00:04
スピーカー 1
行くも地獄、残るも地獄。始まりました、「大人の近代史」。よろしくお願いします。
スピーカー 2
よろしくお願いします。何か聞いたことあるような、ないようなって感じだけど。
スピーカー 1
これ似たような言葉結構あってさ、これは今回のテーマの対馬丸の沈没の事件のことをやりたい。
この対馬丸っていう本の作家の大城達弘さんが、本の中でこう言ってたんだよね。
そうそう。まさにちょっとこう話していく中で、この言葉がまさにだなっていうところがあるんで、最初にこれを読み上げました。
スピーカー 2
なるほど。なんかまあ対馬丸の事件はさ、結構有名だからさ、知ってる人は多いと思うんだけど、多分おが太郎だからさ、すげえ詳細にさ、説明してくれると思うんで、ちょっと今日は楽しみに聞いています。
スピーカー 1
なんだそのプレッシャーは。
スピーカー 2
いやいやいや、だって対馬丸は多分さ、ああ対馬丸ねっていう感じの人は多分こういう歴史好きな人が聞いている番組だからさ、多いとは思うんだけど、たださ、沈んじゃったっていうところが有名でさ、別にそのなんだ細かいところって多分知らないと思うんで、三船柔軟事件もそうだったもん結局。
スピーカー 1
三船柔軟事件はそうだね。俺も、てかそもそも知らなかったし俺。
スピーカー 2
そうなんだ、ロシアに日本の船が攻撃されて沈没しちゃってとかっていうのはさ、もちろんなんとなく聞いたことあるけどさ、詳しくは知らないわけじゃん。てか多分みんなそうだと思うんだよ。
だから今日はね、多分みんなもう大人たちがさ、今、対馬丸来たみたいな感じになってるよ。
スピーカー 1
なんか変なプレッシャーかけんな。
スピーカー 2
まあそんなテンションではないと思うけど。
スピーカー 1
まあそうだね、話が話だけにね。
そうそう。
まあ一応その対馬丸沈没の事件っていうのは、これは太平洋戦争中の1944年の8月に沖縄から長崎へ向かっていた対馬丸がアメリカの潜水艦の攻撃によって沈没したんだよね。
この船は疎開船で、中には女性やお年寄り、そして多くの学童疎開の児童が乗っていたんだよね。
時代背景をちょっと振り返りたいんだけど、この対馬丸沈没は太平洋戦争が終わる約1年前に起きてるんだよね。
1941年にハワイの真珠湾を攻撃して始まったこの太平洋戦争なんだけども、
初めは日本軍が東南アジアとか南方の島々を制圧して優勢だったんだけども、1942年のミッドウェイ海戦による日本軍の敗北など徐々に日本が劣勢となっていくんだよね。
1944年の7月にはサイパン島が陥落して、アメリカ軍が徐々に南方から日本本土へ勢力圏を拡大してきたっていう背景があります。
その後、日本は敵が沖縄へ上陸してくるっていうふうに判断して、政府では緊急閣議が開かれたんだよね。
そこでは戦力にならないお年寄りとか子供、女性を対象に疎開させる計画を立てたんだよね。
この疎開に関わる経費は、国が負担して日本本土に約8万人、台湾に約2万人で合計10万人を疎開させる計画を打ち出した。
この疎開させる理由っていうのがちょっと様々言われるんだけど、これは戦争に直接参加しない人たちが巻き込まれないためとか、
あとはその足手纏いになるためっていうことも言われるんだけども、それだけじゃなくて、食料確保っていうのもあったんじゃないかって言われてる。
疎開する人数がなぜ10万人の計画なのかってことを考えると、大本園は沖縄が次の戦場になることを予測して、
満州とか中国にいた日本軍の一部を沖縄へ移したんだよね。その日本軍の数が約10万人だったんだよね。
当時沖縄の人口は約50万人ほどいて、そこに10万人の日本軍が来ると沖縄での食料確保が難しくなってくるんだよね。
ただでさえ戦時中は食料なんだったから、兵隊と同じ数の疎開者を沖縄から出すことで食料を確保しようとしたんじゃないかっていう風に言われてるんだよね。
疎開の方法なんだけれども、戦時中は疎開に回す船が十分にあるわけじゃないから、沖縄に日本へ送り届けて帰る船に疎開者を乗せて輸送するっていう計画にした。
その疎開の中で学童疎開っていうものが行われたんだよね。
学童疎開の計画
スピーカー 1
当時は小学校からの学校を国民学校って呼ぶんだけど、この国民学校で学童疎開っていうのは推奨されていく。
これは基本的に児童だけで疎開をするもので、それに各学校の選ばれた教師が引率するっていう形をとったんだよね。
なぜ学童疎開に触れたかっていうと、今回のテーマである対馬丸に乗っていた半数近くがこの学童疎開の子どもたちだったんだよね。
この疎開は強制ではなく、あくまで希望を募ってさせるっていうものだったんだけども、
国からの方針が上から降りてきて、市長とか市長から各国民学校の校長へと、疎開は国家の方針で義務であるっていうようにかなりの圧力がかかっていたんだよね。
そのため、積極的に疎開者を集めないといけないっていう状況がまずあったんだよね。
各学校の校長や教師は生徒の家を一軒一軒回るなどして、疎開を呼びかけていって、当時の沖縄の人っていうのは、自分の子供を疎開させるべきか、沖縄に残すかっていうのをかなり悩んだんだよね。
これにはいくつか理由があって、単純に幼い子供を一人で知らない土地へ生かすのは、やっぱり親としては不安だよね。
沖縄はその時まだ空襲も受けてなくて平穏で、アメリカ軍が実際に沖縄へ来るって考えてない人も多かったんだよね。
もう一つは沖縄から船で海を渡るっていう行為自体が危険だったんだよね。
実際に沖縄に輸送されてくる陸軍部隊が直近に攻撃に沈められてたし、いくつもそういった事例はあったんだよね。
もちろん戦時中は情報統制がされてたから、そんな情報は公開されないんだけども、噂レベルというか人伝いでアメリカの潜水艦が日本の船を狙ってるんじゃないかっていうのは沖縄市民は知ってたんだよね。
こんな理由から子供たちを疎開させるべきかっていう葛藤があって、
中には子供を半分に分けて、一人は沖縄へ残して、もう一人は疎開させるっていうような選択をした人もいたの。
こうやってさ、分散させれば少なくとも一家全滅を免れるんじゃないかっていう思いからの選択なんだよね。
そうそう。これさ、実際の沖縄の人の証言で知ってさ、自分もちょうど同じくらいの子供がいるからさ、これ親としてこの選択って尋常じゃない心境だろうなと思って。
スピーカー 2
だから本当にどっちもリスクがあるっていう感じだったんだろうね。
スピーカー 1
そうだね。
スピーカー 2
であればどっちかだけでも生き残ってほしい。
もちろん両方生き残るのがもちろんベストだけどさ、多分そんな甘い考えじゃもういけないっていう感じでね、やったんだろうけどさ。
スピーカー 1
それでその後、学校の説得も続き、少しずつ疎開者が集まってきたんだよね。
ある日、市長が急遽夜中の12時に校長たちを集めて、早朝に疎開者を乗せることができるから、疎開希望者を急いで集めてくれっていうふうに言ったんだよね。
それから各校長は疎開希望者の家を訪ねて、疎開の準備ができているかって聞いていくんだよね。
これさ、もうその時深夜の2時頃だからね。
スピーカー 1
もうこんな時間に、やっぱ疎開希望者の中に突然の知らせだからさ、準備が間に合わなくて、その後に来る対馬丸に乗るってことになった人も多くいたの、実際。
その後の展開をさ、やっぱ知ってるからさ、なんかこれってすごいなんだろうなと思っちゃうとこなんだけど。
疎開船の準備
スピーカー 1
疎開準備がさ、できてる学童はさ、5時に学校集合して、もう本当に朝の6時頃に、その時はね、潜水母艦神戒っていうのに乗って出発してるんだよね。
この疎開船は無事にね、送り届けることができてるんだよね。
その後、しばらくしてね、8月21日、疎開船が出発するっていう連絡があったんだよね。
今度はね、出発の3、4日前に事前の連絡があって、そのため準備する時間があったんだよね。
疎開する学童は1人当たり60キロ以内っていう決まりがあって、その範囲内で荷造りをして出発するためにその準備をしたんだよね。
結構な重さだよね、子供にとってはね。
スピーカー 2
まあ、俺とか荷物すげえ軽くしないともうオーバーするな。
スピーカー 1
そうだね。学童疎開のほかにね、一般疎開もいたんだけど、一般疎開者は大人なんで、もうちょっと倍ぐらい確か多かったね。
スピーカー 2
100キロとか行けんだ。
スピーカー 1
行ける。
スピーカー 2
逆にそんなに荷物いらないけどね、たぶん。
スピーカー 1
でもほら、もう帰ってこれないかもしれないっていうさ、家に戻らない覚悟で行ったりするからね。
スピーカー 2
変な話、家財道具みたいなものも持ってくんかな。
スピーカー 1
出発する那覇港にはさ、準備する時間があったからこそその大勢の人が集まったんだよね、疎開者が。
そこにね、疎開者を乗せる貨物船が来て、そこにはね、対馬丸、暁空丸 、和洋丸っていうこの3つの船がいたんだよね。
それと護衛艦宇治と連っていう2隻が同行する形を取ったんだよね。
この船隊は沖縄に兵隊を送り届けた後だったんだけど、沖縄へ向かっている時に敵の潜水艦に追跡されたっていうことがあったんだよね。
護衛艦の連がその時3発の爆雷を投下したんだけども、敵に命中せずに失敗に終わってるんだよね。
そんなことも知らず、疎開者はこの3船の貨物船のどれかに割り振られて乗船をすることになったんだよね。
なぜ貨物船なのかっていうところを触れたいんだけど、当時さ、日本では兵隊の輸送任務にあたったほとんどがこの貨物船だったんだよね。
西洋諸国なんかはさ、兵隊を運ぶのに客船を使うのが一般的だったんだけど、日本はね、客船を使わなかったんだよね。
これはね、戦争が始まった時、そもそも日本には1万総トン以上の客船がわずか20隻ほどしかなかったんだよね。
これちょっと総トンって言ったんだけど、船の容積の単位で重さの単位とはちょっと別なんで。
今で言うとさ、世界一周するピースボートってあるじゃん。
スピーカー 2
その名前聞くと俺は笑っちゃうよ。
スピーカー 1
これがさ、総トン数3万トンなんだよね。
そうそう、しょうごね。
スピーカー 2
いや、よく言ってくれたよ。
スピーカー 1
いやいや、ちょっとこれ、なんでこいつら笑ってんだって思う。
スピーカー 2
確かに、なんか小バカにしてんのかってなっちゃうから確かに。
スピーカー 1
そういう意味じゃないですよ。
スピーカー 2
うちはネタで申し訳ない。
スピーカー 1
それとね、ちょっと大人の人に分かりやすいって言ったら、横須賀からさ、猿島のフェリーに番外編で乗ったじゃん。
スピーカー 2
あー、あれね。
スピーカー 1
総トン数何トンだと思う?
スピーカー 2
全く見当つかないよ。
ピースボートの10分の1くらいじゃないの?分かんないけど。
スピーカー 1
あー、いいとこかな。
あれはね、20トン。
スピーカー 2
あー、あれで20トンくらいか。
スピーカー 1
全然。
スピーカー 2
分かんねえ。
なるほど。
スピーカー 1
そうそうそう。
1万トンだと、長距離を運行する大型フェリーぐらいの客船だと思ってもらえればいいかなっていう。
スピーカー 2
なんか想像がつくような、つかないような。
スピーカー 1
まあまあね。
それらの客船も空母や病院船として使われて、兵隊の輸送に使うことができなかったんだよね。
そのため、沖縄の疎開船にもこの貨物船が多く使われたっていう背景がある。
対馬丸の詳細
スピーカー 1
で、対馬丸に乗った人はさ、約1600名って言われてて、そのうち半数の約800名が学童疎開者なんだよね。
この対馬丸っていうのは、総トン数は約6700トンで、長さが約135メートルっていう大きな貨物船なんだよ。
大きいね。
スピーカー 2
そうそう。
スピーカー 1
で、この対馬丸は1914年に日本郵船の貨物船として、イギリスの造船所で作られて、地区30年の結構な老朽船なの。
そう。で、客船じゃないからさ、一般的に思い浮かべる船の優雅な旅では全くないんだよ。
貨物船なんで、疎開船はさ、工番から急な梯子を降りていくと、中は大きな倉庫になってるんだよね。
上下に仕切られていて、二重構造になってるの。上と下にも過ごせる空間を作ったんだよね。
で、そこには当然窓もなければトイレもないんだよ。
で、周りはね、鉄板の壁で覆われて暑くて、で、しかも匂いも結構臭くて、快適とは程遠い空間で疎開船っていうのは過ごさなければいけなかったんだよね。
そうそう。で、1944年の8月21日18時頃に、5隻のね、この戦団は目的地の長崎へ向けて出発したんだよね。
で、この対馬丸にはさ、指揮官として若い上官の兵士が乗っていて、疎開船にね、注意事項を伝えたんだよね。
これね、抜粋すると、一つ目はね、昼間はデッキに出ないこと。で、二つ目はね、夜は明かりをつけないこと。
で、三つ目はね、海中に物を捨てないことっていうことをね、注意したんだよね。
そうそう。これらはさ、敵から発見されないようにするためで、いかに警戒していたかっていうのがわかるんだよね。
で、この戦団は基本はね、3隻の貨物船が前を走って、後方に護衛官が2隻着くような編成にした。
だけどね、老朽船の対馬丸の速度が出なくて、1隻だけね、遅れがちになっちゃったんだよね。
そう。で、それとね、本来だったら直進で長崎に向かえば早いんだけど、
それだとさ、敵から進路を予測されて狙われるっていう可能性があるから、
そのためさ、ジグザグに走るんだよね。
ただ、対馬丸はジグザグ走行するとさらに遅れるため、あまりね、実際にはできずにほぼ直進の経路を走ったんだよね。
これ那覇港から出てるんだけど、ちょっと北に行くと徳之島っていう島があって、
その近くの海域辺りから危ない海域に入ってくるんだよね。
潜水艦ボーフィンゴの脅威
スピーカー 1
この危ないっていうのはね、以前にもね、輸送船の富山丸っていうのが、
敵の魚雷攻撃を受けて沈没して、これはね、兵隊約4000人近く亡くなってるんだよね。
そうそう。で、対馬丸の船内でも危険な海域だし、その救命同意が一人一人渡されたんだよね。
もしものために、交番で夜は寝るようにっていう指示も出たぐらいで、
だけど、実際はね、交番で全員が寝られるスペースもないし、
外はね、潮風が当たって寝づらいから、中で寝るのを選択したっていう人も多くいたんだよね。
結果ね、800人の学童のうち、交番で寝たのはね、おそらく200人ほどじゃないかって言われるんだけど、
それでも交番は足の踏み場がなくて、足を折り曲げながら寄り添って寝たんだよね。
そんなね、5隻の戦団を沖縄から出発した時から狙ってた潜水艦がいたんだよね。
これがね、アメリカのボーフィンゴって言って、当時のアメリカ海軍の最新型の潜水艦で、
レーダーでね、5隻の戦団の位置を捉えてたんだよね。
またね、暗号を解読してたから、目的地の長崎に向かうってことも知ってたんだよね。
それから、このボーフィンゴっていうのは、攻撃場所を悪関島近海に定めて、
先回りをして待ち伏せをしたんだよね。
悪関島って小さい島なんだけど、天見大島と薬島の真ん中辺りに位置する場所なんだよね。
遭難者の苦しみと沖縄戦
スピーカー 1
その地点にね、1隻だけ遅れを取っていた対馬丸が狙われたんだよね。
8月22日の22時頃に、潜水艦ボーフィンゴが約2500mっていう離れたところから魚雷を複数発発射して、
対馬丸は遠くに魚雷の白い線を確認して急旋回するんだけども、
3発が対馬丸に命中して、激しい衝撃音とともに海水が流入してきたんだよね。
船内で寝ていた人たちは、上に這い上がろうと梯子に群がって、そのうち梯子も崩れて、そのまま這い上がることができない人たちも多くいたんだよね。
船内は無数の悲鳴が上がって、ある姉妹のケースだと、交番にいたところから姉が先に船から海に飛び込んだんだよね。
そして妹にも飛び込むようにって叫んだんだけど、妹は怖くて飛び込めなかったんだよね。
そうこうしているうちに交番は海水に使っていって、そのまま沈没に巻き込まれちゃったんだよね。
飛び込んだ姉だけが後に救助されて助かってるんだけども、
こんな風に幼い小学生の子たちは船の高い場所から真っ暗な海に飛び込むことができない子ってたくさんいたんだよね。
これは想像しても、そうなるよねって思ってさ。
スピーカー 2
タイタニック見てる側からすると、もういち早く海に行かなきゃまずいっていうのはわかるんだけどね。
スピーカー 1
でも船も沈んでってるからね。どんどん爆発しながらとかさ。
スピーカー 2
船からとにかく離れないと絶対助かんないからね。だからもう子供がそれを理解できて、飛び込めるかつったら無理だろうね。
スピーカー 1
そうそう、真っ暗だしその時夜だったから。
でさ、松島丸は火柱を上げて魚雷鳴中からね、これもう約11分間で沈没してんの。
多くの人がね、それに巻き込まれたんだよね。
で、海に飛び込んで沈没の衝撃から何とか逃れた人たちっていうのは、全員無事救助されて助かりましたっていう話ではないんだよね。
これがさ、ちょっと戦時中の恐ろしいところというか、一緒にいた護衛官はしばらく沈没位置を中心に回ったんだけども、これ威嚇行動を取ったんだよね、潜水艦に対して。
で、救助することなく残りの2隻の貨物船の護衛をするためにその場から離れて行っちゃったんだよね。
この行動はね、全滅を防ぐためだったんだよね。
これね、なぜかっていうとね、8ヶ月前にも那覇港を出発して民間人を乗せたコナンマルっていう船がアメリカの潜水艦に攻撃されて沈没してるんだよね。
コナンマルっていうのはさ、約700名が乗っていて、その時護衛官が約400人を救出したんだけども、1時間後に同じ潜水艦に攻撃されて沈没しちゃったんだよね。
だからこのケースのようにさ、救助したことで結果、護衛官も含めて全滅するっていう恐れがあったから、救助しなかったんだよね。
まずあの歴史にもしもっていうのはないんだけど、対馬丸でももし護衛官がその場で救助してたらどうなってたかって考えると、結果その全滅してた可能性は高いんだよね。
魚雷を全部打ち尽くしたこのボーフィン号っていうのは、新しい魚雷を装填するために一旦その場を離れて魚雷を再装填してまた戻ってきてるんだよね。
ただすでに他の船の姿がなくて攻撃することができなかったっていう記録が残ってるんだよね。
一方さ、その海に投げ出された人々はその後どうなったかっていうと、海はね、あのその時台風が近づいた影響で波が結構荒れてたんだよね。
で、遭難者はさ、捕まるものを必死に探して、対馬丸に積んであったいくつかのそのイカダとか棒切れなどが海に投げ出されてたから、それに必死に捕まったりとかして、
ただね、全員が捕まれるわけでもないから、生き残るためにイカダの奪い合いをしたりとか、力のない人はこう亡くなっていったりっていうのが現実にあった。
そうなのさ、最初のうちは遠くでさ、その先生助けてっていうたくさんの叫び声が聞こえたんだけども、徐々にその声も少なくなっていって救命動員を来た死体がたくさん海に浮かんでたっていうんだよね。
イカダにさ、運良く乗れた人もいつ来るかわからない救助を待つしかないっていうことになって、運が良い人っていうのはさ、翌日に漁船で救助された人もいたんだけども、中には1週間以上もそのまま漂流したっていう人もいるんだよね。
そう、これさ、イカダだからさ、ゴムボートみたいにさ、立派なものじゃないから、それでさ、なおかつ人も多く乗ってるから、重さでさ、イカダが沈んで、体の半分は海中に使ってるっていうようなケースが多かったんだよね。
何日もするとさ、疲労でさ、眠気も襲ってくるし、そのまま寝てしまうとイカダから落ちて亡くなっちゃうって人も多くいた。幼い子供とかお年寄りのような体力のないものが長い漂流に耐えられずに命を落としてるっていうケースも多く見られてる。
それとね、真夏の海の上は遮るものがないから、日中はね、暑くて肌がね、むけて、またむけるっていうぐらいその焼けてったんだよね。夜はさ、夏って言っても海水は冷たくて凍えるように寒くなるんだよね。
そのうちさ、飢えとか疲れによって幻覚症状を起こすって人も現れてきた。突然ね、着ていた自分のシャツを食べ始めたりとか、自らね、イカダから海に飛び込むって人もいた。これね、飛び込んだ人もその直後にね、あたり一面真っ赤な血で染まったっていうケースもあったんだよね。
これはね、何かっていうとサメがね、この海域に多くいたんだよね。イカダに乗って行ったとしても噛みつかれて海に引きずり込まれるっていう人もいた。そうそう。こんな中でも不幸中の幸いというか、近づいていた台風が進路を変えてね、直撃を免れたんだよね。
そうそう、このもし台風がね直撃してたら、もうほぼほぼ全滅してたんじゃないかっていうぐらい、ここはちょっと天候に助けられた部分もあるんだけど、それとね台風が近づいたことで海水の流れが通常と変わって運良く天見大島へ流れ着いたって人たちも多くいた。
あの沈没場所から天見大島って100キロ以上も離れてるんだけど、そこに運良く流れ着いたりとか、ただ実際はね、生存者よりも多くの遺体が流れ着いて、あの天見大島では遺体の埋葬で多忙を極めるってほどその遺体が流れてきたんだよね。
で、犠牲者の数なんだけども、この戦時中の混乱の中正確な数字っていうのはわかってないんだよね。ただその対馬丸に乗っていた約1600名のうち、もうほぼほぼ約1500名近くが亡くなったんじゃないかって言われてる。そのうちね、額頭の生存者は約50名ほどって言われてるんだよね。
本当に多くの人がこの対馬丸沈没で犠牲になっていて。で、死命がわかってる人のこの対馬丸遭難名簿っていうのがあるんだけど、本当にね、これ見ると幼い6歳から15歳ぐらいの子たちがずらーっていっぱい名簿に並んでるんだよね。もうね、その名簿見てるだけでも結構な衝撃を受けるんだよね。
で、ここでアメリカが実際に対馬丸を狙った理由というか、当時無差別に小船を攻撃するっていうことは、戦時国際法では禁止されていた行為なんだよね。ただちょっと戦争になると、その戦時国際法ってさ、実際は国によって解釈が違ってきたりするんだけども、
アメリカの場合はね、この時ね、日本の貨物船は戦艦や航空母艦と同じとして攻撃の対象としてたんだよね。対馬丸にはさ、少数だけど軍人とか軍事物資を載せていたってことも攻撃の対象になったんじゃないかっていうふうに言われてる。
で、この後さ、対馬丸から生き残った人っていうのも、この事件のことを一切人に話すことを禁じる勧告令っていうのが日本で出されたんだよね。これはね、戦争中の日本にとって都合の悪い情報だったから口止めされたんだよね。
だからこれによってさ、せっかく生き残った人っていうのも、周りの親族だったり家族にさえもさ、言えないっていうような苦悩の中さ、過ごさなきゃいけないっていう人も大勢いたんだよね。で、その後の歴史をちょっと知ってるからさ、疎開せずに沖縄へ残った方が良かったんじゃないかとも言えないんだよね、これは。
対馬丸っていうのはさ、沈没してから約1ヶ月半後に沖縄の那覇では米軍機による大規模な空襲があって、これで大きな被害も受けてるし、1945年の3月には米軍が沖縄に上陸して沖縄戦になってるんだよね。
そうそう。だから実はさ、この対馬丸で被害に遭った人が沖縄へ戻って沖縄戦にまた巻き込まれるっていう人もいたんだよね。そうそう。だから最初のさ、言葉じゃないけど、本当に行くも地獄、残るも地獄っていうようなふうに思ったんだけど。
今回さ、ちょっと印象的だったことがさ、この潜水艦ボーフィンゴっていうのは、対馬丸を含む16隻の大型船舶を沈めた戦火が称えられて、今でもね、ハワイの真珠湾で展示されてるんだよね。そうそう。だからこれってさ、見方を変えると一方では英雄扱いになるっていうような、なんか本当にその象徴的だなっていうのを感じたんだよね。
親目線での対馬丸沈没の悲劇
スピーカー 1
あとさ、対馬丸沈没っていうのはさ、小学生とかさ、幼い児童が多かったんだよね。だからなんかこれ、自分がやっぱ親の世代になってさ、同じくらいの子供がいるからさ、この事件を親目線でやっぱ捉える自分が今いるんだよね。
そうそう。これってさ、なんか自分が子供の頃さ、学校で教わった歴史とはさ、また捉え方が違うなっていうふうに思って、なんか大人の近代史の副題にある、今だからわかる日本の歴史っていうのをまさにちょっと感じたかなっていう回でした。
スピーカー 2
いやー、素晴らしい。いいまとめだよ。
スピーカー 1
なんで?
じゃあ、ということで、今回、対馬丸沈没について話しましたけども、いかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
いやー、もうやっぱり俺から言うことはほぼほぼないよね。まとめてくれたし。
スピーカー 1
あ、そう?
スピーカー 2
うん。なんか、強いて言うんだったらさ、やっぱりさ、貨物船を攻撃するっていうところでさ、なんだろうな、だって軍艦じゃないじゃん。
スピーカー 1
あ、まあそうだね。
スピーカー 2
うん。民間人が乗ってる可能性は重々に知ってたわけなんだよ。でも、撃ってるからね。
スピーカー 1
まあそうだね。しかも暗号解読してるから、あの実際のその疎開戦っていうのも認識していたはずなんでね。おそらくだけど。
スピーカー 2
そう、わかってて撃ってるし、だから民間人を攻撃したってみな知ってもいいんだよね。で、ただ別にもうほら、勝った国だからさ、日本はそこに対しても何も言えないわけじゃん。
スピーカー 1
あ、そうだね。
スピーカー 2
うん。ほら、逆にさ、3戦巡覧事件の時だったらさ、対ソ連だからさ、あの時のっていうのをさ、多分日本はずっとさ、こう言えるけどさ、アメリカに対してはやっぱり言えないんだよ、日本は。
スピーカー 1
あ、そうなんで。そこがまたね、ちょっと違うよね。その3戦巡覧とさ。
スピーカー 2
うん。まあそれがほら、やっぱりね、日本が今アメリカの支配下にあるっていうのがもうやっぱりわかる事実なんだけどさ。
うんうん。
まあそれがね、ちょっとね、俺はだからやっぱりそういうのっておかしいなって思うし、別にアメリカだから言っちゃいけないとかじゃなくてさ、アメリカだからこそ逆に間違ってたんだよって言えば、アメリカってほら、この前やった日経人の時もそうだけどさ、自分たちに非があったらちゃんと認めるんだよね。
あ、うんうん。
最終的には。だから、まあまあ言ってけばいいじゃんってちょっと思っちゃうんだけどね。原爆にしろ何にせよ。
はいはい。
うん、間違いだからさ、どう考えたってっていう。
スピーカー 1
うんうん。大丈夫か?この終わり方で。
スピーカー 2
いいんじゃない?
スピーカー 1
まあ、ということで、今回は対馬丸沈没についてでした。
はい。
前回ね、あのスポティファイとかアップルポッドキャストの評価をお願いしますって言ったら、結構な方がね、もう一気に何十個バーってついて、いや本当になんか聞いてくれてる人っているんだっていうのをこういうことでね、改めて感じたんでね。
スピーカー 2
聞いてくれてる人がいるっていうのはさ、再生数わかってるからさ。
スピーカー 1
まあね、いやでも実際に形になってね、まあだから、よかったらフォローもお願いします。
スピーカー 2
はい、ぜひよろしくお願いします。
スピーカー 1
それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。