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2024-12-02 50:23

3ヶ月チャレンジ!で「達成」したいこと【1099】

終わりがあってもなくても「私にいいこと」が起きるようにする。
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サマリー

このエピソードでは、3ヶ月チャレンジに関する視点が共有され、リスナーからの興味深い指摘について議論が展開されます。また、モラルや家族に関する個人的な考察も交えられ、聴取者に深い理解を促す内容となっています。3ヶ月チャレンジを通じて自身のモラルや行動に対する考え方が語られ、サーティフィケートの重要性についても触れています。メンタル面や内面的な葛藤についても深く考察され、自己の成長を目指す意義が強調されています。「3ヶ月チャレンジ!で達成したいこと」では、自己肯定感や虚勢不安について深く掘り下げられています。特に、母親との一体感や成功への妄想がどのように影響するのかが重要なテーマとして扱われています。3ヶ月チャレンジを通じて、達成感や区切りの大切さについて考察され、心理支援とその報酬に関する難しさや不安感が取り上げられ、実際の支援における倫理の重要性が強調されます。ポッドキャストでは、3ヶ月チャレンジを通じて目標達成のための具体的なアプローチやアイデアが紹介されています。

3ヶ月チャレンジの話題
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、1099回をお送りします。
12月になりましたね。12月2日月曜日、朝7時35分です。
今日は寒い。もしかすると今年の冬では、
今年の1月とかを除けば、今年1番かなって感じがしますね。今シーズって言ったらいいですかね。
激しいですよね、寒暖差がね。私は体は全然平気なんですけど、皆さんはご自愛くださいと言っておこうかなと思います。
一応お知らせで、12月の14日に繰り返しお知らせになっておりますが、
タスクシュート総決算という、これ第1回になります。 昔、大橋哲夫さんとスピードハック総決算というのをやってたんですけれども、
だいぶ時を明けまして、タスクシュート総決算になって、相当変わりますけど中身もほとんど
名前で総決算が近いぐらいで、あと主催者が近いぐらいで、主催者も厳密には変わってますので、以前は大橋哲夫と私でやってましたが、そこに
J松崎が加わるので、今度は3人体制でやります。 とにかく全然違う回ですので、タスクシュートとか時間管理とかタスク管理とかに
ご興味あって、
私はこの日はちょっとまた、いかにも私らしいことを喋るわけだけど、
無理を全くしないで、
ほぼ思いのままに仕事を終わらせていく
タスクシュート時間術みたいな話をできればなと思っています。 自分が今実際にやっていることを
とことん話尽くすといった話なんですけどね。 あんまり脱線したくないんですけど、今日一応言っておくと、
私は今休憩時間というものを記録にとってないんですが、間が抜けてるわけですね。 例えばこれが終わるのが8時だとしますね。
8時15分から散歩に行ったとすると、8時から8時15分の間の記録はないんですが、ここを休憩とみなしているわけですね。
これができるようになるというのはタスクシュートではちょっと新しいんですよ。 これなかなかできるようにならないんですよ。なぜかね。
全部取る方がはるかにマシなんです。これやるよりは。 でも私これできるようになってから、大体もう
やれることはやり尽くしている感が出てきたわけですが、それにまつわる話をちょっと90分かけて、結構これ時間かかるんですよ。
全部話し尽くそうとすればね。 もちろん質疑音を取りますし、90分丸々この話だけをするわけではありませんけれども、こういう話をしていきたいと思ってます。
なぜ開始時刻というものに意識が必ず入るようにできたか、それを何事伝えられるかというとそこはわからないんですけど、極力頑張ろうと思っております。
今日はですね、3ヶ月チャレンジで複数の方から、この複数の方から指摘いただくと私も喋りたくなる。
複数ってのは2人以上って意味ですけどね。 今回は厳密に言うと3人かな。3人の方から似たようなご指摘をいただいて、いやこれは面白いなと思ったので、この話を。
ただこの話だけで、この話なんてことはないんで、僕の中ではね。 3人から指摘を受けたから話す気になったのであって、多分1人だったら話そうという気にはなってない。
モラルに関する考察
グダグダ回近い回になる恐れを懸念しておりますので、グダグダ回は聞かないというか、全部グダグダ回に僕には思うんですけどね。
とはいえ良い朗報なんですよ。ついに1099回になって、だいたいこのスタエフでも100回近いってことなのかな、これは。
1000回ちょうどから始めたわけじゃないですけど、スタエフでも2桁が安定して、いや2桁安定ってつまり10人以上でしょって話なんですけど、でもまあね、1桁が見なくなってきたのは大きな進展かなと思っておりますんで、今後ともちょっと一つよろしくお願いしたいところですが。
つまり僕がね、ここで性的な指摘について個人的な話をベラベラ喋ってるのが非常にこう、何つうんですかね、逸脱感がすごいみたいな指摘を3人ぐらいの方からいただいて、ああなるほどなぁと思ったわけですね。
で、これは何の問題なのかな、モラルの問題なんですかね、なんかよくわからないんですけれども、私はこの件に関してはですね、とことん話しつくそうと思ってるっていう部分が一つと、基本的にこれがインモラルって言うべきだと思うんですけど、そういう言い方をするならばだとは思わないんですよね。
なぜならこれによって誰かが困ることはないと思っているんですよ。私自身が一番困る可能性が高いけど、他に困る人がいるとすると、極論うちの母かって感じなんですよ。でもうちの母がこれによって困る可能性はないと思うんですね。
だから私はこれによって困るということが、もし起こるとするならば、まあこういうのが効き苦しすぎて私がやってる仕事に誰も人が集まらなくなるっていう事態が起きない限りは、起きたらやり方変えようとは思うんですけど、起きない限りは問題なかろうという風に結論付けてる。これが起きると家族に迷惑かかるんで、私は多分大丈夫なんですよね。
こっちの方も並行してお伝えしたいんですよ。こっちにはある程度社会的な意義があると。私自分の刺激に関して語ってるのは、これはクラインに関する理解を皆様に進めてもらうためなんで、これも一応社会的意義があるとは思ってるんですが、これの社会的意義っていうのはクラインに興味が相当ないとあんまり意味ないかなと。
でも、喋りまくってもっていうだけじゃないんですけど、並行して僕にはサーティフィケイトがないっていうことがあるんだけれどもね、こっちの方が大事だと思ってるんですよ。
ここを喋るのは社会的意義はあると思う。ただこれは非常に非社会的に聞こえるとも思うんですね。そこが眼目ですから。どういうことかというと、まず性的刺激に関して先に片付けちゃいたいんですけど、これはですね、やっぱり僕はエディフスコンプレックスだと思ってるんですよ。
これを聞いただけで、またそれかって思われると思うんですけど、これは僕はやっぱり非常に松木邦路さんが指摘した通り、非常に大事なポイントだと思うんですね。これは要するに虚勢不安っていうのはあれですよね。生々しく言うとおちんちん切られる不安なわけじゃないですか。
つまり具体的な不安じゃないですか。で、象徴ってのは具体水準を取れないんですよ。大抵の場合ね。やっぱり平和の象徴は文字の方がいいわけ。ピースっていう方がいいわけですよ。ラブアンドピースがいいわけですよ。鳩を出してくると、鳩を出してこなきゃならないわけですよ。いちいちいちいち。
なんで鳩が平和なのってことになるじゃないですか。それよりは平和って言葉の方が直接的な感じがするじゃないですか。しかも手間取らなくて済む。鳩だと鳩の写真やら、鳩の絵やらね。面倒なんですよ。具体水準に近くなければないほどいいわけですよ。
信号機っていうのは本当は良くないわけですよ。私がよく口にしますけど、宮沢賢治かな、信号機についてとっても美しい小説ですね。物語を書いてますけど。つまり信号っていうのは綺麗っていう意味も出てきちゃうわけじゃないですか。で、それはノイズですよね。言ってみればね。
困る、進む、注意せよだという人の行動に対して記号的な意味を伝えたいだけならば、色分けする必要は本来ないわけですよ。子供はよく言うじゃないですか。青信号って緑色なのになんで青なのとか。あれって余計な話ですよね。青なのか緑なのか論争はこの場合置いておくわけですよね。
だけれども実際にはそういうことが起こる。具体水準っていうのは伝えたいと思っている以外のメッセージもそこに入ってきてしまっているんでね。だから虚勢不安っていうのも基本的には具体的じゃない。具体的なメッセージだとこれを捉えるからなんかいやらしくて気持ちの悪い話だみたいになっちゃうんだけどそうではないんですよ。
あれは言ってみれば家族の中には権威というものがあり、その権威によって自分のわがまま放題をしてはならないというメッセージがそこに込められているという。これはいちいちこんなふうにぐじゅぐじゅ、子供っぽいというのか道徳みたいな説明することはないと言ってることはそれに決まってるわけですよ。
私お母さん大好きなんだけど家族みんなで仲良くして私お母さんと演じたっていいじゃないってダメなわけですよ。なんでダメなのかがわからないお年頃もあるわけですよね。4歳とか5歳とか。
で、それが故にああいうおとぎ話みたいな話が出ているんだけど、でも結構我々はこのモラル、この程度のモラルすら獲得するのに苦労があったわけですよ。
具体的には古典ラジオのインド編あたり聞いていただくといいんですけど、結構凄まじいなと。お父さんの奥さん取っちゃうぐらいは当たり前なんだなっていうね。
人類は結構起源前じゃなくて起源後もこれ結構やってきちゃってるんだなと。考えてみればお父さんの持ってる権力があまりにも絶大であれば奪い取ろうっていうことになっても別に不思議は全然ないわけですよね。
お父さんの奥さんになっちゃったって自分より年下なんてことがいくらもあるわけで、いくらもあったわけで、そういうことなんですよ。
日本でも戦国時代にはありましたよね。それに近いことっていうのは。なので、この種のモラルっていうのは実は4歳児とかだけが悩むわけではほんとはないんですよ。
これが今の人たちっていうのは自分たちでは認識できてないからそうは思わないんですけど、この辺がだから私3ヶ月チャレンジの指摘に絡むなと思うんですけれども。
めっちゃモラル守るようになってますよ。間違いなく。もう多分昔のモラルなどというものは全然機能してなかったんだと思うんですよね。
だって平気で親族同士で相当無茶苦茶殺しちゃうじゃないですか。やっぱあれやるとダメージデカいんですよね。
あれによって滅びる老い家って結構すぐあるじゃないですか。でもやめられないんですよね。
憎いんですよ。近親と関係というものは非常にね。近い人間がやたらいい目を見ていて、よくやってるじゃないですか。
二郎三郎とか吉常も九郎とかですけど、九郎とかになっちゃうともう長男は王様みたいなんだけど、九郎は奴隷みたいになっちゃうわけですよ。
だからそれは兄弟同じ兄弟なのにみたいなで、ぶんどってしまえば自分王様みたいになれるみたいにすぐなるわけじゃないですか。
だから非常にこういうところのモラルを、これが下層であろうと上層であろうと、後続に近い世界であろうと、もう完全にお家に何もないですみたいなお家であろうとも、この種の戦いっていうのがひどかったんだと思うんですよね。
だから今の人たちっていうのは本当にみんな自分で思ってるよりははるかにモラルは守ってるという感じがするんですよ。
すいません。今非常に不思議な途切れ方をして、滅多にない途切れ方なんですけども、これから先大丈夫かなっていうような感じで途切れたんで取り直します。
人間のモラルの微妙さ
取り直してるわけじゃないんだけど、ちょっとここで途切れたんで、一時的に取り直しています。
何喋ってたのかスパッと忘れたんで、そろそろでも話題切り替えたいなと思ってたんでスパッと切り替えますけれども。
あ、そうだ。でもモラルの話してたんですね。先日面白い映画見たんですね。ヒットラーのための虐殺会議っていう。
バンゼ会議かな。バンゼ会議っていうのが史実通りっていうような雰囲気作り出してますけど、通りかなとは思うんですけど。
ああいう会議を見てるとやっぱり人間のモラルっていうのは非常に微妙なもんだと思うんですよね。
あそこでやってることって会議はですね、すごく真摯的に進んでる映画なんですね。
でも目指してるところは、言うならあれですよ、1100万のユダヤ人を絶滅させるための会議なわけですよ。
そんなのがわずか90分でまとまってしまうっていう。
彼らはまさにインモラルな感じはしますが、でも彼らの言ってること。
もちろん映画なんでね、あれなんですけど、最後まで反対する人もいるんですよ。
思いっきり反対しちゃうともうなんかとっつかまったりする時代ですから、それでも反対しようとするってことは、
モラル感覚がないっていうのとは違うと思うんですよね。
彼らはやっぱり人道っていうことを言うんですよ。
そうするとみんなに非難されるんだけど、私がここで人道と言ってるのはユダヤ人のためじゃないんだ、ドイツ人のためなんだっていう。
モラルと行動の意義
これはものすごく僕はある意味モラルってものを感覚の中で意識させられている人の言い分だと思うんですよね。
もしそんなに殺しまくっていたら人間性が失われると。
そういう言い方をするんですよね。
本心で何を言いたかったのかってのはまた別の問題ですけど、
でもその会議で結局のところほぼ全員一致。
多分全員一致であのむちゃくちゃな方向に突き進んでいってしまうわけですね。
これをどういうふうに考えるかっていうのを考えた時に、
僕はモラルっていうのは一体全体人々は何を意味しているんだろうなぁとはよく思うんです。
結局僕が考えられることっていうのは、
基本的にまず内面と行動で行動を重視するモラルっていうのは私は結局は好きになれないなって思うんですよ。
言わずとするのはわかるんですよ当然。
要はその人が何をやっているかを見ろってよく言うじゃないですか。
言わずとすることはわかるんだけど僕はやっぱり、
そうですね、外からの判断はまた別としてですね。
例えば誰かがいじめられていて自分は何もできなかったけどかわいそうだと思った人は十分モラル的だと僕は思うんですね。
で、一方で何を内心に思っていようとそれをしなければそれはそれでまだモラル的だと思う。
これ以上期待するのは大体無理があるだろうっていうのが私の感覚なんですよ直感的に。
だから私が内心で母親どうこうしたいと思っていても、
それをただ思ってるだけであれば十分モラル的だと思うんですよ。
口にしようと何だろうと行動に出さなければ。
で、ただこれは内心で思っているっていうことそれ自体が、
モラル的には行動に移さなければね。
モラル的にはなんてことないけれども、私の内面に対して分裂を物語ってるという意味では、
私自身の問題としては問題だろうなと思うんですよ。
で、他人にとっては行動を取らなければそれで十分だと思うんですけど、
良い行動が取れなかったと仮にしても、
その人が取りたいと思っていればもうそれはこう社会的っていうかね、
向かう社会的なものであれば十分適応的だろうと。
だからここでこのタイトルに込めたような意味が出てくると思ってるんだけど、
働こうと思っていれば働けようと働けまいと、
それはもう大きな問題ではないと思うんですよね。
それほど大事にするには当たらない感じがします。
どっちみち全人類が働いていた時代なんてあるはずがないし、
そんな時代があったら地球やばいですよと私は思いますね。
2マウンドのような人口で全人類が働き出してしまったら、
もう地球やばいですよっていう感じがしますね。
むしろ働きたいと思えるというか、いつでも働けるっていう心理状態にあるならば、
もうそれでその人のメンタルは私はたくさんだという感じがするんですよ。
それがこのホットキャストなりサンチャレに私が意識している。
だから行動を見ようっていうのは私はあんまり良くないなって思うんですよ。
その人が本当に働いているかどうかとかは大した問題だとは思わないんですよ。
部屋片付けたいとかはもっとそうで、片付けたいと思えるならそれでいいじゃないですかっていう感じなんですよ。
実際にはゴミ屋敷に近く立ってですね、何とでもなるんですから。
ちょっとでも手を入れたり、ちょっとでも業者に入ってもらってやってもらえば、
形式上に見た目綺麗にするってことはいくらも今できるわけですから、
片付けたいと思えなくなっていたらあれかもしれないけど、
思えている間はいけるっていうか、それでいけてるっていうのは私の感覚なんですよね。
結局モラルの話で万全会議いらないわけですよ。
それは道徳を考える上ではいるのかもしれないけど、
実際には私たちが考えなきゃならないポイントっていうのはやっぱりせいぜいのところ、
人のために働けるかどうかといったところだと思うんですよ。
人のために働くのが100%まっぴらごめんだっていう状態っていうのは、
それは結局目には見えないんですからね。
目には見えないから、それが表に言及されるかどうかはまた別としてですね、
その人が仕事を実際にできているんなら、
それはそれで十分いけてるんではないかっていうふうに私はいずれにしても、
すごくだから僕のモラルに関する考え方というのはめちゃくちゃ緩いといえばめちゃくちゃ緩いわけです。
サーティフィケートの重要性
さっき途中で最初のほうにサーティフィケートって言いましたね。
こっちのほうが僕は大事だと思ったんですよ。
僕が信用というものを外に向かって実証できないんですね。
本書いてますけどね。
何のサーティフィケートも持ってないです、私はね。
A兼2級しかないんですよ。
A兼2級だってどこに行ったか分かんないような状態なわけです。
これでも食えてるよということを言いたいわけですね。
それなら私の3ヶ月チャレンジには私が持ってないのよりずっと立派なサーティフィケートを持っていらっしゃる方が何名もいらっしゃる。
ここを言いたいわけですよ。
こっちは結構インモラルって言われるかもなって思う時もあるわけですよ。
なぜそんなに全然サーティフィケート持ってないのに結構まともに食っているんだという感じ。
できればこの社会は近代社会なので、サーティフィケーションされているっていうことを重視するわけじゃないですか。
野良カウンセラーなのか正規のカウンセラーなのかって問題も全くこの問題ですよね。
公認心理師というサーティフィケーションは持ってなければ人の相談にも乗るなってどこか言いたいところが公的にはあるわけだ。
けれども私はそれに全く苦味しないという立場を取っている。
なぜならばサーティフィケートを取るための苦労が結構人生の一大苦労になってしまう人がいっぱいいるということを私は意識しているので、
だからここに向かって喋っているわけですよ。
メンタルと内面的葛藤
実際ファン座なってものはですね、例えばセッション中に私ファン座見るなってことは絶対ないし、
1日そうですね、長くても大した時間には実際になってないわけです。
でも私はこの話は、私にとってのクラインというのはここを意味するので、話少しまた戻ってきているんだけど、
だからグダグダ回なんですけれどもね。
虚勢不安というのはもっと前からあったろうというのがクラインの言っていることだと思うんですね。
4歳とか5歳とかいわゆるフロイドのエディプスコンプレックスは3者の関係を意識できる。
だからお父さんが虚勢をするという不安なんですよ。
しかし実際に我々はもっと前からこの種の葛藤を抱えてしまう。
厳しいお母さんがお父さんのようになってしまって、
こうなってくるとあなた私に性欲を向けちゃダメよっていうお父さんがお母さんの中に登場しちゃうんですよ。
一見ややこしいんですけど、お母さんは一人で二役やっちゃってるわけ。
これは日本のお母さんは大変だねって話では一切ないですよ。
メラニ・クラインが言ったと僕は思ってるんで、これはヨーロッパでも実際あることなんだと思うんですよ。
お母さんが一人二役やってる。
つまりお母さんが子供と一心同体であるかのように言っておきながら、
虚勢不安を同時に醸し出してもくるというか、あるいは役割交換をしてくると。
繋ごろうとしているからペニスなわけでしょ。
それを切ろうとするから虚勢なわけじゃないですか。
繋がりを断ち切ると。
つまり一心同体だよと言いながら、あなたあなたとして生きていきなさいね、自立しなさいねという。
これが子供に混乱をもたらすと。
メニコットはそんなはずはないんだって言ってクラインとのたもとをわかったわけだけど、
クラインはここを頑張ったわけですよね。
そんなはずあるんだと言ったわけですよ。
ここは僕は最後まで、だからやっぱりあの二人の論争は重要だったなって思うんですよ。
どっちに行こうとしても何かですね。
メニコットの言い分を聞いているとすごく真っ当な感じがするし、
私は彼の方が多分トータルで見ると妥当だと思うんだけど、
でも必ずしも精神病じゃなくたって、それこそ重度の神経症じゃなくたって、
この種の葛藤ってあるなって思うんですよ最近は特に。
だから私がここで性癖について語っているのは、
エディプス以前のエディプス、だからこれプレエディプスって言うんですが、
が私たちの問題の多くを引き起こしていて、
それはしかも私たちが、私の表現を使いたい、
これは松木さんの表現を、松木さんの説明を受けて私が表現を使いたいんですけど、
温存って言いたいんですけど、
私たちはこの2歳児未満の極めて幼い情緒を温存しておきたがってるところがどっかある。
そしてこの温存が、我々の例えば働くメンタルなり、現実見当を弱める。
ただし私はそれはインモラルだとは決して思わないっていう風に言いたい。
ここは難しいところかもしれない。
松木さんの本を読んでいても、それこそアンビバレントだな、書き方としてはと。
私は構わないと思うんだけど、
でもこの温存しておきたい一時ナルシシズムみたいなものが、
例えば依存症みたいなものにつながっていく。
つまり万能空想があるわけですね。
お母さんと切り離されるという虚勢コンプレックスがあるならば、
やっぱりあるということは、お母さんと一体で僕は万能と言いたい。
そういう一時ナルシシズムがある、万能空想があるわけですよ。
ウルトラマンになってみたりスーパーマンになってみたりするっていうのは、
つまりお母さんの子宮の中にいた頃は何の問題もなかった。
戦争があることも知らなければ、闇バイトがあることも知らず、
世の中で生きていくというのは、
寄るべなくつらく寒くて寂しくて大変なことだということを一切知らない。
自分は完全に包まれきっていて、絶対安心で、絶対安全で、
地球上で最強の存在だという、このわがまま放題な状態というものが
当たり前の状態として認識できていた。
私はこれをセックスの時に実感できるという風に妄想していたわけですけれども、
ここら辺があからさまだと言いたいわけですよね。
でも僕はこの言い方をしないと話が通らないと思うんですよ。
なんでウルトラマンが今に至っても人気があって、
ぜひドラえもんに出てきてほしいと思っていて、
皆様が月曜日になるとサザエさん症候群にかかっちゃうかというと、
僕は人はこの感触をまだ持っちゃってるからだと思ってるんですね。
本音のところで言う、いや本音じゃない。
本当のところは倉園圭三さんがグッドバイブスで言う、
繰り返し主張している通り、あなたが地球にいる幸せな状態は、
外にいたって会社にいたって変わらないで実現、実感できていいはずなんだよと。
これはですね、いやそんなことないだろうって思うかもしれないけど、
ちょっと視点を遠くにしてみると意外とそんなにおかしくはないんですよ。
例えば月に行った誰かさん、忘れましたけどアポロ13かなの月に行った人が、
地球に行けば何でもあるんだということが月にいるとよくわかるっていう言い方をしてるんですね。
月何にもないですからね。重力すら足りない。
空気はもちろん少なくとも人間にとって必要な空気はない。水も全くない。
完全にそこでいたら即に死んでしまうような空間。
でも現実の宇宙空間ってほとんど全てそういう風になってるじゃないですか。
人間が生きていて何でもある空間などというのは地球にしかないんですよね。
我々が知ってる限り今のところ。
自己肯定感と虚勢不安
本当に宇宙全体で見ると点もいいところというか点も消えちゃうじゃないですか。
それは空想の世界じゃないじゃないですか。本当に現実ってそうじゃないですか。
でも地球上には何でもある。地球ってのは地球みたいなもんだと。
いうのに近いあれは感想だったと思うんですね。
だからそれが会社であろうと、
えーと、なんかちょっとまっちゅうりの少女な風景であろうと。
地球上は何でもあるんだよと。
そういう観点を取ることもできるんだよっていうのが、
僕はグッドバイブスで倉津の慶三さんって人が今一生懸命言ってる。
割と私の中ではね、割と重要なメッセージの一つだと思っているんですよ。
で、無理なんで。無理な時は無理なんで。
そうは言っても会社に行ったら緩めなくなってしまったり、
職場に行ったらもうなんか虚勢張ってなければやってられないってことになってしまう。
それは、倉津さんに寄せればある種の誤解であり、
今私から見るとそれは一種の投影なんだし、
変異が起きてるから、あるいは投影同一化だったり取り込み同一化なんだけれども、
しょうがない。そういうふうに我々は、
我々は何て言うんですかね。
もっと自分にとって幸せいっぱいでありたいと思うから、
万能空想のというものをご承大事に抱えてしまう。
お母さんと一体であった頃という感覚を温存してしまう。
これを実現するために、例えばファン座が僕にはある。
こういうからくりについて一生懸命喋ってるわけですね。
ただ意識の上ではそれは言ってみればアダルトサービスになるんだけど、
意識下では多分母親との一体感というか、
子宮というのは言い過ぎな気がするんですよね。
お前子宮時代の記憶が本当にあったと信じてるかというと微妙な気分になってくる。
でも母親との一体感があった頃は、それは感覚の中にあるだろうなと思っているんですよ。
子宮の中に入ってしまうって話になってくると、
もはや性行為とは随分かけ離れてきちゃう気がするんですね。
でも母親に吸い付いている状態っていうのは、
これは性行為と誤解してもおかしくはない、
そういう感覚があっただろうなと。
本当か嘘かはわかりませんけどね。
だからこれにウィニコットは反対するんですよ。
ウィニコットはそうではないはずだと。
母親というのは環境であって対象じゃないのだと。
よっぽど育てられ方がまずい状態になっていない限り、
その種の葛藤がそんなに前面に出てくるということはないだろう。
成功とその影響
でもそんなに前面に出てきている人たちこそが、
私たちのクライアントなんじゃないのかというのが、
クラインの多分主張したところだったんじゃないかなと僕は思うんですよね。
母親が早い段階から対象化し、
つながってトラウマになってしまう。
くっついているという意識をするってことは、
離れ離れであり得るってことをアンに言われているわけですからね。
一体であるってことに真の安心感を持ちたければ、
一体というのは二体であってはいけないってことですからね。
二体であったらもう母親は対象化してしまう。
どれほどぴったり一緒にいてくれても、
二体であるってことは一体ではないっていうことをアンに言ってますから。
いずれは自立し、いずれは分離して自立していかなければ。
だから母子愛着理論とか、ジョン・ボールビーがその後主張するような話になっていくわけですよね。
分離不安っていうもの、僕は結局それは虚勢不安に限りなく近いものだろうと思うんですよ。
なんで切られるか。切られたらもうつながることはできないからですよ。
この種のことが私はなんかいやらしいとかいうレベルで語られるのってのは、
なんつうんだろうな、全く僕の何かレズルを失う。
なんで自分は寂しく感じるのかとか、
なぜ自立というものに自分に対して不安を感じるのか、
なぜ自己肯定感を持てないのかといった話に対して、
持つ方法の話になってしまって、
自己肯定感を育むための方法みたいに。
そうじゃないだろうとやっぱり言いたいわけですよ、私は。
母親との一体感が途切れるという不安を、
自己肯定感の足りなさと誤解していると言いたいんですよ、僕は。
だからここでは議論の余地があるんだと思う。
僕はあくまでもここにこだわってるわけですね。
自分自身の自己肯定感などいうものがテストで100点取るだとか、
サーティフィケーションもらうだとかいったことでは少しも乱されない。
でもそれによって、私はそのフェーズの不安というものが、
例えば私の本が10万部スパッと売れたことがあったわけですね。
それで自己肯定感育めそうなもんですよね、肌から聞けば。
でも10万部売れてみると起こる現象っていうのが変わってくる。
10万部売れれば10万部売れたで、
全く知らない人、これは大橋哲夫さんがしそうな議論なんですけれども、
届ける必要のない人に届くっていう、彼はまた上手いことを言うんですよね。
届ける必要のない人に届くと何が起きるかというと、
クレームの入り始め。
それらの人たちは僕の昔ながらのファンとか、
それこそ僕がこうやって適当なことを口走っていることを
温かく見守ってくれる人たちばかりではないので、
かなり忠誠なことを言われると、そういうことが起こるわけです。
つまり自己肯定感が下がるんですよ。
10万部売れることによって、これは必ず起きます。
なぜそんな社会なのとかって言い始めることになっちゃうわけですよ。
つまり社会が前よりもなぜか黒く見え始める。
売れることによってね。
でもこれはよくあることなんですよ。
よくあるというか、僕はまず避けることができない。
だから大橋さんに寄せれば、
程よく売れるべきであるってことになるんだけど、
僕はその具体的な方法はこの世にないんじゃないかと思って、
それに人ってのは結構欲深いですからね。
程よく売れるっていうわけにはいかないし、
程よく売れるってことになってくると、
1万部いかないっていう数字になりやすいんですよ。
誰も文句言わない数字。
9千部でもクレーム出そうな感じありますから、
1本しかあると千部ってことになっちゃうんですよね。
でも千部ではビジネスショーであったとしても赤字なんで、
程よく売れるっていうのは非常に難しいわけですよね。
この議論は実は程よく売れるところにはないんですよ、僕が思うに。
この議論は自己肯定観の話をしているんだと思うんですね。
僕は自己肯定観というものが、
仕事ができる社会に自分が通用することでは決していられないと思っております。
私はこれは虚勢不安だと思っている。
フロリドの神経症水準で考えても虚勢不安だと思っている。
だからこの虚勢不安の話になるとまた精神分析のお話、
概念的な知的ゲームみたいになっちゃうように思えるかもしれないけれども、
そうではない。
この話はもっとずっと切実で、
僕がやっぱり部活に行って先輩とやり取りをするのが嫌だから部活に入ることなく、
会社に行って上司にいろいろ言われるのが嫌だから会社に入ることもできず、
私がそういうふうに自己肯定観にこだわり抜いたために、
結局自分一人で仕事をするような形態を選ぶようになったわけは、
虚勢不安にあるとしか思えない。
つまりつながろうとすると一体感に対する不安というか恐怖というものが、
前面に強烈に立ちはだかる。
結局のところ上司に怒られたり先輩にいびられたりするのが怖いのはなぜか。
そこに丸いお父さんを見るからだ。
でも私は父親との葛藤を考えるにつけ、
これを父親葛藤で三者関係で、
三者関係というのはつまりヒステリー。
今ではこのヒステリーも完全に仕事になってしまっているんですけど、
三者関係はヒステリー。
つまり三者関係は競争社会。
先輩に褒められる人もいれば、けなされる私もいると。
なぜけなされなければいけないのかとなると、
自分は競争力がないからだと。
つまりこれが母親を奪い合って父親に評価されたいという三者関係の世界じゃない気がするんですね、私は。
会社に行って私のように出世欲ゼロみたいな人間は、
競争心というものが最初からとても薄いんですよ。
結構あるんだけれども、でもとても薄いんですよ。
結局10万部売れたという人がどういう心理状態にはまっていくかというと、
10万部売れてもみんなから文句を言われる。
20万部売れている人からは、あなた10万部で満足してるんですねという変なマウントを取られたりする。
結局自己肯定感の世界では前より厳しい事態に発展する。
だから今度は30万部売るようにしよう。
でもこのやりとりには限界がない。
100万部売れてる人からには、前に勝馬和夫さんという売れっ子の人がね、
何としても100万部売るぞみたいに頑張ったことがあって、
彼女は100万部行ってないのかな、わかんないですけどね。
僕からする100万だろうと50万だろうと何の違いももうないけれども、
やっぱり見えてくる景色が変わるんでしょうね。
だから自己肯定感というものは、
社会に通用し競争力を高めるという方向には解決の道がないような気がする。
そして何よりもそこでその人たちが話題にしている話題が、
すごく万能空想をめいている感じがするんですよ。
100万部売れば万能になれるとか、1000万部売れば万能になれるとか、
お金に不自由しなくなれば万能になれるというのは全部万能空想の話をしている。
だから僕はですね、この場合、
具体的に何かを達成する方に向かうのは馬鹿馬鹿しいと思うんです。
万能空想を満たしたいならば、まずその万能空想とは何かを考えるべきだと思うんですよ。
競争と自己実現
マンガのヒーローのようになりたいとか、大谷翔平のようになりたいというところで、
思考を止めちゃダメだと思うんですよね。
なぜなりたいのかっていうのはやっぱり問わない。
なぜなりたいのかというのに対する僕なりの答えが、
それは子宮時代の私だと、あるいは母と一体だった時の私だと。
つまり、母と性行為するってことが大谷翔平になるっていう気持ちを満たすんだと。
だからここに異論があるというのであればあるでしょう。
でも私は、これがですね、フロイトの時代だった場合、
父親を倒し父親を打ちまかすということが大谷翔平になるということなんだって言ったこの意見は、
そんなに未だに間違ってる気がしないんですよ。
すごい大リーガーの選手とかがいて、この人たちが訓言みたいなの残しますよね。
ノムさんみたいなのでもいいんですよ、五六みたいなやつ。
あれはすべて親父の小言、そっくりなんですよね。
居酒屋に貼ってあるやつですよ。
カレーを食べて同じ行動を繰り返しなさいみたいな一郎の言い分というか主張みたいなのを聞きたいというのは、
つまりこれは僕はエディフスコンプレックス以外の何者でもないように見えるんですよね。
そうやってお父さんを倒すんだっていうか、そうやってお父さんに勝つんだと。
そして世界を手に入れるんだと。
結局のところ、お金を手に入れ、時間を手に入れ、威勢を手に入れ、地位を手に入れ、信頼を勝ち取るんだと。
つまり、皇帝を倒して自分が皇帝になりましょうって話に限りなく近いような気がするんですよね。
達成感の追求
で、なんで皇帝になりたいのっていう問いが、いつ皇帝になりたいと思ったっていう問いが、
フロイトが答えたんですよ。
あなたが5歳か4歳の頃です。
だったらそっちを満たしにいこうよっていうふうに私は思うんですよね。
だから満たしきれずにマウント合戦になっちゃうんじゃないかって私は思うんですよ。
いつまで経っても終わらない。
結局のところは、大統領にでもなるより他ない。
あるいは引きこもって、こっちの方が普通ですけれども、大統領に本当になろうと思う人はバイタリティの塊みたいな人ばっかりなんで、
引きこもってこの仮想現実世界で私は大統領になると。
なれますよ。
ナムコスタジアムとかをやれば大谷翔平になれますもん。
その中でホームラン打ちまくれば結構な達成感ありますから。
あれをVRでいかにもホントっぽくしてすればですね、なれます。
でも私はそれはすっごく虚しいので、それをやるんだったら正に走る。
だから私はもっと前に戻る。
4歳児に戻るんだったら、そもそも2歳児に戻る。
だから私はウィニコットとクライーンの論争っていうのは非常に興味深いと思うし、なかなか決着がつかない。
私にはクライーンが言ってることは非常に妥当に感じるんだけど、ウィニコットの方が現実的な感じはしますね、確かに。
いずれにしても私は母子一体という、結局この母子一体というのは非常にざっくりしてるわけですよ。
でもそれもVRで今提供されてるじゃないですか。
そしてその母子一体という頃の母子一体というのはつまり、何にもこの世にないってことです。
だって自分と母が一体って自分が生まれる前の話に近いじゃないですか、もはや。
それはもう何にもこの世にないってことです。
つらいことや苦しいことや寂しいことや寒いこと、上とか悲惨とか不幸とか一切ないってことですよ。
そこに戻るためにVR使うっていうのは結局これを一時ナルシシズムの温存なんだと僕は思うんですよね。
そしてそこでは万能だと。
オオタニンになってフジーソータになってイチローになることだってできちゃうわけですよ。
神言とか訓言とかマウントとかもいらないわけです。
この世界に戻るということはつまり、私は社会的には機能しない存在になるわけですよ。
引きこもって全ては投げ出すという世界に入り込むということになるわけですよ。
で、グッドワイブスで倉津之平蔵さんが言ったのはつまり、そんなことをわざわざしなくって会社に行って全く同じ気持ちになる、維持することができるんですというぐらいなところなんですよ。
これは僕は宗教的な世界に限りなく近いと思うんですね。
宗教とちょっと違うと思うんですけどね。
で、これは確かだと思うんですよ。
その道を言ったのがミニコットだったと思うんですよね。
彼はそこに妥協点として移行対象ってもの。
お母さんがいないところでもお母さんと一体でいることはできる。
ただし、人間は物でもあるので、何かそのクッションがいると。
まさに文字通りクッションがいると。
ここに大きなぬいぐるみを持ってこようと。
これがお母さんだと信じようと。
それにお母さんを投影しようと。
で、それと一体になっている感覚を持つことで、お母さんと一体になっている感覚というものを維持することができるでしょうと。
僕、この考えはクラインのよりは先へ行ってるなって感じがするんですよね。
一時ナルシシズムの温存。
ただし、ミニコットのこの言い分は一時ナルシシズムが永遠に続くニュアンスがありますよね。
クラインはそれは多分認めてないと思うんですよね。
一時ナルシシズムというものはそもそもあるんだとすると病的だと。
だから彼女は一時ナルシシズムはないと言うんですよね。
二次ナルシシズムしかない。
人は意識的にそれをやっていて、それは一種の病理である。
ここは本当に悩みますね、私もね。
いつも悩みます。
あの、空想の女の子と手を繋いで世の中を渡っていく。
それに近いことをやっているのが人間の現実ですというのがミニコットの言い分ですね。
だからいつも人間は空想とばかり遊んでいる。
野球場に行ってみたり映画館に行ってみたりしては空想、空想、空想の世界で
結局どこか母親との一体感をずっと保ったまま万能感に浸って生きている。
実際人間というのはリアルというものには耐えられないんだというのがミニコット流ですよね。
だから水をひねると水道から水が出て、なんならお湯もワンタッチでお湯になりと。
魔法の世界みたいなところを作り出していると。
リアルには人間は耐えられないんだと。
でもこれをなんていうんですかね、クラインの世界はもう少し厳しいんですよね。
これを認めないと。
だから感謝って感じをし始めるんだと思うんですよ、どっかでね。
どっかでやっぱりあなたはその環境の提供に感謝しなさいっていう、
自分の無力というものに向き合いなさいっていうのを言うんだと思うんですよね。
向き合えるようになりなさいとか。
多分臨床ではこっち使われてる感じがしなくはないんですよね。
でも違いがあるのかな、この2つ臨床では。
あんまりないんじゃないかなっていう感じもなんとなくしますね。
いずれにしても私は臨床やってるわけじゃないんで、空想してるだけなんですけど。
2つの違いって臨床的にはどういうふうに現れるのか分からないなって感じはします。
もういい時間になってきて、ぐだぐだ回なんで、
このままなんとなくフェードアウトしたいと思っているんですけれども、そういうわけです。
3ヶ月チャレンジというもので、私が臨床もやってなくて、
何をやってるんだと、サーティフィケーションもなくてね。
でも私は一つはですね、何にもないっていうことがやっぱり大事だと思うんですよね。
何にもないってことが。私が提供できる公的なものも何にもないってことが。
ただ私は、これもモラルの話に近いんだと思うんですけれども、
区切りを入れてるんですよ。やっぱり心理臨床じゃないんで、心理臨床に区切りって入れないんですよ。
何ヶ月で成果出しましょうみたいなことは言わない。
何の成果出すっていうことも私はなかなか言えてないんだけど、何か言いたいと思ってます。
ただ私はですね、ここに達成感を持とうと思ってるんですよ。
心理支援の倫理
やっぱりミニコットの言う、この空想なんだか現実なんだかわかんないようなところに人は生きてるっていうのは本当だと思っていて、
常に逆説あるところにしか意味のあるものが作り出すのは難しいんじゃないかなっていうふうに思います。
3ヶ月で終わるっていうのは、終わることに僕が達成感ぐらいは持たないと、
いつまでも引っ張ろうとしちゃうと思うんですね。
特にお話が私に分かる話で、やり取りが私にとってあまり難しいとか厳しいとかやりにくいとかいうことがない人とは、
繰り返し継続していただきたいって思っちゃうじゃないですか。だってビジネスなんだから。
だけれども、実際には終了しないといけないわけですよ。
これがさっきの母親との関係が一体であるのか分離であるのか、両方なんだと思うんですよね、やっぱりね。
我々の世界で。地球が母親だと言うなら、永遠に一体ですけれども、でもやっぱり実際の母親とは分離しなければならないという、
こういうのの繰り返しの中で僕らやっているわけだから、3ヶ月で切れるっていうのは一つの区切りとしてやっぱり設けておいた方がいいだろうと。
その時によく心理の世界ではですね、心理と福祉の世界がごっちゃになってるっていうか、当然オーバーラップするんだけど、
でもやっぱり心理師と福祉師が別々にいることには意味があると思うんです。
ある哲学者さんがXでちょっとつぶやいてたんですよね。
最終的にはその人にとって得になるっていうのは、時々非難されるけど、私はそういうのを見ている方が安心するんだと。
僕もね、基本そうなんですよ。これがお金に換算されれば資本主義ってことを言ってるだけのような気もしますけども、
やっぱり相手の人が最終的にそこに自分の得を見ているからというのが人に安心感を与えると思うんですよね。
話は綺麗になりますけど、心理職とか、私は心理職じゃないけどもちろん心理職では全くないですけど、
対人支援みたいなことをやってる場合、対人支援なんですけど全ての仕事はね、
無給でやりますとか、発給でもやりますとか、私食えなくても頑張りますっていうのは、
美談っぽいですけど、不安でもあるじゃないですか。
よく心理師の人が書く、臨床の人が書くように、一般的に見て対人支援、1on1セッションなんかの場合、特に理想化が起こるのは当然なんですよね。
この人、ついに私を分かってくれと。これが起こらなかったら、やる気にならないですよ。
やっぱり心理支援などというものは、カウンセリングを受けるということが、カウンセラーを理想化してしまうところはどうしたってあるわけですよね。
私なんか、歯医者さんを理想化しますもん。
ついに私を痛みなく治療してくれて、虫歯も作らない、いい歯医者が見つかったぜ、みたいな。
なりますよ、それはね。で、がわってやられて痛いと脱カチカが起こるわけです。
なんだこのクソ医者、みたいになるわけですよね。
だから理想化と脱カチカはワンセットなんですよ。
でも、理想化が起こるということは、永遠にその人についていきたくなるってことを反面意味しますから、
カウンセリングであれ病気であれ、永遠に病気であり続けるってことになっちゃうじゃないですか。
だからそれが良くないってわけですよね。
だからモラルの上でも、終了するってことを倫理的に担保しておきましょうっていうことが、
野良じゃなくて正規ではすごく大事なんだって言うんだけど、その割に長いわけですよね、結局のところ。
結構。だからこういう話っていうのはキレイ事だけでいくと、むしろ僕はユーザー不安になる気がするんですよ。
私のあなたのために人を支援したいからやってるんで、お金のためにやってるんではないと。
心理支援というものを金儲けに同群にしてはダメなんだっていうのは、
こう聞くとすごくもっともなんだけど、心理支援職の人がそれで食おうとしていなかったらめちゃくちゃ不安になりますよね、ある意味では。
私だったら非常に不安になります。
つまりその人がやる気になってくれてる時はいいですけど、
つまり私はいい患者でいなきゃならないような気がしてくるわけじゃないですか。
こうやって会ってて、私が何を喋って、それこそ母親との性的刺激喋っててもよくわかりますって言って、
聞いてくれてるのは、金のためだってどっかで思っててほしいわけですよ。
これは100%佐々木さんのためなんですよって言ってると、話がもういい加減嫌になってくると、
じゃあちょっと私の手に負えないから次にあっち行ってくださいみたいなこと言われてもおかしくないじゃないですか。
その人のメリットがそこに含まれてないというのであれば、最終的にはその人のメリットが含まれててほしいし、
私が良くなったら達成感も持ってほしいですよね。
心理カウンセラー達成感を持っちゃダメなんだみたいな話もわかるんですが、
私はそればかりだと結局のところ、その人なんでこれをやってくれるんだかわかんなくなってしまう。
だから私はやっぱり自分が食うための金ぐらいはいただく必要あると思うし、
区切りがあって達成感を持つというのは良いことだろうとは思うんですよね。
報酬と不安
終わったら達成感を持つ。
継続してくれたらくれたでそれはとてもありがたいっていうこれはつまり矛盾してるんだけれども、
この種の矛盾がやっぱり必要なんだと思うんですよ。
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