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二十二節から、四章一節をお読みします。
奴隷たちよ、すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。
人のご機嫌取りのような、上辺だけの使い方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするよう、心から行いなさい。
あなた方は、主から報いとして、御国を受け継ぐことを知っています。あなた方は、主、キリストに仕えているのです。
不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして、受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
主人たちよ、あなた方は、自分たちも、天に主人を持つものだと知っているのですから、奴隷に対して、正義と公正を示しなさい。
以上です。
今日はこのところから、「働く人へのすすめ」と題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
2月21日の日曜日ですね、本日は。
しばらく前から暖かい日が続いており、今日は4月下旬、5月並みの暖かさになるということで、
嬉しい反面ですね、気温の上がり下がりで、体調の不良を覚える方もいらっしゃるかと思いますけれども、
このような形ですけれども、オンラインで守れることを感謝しています。
早速本題に入りますが、今日の箇所もですね、先週に続きまして、
当時の背景を少し説明しますが、この手紙の読者はですね、いわゆる家の教会、先週もお話ししましたが、
家の教会、コロサイビにある家の教会が想定されています。
そこにはですね、当然このように持ち主の家族、そしてそれ以外にですね、他の家族もまつどっていた。
そしておそらく家庭を解放するぐらいですから、それなりに大きな規模の家族、住居を持っていたと考えられています。
そして当時のローマでは、一般的にですね、この奴隷が家にいたわけです。
複数の奴隷がいたということも少なからずありました。
先週話しましたが、この御言葉を聞いている人は、男性であれば父であり、あるいは親子間同居であれば子でもあった。
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そしてこの夫婦や子供の関係があって、先週の御言葉がありましたが、
その続きとして、一つの家のですね、奴隷と主人、多分男性父親が奴隷の主人になっていたと思いますが、
この奴隷も含めて一つの家族と当時は考えられていました。
失礼しました。
で、当時ですね、脇前のある主人は奴隷をですね、我が家族のように扱っていました。
大切に扱っていました。
しかし、後でも詳しく申し上げますが、奴隷はですね、主人の所有物と考えられていましたから、
まあ物のようにですね、不当な扱いをする主人も当時いたわけです。
そういう中で主人と奴隷との関係で問題が生じたこともあったようです。
このようにですね、この一つ屋根の下に暮らす奴隷と家族、そしてそれが教会である、そこにまた別の家族も集っている、
このことがですね、今日の御言葉が語られている背景にあるということを理解してください。
その上で先週のようにですね、語られた背景を正しく理解して、今の私たちに当てはめて学んでいきたいと思います。
ここでですね、貫かれている大原則があるんですね。失礼しました。
それはですね、奴隷の主人も奴隷自身も共通の主人を持っているということです。
その共通の主人は主なるイエス・キリストだということです。
まあ最近に当てはめますけれどもですね、例えば企業のデータ改ざんが発覚したり、
顧客から正当なクレームがなされた場合に、こう問われますね。
一体誰に向けて仕事をしているのか。
その世の中で、その世の中で顧客目線、企業や組織の倫理としての顧客目線が重要視されていますが、
クリスチャンの仕事は、主イエス・キリスト目線だということを大前提として、今日の御言葉から学んでいきます。
今日も三つの点からお話ししますが、まず最初は主人に対して、つまり人を従える立場にある人への勧めから学びます。
そして次の2点目は奴隷への忌めというか教え、それは私たち一般の仕事、あるいは勤め人と言いましょうか、
そういう立場のものとしての仕事における勧めということを残り2点学んでいきます。
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それではまず最初の点です。
第1点目、人を従える人への警告、4章の一節です。
読める方はその場で一緒に読んでみてください。
3、主人たちよ、あなた方は自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。
4章一節。
先ほど申し上げましたが当時奴隷は人間としてではなく主人の所有物としてみなされていました。
ですから例えば主人の都合で当然奴隷の売り買いがなされていたわけです。
また悪意を持った主人の中には奴隷に対して不当な扱いをする者もいました。
当然搾取をする、あるいは性的な励口にする、時には八つ当たりをしてひどく無知で叩くなど虐待もあったということです。
そして、たとえ主人の行為によって奴隷が命を落としても、奴隷は所有物ですから主人は罪に問われない。
例えば私たちがボールペンを使っていて、そのボールペンを腹立ちまぎれに折ってしまった。
そういうことがあっても自分のボールペンなので犯罪にはなりません。
器物破損の罪に問われることはありません。
そのように奴隷の命も当時軽くみなされていたということです。
しかしその中でパウロが今日の御言葉から主人に対してこのような基準を述べているのです。
主イエスキリスト基準に、自らも主イエス様に仕える者として奴隷に正義と人間としての当然の扱いをしなさい。
奴隷に正義を尽くして彼らを公正にというのは、人間としての当然の扱いを奴隷に対してしなさいと命じているわけです。
先ほど申し上げましたが、一つの家の教会の中でこの主人も奴隷もこの御言葉を聞いていた。
正確にはパウロの手紙の朗読されるのを聞いていたわけですね。
そして主人の中にはこの目の前に自分の奴隷がいる中でこの忌ましめを聞いていたわけです。
なおさら心に訴えかけるものがあったでしょう。
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そのような忌ましめ。
3章25節、この直前の御言葉も強いメッセージがありました。
こう警告されています。
読める方はこの部分から一緒に読んでみましょう。
3、不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。
不公平な扱いはありません。
このようにですね、主人がその立場を利用して奴隷に対して不当な扱いを続けたり、不当を強いるならば、神の裁きを受けるとパウロは警告しているわけです。
不正を行う者は、自分が行ったその不正を報いとして終わりの日に神から受け取る裁きがある。
そこには不公平な扱いはない。
たとえこの世の中で主人として立場があったとしても、そこには不公平な扱いはないとパウロは警告しているわけです。
今の時代に当てはめること、クリスチャンの雇用主が聞いているわけではないから難しいですが、
実はこのような聖書の原則、神の裁きという原則からも、いわゆるパワハラやセクハラは当然禁じられるということができるわけです。
それに対する正しい報いを主が終わりの日になさるということです。
イエス・キリストの裁きということです。
またもし私たちが仕事の中で誰かを指導する立場にある、人の上に立場にあるとするならば、これらの御言葉が警告を与えるでしょう。
部下を持つ誰かを指導する立場になった時に、これらの御言葉を私たちの倫理基準として心に留めていく必要があるわけです。
第1点は、主を、人を従える、上に立つ立場の者への警告でした。
第2点目、奴隷への言葉から、使える者への、働く者への勧めです。
2番目は、主から報いを受けて希望にするということです。
この3章22節から24節、少し読める方一緒に読んでみましょう。
3、はい。
奴隷たちよ、何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
あなた方は、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。
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あなた方は、主、キリストに仕えているものです。
3章22節から24節の抜粋です。
何に対しても、心から主人に従いなさい、ある意味、雇用主に使いなさいと考えられるかもしれませんが、
大前提として、アラスメントを受けている場合や法令違反に巻き込まれた場合、そういうものは例外です。
そのような時には、ふさわしい、叱るべきところへ相談する。
そのように考えましょう。
その根拠は、3章25節の主の裁き、主によって正しいことをすることも挙げられます。
その上で、主からの報いに働くものとして、私たちは注目することができるわけです。
読める方は、この部分を読んでみましょう。
この歌詞を言い換えると、このように言い換えることができます。
3杯、良いことをすれば、主イエスから報いを相続する。
それを希望に、仕事を主イエス様への奉仕や礼拝行為と考えなさい。
この先ほども、主から報いとして御国を受け継ぐこと、そのことを今のように言い換えているわけです。
良いことをすれば、主イエス様から御国を受け継ぐことができる、御国を受け継ぐことができるとここでは訳されていますが、
直訳では、主から報いとして相続財産を受け取るという、そういう意味になっているわけですね。
実は当時、奴隷は所有物だということを申し上げましたが、主人の所有物であるがゆえに、奴隷自身には所有というものが認められていなかったわけです。
当然、結婚も奴隷間の間でなされていました。
また、主人から信頼されて、主人の財産を管理すること、それも任されていた奴隷、下辺もいたわけです。
しかし、所有というものが基本的には許されていなかったわけなんですね。
ですから、例えば一つの家庭の中で奴隷の男女が結婚することは許されていましたし、そこで子供が生まれます。
しかし、その子が生まれても、その子に相続する財産というものを奴隷は持ち合わせていなかったわけです。
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そればかりが、例えば奴隷の男性にとって、自分の妻や子供は主人の所有物だったんです。
ですから、主人の都合によって自分の妻が奴隷としてよそに売り飛ばされたり、子供がやはり主人の都合で奴隷として運を言わせず、他の主人の元へ売り飛ばされたりということが起こったと言われています。
先ほど申し上げた主人への忌ましめ、奴隷に対して不当な扱いをするなということの中には、このような家族を引き裂く行為を禁止するというニュアンスも含まれていたわけです。
キリスト社として、あなたの兄弟姉妹であるその奴隷、その家族を引き裂くようなことを、例えばあなたが主人であってもしてはならない、そういう命令に受け止められてもいたわけです。
このような中で、この御言葉、「主から報いとして御国を受け継ぐ」は、この奴隷たちにとって、しもべたちにとって大きな希望になったわけなんですね。
なぜなら、たとえ今は主人から財産を相続するものが与えられなかったとしても、主イエス様が後に天の相続財産を与えてくださる、それを希望としなさいと言うのですね。
この天の相続財産とは、永遠の命であり、後に訪れる新しい天と地における命だということです。
それらのものを希望にして、今を生きなさい。そして、奴隷の主人ではなくて、その報いを与えてくださる本当の主人である主イエス様に使いなさい、そのようにパウロは教えているわけです。
今の私たちに当てはめて考えてみましょう。私たちは当然、後の命、永遠の命を約束されています。
しかし、今この世の中でさえ、神様から良きものを多く授かっていますね。家族が与えられています。日々の糧も与えられています。
そのほか、多くのものを神様から授かっている、そのことを私たちは主に感謝できるわけですね。
また、もしかしたら仕事の中で、今働いている退化に見合ったものを受け取っているんだろうか。
そのような仕事の退化に対して、自分の労働の退化に対して、疑いを抱くというか、寂しさを抱くことがあるかもしれませんね。
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今、労使交渉が始まりまして、どれだけベースアップをするかということも話題になっていますが、それは本当に自分に関係ないなという方もいらっしゃるかもしれません。
それは何はともあれですね、そのような中においてこそ、私たちはこのパウロのように、天で約束されている永遠の命、天の相続財産に目を止める、そのような機会と捉えることができるわけです。
そのような天に目を馳せる訓練をこの地上の中で行っていく。
実はパウロはですね、そのことを祈りを込めて、別の手紙でこう述べています。
殺され人の手紙の双子の手紙であるエピソードの手紙の1章の17節から19節です。
読める方、一緒に読んでみましょうか。
どうかあなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、生徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを、あなた方が知ることができますように。
まさに私たちは日々の生活や仕事に邁進している時には、そのような目を持つことは難しいと思います。
ですからパウロのように、心の目がはっきり見えるようになってと祈る必要もあると思います。
それによって、天に約束されている望みの素晴らしさに目が開かれて、目の前の仕事を主に仕えるという動機の中で行えればと思います。
これが2番目です。
最後、3番目です。
心から主に従って、3章22節、23節を読める方、その場で共に読んでみましょうか。
3、はい。
人のご機嫌取りのような上辺だけの使い方ではなく、主を恐れつつ真心から従いなさい。
何をするにも人に対してではなく、主に対してするように心から行いなさい。
この、実は今日の箇所にはですね、皆さん後でよく見ていただきたいんですが、
主に対してとかですね、主に仕えるという言葉が4回出てきます。
人ではなくて、主人ではなくて、主に対して、主に従いなさい。
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4回も出てきているということは、それだけ大事な真理だということなんですね。
イエス・キリスト目線で働く、それがどれほど大事なことかということが、
この4回の言葉の使い方によっても強調されているわけです。
なぜなら、その主に仕えるということが、私たちの地上の労働における本当の動機になると、パウロは教えているわけなんですね。
その上でですね、この箇所を、他に認められている新科学聖書以外の正当な聖書から読み比べてみると、
この意味の深みや意味がさらによくわかりますので、挙げてみました。
このご機嫌取りですね、ご機嫌取りのようなというところは、別の聖書の新教科学ではですね、
人に気に入られようとしてとなっています。
また、人に対してではなく、主に対してするように心から行ないなさい。
それもですね、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさいとなっているわけです。
ご機嫌取り、人に気に入られるようにではなくて、真心から主に従う、そのように仕事をするということを
神は教えているわけです。
主を恐れかしこみという中にはですね、先ほど申し上げましたが、不正をするものを、神は正しくその不正を裁くということも含まれているわけです。
さらにこの箇所について、ある学者は次のように解説しているんですね。
ここで言われていることは、クリスチャンは与えられた仕事に心を込めて取り組むことであり、
見られているときだけ努力して、怒られない程度に要求された最低限の仕事をこなすことではない、こう学者もこの箇所を解説しているわけです。
私たち仕事はですね、誰にも見られていない、そこで進化が問われると言われることがあります。
また、よくクリスチャンであろうとなかろうと、よくこういうことを言いますよね。
誰も見ていなくても神様が見ているよと、そう言われますけれども、
私たちはこの聖書の根拠をもって、この神様が見ておられる、報いてくださるということを、私たちの倫理基準として仕事に取り組むことができるわけなんですね。
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このように私たちは、人に使える、雇われているような立場であったとしても、あるいは誰か人を従える立場であったとしても、
主イエスキリスト目線で主に従うように真心から働くこと、それを求められている、それが今日のポイントであります。
最後にですね、コロサイビトの手紙の双子の手紙、先ほども言いましたが、そのエヴェソビトの手紙、そこに似たような箇所がありますから、その箇所を読んでこの時を終わりにしたいと思います。
どうぞ読める方、エヴェソビトの手紙の6章の6節から7節を共に読みましょう。
3.人のご機嫌取りのような上辺だけの使い方ではなく、キリストの下辺として心から神の御心を行い、人にではなく主に使えるように善意を持って使えなさい。
お祈りしましょう。
私たちの主イエス様、あなたのお名前を賛美いたします。パウルを通して働く者への新しい倫理を教えてくださりありがとうございます。
私たちはイエス様と共に死に罪が許され、イエス様と共に蘇らされ、イエス様を生きる者としてこの世に召されました。
どうぞ私たちが与えられたその場所で働く者として主イエス様を見据えながら、あなたにお使いする、そのような立場の、そのような者として日々の仕事に臨んでいくことができるように導いてください。
また、耐えるべきなのか、叱るべきところに訴えるべきなのか、そのようなことを見分ける知恵をも私たちにお与えくださいますように。
こうして私たちの働く姿がどうぞあなたへの礼拝となり、奉仕となり、また証となることができますようどうかお持ちください。
この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。
それではしばらく一分ほどその場で黙祷しましょう。