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それでは、コロサイビトの手紙、3章12節から14節を読みします。
ですから、あなた方は、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、乳和、寛容をきなさい。
互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに許し合いなさい。
主があなた方を許してくださったように、あなた方もそうしなさい。
そして、これらすべての上に愛をつけなさい。 愛は結びの帯として完全です。
以上です。今日はこのところから、キリストを身にまとうと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。なかなか皆さんの声が聞こえなかったり、またお姿が見えなくて気になりますけれども、
こうやって皆さんと共に、皆さんの名前がこちらの画面に出てますので、お名前を拝見しながら、離れたところにいながらですけれども、
共に礼拝ができる幸いを感謝しています。
今度の日曜日、2月7日にこの埼玉にも出された緊急事態宣言が解除される予定ですけれども、おそらくまだまだ長引きそうな様相ですね。
何よともあれ、今日共に御言葉から学んでいきましょう。
今日は、先ほど申し上げましたように、キリストを身にまとうというタイトルでお話をします。その具体的な内容を学びます。
それはですね、先週、パウロの教えを学びましたが、その続きです。
パウロは先週の御言葉の中で、こう伝えていますね。
3章の9節10節で、こう述べています。
あなた方は古い人をその行いと共に脱ぎ捨てて、新しい人を来たのです。
こう先週見ました。新しい人は、それを作られた方の姿に見せられて、ますます新しくされるとありましたが、
イエス様を信じ、またイエス様と共に死に、そのイエス様の使徒、そして復活のバプテスマに預かった私たちは、
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古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を斬るべく召されました。
その、イエス様を新しい人としてクリスチャンを身にまとう、
そうパウロはこの先週の御言葉から宣言したんですね。
なぜイエス様を身にまとうべきなのか。
その理由は、私たちが新しく生まれ変わって、新しい立場を得たからです。
新型コロナウイルスの蔓延からよく言われる言葉、新しい生活様式という言葉ですね。
どうでしょう皆さん、今も外出するときはマスクをするのが当たり前になりましたね。
ある海外では、EUの国々でさえマスクをするということに対して、
国民が怒って暴動したりしますが、日本人は大人しくマスクをしています。
これがいわゆる新しい生活様式を身につけたと言えるわけです。
このようにクリスチャンは新しく生まれ変わり、新しいものとされた、
そのにふさわしい新しい人を斬るべき、イエス様を斬るべきだとパウロは述べているわけです。
そして何度も言いますが、それを今日の御言葉では、
新しい人を身にまとう、そのように表現されているわけです。
皆さんもぜひ教会生活が長い方も、始めたばかりの方も覚えてほしいのですが、
イエス様を斬る、そういうことをクリスチャンの生活様式として覚えてください。
今日はその中で3つのお話をしますが、まず新しい人、キリストを斬らなければいけない理由を一つ、
2番目はその新しい人の具体的な内容、品性一つ一つを取り上げます。
そして最後はその結びのびとして完全な愛について取り上げます。
ではまず一番最初、新しい立場ですね。
その新しい立場とは何か、今日3章の12節の前半をあげましたが、これを見てください。
ですから、あなた方は神に選ばれたもの、聖なるもの、愛されているものとしてと言っています。
この3つの立場が私たちクリスチャンに与えられた新しい立場、あるいは新しいアイデンティティです。
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旧約聖書からよく聖書を読んでいる方はこの3つの言葉にピンとくると思います。
どうでしょう皆さん、この3つの言葉から何か思い浮かびましたでしょうか。
これはですね、いわゆる旧約聖書のイスラエル、神の民につけられた称号です。
そしてこれが今イエス様を信じ、新しく神の民となったクリスチャンに当てはめられて語られているわけです。
旧約聖書のイスラエルのようにクリスチャンは新しい神様の民として、
期待された行動基準があるということですね。
このことをある学者はこう解説しています。
神の民は神に選ばれた聖なる民である。
その未来は彼らが聖なる者であり続けるか否かにかかっている。
彼らが神の民であり続けようとするならば、神が聖なる者であるように、
彼らも聖なる者であり続けなければならない。
聖なる者として召された者は聖なる神に似た者とするという、そういう行動基準があるわけです。
ちょっとこのかっこいい2人出てきましたけども、笑っている方もいるかもしれませんが、
医療従事者、医者やあるいは看護師の白衣です。
医者や看護師が白衣をまとって医療行為をしますね。
このようにクリスチャンはイエス様という白衣をまとって、
そのイエス様の白衣に似合った生き方が求められているわけです。
そのことをまず最初に皆さんに知っていただきたいわけです。
神の民となったクリスチャンには、その私たちを救ってくださったイエス様を着る、
それは神の民として求められている行動基準がある、ふさわしく生きるということです。
それが第1番目です。
第2番目、それでは具体的に5つの身につけるべき新しい品性を見ていきましょう。
今日の御言葉を取り上げます。
3章の12節をもう一度お読みします。
ですからあなた方は、神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、
深い慈愛の心、親切、謙遜、乳和、寛容をきなさい、こうあるわけですね。
これは具体的な行動というより、ある意味心構えや身につけれべき品性、
英語ではキャラクターとも言いますけれども、そういうものですね。
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ある面内面から染み出てくる、また具体的な行動とも不可分かもしれませんが、
ある面、この品性、あるいは倫理基準ということが言えるかもしれません。
実はですね、これらは、前々回先々週見た3章10節でしょうか、
その5つの脱ぎ捨てるべき古い人の5つの悪い品性と対応して、
この5つの良い品性が述べられているわけですね。
それを知っておいてください。
また第一義的なこのパウロの意図としたところ、
それはですね、コロサイ教会内の人間関係、その一致について関わる教えなんです。
つまりどういうことかというと、先週見ましたように、
コロサイの教会には社会的な身分や、あるいは国籍さえ超えた様々な人が集まっていましたよね。
かつれ受けた人や受けていない人、ギリシャ人や未開人、
強いて言うならば当時野蛮人と言われていた人もいたわけです。
そういう中で文化や社会的な、あるいは偏見のようなものから、
クリスチャンになっても葛藤がその教会の中にあったと思われる、
あるいはそれが予想されたからですね。
よく取り上げますが、
アメリカの大統領選挙をもとに、このアメリカで様々な分断が露呈しました。
そこまではいかなくても、コロサイ教会の中で様々な立場の人が、
時には過去の偏見なども影響して争いが起こるかもしれない。
そういうことを予想してパワロは述べているわけです。
そして私たち当然、ニーザ式バクテスト教会も様々な背景、
あるいは仕事でしょうか、いろんな違いを持った人たちが集まっていますから、
傾聴すべき御言葉であり、身につけるべき品性です。
と同時に、例えば家庭内とか、もしかしたら職場とか、
私たちが扱わされているいろいろな場所においての人間関係、
あるいは私たちがクリスチャンとして明かしする上で、
これらの品性は大事になってくるわけです。
そういう意味で、傾聴に値する言葉なのですね。
前置き長くなりましたが、一個一個、簡単ではありますけれども、具体的に見ていきましょう。
まず最初の、深い慈愛の心。ちょっと多くなってしまって、見にくいかもしれません。
深い慈愛の心は、古い神科学聖書では、
深い同情心とか、あるいは別の聖書では、憐れみの心と訳されています。
それはですね、他者の必要や悲しみに対する深い感受性です。
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その他者の苦しみに対する理解力を伴った同情心ですね。
これよく、英語の言葉でコンパッションと言われています。
コンというのは、共にという意味ですね。パッションというのは、イエス様のパッションという映画がありましたが、
実は苦しみという意味です。痛みという意味です。だから、共に痛む。
まさにそれがコンパッションですね。この同情心です。
この深い同情心というのはですね、
まさに人の最も深い部分に影響を与えるわけですね。
共感とか寄り添いとか言われることもあるかもしれません。
まさにイエス様が弱り果てた人々に抱いた感情です。
ギリシャ語の言語では内蔵を意味する心ですね。
内蔵ということと同情という言葉が合わさった言葉がこの深い同情心です。
イエス様の言葉がよく現れているのは、このマタイの9章35節から36節の御言葉です。
それからイエスはすべての町や村をめぐって、
街道で教え、身国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。
また、群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われたということですね。
羊に当てはめられていますが、例えば今の私たちでよくテレビで目にするのは、
虐待された保護犬とか保護猫ですね。そんなのを見るときに、羊飼いのない羊のように同情したイエス様のようにですね、
この心が痛むわけです。そのように動物にとどまらず、隣人の痛みに共感する心、
それが深い同情心、深い慈愛の心です。 次の品性はですね、親切です。
学者が解説していますけれども、これは常識的で見失れがちであるが、
パールが強調する基本的な美徳です。 実はですね、ここに挙げられている5つの品性は、
当時のローマ・ギリシャ世界では通常の美徳としても言われていたことです。
パールはそれをあえてクリスチャンのために取り上げました。 またこれらの美徳は今の私たちにとっても
慣れ親しんだものですね。 そんなが例えば親切とはどのものか。
クリスチャン的には 他人に対するキリストのような態度だというんですね。
ちなみに日本語の辞書を調べたらですね、こう書いてありました。 弱い立場にある人や
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困った目にあっている人の身になって何かをしてやったりして、 優しく対応することです。
学者もですね、この親切と深い慈愛、一番目に見た品性は関連し合っているというように、
そういうものが 現れ出た美徳ですね。
よく言う 電車の中で
お年寄りや 障害のある方に席を譲るということも言えるかもしれません。
3番目 謙遜です。
謙遜はよく皆さんもご存知かと思いますが、 自分を低いものとして相手に対して
控えめな態度をとることだと。 そして
キリスト教的に言うには、自分の権利や地位を進んで捨てること。
ある学者が言うには、自分に対するキリストのような態度ですね。
傲慢の反対だって言うんです。 その最高の模範はイエス様の十字架に見られるって言うんです。
ピリピリピートの手紙の2章の6節と7節を掲げましたが、 こういうイエス様の態度です。
キリストは神の見姿であられる方なのに、 神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして使えるものの姿をとり、 人間と同じようになられたのです。
相手のために自分の立場を低くする、あるいは自分の権利を捨てて、 相手に使える態度。
それが謙遜だというわけですね。 次です。
入話。 入話はですね、皆さんどう考えるでしょうか。
この聖書の御言葉によるとですね、 これは他者に対する態度に関わることで、
つまり他の人に私たちが近づくときに表される 恩和で謙遜な態度です。
わかりやすくするために反対の態度はですね、 失礼で傲慢な態度、それとは正反対の態度だって言うんですね。
よく言われるのは、例えば 客の立場として店員に傲慢に振る舞う、
そういうクレーマー的な態度とは反対だって言うんですね。 教会ではそういうことをする人いないと思いますが、
教会のみならず家族や様々な人間関係でその相手に近づくときに 恩和で謙遜な態度をとるということです。
そして最後の寛容。 それは他者に対する感情に関わることだ。
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仁和は態度に関わることであるけれども、 寛容は感情に関わることだと言うんですね。
つまり他の人に反応するときに 減り下った親切さを持って望む。
どのように感情と関係しているかというと、 先ほど申し上げました3章17節で述べられた
捨てるべきもの、それは怒りや意気通りというのがありましたね。
この怒りや意気通りを抑えた感情を寛容というわけです。
私も自戒を込めて言いますが、考えもせずに何かカッとしてですね、 悪い言葉を吐いてしまったり、怒りを表してしまう。
それとは反対の態度で、何か腹の虫が収まらないことが起こったとしても、
その感情を抑えて、目減り下って親切に対応することを寛容というようです。
またある学者はですね、この狭い視野に立ってみると怒るかもしれませんけれども、
広い視野を持って、その子に良い光を見出して接していくこと、物事を捉えていくことが寛容に通じるというんですね。
これら5つ常識的な言葉かもしれません。
しかしパウロも当時の常識的な言葉をあえて、クリスチャンの品性として取り上げました。
イエス様を斬ることとしてこれらを取り上げました。
あまりにも知られているが故に、私たちはこのような品性を過論じたり、見過ごしてしまうことがあるかもしれませんね。
ですから皆さんもですね、改めて今日のレジュメを見直してみたり、国語辞典を調べたりですね、
インターネットの辞典と言いますかね、グーなどありますけど、インターネットの辞典でさえこういう言葉を調べてみると、
新しい気づきがあって、皆さんの人間関係にもプラスになるかと思います。
ぜひ試してみてください。
その上で、キリストを斬るものとしての具体的な副として、この5つの品性というものを捉えていってください。
ちなみにですね、パウロはこの12節の続きに、この5つの品性と関係する、ある面具体的な状況をこう述べています。
3章13節をお読みします。
互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに許し合いなさい。
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主があなた方を許してくださったように、あなた方もそうしなさい。
皆さんは誰かに対してどんな不満を抱くでしょうか。
あるいは誰かから何かの不満を打ち明けられたり、あるいはぶつけられたりしたことがあるでしょうか。
パウロはですね、ここで具体的な状況まで踏み込んでいないんですね。もっと細かい状況まで踏み込んでいません。
でも、こういう状況は、誰であっても容易に体験したり、連想することができると思います。
そのそれぞれの状況にあって、誰かに不満を抱くときも、許し合うとパウロは明示しているわけです。
その動機としてイエス様の許しを思い浮かべる、そうパウロは述べているんですね。
これはクリスチャンの品性として、皆さんに覚えておいていただきたいもう一つの面なんです。
それは、大事なことは、クリスチャンというのは、イエス様にあって自分も許されているということが、他人を許す動機になるということなんですね。
つまりイエス様の許しと、私たちが体験するイエス様の許しと、私たちが他の人に与えるべき許しというのは、連携し合っていると考えられるわけです。
実は皆さんもこのことを毎週、礼拝の中で告白していることを気づいていますか?気づいていますよね。
主の祈りの中で、こう祈っていますよね。
我らに罪を犯す者を、我らが許すかごとく、我らの罪をも許したまえ。
このようにパウロは、五つの身に着けるべき具体的な品性を御言葉で述べ、私たちが着るべきキリストの姿を提示しているわけです。
それでは最後に、結びの帯としての愛について見てみましょう。
結びの帯としての愛です。
パウロは続けで三章十四節でこう述べています。
そしてこれらすべての上に愛をつけなさい。
愛は結びの帯として完全です。
これらの五つの品性を完成する最も大事なものとして、パウロは愛を述べています。
ついこの間、成人式というものがありましたね。
晴れ着を着る女性も多いと思います。
あるいは、男性ではモンツキ袴を着るかもしれません。
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これらどんなに素敵な晴れ着やかっこいいモンツキ袴を身に着けたとしても、
この結びの帯を最後に着けてこそ、この装いは完成するわけです。
同じように、この五つの品性の最も深い動機として、パウロは愛が欠かせないというわけです。
言い換えれば、この深い動機は愛だというんですね。
しなければならないからするのではない。
愛するがゆえに、愛を知っているがゆえに、この五つの品性を持って人々に対応するということです。
実は愛という言葉は、昨今安っぽく言われていますね。
でも聖書でいう愛、それは、人間の時には浄愛ということで使われますが、そういうものではないわけです。
この聖書の言う愛というのは、相手の最善を願う、それが愛です。
また、その相手の最善のために時に自らを犠牲にする、自らを犠牲にする、それが愛であり、聖書では赤ぺえと言われているんですね。
そして、皆さんお気づきになったと思いますが、それはイエス様に見られる愛の姿ですね。
私たちの罪のためにイエス様は、その命を投げ出して十字架にかかってくださいました。
私たちはその愛を知り、その愛を知るべく今生きているわけですね。
そしてその愛を知って、その愛を表すべく他の人々に使える時、実は私たちはキリストを身にまとっている。
そのキリストの装いが完成するということなんです。
ここで一つ、皆さんに覚えておいていただきたいことは、この最も深い動機は、このキリストの赤ぺえの愛だということ。
それを覚えておいていただきたいわけです。
最後にこのイエス様のまさにマナ弟子の一人、
マナ弟子イエス様に最も愛されたと自負している弟子が、聖書の中でこういう御言葉を残しているんですね。
ヨハネがこう述べているこの御言葉を最後に紹介して、説教を締めくいたいと思います。
読める方はその場で声に出して一緒に読んでみましょう。
ヨハネの手紙第一四章の十八節から十九節、一緒に読んでみましょうか。
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3. 愛には恐れがありません。
全き愛は恐れを占め出します。
なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は全き者となっていないのです。
私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。
この神様の愛、イエス様の愛を深く知り、
それを知る者としてその愛を生きるイエス様の品質を身にまとうお互いでありたいと思います。
そしてイエス様を明かししていく聖なる民の歩みを今週もしていくお互い、
新しい月もしていくお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の父なる神様、御言葉を感謝いたします。
緊急事態宣言下で共に集まれない中ですけれども、御言葉から私たちに教えてくださりありがとうございます。
イエス様と共に十字架に死に、また罪に死に、イエス様と共に蘇り、新しくイエス様を斬る者とされた私たちに、
どうぞその私たちがイエス様を具体的な日々の生活の中で、人間関係の中で学び身にまとうことができるように導いてください。
弱く足りない部分が多い私たちです。
どうぞあなたが与えてくださった内なる聖霊様が私たちをしてイエス様を生きることができるように導いてくださるようお願いいたします。
そのようにしてどうぞ弱く賭けなる私たちが、クリスチャンとして一致を保ちながら、この世においてイエス様、聖なるイエス様を明かしするお互いでありますように。
この言いつくせない思いを、私たちの救い主主イエス様のお名前によって、皆さんの祈りに合わせお祈りいたします。アーメン。
それではしばし一分ほどその場でお祈りください。