。多方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引きつける「茶聖」の魅力に迫る。

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https://www.sankei.com/tag/topic/life_109/

                                                                                             

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政治や武家に通じ、今に至る茶道を体制した
千利休の生誕500年を迎えます。
多方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引き付ける利休。
その魅力に迫るシリーズ「茶聖あり千利休生誕500年」を
菅俊介のナレーションでお届けします。
第1部は利休にまつわる謎を紐解いていきます。
第1話 秀吉の怒りか三成の陰謀か
利休突然の切腹
その日、京都は雷鳴が轟き、兵が降った。
天章19年1591年2月28日
天下統一を果たした豊臣秀吉に仕え、茶の湯を極めた千利休が切腹して果てた。
去年七十、堺の松下に生まれ、
安土桃山時代の武将、織田信長、豊臣秀吉の側近として
政治的にも絶大な存在感を示したが、秀吉の怒りに触れたという。
鎌倉時代に中国から伝わった茶に善の心を取り入れ、
疾走な道具盾の中に美を見出して和美茶を大成させた利休。
精神世界に落とし込んだ茶の湯は、表千家、裏千家、武者の孔子千家が利休を祖として受け継いでいる。
秀吉の下で、床の間や壁など全てを金で飾った黄金の茶室を失らえたことで知られ、
茶の世界では名だたる戦国武将の死でもあった。
波乱の人生は映画やドラマにもなった。
平成25年に公開された映画、利休にたずねよでは、歌舞伎俳優の市川恵美蔵さんが利休を演じ、話題を集めた。
利休は魅力にあふれた人物だからこそ弟子たちが記録に残した。
そして伝説化していったと語るのは茶の歴史に詳しい滋賀県高架市にある美穂ミュージアムの鎌倉勲官庁。
中でも切腹については謎が多いと指摘する。
活躍していた利休の運命は一夜にして暗転する。
天宵19年2月13日、秀吉から堺への窒拠を命じられ、京都から追放。
26日に再び京都に誤送され、28日に切腹。首は市城戻り橋に晒された。
切腹の理由は諸説ある。
側近の立場を利用して茶器の売買で不当に距離を得たためという説もあれば、
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秀吉から娘を側室として求められたが断ったためという説もある。
最も有名なのが天宵17年12月に京都大徳寺の三門の上僧に祀られた利休像を原因とする説だ。
参拝の際に切腹の利休像の舌をくぐることになり、不損極まりないと問題視された。
熊倉さんは背景に秀吉子害の武将石田三成の政治的思惑があったとみる。
利休が切腹を命じられる前月の19年1月、秀吉の弟で利休の理解者だった豊臣秀長が病死した。
これを機に利休を取り巻く状況が一変したという。
秀長がいかに利休をおもんじたかを示す資料がある。
大友家文庶録に残る大名大友宗林に対する秀長の言葉だ。
内々の義は宗益、公義のことは宰相、存じ候。宗益とは利休の宝名。
内々のことは利休、おもと向きのことは私に相談するようにと秀長が語っているように、秀吉の下利休は秀長と並ぶ権力を握った。
秀長の死でいち早く動いたのが三つなり、利休を廃席して地位を固めようと、
一年以上も前の利休像の一見を持ち出して秀吉に懺厳したと熊倉さんは指摘する。
大阪城天守閣の北川博官長は切腹を命じた秀吉の心境に迫る。
利休は信長時代からの茶の師であり、秀吉にとって耳の痛いことも言う煙たい存在だったとし、現代社会に置き換えた。
二代目社長が創業者を支えた人物を愚とましく感じるのと同じなんです。
それでも謎は残る。なぜ秀吉は死まで求め、利休はそれを受け入れたのか。
茶の優を通じて秀吉の側近となりながら切腹を命じられた利休。
死を前にして一切釈明をしなかったと言う。その時の心境が今に伝わる。
人生七十利器一つ。我が此の奉献素物愚説。ひっさぐる我が恵愚俗の一つたち。
今この時ぞ天に投げ打つ。我が奉献で仏も一切合切を切り捨て、残った太刀も天に投げ打った。
天に投げ打った。との言葉はこの世に何の未練もない。来世で幸せにとの願いもなかった。
届くのは熊倉さん。利休の凄まじい覚悟が込められていると言う。
利休が死を賭してでも守ろうとしたものは何だったのであろうか。
秀吉の懐刀でキリシタン大名の高山憂子が秀吉から信仰を捨てることを迫られた時のこと。
死である利休に相談し信仰を捨てるべきでしょうかと話すと。
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それならあなたの茶は飲めないと答えたと言う。
切腹を命じられた利休は謝罪をして生きながらえても人々から利休の茶は飲めないと言われるのを恐れたのではないかと熊倉さんは推察する。
利休にとって茶の湯はまさに命を懸けたものだったのです。
利休の墓は京都大徳寺の儒功院にあり生れ故郷の堺にはかつて修行をした南州寺に供養塔がひっそり佇む。
利休は南州寺で修行をした経験を茶の湯に生かしたと南州寺の田島関王住職は話す。
利休の茶は神聖な茶室に入る前に身を清めることから始まる。
蝶酢鉢で手を洗い口をすすぐ。利休も茶釈や茶碗を清め茶室に香を焚いて花をいけ客を迎えた。
まさに仏の世界利休が茶の湯に込めた思いはこれしかないんです。
利休は小田原責めなど戦場でも武将にお茶を振る舞った。
一服立てることで彼らを無の境地にそして仏にしようとした。
だからこそ武将たちは利休に心服し人を動かす政治力にもなった。
秀吉はこれを妬んだんでしょう。
理不尽ともいえる切腹を命じられながら潔く受け入れた利休は後の世まで人々の心を揺さぶった。
お届けしたのは3Kポッドキャスト茶聖あり千利休生誕500年の第1話でした。
第2話は目利きの力で政治を動かす。
茶の湯を通じて信長、秀吉という天下人や戦国武将と深くつながっていく姿を覚えます。
なお3Kニュースでは文章、写真やグラフィックでお楽しみいただけます。
3Kニュース千利休で検索してください。
ナレーターは菅俊介でした。
3K新聞社がお届けする茶聖あり。
最後までお聞きいただきありがとうございます。
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