人間関係の怖さ
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月17日、木曜日、朝の8時ですね。
おお、連続8時だった気がする。
やっぱりね、お盆の真ん中だと聞く人の数が上に見えて減って驚かされますね。
まあでもこれ大変、木なんかはいいことじゃないかと思うんですよね。
この間、皆さんお休みを取られているということですよね。
そして帰省された、ちょっと今回帰省ね、東海道新幹線がストップしたりして帰省した方の中には大変な方もいらっしゃったんじゃないかと思うんですが、
まあまあ、でもね、死んだり亡くなったりしているわけでなければ、
言うのも後々はいい思い出に代替なるもんなんで、人間の記憶というのはうまいことできてますから。
まあ、これを聞くよりも実家に帰ってのんびりするとかがいいと私も思いますので、
この間減ってるというのは悪いことじゃないと思うんですよ。
私自身のもそうなんですけど、仕事がやっぱり急って減ってるんですよね、この間ね。
もちろん関係者の方が帰省されたり休まれたりしている中で、
たまたま重なってですね、コロナがやってるとかそういう話が、
ちらほらね、地方の方でむしろ期間が効くんですよね。
で、延期になったりしているうちに、ということは後で仕事が増すってことですけど、
まあそれもいいことなんじゃないかと思いますね。
で、26日のですね、今日の話もそうなんだけど、
こちらは山崎さんをお招きして、何回喋ってるんだっけ、
精神分析の歩き方って本出されてますんで、よろしければそちらも。
最近戸畑先生の本が、先生じゃないですけどね、僕から見ると。
戸畑海人さんの本が非常に順調で、僕もこれは大変いいことだと思うんですよ。
とにかくこの種の本がですね、世の中の普通の人の目に触れるというのが、
今の時代ではとても大事だと。
僕はその流れの中でですね、倉田之介蔵さんのGood Vibesも、
一連の僕との強調のやつもできれば。
あそこまで好調になるのはちょっとイメージできないんですけど、
そういう感じで幅広く読まれるといいなと思っていますが、
本の世界も結構何が起きるかわかんないんで。
僕これを白いイントワルツオ現象と呼んでるんですけど、
あの本って確かですね、とってもいい本だと思った書店員さんが、
伝説かもしれませんけどね、書店員さんが手書きでポップを書いてみた。
あんまりそういう手書きポップって今は山のようにありますが、
当時はあまりそういうのがない時代にやってみたら、
全然もう書摺り止まってたのがミリオンになったみたいな、
白い犬とワルツオ、割と有名な本ですよね。
で、私それでからまだ全然本書くとかの前ですよ。
それを知ったのは僕が勤めてた頃なんで、
20代中盤、25、6歳の頃。
いやー、あの頃はひどい時代でしたね、僕自身は。
でも後から考えると結構いい思い出になってるんで、
さっき言ったみたいにね。
記憶っていうのは上手くできてますから。
なんだ、何の話をしてるかというと、
20代半ばの頃、そろそろ書店に行って、
手書きポップというものを見るようになったら、
すんごいいっぱいあるんだってことに気づいたんですよ。
当時から当然目に入ってたんだけど、
手書きポップというものを意識して見てなかった。
書店ってのはやっぱり多大な努力をしてるんだな、
本を売るためにっていうのはね、
その時、すごい意識するようになったんですね。
だから僕はそれ以来、
白い犬とワルツを現象と呼んでるんですが、
こういうことが起こるかもしれないので、
倉園さんの本とか、私の教長のやつとか、
ついに爆発的に売れるみたいなね。
だれかがポップを書いたぐらいじゃ、
今はもうそういう現象は起きないだろうけど、
何か起こってくれるといいな、
という流れとはあんまり関係ないけど、
山崎さんと26日やると。
精神分析の歩き方も、
あれ最後まで読み通すのは難しいところもあると思いますけれども、
途中まででもいいから。
ただ安い本じゃないから、
たぶんあの本を買って途中まで読もうとは、
人は思わないんだよなっていうのはちょっとネックなんですよね。
あれが文庫で5、600円ならば、
あるいはって思うんですけどね。
まあまあいいや、その辺にしておきましょう。
今日はですね、
今日はというか今日もというか、
グダグダモードでいこうかなと思っているんですけどね。
話が多岐にわたるということですね。
僕の中ではね。
一つにはですね、
最近これも人とのやり取りをしていて、
通設に強調したくなった話で、
その話からいきますが、
人間関係ってのは、
放映でしか僕らのような人間は、
損なうことがないんじゃないかって、
最近思うようになったんですね。
というのは私たちは、
これを聞いている私、
これを聞いている私は聞いているかの知っている方とか、
知っている範囲内でこれを聞いてくださっているという方々は、
東映現象と同一化
全員皆さん精神病水準ではないわけですよ。
単純に言って。
つまりいきなり病院に連れて行かれることはありえないし、
投薬もしてないだろうと考えられる。
抗鬱剤はちょっと別としてですね。
あと、
持病の腰痛とかもまた別としてね。
そういうのではなくて、してないと思われるわけですね。
ドラッグ中毒ないし、
アルコール依存症って方も僕の知る限りはいないので、
それらは人間関係損なうんだけど、
そういうことではないだろうと思うわけですね。
そうすると、それで人間関係が不安だ、
対人恐怖だ、云々患難みたいな、
なんでもいいんですけれどもね。
例えばそうだな、
うちの父がよくそういう問題にうめいていたものなんですけど、
書道の先生とかにダメ出しされるときついわけですよ。
うちの父でないそうなるというか、
そういうところないわけじゃなかったんでね、後から思えば。
うーんと強くはない人ですけどね、そういうのがね。
そんなに悩む人じゃないけどね。ないわけじゃない。
放映を僕あれば、後から考えれば思うんですよね。
放映するから怖くなるんですよ。
もともとそれはダメだし怖いとは思うんですよ。
でも、
放映しなければそんなに怖くはないだろう。
で、私、東映というと東映ドイツカが出てくるんだけど、
東映と東映ドイツカってどう違うんだろうって思ってたんですよ。
こういう話はですね、私の話を鵜呑みにしないでくださいね。
だから専門家呼びたくなるんだよね。
専門家の人に話を聞きたいと思いますよね。
東映と東映ドイツカっていうのは、
松木さんっていう方が、
この人はタイ科だと僕は思ってるんですけど、
によると同じと見なして雑誌使えないっていうことを本で書いてて、
よしと思ったんですよね。
よしと思ったというのは僕はこれはどう違うんだ一体って思うことで、
悩み始めた時期がありまして、
これ喋ってる間ですよ。
ここ2年前ぐらいからかな。
でも同じなんじゃないのかって考えるように長らくなってて、
同じだって書いてあると非常にやっぱりね、
一つ謎が解けた感じがするんですよね。
近代少年のようにね。
要は、
要はすっごく簡単なところでですね、
例えば私が、私じゃなくてもいいんだよね。
それこそカウンセリング現場で、
現場にカウンセラーが男性ですと、
相談に来た女性がいますと、
でも女性はそのカウンセラーのことをお父さんだと、
東映しちゃいましたと。
お父さんのように感じる。
これはもうあまりにも例が多すぎて、
どうしようもないぐらいあると。
それが起きないほうが謎だぐらい。
これお父さんとは限りませんが、お父さんを東映したと。
つまりお父さんを見ちゃったと。
ブロイドとかほら、肖像を見るとお父さん然としてるじゃないですか。
お父さんっぽい。なんかこうね、紳士っぽいっていうのかな。
シルクハットかぶってヒゲたくわえてタバコを。
しかも歯まき。ハイプですよ。
まあお父さんっぽい。
で、お父さんが好きになるとか。
東映ですね。
そうすると当然お父さん自分がちっちゃい子だった。
ここに東映同一化っていうのがあると思うんですよね。
まず自分がお父さんに対する自分にだんだん
同一化していくじゃないですか。
お父さんをブロイドに見るということは、
多分自分は小さな子供だった時代を思い出すんですよね。
現在のカウンセリングでもこれきっと起きてますよ。
やってる人いるかわかんない。
あるいはカウンセリングなんかしてなくても
お医者さんにかかってるだけでこれ起こることありますよね。
女の先生にかかった時に
お母さんみたいだなって思っちゃう。
そしたら自分その時ちっちゃな子供みたいな感じが
するじゃないですか。
学校の先生に東映してる人っていっぱいいますよね。
投影と誤解
今、母が来てとてもうるさい感じが
僕の中でするんだけど、
どのくらいうるさいのかな、これな。
続かないでほしいなって思ってるんですけど
続くんだよね、そういう時って。
お父さんを東映する。
そうすると自分がちっちゃな子供みたいになる。
これだけでも東映と同一化って起きるんだけど
もう一つですね。
この人がお父さんだとずっと思ってると
お父さんがうるまい出すんですよ。
これが同一化のすごいところだと
私は思うんですね。
そして私はこれを知ってから
人間関係というものが
ものすごく楽だなっていう風に
思えるようになったんですよ。
何でかっていうと
東映するから怖いんですよ。
一番怖がってた時のお父さんを相手に見たら
怖いに決まっていますよね。
自分ちっちゃな子供でめっちゃ怒られてる
みたいな気がする。
あるいはお父さん、機嫌を損ねたんじゃない。
こういうのを使ってある意味治療に当たっていくのが
精神分析とか臨床だと思うんだけれども
こういう風にお父さんだと思ったら
その人の機嫌を損ねるのは嫌だって思う。
だけどそれは無意識に起こることだから。
本当に相手のことをお父さんだと思ってないと思ってるんですよ。
自分では。
いやこの人別にお父さんだけじゃないしと。
でもだとするとどうして自分はこの人が不機嫌になるのが怖いんだろうと
って考えてもいいじゃないですか。
現にそういうこと考えるじゃないですか、僕らは。
だからこれを僕はやるんだなと。
無意識のうちに。
これを持ってきて気づけば
この人はお父さんじゃないんだから
お父さんだと思うってのはおかしいよねと気づけばですね
どうしてこの人を自分が必要もないのに恐れている
あるいは必要以上に恐れているのかが
見えてくるんですよ。
これがまた驚くほどよく見えてくるんですよね。
びっくりするレベルで出てくるんですよ。
これがですね
投影というのはつまり誤解なわけですよ。
ここが大事だと思うんですね。
誤解の解消
投影というのは事実ではないですよね。
そりゃそうですよね。
私が女のお医者さんにかかったから
これを母親だとみんな誤解ですよね。
これは明らかに。
誤解というのは解けるんですよ。いつか。
投影って
永続しないんですね。
だからある意味放っておいても大丈夫なんですよ。
要は
無意識がやっている誤解ってのは
誤解であるとわかりさえすればいいわけです。
誤解だとわかりさえすれば
その人間関係はある意味正常なものに戻るんですね。
例えばなんですけど
転移性恋愛とか言うけど
恋愛で登場しますよね。
お医者さんとかに転移性恋愛すると
つまりお医者さんに恋しちゃうわけですけど
だから恋するから怖くなるわけですよ。
疲れたいと思いますよね。恋愛状態に入ると。
そうすると嫌われたんじゃないだろうか。
医者に嫌われて何か困るかって話なんですよ。
つまり冷静になるということは
自分の誤解を解くってことですよね。
自分の誤解を解きさえすれば冷静になれ。
冷静でないのは
恋愛の状態って冷静じゃない場合が多いですけど
冷静でないのはそこに誤解があるからなんですよ。
多くの場合です。
僕はほとんどだからさっき言った通り
正常な人の人間関係がこじれるのは
投影が絡んでないはずないなって思うようになったんですね。
怖さを増していきますから。
なぜなら自分を冷静でない状態に
引きずり戻すという機能を備えているので
自分の母親だ父親だを相手に見ちゃうからね。
そうすると自分は僕ちゃんになっちゃうじゃないですか。
そうすると怖くなるわけですよ。
ここに上下関係ができるし
自分無力感が出ますから相手に対して。
それで怖くなってしまうわけですが
冷静になってみると相手は年下だったりするわけですね。
年下が父親だってのは明らかにおかしいよね。
だからこれはグッドバイブスで
クラゾンゲイドさんがおっしゃる話ですけど
イリュージョンは現実には勝てないわけですよ。
必ず誤解は現実に、誤解だと気づけば
崩壊するわけです。
だって事実に反するからね。
投影とイリュージョン
実に単純な話なんですよ。
あるがままでいいんだってことにも気づけるわけですよ。
あるがままでいいっていう言葉も
ある種の誤解なんだなっていう風に
最近私は感じるようになったんですね。
いろんなところであるがままでいいって言われてるから
誤解だっていうのはちょっとなと思うんだけど
別に悪い意味ではないんですよ。
あるがままでいいって言うのも今の話だとおかしいじゃないですか。
あるがままでいいんじゃなくて
あるがままでしかないんですよね。
つまりここの人間関係は親子関係じゃないんだ。
親子関係じゃなくて
医者と患者であるのがあるがままだ。
あるがままでいいんだってわざわざ思うことは本当はないじゃないですか。
あるがままでしかないじゃないですか。
よくよく考えてみると
親子関係であっては困るとかって考える必要はないわけですよね。
親子関係じゃないんだから。
あるがままでいいっていうか
あるがままでいいのは当然なんですよね。
あるがままでいいのは当然だと思えればもう十分なんですよ。
ここで僕はタスクシュートのことを思い出したんですね。
あれも誤解が広まる問題みたいなのが
私はタスクシュート協会で理事とかやってるから
そういう話は出てくるんですけど
あるがままでいいんだよって思うようになってるんですね。
だいぶ前から。
タスクシュートってそもそもそういうもんだったんだよなっていうのを
すごく意識するようになってるんですよ。
つまり誤解って広まらないんですよね。
これは誤解が広まるって言葉がこれほど世の中に広まってるのに
わざわざこう
挑発的なことを言うように聞こえるかもしれませんが
誤解って広まらないんですよ。
今一体状況で。
誤解って投影なんですね。
これはイリュージョンなんですが
それは広まるはずがないんですよ。
投影ってそのままの形では絶対伝わらないから。
そうですよね、私はこの先生がお母さんに見えるんです
っていう話は伝わるかもしれないけど
どう私が見ているのかを人に伝えるのは不可能です。
事実上無理です。
なぜならそれは無意識にしかできないようなことで
気づいてしまったらもう無理なんですよ。
なんかこう童話でよくありますよね。
童話の話にここしたくないんだけど本当は。
童話でよく相手の本当の名前を言うと
途端に正体が現れてボーンと消えるみたいな
千と千尋とかでもやってましたよね。
あれはどうしてかっていうと
イリュージョンは言葉に直せないんですよ。
タスクシュートと現実
なぜならば言葉というのは意識の上で使うものだから
無意識の世界でしか成り立たないものを
だから私は誤解はそういう意味で
決して広がることはできないんだと思うんですよ。
結局現実というものしか
本当は伝わらないはずだから。
ちょっと難しい例になっちゃうかなと思って
あれなんですけどね。
ミュリー・リアーの画作詞ってあるじゃないですか。
矢印にすると短く見えて
矢印逆にすると長く見えるってやつね。
あれがつまり作詞って誤解ですよね。
錯覚なんだから。
あれ短さ違うんだよって話は伝わらないですよね。
なぜなら事実じゃないから。
長さ違うって誤解した人が
この誤解を広めようとしても
すぐに限界に行き着く。
実際に違うのかって測られると違わないんでね。
現実に対して誤解というものは勝てないんですよ。
これが僕があるがままでいいというか
あるがままであるのは当然だと思うんですね。
よくあるのが
タスクシュートで誤解されるとされていることの一つに
よくある誤解とされていることが
書いた通りに実行できないとか
この通りにやれば
理想の私になれるという誤解ってやつなんですけど
この誤解は広まらないだろうって思っているんですよ。
というのは
そもそもそんなことを理事の誰も言ってないってこともあるんですけど
だからこの誤解ってそもそも誰が広めるんだよ
っていうのもあるんだけど
書いた通りにやれば理想のあなたになれますよって誰も言ってないからね。
東橋さんも、橋本さんも言ってない。J.松崎さんも言ってない。
私は一番言わないその種のことは。
だからこれが広まるはずないんだけど
仮にこういう人がいたとしても
書いた通りにやっても理想的な自分にはなれないんですよ。
だからそれはイリュージョンなんでね、投影なんで
決してそれが広まることはないんですよ。
やってみるとすぐそうでないことがわかっちゃいますからね。
その通りにタスクシュートを使ってみたら
書いた通りにそもそもできない。
書いた通りにやってみても
理想の自分になれた気がしない
っていうことが起こるはずなんですよ。
どっちかというと第2段階にまで達する人はほとんどいなくて
第1段階で理想のリストを
実行できないんですけどってところに
行き着くと思うんですよ。
やればですけど。
だからやらないで誤解を広めるってわけにはいかないと思うんですよね。
私タスクシュート全く使ってないんだけど
あなたぜひバリバリ使いなさいっていう仕様
人はしないからね、あんまり。
もう一つは
そうはできない。
書いた通りに実行するなんてことはできないし
特に理想を追い求めて書く人のリストっていうのは
全く現実的でないリスト。
つまり投影なんですよ。
投影は広まらないんですね。
何を投影してるかというと、おそらくその人の中の
理想の私を投影するんですよね、リストの上に。
よくあることですよね、ものすごくよくあることだと思います。
朝4時に起きる。
一度も起きたことがありませんけど起きますみたいな
そういうリストをいきなりタスクシュートに書くらない。
書くはないか、予定として書けるか。
予定と起きるは僕は違うと思うんだけどね。
とにかく朝4時に起きる。
時間割みたいなやつですよね、タスクシュートじゃなくて。
それをタスクシュートに投影するんですよ。
私のあるべき姿を表した。
私のあるべき時間割みたいな。
それはタスクシュートでも何でもないんだけど
ちょっと似てるもんだから。
つまりフロイトにお父さんを見てしまうように
タスクシュートに私のあるべき時間割を投影して。
投影というのは上に置くことがすごく多いんですよ。
上に置くんですよ、被せる。
そしてそれはあるがままの話と全然違うみたいな。
当然できない。
ここでイリュージョンというのは、
投影というのは現実に負けるんですよ。
無意識のうちにやってるんだと思うんですよね。
これを気づいたときには
この通りにならないんだなってことに気づいちゃうと思うんですよね。
気づいたまま広げることは
人に広めるってことはできないんだと思うんですよ。
この通りにならないんだけど
理想の通りになるからやってみたいなことって言えないじゃないですか。
理想の通りにならないんだけど
理想の通りになるからやってっておかしいですもんね。
理想の通りになってからしかこれは言えないんですよね。
だからならない間は
理想の通りになるリストを作れますっていう誤解は
広まらないと思うんですよね。
こういうことっていくらもあるんですよ、やっぱり。
精神分析でもあるんですよ。
山のようにあって僕もしてるかもしれないけど
結局これは広まらないと思うんですよ。
誤解が広まるって言うんだけど
よく見ていくと誤解って広まらないんだと僕は思うんですよ。
いろんな意味で。
存在しないことは広めようがないっていう、そういう話ですね。
タスクシュートというのは
あるがままでいいリストなんですよ。
なぜならば
やった通りに考える。あるがままになるんです。
ここで非常に深い疑問が、
強い疑問が生まれる。
あるがままでいいんだったらリストいらなくないってことですよ。
だってどうせあるがままに自分生きちゃうし
それをわざわざリストに書き留めることはないじゃないですか。
そうなんですよ。あるがままでいいと思ってる人には
あのリストはいらないかもしれない。
だけどあのリストを使いたい人のほとんどは
タスクシュートじゃダメだと思ってるんですよ。
自分があるがままでは絶対ダメだと。
タスクシュートを使ってもなおそう思い続ける方が多くいらっしゃる。
このままの私ではいけない。
だからタスクシュートがいるんですよ。
そういう流れにならないとこの話は成り立たないと。
誤解という心理状態
僕、これが誤解じゃないと思っているんですよね。
この部分しか人に伝える気はしないし、
この部分しか人には伝わらないだろうな最終的にはとも思ってます。
つまりあるがままの私を記録するから、
そこにあるがままの私が現れる。
問題なのはこれを受け入れられないというその気持ち。
それは誤解なんだけど、
それが受け入れられるようになるためのあれはツールなんですよね。
現に私はあれで自分というものが大筋、
特に時間の使い方については100%受け入れられるようになったんですよ。
このポッドキャストでは常にその話をしているつもりなんだけど、
で、あるがままの私でいいかという問いが出るんだけど、
その問いがおかしいんですよ。
あるがままの私でいいのは当然なんだよね。
それが投影というものが所詮誤解でしかないという話と通じると、
今日は思ってこの話をしたわけですよ。
つまり、学校の先生はお母さんじゃない。
当然じゃないですか。
それでいいかとかよくないかという話をすること自体がおかしいですよ。
医者はお母さんでもお父さんでもない。
これも当然なんですよ。
これを理解するために、
新聞社員に僕はかかるという部分が大きいと思うんですよ。
つまりこれをいかに僕らが理解できない心理状態にはまり込むかと。
そしてその心理状態にはまり込んでことがうまく進むはずがないんですよ。
だって誤解してるわけだから。
見る人見る人お母さん扱いしているようで、
どうして女性との関係がうまくいきますかということですよ。
あるがままの私ではダメなんじゃないでしょうかと。
ある人がですね、
例えば昔の私なんかもそういうところありますが、
ある人がどうしても結婚したいですという人がいて、
だけどどうしてもうまくいきませんと。
女の人と会うんだけど、
女の人大好きなんだけど、
男だと想定してください。
女の人大好きなんだけど、
同時に女の人がすごい怖いんです。
いろんな人によって怖い人ばっかりでしたと。
すごい魅力的な人がいっぱいいたんだけど、
みんな怖い人なんですよ。
なんか私は運が悪いんじゃないでしょうかという人がいるとすると、
この人はよっぽど何かを誤解していると思いません。
その人が見るからそう見えるのであって、
出会っている人がみんな同じタイプだというのは、
いかにもおかしいじゃないですか。
でもこういうことを言う人って世の中には、
ほんと腐るほどと言ってはちょっと申し訳ない。
いっぱいいらっしゃいますよ。
私は本当に運が悪くて、
会社を変えても変えてもとんでもない上司が
常にやってきては、
やだらと緊急の割り込みをいっぱいして、
パワハラをして、
本当に運が悪いと。
何社も回っているのにみんなそうだと。
これをしゃべっている人がやっぱり、
いかに無意識というものの力というのに
翻弄されているかというのを感じるんですよ。
オカルトになっちゃうんですが、これじゃ完全に。
逆だと考えるという可能性が全く考慮されないんです。
これとほぼ同じことを、
男運が悪いという表現でされている方も
いっぱいいらっしゃるわけですよ。
私はその人の性格が悪いとか言いたいわけじゃないですよ。
その人の視点の問題なんですよ、これは。
無意識のですね。
だから魅力的な人にいっぱい出会えるのに
みんな怖い。
あなたがお母さんが大好きで、
あらゆる出会う女性はみんなお母さんだと
無意識のうちに思い込むから、
みんな魅力的に見えるだろうし、
つまり小さかった頃、
お母さんが大好きだった頃の自分に思ってるんですよ。
特に結婚でそれを求めるわけです。
別に不思議なことではない。
恋愛でこれを求めるというのは男女ともやります。
いくらそれがマザコンだとかハザコンだとか
非難されてもやります。
恋愛ってそういうもんなんで、たぶん、もともと。
だけれども、それは良いんですよ。
そうじゃなくて、少しは何をやってるのかを
意識してみましょうってことなんですよね。
女の人にお母さんを見てないのか、
お母さんと似てるように見えてないって、
だいたい頑張れば見えてるってことに気づくもんなんですよ。
よく似たような様子の人を探してると。
ちょっとお母さんは丸顔でぽっちゃりしてました。
付き合おうとしてる人はみんな丸顔でぽっちゃりしてますと。
あり得るんですよ、そんなことはいくらも。
で、その人と、例えばデートしてちょっと不機嫌になる。
めちゃくちゃ怖くなるとか。
お母さんを見てるから。
昔々、自分がケーキにジュースをこぼして
お母さんが不機嫌になったのを見てすごく怖かったのを
同じものをただ見てる。
その記憶を呼び覚ますからめちゃくちゃ怖くなるわけですよ。
それをデートで失敗できないような日がするんですとかいう話に持ってきて。
これはもう完全に臨床心理の世界の話だなとやっぱり思うんですよね。
これを繰り返し繰り返し繰り返し何回も何回も
結婚相談所に行って相談するというのを
フロイトは反復脅迫と呼んだんですよ。
全然驚くようなことじゃないんですね。
これがでも一個言えることは
あるがままの関係でいいじゃんってことなんですよ。
相手の人をもっとよく見ましょうねと。
あなたとその人の関係は
お母さんと僕の関係である必要ないんですよ。
そんなの当たり前じゃないですか。
だって相手はお年下だったり
少なくとも自分のお母さんじゃないんだから。
つまりあるがままの関係を認められないと
人間関係はうまくいかないですよ。
ここにお母さん見られたら相手だって嫌だろうし
しかも大体よくあることなんだけど
投影同一化とは
そこにお父さんを相手は見てたりするんですよね。
うまくいかないですよねこれは。
そうじゃないもの同士をそこに
反逆として割り当ててるから
あなたその通りに動いてくれない。
私のお父さん役やってくれないと。
いやいやあんたこそ私のお母さん役やってよ
ということをやってる。
これを投影同一化っていうわけですよね。
いつかどっちかは
うまい子とその役にはまりこまされるんですよ。
お父さんをやらされてる
お父さんだと思われてる
思われてる思われてるって
ずっと思われてるうちに
その人のお父さんとそっくりの振舞いを始める。
これはオカルトではないんですよ。
そういうことは起こるんですね。
それが投影同一化。
でもこれは長続きしないんでね。
よく言いますけどね。
男女関係長続きしないみたいな。
長続きしないですよね。
だってその人お父さんじゃないから。
誤解は解ける。
夢から覚めるわけですよ。
つまり誤解ってのは
永続しないってことですよね。
あるがままでいいというか
あるがままを見るしかなくて
これが僕らも結構苦手だ。
だからこれをするための
努力こそ必要なんですよ。
あるがままでいいんだったら
何の努力もいりませんよねって
タスクシュートに言うのは
他どちがいもはなはだしいっていうか
ちょっとその言い方も違うんだよね。
あれはあるがままの自分を
まず受け入れられるようになる
訓練をするためのツールであって
それがそもそも
そんなに簡単にできるくらいなら
多分あれを検討することはなかったと。
あれを見てつぶさにですね
自分何をあそこに投影してしまっているのか。
それが割とタスクシュートの面白いところで
実行されないタスクという形で
何を投影したかが
残骸として見えてくるんです。
すごく大事なことだろうとやっぱり思うんです。
投影したものって見えないんだけど
スクシュートでは投影したものが
表面に現れてくる。
そしてそれらは結局のところ
現実には勝てないということが
あからさまになる。
あれほどあからさまになるツールも
ツールとしては珍しいと思うんですね。
そしてあるがままの自分も現れてくる。
おそらく最初はそれは
嫌悪感の対象になるでしょうね。
でもいずれそれが
これ以外はありえない
というように
見えるようになる。
誤解の解消と相手の受け入れ
それが第一段階なんです。
そうして改めて
仕事なり
家事なり
割り込みなりを見てみると
多分違う光景が見えてくるはずなんですね。
ちょうど
親を投影していた恋愛対象なり
夫婦なりを
見てみると
あるいは先生でもいいんですけどね。
お客さんとかを見てみると
違うものが、違う人がそこに
見えてこなければおかしいと思うんです。
それぐらいのことは僕らやりますからね。
投影しているときに。
誤解を見て
誤解は解けるんですが
誤解を解くことが自分でできれば
いろんな
誤解が一斉に解けるんですよ。
少なくとも人間関係が
そんなに怖いものではなくなる
というような
発見が
おそらくある。
私はGood Vibes
以来ってことになるんだけど
怖くないっていうのが
最近つくづくを
再発見するようになって
以来ですね。
怖い
というのはつまり
相手が怖かったわけじゃない。
もともと
相手にそんなに凄まじいことを
されてたわけではないので
それでもいまだに
僕が
震えさせる
何かってのがあるんだけど
それは全部自分が震えてるだけなんですよ。
勝手に。
誤解なんですよ。やっぱり。
投影して
投影した相手の
その記憶を
自分が読み覚まして
誤解を広げて自分の中で
そして勝手に
怖がる。これが生じなければ
そもそも怖いってことが
起こらない。
その時に
いわゆる夢のような恋愛ってのは
成立しなくなるんじゃないか
っていう
一つの
かなりこれは
深い意味での
難しさみたいなのは
ちょっとあるんですよね。
例えば恋愛していた対象が父親だと
自分の父親だと思っていたからこそ
この男性が好きだったのに
そのイリュージョン完全に
騙してしまうと
確かに怖くはない。
人間関係にも無理はなくなるが
かつて
思っていたような恋愛対象では
なくなってしまうということは
あり得ると思います。
ただそれは僕が思うに
悪いものではないと思います。
あるがままの自分を受け入れてしまう
あるがままの相手を受け入れてしまうと
残念だっていうのは
イリュージョンと比較して
ガーデニングの学び
現実が残念だっていう意味に
近いんだけれども
それはですね
多分それこそ誤解なんですよね。
僕はここ数年
ガーデニングで
少し学んだことですね。
これは理想のふりに
決してならない。面白いことに
僕は農家とか
家だったわけじゃないし
何か公営するべき
理想みたいなものが
そもそも頭にあるのかっていうと
ないんだけど、それでもやっぱり
青々とした葉っぱと
赤なトマトみたいな
絵ですよね。これ完全に
ど素人の描く絵なんだけど
描いてたわけですよ。
投影するわけ。だけど
虫は食うわ。
腐るわ。枯れるわ。
うどんこ病とかね。
油虫とかも
トラブルのネタには
こと書かないわけですね。
最初は嫌なんです。
投影している理想通りに
絶対なってくれないから。
絶対投影は現実に
かれないんですよ。現実は
こうなわけですよ。これを
理想通りにやりたければおそらく
バッチリビニルハウスから
やったり。それはもう完全に
農家さんのやることで
かかるお金が
この家の全財産を継ぎ込んでも
無理っていうレベルになっちゃうので
人工の庭を作るって話ですからね。
だから
現実はそうなんですよ。
そのうちやってると
理想というのは
入る余地もなくなるんですね。
そんな絵に描いてあるトマトとかは
放っておいてできるはず
絶対ないんで。
そのうちに
現実というものが
そこに現れてくるのが
目に入ってきて
この
現実の
植物なりトマトなりを
受け入れる。
受け入れていいんだとか悪いんだとか言うのは
現実と理想の関係
間違ってるんですよね。
放映してるものってのは
2次元に近くて
絵なんですよ、写真とか。
それは3次元に
当てるかどうかっていう
話をすること自体が微妙に
おかしいわけです。
だからその辺タスク修道とか
人間関係も全部同じなんですよ。
リアルなもの
は
アルファフォンでいいとか悪いとか
そういうこと言うこと自体が
筋違いのもので
この話何回か自分
ここんところしてる気がするんだけど
そのまま受け入れるしか
まずはない。
そしてそれがそもそも僕らは
さっきも言いましたけど
あんまり上手にできてないんです。
だからアルガママを受け入れるための
ツールは無用じゃないか
って言えるほどアルガママが
受け入れられている。
というかアルガママというものを
受け入れたのはそんなに
僕は多くはないと思うんです。
だからアルガママというものが
どういうものかを知らないし
その力というのかな
その
なんて言うんですかね
否定しがたさみたいなもの
あるんですよ。
病気になっていようと
人間が考えるところの病気だけど
枯れていようと
そこに否定しがたいものが
否定してもどうにもなんないですしね。
そうしたからってどうなるわけじゃない。
ただ全然それは
絵で描いたトマトを
絵できれいに描いておけば
現実のトマトが
その通りになるというぐらい
むちゃくちゃっていう
現実の
なんて言うんですかね
かえがたさみたいなものが
押してればですね
投影などというもの
誤解などというものが
現実を凌駕できるわけがない。
現実に対するですね
評価が
すごく間違って低すぎるんですよ。
圧倒的に現実のほうが
強力だってことですよね。
だから勝てない。
勝てるわけがないし
勝負がそこで行われてなんかいない
っていう感じ。
それがその
理想が
理想の投影というもので
現実をどうこうできないし
そんなことはまあ
それをやろうとするっていう
努力自体が一番つらい。
それと
誤解が広まらないというのは
おそらく同じ意味になる
と思うんですね。誤解というものが
広まるほど現実というのは
弱くはないということを
私たちは知らないときが
知ろうとしないときが
あるんですね。
だからそんなことが怖くなるんだろう。
目の前の
お医者さんが怖いわけじゃなくて
昔お母さんに
怒られた記憶が怖いんだろう。
それを認めるのは
難しいはずは本当はないんだけど
意外にそれが
難しいんですよね。
だからそれができるようになっちゃえば
そんなことで悩むってこと自体が
ありえなくなるって感じですかね。