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スピーカー 2
義に順じて流した血潮は、三年経つと青くなる。
始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
スピーカー 1
よろしくお願いします。
誰の言葉?
スピーカー 2
これね、創始の言葉だった。
スピーカー 1
へー、そうなんだ。
スピーカー 2
そうそうそう。なんかかっこいいよね、これ。
スピーカー 1
なんか北斗の剣とかで言ってそうだけどね。
スピーカー 2
これなんかね、忠義を貫いて死んだ武人の血は、三年経つと壁色になるって言ってるんだけど、
壁色ってさ、青と緑を足したような色のことを、壁色って言うんだけど、
ちょっと今あんま使わないかもしれないけど、
なんか、古代中国でさ、地中で流れた血が、壁玉って言ってさ、宝石のようになるっていう伝説があるんだよね。
で、それに関連して言った言葉らしいんだよね。
でね、この言葉がね、今日ちょっとテーマと関係してて、
函館八幡宮のさ、裏山に「血血碑」っていう三文字で書かれた碑が立ってるんだよね。
ここはさ、五稜郭の戦いで、旧幕府側の死者を埋葬してる場所なんだよね。
ということで、今回テーマが五稜郭の戦いをやりたいなって思ってます。
スピーカー 1
ああもう、これは来たね。ああもう、小片郎の時代だよ。
スピーカー 2
来てないんだよ。
スピーカー 1
いや、ほら、やっぱ肘形俊三をやったのはさ、まあ小片郎がやったけどさ、
だいぶ前、もうそれこそ初期中の初期にやったじゃん。
スピーカー 2
ほんと最初の方だね。
あ、で、ちなみにちょっとリクエストがね、これ2つ来てたんで、
ちょっと抜粋しちゃうんだけども、読みたいと思います。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
古福さんからいただいて、小片郎のボケや長者のツッコミが面白いです。
リクエストなのですが、五稜郭の戦いについてやってもらいたいです。
っていうのと、あとこれは楽太郎さんって読むのかな。
楽太郎さんか、ちょっとどっちかあれなんですけど、
私は50歳代のおっさん大人です。
この番組を聞き始めたきっかけは、昨年の夏、念願の北海道ドライブに行った時のことです。
埼玉から沿路、北海道まで運転をしたのですが、道中、音楽も飽きたので、
たまたま聞いたのがこの番組。
これからもおっさん大人を楽しませてください。
っていう中で、最後にリクエストいくつかあったんですけど、
五稜郭の戦いっていうのがあったので、今日はそれをやりたいと思います。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
すごいよね。長者のツッコミが面白いっていうのもすごいし、
沿路、春葉部、埼玉から北海道まで車で行ったってね、すごいね。
スピーカー 1
すごいよ。結構な距離だよ。
スピーカー 2
ね。さすがだわ。
スピーカー 1
何がだよ。
スピーカー 2
嬉しいね。
スピーカー 1
そうだね。
スピーカー 2
ということで、五稜郭の戦いって言われるものは、
幕末に新政府と幕府軍が戦って、
スピーカー 2
その幕府軍が配送して行った中で、最後北上して行って、
今の函館周辺を一旦占拠したんだよね。
その後、新政府軍の反撃にあって、この戦いっていうのは終焉しちゃうんだけれども、
この一連の7から8ヶ月ぐらいに及ぶ過程を、
五稜郭の戦い、または函館戦争っていう言い方するんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
そうそう。
なので、まずは時代背景をざっくりやってから中身に入りたいと思うんですけど、
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
今の北海道ら辺の地域は江戸地っていう風に呼ばれてたんだけど、
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
その江戸地の一部っていうのは江戸時代松前藩の管轄だったんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
一部って言っても、この北海道の本当に南側の端の部分なんだけども、
そこが1854年に日米和親条約に伴って函館下田が開港するんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
それに伴って幕府は函館とその周辺を松前藩から没収して、
幕府の直轄地として函館武業っていうのを置くんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
幕府は松前藩の役所をそのまま活用して函館武業所にして、
役所に勤務する人の住まいもその周辺に置いたんだよね。
うん。
ただその場所って函館港のすぐそばだったから、
海から例えば外国の軍艦が来て攻撃が受けやすいっていうような場所だったんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
アメリカの来港したペリーもこんなこと言ってるんだけど、
函館の周囲には軍備の様子がほとんどないっていう風な感じで、
呆れる感じで言ってたんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
当時やっぱり軍備が整ってなくて、
何もない原野が広がっているような場所だったんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
これだと、例えばロシアをはじめ、他国からの侵略に対して戦える状態じゃないよっていうところで、
幕府は危機感を感じて函館港よりもっと内陸側に役所機関を移転するっていう計画をしたんだよね。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
その移転先で作られた一つに五稜郭っていうのがあるんだけども、
この設計を担当したのが武田綾三郎っていう人で、
うん。
函館にはこの人通訳として着任をして、
今まで彼っていうのは乱学とか英語とかフランス語なんかも学んだり、
西洋の技術についても見識があった人なんだよね。
うん。
この人が西洋の築城書っていう城の作り方の書物なんかを参考にしたりとか、
函館に立ち寄ったフランス軍艦の軍人らのアドバイスなんかを受けて、
当時フランスやヨーロッパの多くで作られていた星型の要塞を参考に作ったんだよね。
うん。
これでできたのが五稜郭で、
これが日本で初めて日本人の手で作られた西洋型城郭って言われてるんだよね。
スピーカー 2
そこで結局戦いになっちゃうんだけれども、ここで実戦経験の差とか数の差でも急爆風雲が上回っていて、新政府軍を退けるんだよね。
こうして五稜郭にたどり着くと、なんとそこは誰もいない物気の殻だったんだよね。
これはどういうことかっていうと、まず警備を担ってた東北諸藩の多くっていうのは、その時東北戦争が激化する中で江戸地を離れて、自分のところの東北に戻っちゃってるんだよね。
中には本州から多少増援部隊が来てたんだけども、圧倒的に数が少なくて退廃をしちゃうっていうところなんだよね。
函館府の府知事とか官僚なんかも味方の軍の敗北を知って、早々に江戸地から退却をしちゃってるんだよね。
そのため、急爆風雲っていうのは五稜郭をあっさり占拠できたっていうわけなんだよね。
あと江戸地に残ってたのは、そこを領地とする松前藩だけだったんだよね。
この松前藩っていうのは、もともと幕府寄りの砂漠派が中心だったんだけども、
新政府が対抗してくると、藩内で下級武士たちを中心に空出たが起きたんだよね。
それで結果、新政府側につく勢力となったんだよね。
松前藩って福山城を拠点としてて、急爆風雲はそこに侵攻するんだよね。
ここで戦闘に入るんだけども、福山城っていうのは江戸時代に作られた最後の日本式城郭なんだけど、
ただ防衛する上でいくつか難点があった場所で、一つが海岸からすごく近いんだよね。
だから、これは急爆風雲は軍艦持ってるし、それを使って海からの艦砲射撃が届く距離だったんだよね。
また、その福山城の後ろが山なんだよね。
高台になってて、普通こんな場所に城なんて建てないんだけども、
まさに急爆風雲は山を取って攻撃をしたんだよね。
こういった攻撃だったり、実戦経験の差もあったし、一日であっさり制圧されちゃうんだよね。
松前藩は城下に火を放って逃亡して、その後追撃してくる急爆風雲に武装解除して降伏するんだよね。
スピーカー 2
こうして江戸地から新政府勢力を完全に排除して、急爆風雲に権力が移行するんだよね。
この戦いの中で、急爆風雲というのは、巨大戦艦海洋が激しい風雪にあって、ザッショーして沈没しちゃうことがあったんだよね。
これって、オランダから作られた再支援の軍艦で、大砲も35門も搭載されてたんだよね。
これが亡くなったってことは、かなり急爆風雲側には痛でになっていたんだよね。
そんなことはあったんだけども、急爆風雲というのは、一旦江戸地を統治したわけで、そこに五稜郭政府を立ち上げたんだよね。
スピーカー 2
この政府っていうのは、榎本武明の発案によって閣僚は選挙で決めたんだよね。
ただし、選挙権っていうのは、士官クラスの800名ほどに限定されていたんだよね。
結果、江戸本武明が156票っていうダントツで得票数を得て、
2番目が松平太郎っていう人で、3番目が永井直幸、次が大取慶介っていう面々だったんだよね。
これで総裁には江戸本武明がなって、副総裁には松平太郎。
あと陸軍部業でいうと大取慶介がなってるんだよね。
これって幕府の老衆なんかも、この五稜郭政府にはいたんだけども、実際票を集められなくて、実力によってこういった面々が選ばれてるんだよね。
だからよくこれ、江戸共和国っていう言い方するんだよね。
とは言っても、実際の共和国とはかけ離れてて、その選挙に参加できたのは士官クラスに限定されてたし、
目的はそもそも江戸地に徳川家を再考するっていうことでもあるから、身分制を廃止しようとか、そういうのは一切掲げてはいないんだよね。
その後、五稜郭政府っていうのは、新政府に対して書面を送るんだよね。
江戸地の領地を徳川家に分け与えてほしい。そうすれば江戸地を開拓して、北方の警備も担うっていうような内容が書かれていたんだよね。
ただ、これは新政府は却下するんだよね。だから、もう全面対決は避けられない状態になっていくんだよね。
幸い、この時江戸地っていうのは冬の時期で、新政府も雪解けを待ってから春に進行するっていうことになったんだよね。
だから、数ヶ月時間の猶予があって、その間旧幕府軍っていうのは戦いの準備をしていくんだよね。
そこで補強工事を行っていくんだよね。
五稜郭でいうと、大砲を備えつけたりとか、橋壁とか、堤防を設置したりとかして、
あと、五稜郭に入るための橋っていうのは、当初5つ架かってたんだけど、防衛上3箇所に減らしたんだよね。
あと、五稜郭から北東に8キロ離れた、ちょっと緩やかな丘があるんだけど、そこにね、山口を作って、
これをね、今では四稜郭っていう言い方をするんだけど、五稜郭の防衛上重要な場所にそういった山口を作ったんだよね。
こういった戦いの準備とか、あと、単位への給料っていうのは莫大なお金が必要で、
そこで江戸地の現地で暮らす住民から激しい取り立てを行った面もあるんだよね。
そんなことからさ、現地民が五稜郭政府を榎本武雄っていう言い方してたんだよね。