2022-06-24 29:16

【623GMV】本当の自己を発信する

エピソードをシェアする

Share on X Share on Facebook Share on Threads
偽りの自己に任せ切らない
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えー、金曜日なんですが、総集編というものは全然頭に無くてですね。
というのは、多分今週は川水目と喋ってきたわけですけれども、もう一切頭から消えたんですよね、喋った内容が。
で、最近そうそう、ノートとかなのかな。
ノートってメディアでサービスですね。
あれ、ブログと違って何が面白いかというと、タイトルが無いんですよ、ブログに。
ブログタイトルに相当するものが。記事タイトルは付けますよね、もちろん。
だけども、例えば私のノートは別に、ノキバの毎日のノートとかじゃないんですよ。
無いんですよ、そういうものが。
奇跡というか面白いなと思ったんですね。
ノートっていうのは言ってみれば何なのかな。
大きなSNSで、ブログサービスではないんだと思うんですよ。
Twitterってそうじゃないですか。
なんかちょっとタイトルっぽく付けられるけど、私の名前をフォローしていただくわけですよね。
あれとノートは全く同じで、ノートのトータルのタイトルみたいなのが無いんですよ。
マガジンとかを作れば、そのマガジンには、今有料マガジンで3カードっていうのをやってるんで、
よろしければ読んでいただけると、月額500円になってます。
これは3カードって名前を付けてるんですね。
私と岡野淳さんとZoeさんでやってるマガジンなんですね。
こういうことはできます。
でも、私のノートはどういうタイトルなのかと言われると、無いんですよ、そういうもの。
フォローしてもらう、そういう意味ではTwitterなんですね。
非常に面白いというか独特のサービスだなっていう風に最初見た時思いました。
今何でノートの話をしてるかというと、
今ノートはカッコログを完全にエクスポートする方法があるのか無いのかよく分からないけど無いのかな。
あるいは非常にややこしかったりするのか分からないんですけどね。
あんまり自分の書いたものの所有権というか著作権とはちょっと違うような気がしますもんね。
エクスポートだから。
付けますみたいなのを歌ってる歌ってないみたいなのも結構色々そういうのが問題になったりするわけですよ。
あった方がいいとは私も思います。そういうサービスは。
でも私自身は別にどっちでもいいんですよ。
これはだいぶ私が、昔からそういうところが私にはあるんだけど、だいぶ変わってきたところで、
グッドヴァイブスでこれもラディカルに、でもこれを言うとちょっとおかゆを招くかもしれないんで、
グッドヴァイブスでそういうエクスポート機能がいりませんとか言ってるわけじゃないですからね。
著作権はフリーにしましょうって言ってるわけでもないですから。
03:00
そういうことは関係ないんですが、私自身はグッドヴァイブス以来元々持ってた傾向として、
あまり過去のアーカイブはそれほど私は執着がないんですね。
大事でしょう、財産でしょうって言われれば多分そうなんでしょうね。
でも私の頭の中に全部基本あるはずですからって感じなんですよ。
ここが多分感覚的に違うっていうことはあると思うんですけど、
私は今まで言ってきたようなことを言うだけならば、永遠に量産し続けられるという感覚が結構あるんですよ。
その感覚は非常に微妙なんですけど、そんなことは法則としては言えませんが、
アーカイブに執着すると失い始めるような気もするんですよ。
とにかくこの件に関しては私は今ここって100%賛同で、
今私が喋ってるものが全てなんですね。
だからあんまりハウトラインとか作る気がしないんですよ。
作ることはできますよ。
だけれども、それって今ここで作るものになっちゃうんで、
将来それに沿ったものを作る気になるかどうかはまた別の問題なんですね。
似たようにはなるとは思いますよ、さすがに。
だけれども、それを参照して作りましょうっていう感覚には私は全くヒットしない。
多分二度と見ないなっていう気すらするんですよ。
もしかすると時々、100回に1回ぐらいは見るかもしれないけど、
利用率1%のものってわざわざ作りたいと思わないじゃないですか。
そういう感じなんですよね。
私ネタ帳みたいなのも取らないわけではないんですよ、そこら辺のメモに。
でも取ったものがどっか行っちゃうんですよね。
見ることほぼないんです。
見た方がいいものができる気が全くしないんですよね。
私絞ったのも、それこそスリーカードも今書いてるやつも、
全部その場で書き始めてそのままなんですよ。
取っといたほうがいいかなと思って時々、
時々本当にヤバノートとかに取っておくんですけど、
どっか行っちゃいますよね、正直。
前にそれを書いたかどうかとか、あまり気にしないんで。
これもまたもう一つ同じなんですけど、
よく一度前に言ったことをもう一回言っちゃうじゃないかって言われるんですけど、
それでいいんじゃないかと思うんですよ。
なんでそれがいけないのかがわからないんですよ。
全く同じことは多分書けないでしょうしね。
多少は違ったら、ある意味私からすれば、
基本全ては違ったことになる。
だって何パーセント以上はそういうの書いてないじゃないですか。
だって何パーセント以上はそういうの著作権の話に出てきますけど、
何パーセント以上同一だったら同一だとか言うのは、
所詮作り出した基準ってあって、
この番組でもちょっと先日言いましたけど、
将棋の寄付って100点目まで全く同じでも、
101点目から変わったらもうそれは違う勝負なわけじゃないですか。
だって勝敗変わり得るんですからね。
そういう意味でどこまで同じだから云々っていうのは、
私からするとナンセンスな感じしかしなくて、
原則としてその時に書こうと思ったことを書けば、
06:02
それでいいわけね。
このポッドキャストも全く同じですよね。
原則として今喋ろうと思ったことを喋ってれば、
それでいいのであって、
昨日以前のものは全部なくてもいいんですよ。
他の人によっては分かんないから、
そのままにしてありますけど、
私はそれを聞き返すことは、
永遠にしないと分かんないな。
老人になったらするかもしれません。
つまりそういうことなんですよね。
やりたくなったらやるかもしれないし、
その時なければないで別にいいわけです。
その時自分にあるものが全部だと思うんですよね。
つまりこの感覚でやってきて、
基本困ることはないと思うのだけれども、
エクスポート問題みたいなのが起こった時に、
これは財産だって話になるんだなっていうのが、
非常に面白いなとも思うし、
それを取り込むと大変そうだなというのもあります。
まずエクスポートがあるかないかを
気にしなきゃならないですからね。
これはあれですよ、
著作権フリーにしましょうって話ではないですよ。
私の過去に書いた本と全く同じ本が
別の人の名前で出回ったら、
それはそれで困りますよ、もちろん。
経験的な話でね。
ただ感覚的にはそれほどそのことは
実際は気にならない面もあります。
自分にとっては。
ああいうものを作れって言われれば、
言われた時に作ろうと思えば
必ず作れると思いますし、
ある意味では私の模倣を
奇特な人はいないと思うんですけど、
したいと思っても、
うっつくことはできないと絶対思うんですよね。
全くただひたすらコピーするんだったら
写すだけで済むから
うっつけるかもしれないけど、
私はこういう話だったら、
今までもそうしてきましたけど、
1年や2年ずっと続けることは
全然可能なので、
後からうっつくってのは
難しいと思うんですよ。
そんなのだったら、
たぶん全然違うことをした方が
いいと思うんですよね。
もっとほら、それこそ
勝間和夫さんみたいな方だったら
同じようなことができれば
あれぐらい儲かるんだったら
やる価値あると思うんですが、
私のこれじゃあですね、
何にもならないですからね、
一歩間違うと。
だから、後から真似るとか、
後から似たようなものを
作り出すっていうのは、
私は一見効率的だけど
非常に効率的じゃないな
っていう感じがするんですよ。
私がこれをものすごい苦労して
作り出してるって言うならば
別ですよ。
私がこんなに苦労して
本を書いてるって言うならば
別ですけど、
そんなことないんですから。
そういうふうに考えると
後を置いて厳しいと思うんですよ。
たぶんその人にとっては
私のようなことを言うのって
09:00
本音で言ったらきっついと思うんですよね。
例えば、
全ての時間10日だとか
そう思ってない人にしてみれば
そういうセリフって自然とは
出てこないじゃないですか。
何かをするたびに
昨日のお話しした
起きている時間のために
寝てるんですっていう感覚を
持ってる人が
私の喋ってるような話とか
私の書いてるような話を
似たように作ろうと思ったら
大変めんどくさいことになるわけですよ。
私は寝てる時間と起きてる時間の
価値が同じだと思ってるわけですから。
そしてそういうことを
平気で口走るわけですから。
だからここはどうなんでしょう
あそこはどうなんでしょう
っていう話を
その方の感覚と
あまりにもずれたことを
僕が喋っちゃうと
一体こいつは何を言い出したんだ
って話になるじゃないですか。
で、模倣って絶対
そういうことになるはずなんですよ。
だって全く同じ感覚の人はいないんですから。
例えば
日経ビジネスオンラインというのは
だいぶもう昔ですけど
やっていた頃の私とおはしさんの感覚って
価値観はかなり近いと思うんですよ。
でも
かなり近い時ほど
模倣になるんですよね。
おはしさんの書いたものを見て
私は最初から彼のことを
何もかも知ってるわけじゃないから
読みながら考えるわけですよ。
どういう価値観で
こういうふうに書くんだろうかと。
しかも近いものだから
うっかりするとわからなくなってしまうんですよね。
少し違うっていう部分が
割と大事じゃないですか。
で、模倣にはこういう問題って
絶対起こりますよね。
自分の感覚で書いてしまったら
もう模倣にならないわけですから。
でもね、この感覚というものの
なんていうんですか
後ろ盾のない書き方をするって
私には想像もできないです。
めちゃくちゃ難しいんじゃないか
っていう感じがするんですよ。
なんかこう
例えて言うならば
例えようがないんですけど
私やったことがないですからね、そういうことを。
人のものを参考に書くとかも
よく言うじゃないですか。
事前に調べて書くとか
あるいは類書をよく読んで書くとか
同じようなことを書かないとか
書かないようにするためとかね
私そういうことは一切しないんですよ。
特に自分が今あるテーマについて
本を書こうと思う
今時間術の本を書いてるんですけどまた
絶対人の時間術の本なんて読まないですよ。
自分のだって読まないです。
だって読んで
似ていたり同じだったり
同じってことはないんですよね。
でも似ていたりすごく違ってたりすると
困るじゃないですか。
なんでみんなそういうことを
読まないんだろうって
僕は思います。
似たものは同じじゃないですからね。
同じようなことを書かないためとか
って言うけど
同じようなことは書きますよ。
私の感覚がそういうものであれば。
違うことはもちろん書くじゃないですか。
どれほど
それこそ野口幸男先生とかが
12:00
書いてることと真逆であっても
平気で書いてることになるわけですよ。
知らないほうがいいですよ。
そういうことは私が考えるには。
そういうことを知っちゃうと
意識しないわけには
いかなくなりますもんね。
知ってしまえば。
知らなければ
全く意識しないで済むんですよ。
だから過去に読んじゃったことは
しょうがないとしても
なるべく忘れて書いたほうが
いいとは思うんですよね。
というような話だって
私の話なんですよ。
霊章を100冊読んでから書くんです
という人は
たちまち僕のやってるようなことを
やっちゃいかんと思うんですよね。
何でですかね。
意境してって僕はよく思うんですけど
後ろ盾にしてですよね。
自分の感覚を後ろ盾にして書いてる限り
自分に感覚さえあれば書けるわけですから
自分の感覚がない中で
物を書くなんてできないと思うんですよ。
なんかこう
昔ですね。
読んだ本に
あれは妻と帽子を間違えた男か
というオリバー・サックスさんの本に
固有感覚を失うという病気が出てくるんです。
固有感覚ってのは
目をつぶったりすると
自分の体の感覚があるでしょう。
なんかこう
目をつぶって何も見なくても
自分の手足の感覚って多少ともあると思うんですね。
これを固有感覚って言うんですよ。
自分の身体観みたいな感じなんだけど
身体がここにあるなっていう感じ。
あれを全部失ってしまうという病気があるんですよ。
大変だと思いますよ。
知覚はあるんです。
知覚はあるから、知覚に異常はないので
ごく普通に生きることはできるんだけど
生きている感じが全くしないっていうのが
繰り返し書いてあるんですよね。
固有感覚がなくなるってのはそういうことらしいんですよ。
自分が存在している感じがしない。
私はあれを読んだ時に
もし自分が物を書く時に
感覚というものを頼りにしないと
こういう感じになるっていうのが
ふっときたんですよね。
頭をよぎったんですよ。
僕だから絵ダメなんですよね。
絵は自分の感覚で全く書けないから
何にも書けないんですよ。
私絵が下手なんですが
絵が下手だという感覚を持っているんだけど
実際絵が下手なんではないんですよ。
絵が書けないんですね。
小学校とか中学校でもそうですけど
無理やり書くから下手なんですよ。
書こうと思った時に空っぽなんですよね。
多分文章を書くのが難しいっていう方の中には
この感覚の人がいるんだろうなって思います。
つまり書くべき感覚がないので書けないと。
それで私はもう類書とか参考資料とかいう話に
だんだんなっていくと思うんですよね。
それはつまり写すべきものに根拠を置いて
書く時はオリジナルになるんですよ。
どうせその人の手と頭を通すから。
15:01
ただ根拠がどこかにあるわけですよね。
その感じが僕は異常に気持ちが悪くて
というかもしそれをやると私は絵と同じになる。
きっと。
私の絵じゃ絶対に物書きとしてはやっていけないですから
プロのレベルとかそういう話では全然ないですからね。
図画工作のやつでもう少しできる頑張ろうと
3段階だったんですよね。
できるもう少し頑張ろう。
できるもう少し頑張ろう。
いつも頑張ろうでしたからね。
ほとんど4年か5年の後にはほぼいつも頑張ろう。
もう少しにもならないんですよね。
絵になってないというやつなんですよ。
やっぱり感覚がないってのはそういうことなんだろうなと思うんです。
だから最初は感覚に由来して書くっていうことを
繰り返すしかないだろうなという感じがします。
物を書くっていうとき。
物を書く話を今日なぜかしちゃってるんですけど
このポッドキャストは私が感覚的に喋ってるからそうなるんですね。
物を書くときに感覚に由来できないという話になった場合は
時間がかかってもしょうがないんで
ひたすら感覚に戻っていくしかないような気がします。
それをベースに書くと。
私何を書くときもそうしているから
たぶんそれで書けないはずはないと思うんですよね。
これ以外の方法で書くことができるはずがないような気もするんですよ。
橘さん、橘武さんと今月に一緒にイベントをやったんですけど
この時に喋った自己発信ってのはそういう意味なんですよ。
自己の感覚ですよね。
から発信するから自己発信なんですよ。
私は決して何か得た情報を頭の中に入れて
そいつを書いているつもりはないんですよね。
そんな面白くもなんともなさそうなことを
僕は絶対したいと思わないんで。
それなのに有益な情報だとか儲かる情報だとか
正しい情報だとか言われても困っちゃうんですよ。
だって儲かるっていうのは
いくら100%100億円とかなら書きますよ。
かなり嫌でも書きますよ。
そういうわけじゃないんですよ。
この種の話っていうのは。
例えばバズってアフィリが手に入るとか
そういう話じゃないですか。
それではやる気がしないんですよね。
そんなに物を自己発信で書くというのは
大変な作業ではないので
そんな情報発信から得られるものが
しょぼいと全然モチベーションが上がってこないというか
できないんですよね。
そういうことって結局。
この話、自己発信っていった時に
実は遠回しなんですけど
最初からピンと来られるとは限らないんだけど
必ず話題になってしまうのが自己肯定感です。
18:03
今週この話をしたような漠然とした記憶があります。
自己肯定感の話になっちゃうんですよね。
なっちゃうと僕が言ってるのは
そっちに持っていきたくないなっていう
思いがあるせいなんですよ。
さっきも何度も言ってる通りで
今ここの自分の感覚に沿って書けばそれで済む話なのに
ここに自己肯定感を持ってくるというのは
今度は自分の感覚は正しいんでしょうか問題に
これを解かれちゃってるんですよね。
自分の感覚が正しいかどうかを問題にするっていうのは
まさに頭でやることですよね。
そう思われますよね。
例えば夜間に手を触れてしまって熱いと
この時この熱いと感じる私の感覚が正しいんでしょうかっていう人
いないと思うんですよ。
つまり考えて実際に感じた時には
自分の感覚って疑いようがないもので
これを疑わなければならない時というのは
例えば脅迫神経症みたいな時で
その感覚は大変不都合でかつ非常識で
非常に自分の生活状況を害している上に
他の人とはマッチしないっていう時だけだと思うんですね。
ここのところで、こういう話を火曜日あたりにした気がする。
ここのところで自己肯定感というのが
実は問題になってきてしまっている時に起こることなんですよ。
自己肯定感が問題になってしまっている時というのは
すぐに環境としての母親が信頼できませんという時なんですよ。
環境としての母親が信頼できないという話に
今突然切り替わったのは
感覚が信用ならないという時には
私たちは決まって甘えに失敗しているという問題が起こっているわけですよ。
甘えなんですよ。感覚が信頼できるというのは。
例えば私たちはそういうつもりは全くないんだけど
大地に甘えているわけですよ。地面に。
絶対に揺らがないだろうと。
ずっとこういうふうに安定してガシッとして支えてくれてるんだろうと。
突然地震が起こるから、大地震が起こるから
インピンジメントなんですよ。心臭になるわけです。
トラウマになるじゃないですか。
時々地震というものを体験してトラウマを感じる人いますよね。
これが母親の裏切りなんですよ。
極めて深刻な問題だと思うんですよね。
やっぱり。赤ちゃんにとっては
お母さんに人格があります。意思があります。自由にやってます。
というのがインピンジメントなんですよ。
それは困るってことなんですよ。
赤ちゃんはお母さんを地面のようなものだと思って
もうちょっと言うと自分自身だと思っているわけです。
自分自身だと思っていたところに
実は自分じゃなかったですというのは
大変深刻な問題なんです。
暴露されたってやつですよね。
だからびっくりして
21:00
時としてトラウマになるわけですよね。
東方カイトさんが
僕が一番好きな彼の本は
いるのはつらいよって本なんですけど
そういうことなんですよね。
彼がいるのはつらいよって本の中で書いてました。
いることができるということは
要するに幼児は万能感を持っているから
平気でいることができるんだと。
彼らしいんですよね。非常に。
いるというのはお尻の問題だと。
この辺にフロイトが出てきているわけです。
お尻というのは
弱い部分だと。
彼は感情されると
大変なことになるでしょうと言うんですけど
それはギャグなんですけど
要するにいてもたっても
いられないところに置かれちゃ困るんですよね。
安心していないといけない。
その安心していることができるときに
その幼児は
本当の自分の生活圏というものを
少しずつ見出していく。
これはウィニコットの引用でしたけれども
そういう言い方をするんですよ。
本当の自分というのは
まだ生まれたてのときは生活できないんですが
本当の自分というのが
徐々に安心して生活できるようになるわけです。
だけれども
さっき言ったように
いてもたってもいられない状態になったりしたり
びっくりしたり
地震が来たりすると
私たちはそういう危機を体験してしまうので
ここはそんなに安心していちゃいけないのかもしれない
と思うわけですよね。
そうすると偽りの事故というのが発生して
そうすると偽りの事故というのが発達させるわけですよ。
いてもたってもいられるような
場所づくりとか
そういうことに専念し始めるわけです。
環境整備にやたらせを出すというのは
そういう心理状態なんだと思うんですね。
つまり
いることができないと
何かをすることになるというのが
いるのはつらいよの
ものすごくざっくり言った趣旨なんですよ。
本当の自分が登場するというのは
例えば温泉ですっかり
あーってくつろいで
いるような時
ああいう時に本当の自分というのが
現れると
私はここでいきなり
グッドバイオスになっちゃうんですけど
グッドバイオスでは
この本当の自分で何でもしましょう
と言っているように聞こえるわけですね。
あーってなっている時ですよ。
あるいは戸畑海人さんが
よくいるのはつらいよで出した例で言うと
ボケット
今まで野球観戦をしている時
非常に無防備になっている時
そうですよね。
グッドバイオスでも蔵殿さんが
よく防御という言葉を
キーワードにされるんですけど
つまり警戒している時はダメなんですよ。
偽りの自分しかいないんですよ。
本当の自分は警戒している関係上
安全なところに引っ込んで
これは心理的な話ですけどね
これがつまり
あらゆる生活に泳ぎ始めるのを
引きこもりと言うのでしょうけど
本当の自分が
外に出られなくなっちゃった時
警戒無効
無防備モードなわけです。
無防備になっている時は
くつろいでいるわけだから
本当の自分がそこにいると
蔵殿さんが言わせると
24:00
これで何でもしましょうと
ところが私たちは
いやそれは怖いですって話を始めるんですよ
これさっきの自己発信と
自己肯定感の話なんですよ
自己発信と私が言っている時も
無防備で何でも好きなように
自分の感覚に沿って書きましょう
って言っているんですよ
私がこのポッドゲストを言っているのも
ポッドキャストで
アンカーのアプリを立ち上げて
スタートして喋ればいいんですよ
ただ喋ればいい
昔蔵殿さんにそういうことを
言われたことがあったんです
要するに蔵殿さんは
ただ喋っているだけだと
それを聞いて
いやただ喋っているだけじゃないじゃないですか
って言った方がいらっしゃるんですけど
ここなんですよね
ただ喋っているってことができない
ってことはありえないじゃないですか
ただくつろいで
こんなことをしている間にも
その知り合いは
ライフハックをやっているかもしれないし
フランス語の勉強を始めているかもしれないとか
そういう話じゃないかもしれないけど
とにかくいてもだっても
いられなくなるわけですよね
何をボケっとしていると
父親に言われるような気がするとか
そうなってくると
もうちょっと神経症気味ですけれども
つまりいることができない
という話なんですね
だからするわけじゃないですか
この心理の中にすでに
不安が潜んでいるって意味です
私のこのポッドキャストでもそうですよね
ただ喋るというわけにはいかないから
防音壁がついた部屋とかを用意するとか
アウトライナーでシナリオを用意するとか
今日喋るテーマについてはっきりさせておくとか
どんどん防御が固められていくわけですよ
その都度その都度私が思うに
本当の自分を後ろに引っ込んで
偽りの自分というものが活躍する
ようになるわけですよ
これをこの図式をですね
外の世界に出してみると
つまりお母さんに世の中のことは対応させて
本人は部屋の中に引っ込んでいると
この本人が喋るべきだっていうのを
みんなが言ってるっていうか
グッドバイブスは言ってる
私も自己発信という形で言ってる
だけど本人はいつも
本人は何にもできないんだって言うんですよ
お母さんがよく言うじゃないですか
この種の子供を捕らえて
あの子は何にもできない子で
これが板についちゃうんですよね
だから本人の中の分裂はひどいんですよ
ものすごく偽りの自己が有能な人っています
何でもできるんですよ
それは何でもお母さん任せにしてるのと
そっくりなんですよね
本人は何もできないという感覚を
持ってるわけですよね
分裂しているというのは
そういうことなのだと思うんですよね
ヘニコットが偽りの自己と
本当の自己って言って
分裂症の特徴として
これを中心に置いたのは
そういう意味だったのだと思うんです
だから自己発信をしましょうと
その時自己では発信できません
27:01
という話になってしまった時は
要注意じゃないんだろうかって
自分は思うんですよね
ネタを収集してくるとか
アウトラインを作るとか
いいマイクを買うとか
いいヘッドホンを買うとか
アフィリエイトの状態を整えるとか
現在のポッドキャストの
事情に詳しくなるとか
これを何かノートでも
一緒になってやるとか
いろんな防御の仕方があるわけですよ
形が格好が作っているんですかね
そういうことをやりたいと
思うということは
つまりそれは
お母さんがやってくれるんですよ
自分の心の中のですね
僕は何にもできないので
自分の心の中の
僕は何にもできないので
部屋に引っ込んでいて
お母さんがそういう
一連のものを揃えてきて
これが実際に行われている
ケースもありますよね
心の中だけで行われている
ケースもあります
そういう風になるのは
結局本当の事故は何か
格好をとっても
怖い目にあったからだと
それがトラウマだというような
話になっているんですよ
トラウマって世の中一般で
思われているのとは
ずいぶんイメージが
違うと思うんですね
トラウマってある意味
この考え方なら起きて
当然じゃないですか
なぜなら絶対に揺れない
地面なんてないわけですよ
でも私たちは感覚的に
そうは感じていないんですよね
空は落ちてこないし
地面は揺れないんですよ
揺らがない
報道とかで地震があるのは
それが正常だと思うんですよ
つまり一時ナルシシズム
というんですかね
あるいは甘えと言った方が
僕はいいと思うんです
甘えているのは正常なんですよ
甘えられなくなったら
とても神経質な話になってしまいます
いつ地震が来るかを
常に警戒しているという話
になってしまうわけですから
そんな生き方はできないですよね
つまり客観的に事実に依拠して
生きるということと
安心して心理的に
それが違うということだと思うんですね
29:16

コメント

スクロール