2024-08-12 06:30

電気通信の昔と今 ③ テレフォンカードのデザインは岡本太郎、でも本人は公衆電話を知らず‥

スマホなどモバイル端末が情報伝達の主流となり、メールやSNSなどさまざまなコミュニケーションツールが誕生しています、人間が言葉を持つ限り、1対1の音声通話は最も重要な情報伝達手段です。
また電報は、電話の登場以後も長らく緊急連絡に欠かせないツールでした。NTTの社名は今も「日本電信電話株式会社」です。
産経新聞に連載された「戦後史開封」を基に、電信と電話の昔と今を紹介します。案内役は落語家の柳亭市好さんです。

【原作】「戦後史開封」(「戦後史開封」取材班 /産経新聞社・刊) 
【脚本】芳賀由明(経済ジャーナリスト)
【番組制作】産経新聞社

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

戦後の日本において公衆電話の導入が始まり、その後テレホンカードが登場するなど、電気通信の進化と利用方法が変化しています。

公衆電話の導入と公衆電話時代の電話料金
戦後史開封スス
電気通信の昔と今
第3話 報酬電話の思い出
案内役は私、落語家の劉廷一公です。
日本人の道義心は健在だ
終戦間もない昭和22年、アメリカ軍の新聞、スターズ&ストライプスにそんな記事が載った。
この年10月、東京新橋駅前に紙幣式の公衆電話が登場したのだが、不正利用があまりに少ないことにアメリカ人が驚いたのだ。
日本に公衆電話が登場したのは明治23年のことだ。
10年後には、新橋駅や上野駅などに置かれ、庶民が自由に通話できるようになっていった。
通話料金はずっと効果を入れる方式で、戦時中に15銭だったときは、5銭玉を入れるとチーン、10銭玉はボーンという音が交換台に聞こえた。
この音を確認して、交換手が相手につなぐという仕組みだった。
戦後のインフレで料金が50銭に跳ね上がったが、効果は不足気味だった。
そこでGHQは、比較的流通していた50銭紙幣を使う公衆電話を発案した。
最大の欠点は、お札を入れたかどうか交換台で確認できないことだった。
しかし設置した当初の回収率は、実際に使用した料金より多い105%だった。
アメリカ人記者にしてみれば、信じられない数字だった。
ただ、誤実談がある。
お札を入れなくても通話できることが世間に広まると、回収率はどんどん下がった。
3年後の昭和25年には58%、最終的には15%まで低下した。
日本人はそれほど正直ではなかったのだ。
テレホンカードの発売と普及
お札を入れる公衆電話から6年後の昭和28年8月。
東京駅など15箇所に真っ赤に塗られた電話が登場し、話題を呼んだ。
後に、赤電話の相性で親しまれる赤い委託公衆電話だ。
この赤電話を製造した田村電機製作所に昭和32年に入社し、
副社長を務めた家里哲夫は生前、こう話していた。
赤電話は、なめきみちこさんのリンゴの歌と並んで戦後最大のヒットだと思います。
私がこの会社を選んだのも、実は公衆電話はこれから伸びるよと勧められたからなんです。
最初の頃の赤電話はダイヤル式でも、委託先の束替えなどに料金を払ってかける方式だったが、
昭和29年には10円玉を入れれば市内ならダイヤルでかけられる赤電話が登場した。
さらに昭和43年には全国にダイヤル通話ができる大型の青い公衆電話が大阪府高石市の国鉄殿木駅前に設けられた。
管轄する大鳥電報電話局の係長だった辻武氏が、こう振り返った。
私も東京に電話するために銀行で両替した10円玉を100枚持って夜な夜な出かけましたよ。
3日に一度、車で公衆電話の集金と掃除に巡回するのも辻の仕事だった。
7つ道具は、ホウキ、ハタキ、チリトリ、雑巾、ボロ布、ブラシ、バケツ、消毒器、ポリ袋、はしご、水槽、意外と重装備だ。
赤い屋根とクリーム色のボディから単調型と呼ばれた窓のある電話ボックスだった。
鏡とちょうど姿が見えなくなるので、酔って吐いたり、トイレ代わりに使ったりする人もいたんです。
嫌な作業だが、7つ道具を駆使してきれいに掃除しなければ、誰も公衆電話を使ってくれなくなるから、鼻をつまんででもやるしかなかった。
その後、伝電公社は、10円玉を何枚も用意する煩わしさをなくすため、100円玉が使える黄色の公衆電話を開発したが、すり線が出ないと苦情が相次いでいた。
辻が伝電公社の電報電話課長に就任した昭和56年、カードが使える公衆電話の導入が提案された。
伝電公社の中での風当たりは強かったが、開発が進められ、カードのデザインを岡本太郎に依頼した。
そもそも岡本さんは公衆電話を一度も使ったことがなかったんですよ。
10円玉を入れると説明してもピンとこない。
2時間近くジェスチャー混じりで説明して、ようやく納得して引き受けてくれたんです。
昭和57年のクリスマス直前に、テレホンカードが発売された。
コワゴワスターとしたカード式公衆電話だけに、当初の設置台数はわずか30台だった。
辻たちは、「テレホンカードは5年後に5000万枚売ってみせます。」と自信満々だったが、役員は、「日本の人口の半分だぞ。何考えているんだ。」と冷やかだった。
しかし、テレホンカードは4年後の昭和61年には6000万枚売れ、その翌年には1億4900万枚になった。
最終話の次回は、ポケベルの半世紀の歴史をお伝えします。
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