00:02
今夜もお茶漬けナイト。
夜食くらいの時間帯、口寂しく、また心も満たされていない、
もやもやしている時に帰ってきてくれたような気分で聞いてほしい、そんなポッドキャストです。
この南インドのカレーめっちゃうまいみたいな。
そう思ったら食事ってめっちゃ大きいなと思ってたけど、全然話変わってない。
食事って大事。絶対話し合わんことないから。
全世代、全属性共通やからね。
そうよ。
それで言うとさ、私結構イタリア住んでる時に、イタリア人って食にうるさいというか、
でもすっごくそれで喧嘩するんだよね。
自分はイタン人っていうのかな、周りとはうまくやっていけない、ちょっと違うって。
イタリア人的に言うと、食から来ること結構あると思うんだよね。
日本もそうだけど、日本とイタリアって結構食文化豊かな国、両方とも。
特にいろんな地域の郷土料理があったりとか、北に行けば北のいろいろ、南のほうが全然違いますみたいな。
日本だったら西と東で全然違ったりとかする。
そこに各地域に住んでる人は、自分の郷土料理に対してすごくプライドを持ってるんだよね。
自分のアイデンティティだと思う。
例えば、アルボナーラってローマの料理なんだけど、郷土料理なんだけど、
アルボナーラに使うチーズって本当は決まってて、何でもいいわけじゃないんだよね。
あとハム、ハムって言わないんだよね。
お肉もちょっと入ってるんだけど、お肉もグアンジャーレって言って、豚のほう肉からできたサランなんだけど、
それも結構決まってるの。だから一見なんか簡単そうなパスタじゃん。
でも結構決まってるの、いろいろと。
で、そうするとみんなで例えばさ、どっかでご飯食べててさ、これおいしいねとかって言うじゃん。
言うのってなると思うじゃん。ならないんだよ。
このアルボナーラはアルボナーラじゃないみたいな話になるわけ?
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そう。
それをさ、1時間ぐらい続けるんだよ。
すごいな、でもさ、そこまでこだわりがあるってことがすごい。
確かにね。
おいしかったら何でもいいって思ってる。
もうこれがベストなんですみたいな手できてるわけやろ?
そういうことやんな。
そうそうそう。
確かに。
だから唯一食っていうふうに私も思ってたんだけど、
びっくりした。結構ね、大きいカルチャーショックだった、私的には。
それは納得やわ、ちゃうな。
イタリア人の友達と食事行くとき気をつけないとなと思って。
そうね。
それをさ、議論する、もはや議論なんだけど、
これは正しくないとか、これはなんか、
それをすごく楽しむ文化なんだよね。
だからそこがすごい面白いなっていつも見てて思うんだけど、
さっき言うが、カメレオンも自分って言ってたじゃん。
そこも多分ある意味、
なんて言うんだろう。
日本の文化っていうまとめ方はちょっと大雑把すぎるかもしれないけど、
なんかこう、例えばイタリアと比較すると、
国民性っていうのも本当にまとめすぎかもしれないけど、
でもやっぱり向こうにいたときは、
イタリア人はなんて言うんだろうな、
なんかもう、カメレオンっていうか、
何、カメレオンの真逆の生き物って。
いやいやいや。
くざくって。
絶対色変わらんやつ。
確かにな。
もうみんなくざくみたいな。
これが普通みたいな。
なんかね、そんなにキャップがね、
結構ね、面白かったし、
逆にそこが私は違うんだなって気づかされて、
私は逆にはなれなかったし、
私はどちらかというと、
カメレオン、これモスですっていうタイプだから、
なんかそこでもこう、
自分の、
自分の、
自分がどこからどこまでが、
ありのままの自分なのかっていうのに気づかされて、
なんかそれがすごく面白かったなって、
今の話をちょっと聞いてて思い出した。
へー。
確かに。
逆にさ、
イタリア系の人たちよりも、
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主張強いのってどこなのかっていうと、
イタリア系の人たちよりも、
イタリア系の人たちよりも、
主張強いのってどこなのか、
分かんないな。
どこだろうね。
なんか気になるの、気になったなと思ったのが、
うちらから見た自分たちってカメレオンで、
うちらから見た、
今議論を楽しんでるイタリアを、
彷彿させる人々が、
苦弱だとして、
イタリアの人は、
日本の人を見たときに、
自分をどう捉えるんやろって思ったんだよね。
うーん。
だって自分がデフォルトやん。
だからさ、
キツネとか言われてまいそうじゃない?
狡猾さ。
狡猾さ。
狡猾さで、
キツネか。
アナホンデ、アナホンデとかって、
分かんないけど。
どう見えるんやろ。
でもほんま、
本当にカルチャーやな、ほんま。
うーん。
どうだろうね。
アメリカの文化も、
アメリカも地域によってちょっと違うから、
うーん。
アメリカの国民性って言っていいのか分かんないけど、
でもやっぱり、言ったもん勝ちみたいなのは、
例えばね、なんかちょっとやっぱ、
あるから、
そうすると逆に、
イタリア人から見た日本人の、
どういう感じっていうのも、もしかしたら、
カメレオン、
巣かどうかなんてもう、
どうでもいいっていうか、
そこまで、
気にしてないかもしれないなって。
うーん。
その、場に合わせてるとか、
さっきのほら、名前の話とかも、
例えば、みんなイタリア人で、
ゆうだけが、
そこに日本人としていたら、
どうだったかなとか、
うーん。
もう、うちめっちゃ肩のにおいると思う。
もう、
もう皆さん議論してくださるんやったら、
私違って当たり前やから、
もう何も隠すことない。
何も遠慮する必要もないなって思う。
うーん。
なんかでも、アメリカ行ったときと、
アメリカ行ったときとかじゃないな、
なんか、アメリカで育った友達と、
フランスで育った友達って話しとったときに、
別に意見ないっていうのも、
なんか何かのトピック話してて、
うちは意見なかったよ別に。
もうどうでもよさすぎて。
なんでそこにそんな議論できるのかが、
分からんくらい議論してて。
で、そのときに、
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なんかほんまに、
言うはなんか、
議論に入ってこんから、
つまらないって言われて、
つまらないですか?みたいな。
漫談しましょうか?って思ったんやけど、
いや、英語でそんな漫談するほどの技術ないわって思って。
でも、これは日本のニュアンスじゃないと、
漫談にならへんねんねん。
なんかその、
なんかこうやっぱ、
どう捉えられる、
静かにいることがどう捉えられるか。
教育でもそうやけど、
教科基準とかが、
日本にいたら、
しっかり先生の話を聞いて、
しっかり宿題やってきて、
で、人の話を聞いて、
自分の意見も言える、
くらいが、
評価されるちょうどいいと。
だから、
分布やったとしたら、
なんか、
アメリカで短期留学してたときは、
なんか、
意見を言ったらポイント、
宿題してきたら来ない、
関係あらへんみたいな。
どんだけクラスでアクティブやったかやで、
みたいな感じの、
でも、もらえるはずないのよ、
ポイント。
今までのこう、
やり方で言ってた。
で、言語ついていかへんや、
みたいな。
そうなったらさ、
もうどこで勝てるかなって思い始めんのよね、
そのときに。
なんか、たぶん今、
この私が身を置いている社会では評価されないから、
どこで差を出すかって言ったら、
もうどんだけ賭けるかやんのかなって思って、
なんかエッセイとか、
喋りが無理やったら、
エッセイに進むしかないなとかさ、
プレゼンテーション、
一番オーガナイズされてるとか、
そういう自分で勝負かけていくところ見つけないと難しくない、
なんかわかんないけど。
全然話変わっちゃう。
だから、評価基準がちゃうから、
なんかその、当たり前?
その、一番なじみの深いグループとか文化の中の当たり前が
破壊されるときに、
自分ってその人と比べてこういう感じなんやなって気づけるから。
そうじゃなかったら、疑問にすら思わんやろな。
なんでこうなんやろうとか。
ちょっとさ、話、
ヌルというか、
関係はあるんだけど、
小学校のときだったかな。
小学校3年生のときに、
アメリカに引っ越したんだけど、
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3年生じゃなかったと思うんだよね。
まだ英語喋れてなかったから、
多分5年生ぐらいかな。
5年生ぐらいのときに、
いまだにね、すごい覚えてるんだけど、
具体的に誰かって思い出せないんだけど、
でも誰かと話してて、
なんかモテる?モテない?みたいな話だったの。
そうじゃなかった。
小学校の高学年とか、
低学年でもそうだけど、モテたいみたいな。
あるじゃん、願望が。
多分これは世界共通なモテたい。
世界共通きた。
どうなんだろう。
で、すごい衝撃的だったのが、
なんて言ったか、
言葉は思い出せないんだけど、
でも言いたかったのは、
そんな意見もなくて、
要は尖ってないと、
モテない?決まってんじゃん、
みたいなことだったんだよね。
小学校4、5年生で、
クラス名とかなんかにさらっと。
日本ってさ、
和訳じゃない?
モテる、特に小学生とかで、
クラスでモテる子っていうと、
私が記憶してるのはどちらかというと、
どうなんだろう、
これは男女の差があるのかな、
今思ってちょっと、
なんだろう、それってもやって、
思い出しながら思うけど、
ちょっと物静かというか、
なんだろう、
周りからすると自分の理想を
当てはめやすいタイプの人がモテる。
あんまりだから、
私はこうっていうよりかは、
誰からも好かれる、
好かれるみたいな、
タイプなのかなと思って、
でも向こうに行ったときは、
もうなんか、
私はこれが好きとか、
私はこうっていうのを、
早く発掘して、
それを自分のものとしてアピールしていかないと、
むしろそれがモテ指標みたいな。
めっちゃ自信良いよね。
うん。
もうなんか、え?みたいになっちゃって、
私はなんか、
そうわかんないよみたいな、
私わかんないよみたいな。
っていうことを、
うん。
なんか私の中で結構ね、
その出来事は衝撃的で、
で、大人に会ってからも、
あ、だからそうなんだっていうのが、
なんかね、納得することが何度かあって、
そういう育ち方とか、
そういう教育を受けている人は、
そりゃね、議論したがる。
あんだけいろいろ言うことがあるんだろうなと。
さっきさ、
15:03
イタリア人から見たら、
日本人はどう映るかって話あったじゃん。
うん。
そこでね、
俺がどうなんだろうって思うのは、
日本のさ、空気の存在って、
海外から見たらどう映ってるのかなって思ってさ。
うん。
最近、
違う人から聞いて、
面白いなって思ったのが、
これも、
海外のどっかのメディアが言ったらしいんだけど、
日本は、
法律よりも空気を守るって言われてるって言って、
うん。
その例として、
保育園でさ、
預けていて、
インフルエンザかかっちゃいました。
うん。
子どもが。
で、
インフルかかってるからさ、
もちろん、
保育園に預けられないし、
家で療養するじゃん。
そうすると、
お父さんかお母さんは家にいなくちゃいけないじゃんね。
うん。
早く仕事に行かないといけないから、
本当は確か5日間じゃなかったっけ。
5日間、
家にいないといけないけども、
もう3日間過ぎて、
熱下がってるからもう預けちゃう。
それが、
もう言ったら、
まかり通ってるし、
本当は5日間っていうルールがあるんだけども、
周りとしてもしょうがないよねっていう、
空気のほうが優先されてる。
うん。
だから、
ルールよりも、
空気のほうが優先されてるみたいな話があってさ、
うん。
確かに、
うん。
想像できるなって思うし、
海外の人から見たらどう映ってるんだろうと思って。
うん。
難かっ、
理解がすごいしづらいと、
あー。
コロナ禍とかもさ、
コロナのまさにさ、
マスクをつける、つけないとかも、
うんうんうん。
すごい象徴的な例だったと思うんだけど、
うん。
もうだって、
コロナ禍って、
もうだって、
そう、
2022年に、
一度イタリアに帰ったんだけど、
うん。
もうその時も、
もう2022年の時点でさ、
もうだってそのコロナが、
その感染症として、
その確認されて、
もうだいぶ時間も経ってて、
でも、
まあいろんな影響が出てていうのが、
もうだいぶ経った後に、
やっぱ久々に帰って、
やっぱね、その、
認識が全然違う、
その感染症に対しての、
あとはその日常の生活レベルで、
やっぱこう、
自分、
自分のことだけ考えてる、
自分のことだけというかその、
どの範囲で自分のその、
18:00
行動というものが、
他の人にどう影響を与えるかっていうのを、
どれぐらい頻繁に考えてるか考えてないかで、
変わることってこんなにあるんだなっていうのを、
本当にその時に実感して、
そういった意味では本当に、
その日本の空気の文化って、
ものすごくこう、
強力な、
本当に、
だから、
法律よりも強いってすごいことだよね、
なんか。
うん。
うん。
すごいことなんだなっていうのを、
イタリアに戻って、
日本に戻って、
日本に戻って、
また日本に帰ってきて、
すごい実感した。
もう本当にね、
コロナ禍はこんなに違うんだっていうのを、
うん。
身近な人からも感じてたし、
うん。
あとはその空港とかもそうだけど、
その国としての体制っていうのも、
うん。
それもその、
法律じゃなくてその、
なんていうんだろう、
例えば空港でもう到着して、
そこからどういう、
どういう書類買わなきゃいけないとか、
どういうワクチンの証明書取らなきゃいけないとか、
まあさ、やっぱいろいろルールはあるじゃん。
でもルールがあると同時に、
それを実際にじゃあ本当はどうしてるかっていう、
リアリティもあって、
その差みたいなのもすごく感じて、
うん。
ああ、本当に日本って、
うーん、
まあだから、
面白いって思う人もいるだろうし、
だから私はやっぱり、
うーん、
まあ昔言われたこともあるけど、
日本人になりきれないというか、
そういうふうに育っちゃってるから、
いつもだから半分、
なんていうの、
片っぽが、
こうその文化に入ってて、
もう片っぽは出てる状態だから、
だから常にそういうふうに見えちゃうんだよね、
なんかこう、
ああ、みたいな、
うん。
すごく不思議、
うん。
不思議なことがいっぱいある国だなって、
うん。
でもそれが面白いと思う人もいるし、
なんか居心地悪いなって思う人もいるんだろうなって。
うんうんうん。
うん。
僕今話聞いててさ、
うん。
パッと気づいてんけどさ、
うん。
エリアは日本人になりきれない、
片足入れてるみたいなふうに言ってたのか、
うち、
うん。
今思ったら、
誰一人として日本人やと思ったことないかも、
と思ったね。
うん。
なんかその、
変な感覚に陥ったよ、
今話聞いて。
うんうんうん。
そう。
全然話関係なくなっちゃったけど。
うん。
それは、
21:00
うん。
周りの人ってこと?
うん。
うん。
なんかそういうふうに感覚で、
見てこな、来てなかったかもしれないと思って、
今、
パッとさせられました。
なんか、
市民をさ、
自分が、
地球市民教育っていうのを勉強したからさ、
うん。
だから、地球市民とはっていう定義をするためには、
じゃあ市民とはどういうことなのかみたいなのを定義付けないといけないんじゃない?
うんうん。
要件定義をしなきゃいけなかった、
っていうふうに、
じゃあ市民って、
なんかその、
例えば、大阪直美さんテニス選手のさ、
うんうん。
大阪直美さんがさ、
こう、日本で有名になってきたときにさ、
うん。
こう、いろんなことを、
心もない、
なんか冷たいことを言う人もいたけど、
なんかやっぱ、
日本語を話せるから、
日本人だと思ってる人もいれば、
なんだろう、
日本だから日本人だと思ってる人とかもいるじゃない?
うん。
で、いろいろ、
あ、市民ってじゃあどう定義するべきなんだろうと思って、
ちょっと考えたときに、
まあいろいろ読んでたんだけど、
その、多くの人が、
市民、
その人を市民として、
あの、
どこの国の市民かっていうのを捉えるときに、
えっと、言語を話せるか、
国籍がどうか、
人種がどうか、
あと、
何だっけな、
振る舞いというか、
カルチャーというか、
習慣とか、
そうそうそう、
がどうか、
みたいなのを、
あ、それか、
あとは市民権利があるか、
国籍がなくても権利があるじゃない、
だから、
そういう観点で、
なんか見る、
みたいな感じ、
そういう感じ、
を知ってから、
なんかもう、
誰も日本人だと思えてない、
自分も、
なんか判断むず、
しかも、
もうその人が、
そう思ってへんくても、
そう思ってても、
もうそれでええやんって思ってしまう、
自分もって、
なんか思わない理由は絶対あるし、
思う理由もきっとあるやろうけど、
もうその感覚って、
わからんのよね、
うち確かに、
国籍は日本やで、
日本語も喋れるし、
人種的にもアジア人やし、
日本人に見られるし、
なんかこの要件定義で言えば、
日本人と判断されてもいいと思うけど、
私全然日本人として、
なんか誇りに思ってることとかそんなないし、
24:01
そういう意味か、
寿司しかない、
そういうことね、
でもそれって自分じゃないわけ、
もはや、
そう、なんかちょっとね、
だから自分をアメレオンって捉えたときに、
それが日本って捉えられるってびっくりした、
みたいな感覚、
なんかさ、変やんな、
みんなってどんな感覚なんだろうな、
今週はここまでです。
また次回お楽しみに。