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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
先送りに関する質問を今週頭ぐらいにいただいて、簡単に言うと先送りする癖があるんだけど、直すにはどうしたらいいかという非常に丸投げ感があって、いいご質問なんですけどね。
あの 文章でいただく質問というのは
それに対して、ここはどうなんでしょうとか、そこはこうなんでしょうかみたいなことを問い返せないので、だから対面のセッションっていいんですけど、
問い返せないために全部推測で喋らなきゃなんなくなるんですよね。質問以外の情報がないので。
いろいろあるんですが、先送りアプローチっていうのは、
これ、そもそも聞いていらっしゃらないかもしれないけど、その場合文章で返しますけれども、
効果が一番汎用的にあると思えるのは、
2つ3つありますが、1つは時間を投入するのを恐れないということですね。
だいたいブログとかがそうなんですけど、段々段々ですね、最近ブログは更新のハードルを下げるって話をですね、
もうピークは過ぎたと思いますけども、ずっとそういうことが言われ続けていたんですね。
更新頻度を上げなきゃいけないメディアなので、とにかく更新のハードルを下げろと。
で、更新ハードルを下げるって時に、私たちがみんな考えるのが、時間がかからない方法を考えるんですよ。
だいたいほとんどそうなんですね。
で、ということはどういうことかというと、時間がかかることをみんな怖がってるってことなんですよ。
多分どっちみちかかる時間が、そうですね、数十分であるぐらいならば、
それが忙しさのゆえに取れないっていうケースって、本当はかなり稀だと思うんですね。
本当はやっぱりですね、時間をそもそもかけたくないというふうに思っているということは、時間がなくなるのが怖いってことだと思うんですね。
で、時間はなくならないって話をよくRoot Vibesでも、私はタスクシュートの文脈でもするんですけど、
納得はされているとは思ってませんが、要するにこれですね。
空気と似てるなと。空気って有限だけど、なくならないじゃないですか。私たちが吸ったぐらいじゃ。
で、吸うときは自分の空気ってないわけですよね。吐くときだけ自分が吐いた息ってあるけど、自分が吸う空気とかってものはない。
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これと時間ですのよく似ていて、記録に残していった自分の使った時間は自分の使った時間なんだけど、自分が使う時間ってものをあらかじめ確保するってことはできないと思うんですよ。
それあくまでも気状の話で、気状の空論ってやつで。
ちなみにですね、時間は多分私は本当は存在してないと思うので、
所詮家庭のものだと思うので、これがなくなるはずはないっていうのは要するにもともとないものなので、ないものはなくなりようがないというただそれだけなんですよ。
で、最近ちょっと思うようになったんですよね。時間がないっていうことになるとですね、空間ってのもないんじゃないのかなと。
物理学では時間も空間も式にちゃんと出てくるんで、小学生の式とかだったらすごいわかりやすいじゃないですか。
道のり割る速さイコール時間みたいな。あれただ循環してるだけで時間が何かってことは教えてくれないんですけどね、あの式は。
その掛け算の順番を入れ替えるだけで速さかける時間は道のり。
ただ、あの式をぐるぐる回してるだけで結局時間は何かってことはわかんないんですけど、あの式からは。
そういう形で物理学ではありますよね。
あるんだけど、あるものとして動いていても、本質的な不都合は起こらないから、
わざわざないって考える必要はないと思うんですけど、空間ってのもきっとないんじゃないのかなと最近つくづく思います。
私の目の前に広がっているのは空間じゃなくて光景ですよね。
でこれ、基本的には四角矢に当たっている、もうちょっと言うと網膜に入っているもので、
2次元変換されちゃってますよね。もともと空間は3次元だってことになってますけど、
これはバーチャルですよね。VRかけるとすぐわかるんですけど、簡単に奥行き見えますから、要するに奥行きってのはイリュージョンだと思うんですよね。
そうすると空間ってどこにあるんだろうと思うと、私は空間ってものは多分頭の中にあるんじゃないかなという気がします。
これは余談ですね。
そうするとですね、
時間がなくならないと。で、もともとないのでなくならないんですけど、と考えると
時間がないっていうことをわざわざ考えることはないと思うんですね。そうすると一つは
同時に2つ良いことが起こって、一つはですね、ここに時間を投入するのが怖いという発想は
いらないのでなくなると思うんですよね、本当は。もう一つが
同時に2つのことをやろうとしなくて済むようになると思うんですよ。
マルチタスクってやつですね。あれ、時間がないと思うからやりたいわけですよね。
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時間がなくならないんだったらマルチでタスクする必要は別にないじゃないですか。
息を吸いながら水を飲みたいみたいな、そういう発想なんだけど、いらないと思うんですよね。
ブログの更新とかじゃないと思うんですが、先送りの問題はブログの更新であったとしても
基本的に時間のことを考えなくてよく、かつ更新しながらついでにツイッターをチェックしようみたいなことをしなくてもいいならば
多分ですね、先送りする理由はなくなると一つには思うんですよね。
だから別に内容のあることを書かなくてもいいとか、
まあその話すぐしますけど別の話だと思うんですけど、長い文章書かなくていいとか、そういうことはですね、
一切考えなくていい話なんじゃないかなと思うんですよね。 もともと長さの宣言ないわけだから、
要は長く書くのが怖いというのは、時間がかかるのが怖いという話でしかないと思うんですよ。
私なんかはつい長くなるという癖があるから、むしろ短くまとめる方が時間がかかる部分があるんですよね。
あとで綴めなきゃならないんで、その手間を惜しむと長くなっちゃうんですけれども、
その辺のことであれこれテクニカルに考えなきゃならないけど、つまり時間以内に終わらせないと損だっていう感情を持ってるせいだときっと思います。
これなくせばですね、仕事にしても何にしても先送りってなくなると思うんですよね。
もう一つが、うちなる批判精神ってやつ。
簡単に言うと批判しないということ。それも口に出さないって意味ではなく、心の中でもしないってことが重要だなと最近思います。
うちの子が依然としてコロナ対策の一環なんですけれども、Zoomで塾の授業を受けてるんですよ。
それを横で受けてて、私最初それがですね、結構仕事をやってるときずっと聞いていながら仕事をするのがきついなと思ってたんですけど、
絶対口に出さないようにしてたんですよね。なぜならば、娘がZoomの授業が嫌になっちゃったら困るから。
やっぱり年頃って親の感想にすごい影響を受けちゃうんで、私が実は娘が何歳であろうともこれを絶対やりたくないと思ってるんですよ。
知らず知らず親の影響って受けるんで、私チュアロケマリンズ動演してるのもそもそも最初父親の影響ですし、とにかくそういうのってあるんで。
一切ですね、娘が関心を全く持っていないことに関しては言っちゃいますけれども、娘が明らかに重視してるというか、それにのめり込まないわけにはいかないじゃないですか、塾の授業だから。
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それに何らかの感想を述べたくないわけですよ。だから我慢してたんですね。
我慢してたんですけど、きついなというのがあったと。
これ要するに問題なのは、批判的な気持ちを持ちながら仕事するのがきついんですよ。
これですね、直接関係があるのは例えばですね、
ブログを誰かのブログがこのブログがつまらないとか思うとですね、つまらないブログを書けなくなる。直接的にはこういう話なんですよね。そうやって自分のハードルを上げちゃう。
だから頑張ってですね、どんなブログでも基本読むからには面白さを見つけながら読むということをするとですね、書きやすくなるんです。
で、この延長線上に塾の事業とかもあるわけです。結局仕事そのものに対するハードルを下げるためには、
仕事に対する批判的な評価というものを、要するに批判ですよね、をやめる。
例えばその直接関係ないことであってもやめると先送りって無くなります。先送りって結局このレベルのものを作り出したくないという気持ちが生み出すもので、
もう一つはさっき言った時間を損したくないという気持ち。この二つ。そうすると時間を損せずにレベルの高いものを作らなきゃならないから、それは無理なんですよね。
だから先送りをするってことになるんだと思うんです。私、これで著者っていうのはやっぱり批判的で強い人がどうしても
生来多いので本を書けなくなるって人多いだろうなと思うんですよ。だからどっかのタイミングでですね、むしろ逆にしたんですよ。
口に出して批判することは多少あっても、内心で批判的なことを思うのだけは絶対やめようと。
なんか矛盾してるようなんですけど、対外的にはね、人の悪口を口を出して言わないっていうのも内面に秘めておくっていう方が
対外的には望ましいじゃないですか。でも私自分の仕事をする上でここはむしろどっちも悪く思わないのが一番いいんだけど
理想としてはそうなんだけど、それに準ずる形として誰かに調子を合わせて、あるいはなんかこう
まあそうなんですよね。結局口で言うことはあっても、内面ではどこかこうよく思っておこうと。そうしないと
自分が本を書く時のハードルがむやみに上がる。結局あのですね、よく言われることではあるし
一面そうなんですけれども、作ったものの割としょうもないところを見出すことのハードルに比べればですね
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自分の作るものをかなりのレベルに、つまりその批判精神を持つ自分よりもかなり高いレベルを
創作上は要求されるんですよね。レベルを上げようとすれば。上げることは大事なんですけれども
これをやっていると結局書けなくなるんですよ。先送りする羽目になるんです。しかも少なくとも先送りしなくても
より多くの時間がかかることに対する恐れが強くなりやすいんですよね。結局それはさっきも言った通り仕事全域に関わってきちゃうので
Zoomの授業にしてもなんか声が嫌だとか喋り方が嫌だとか聞き取りにくいとか全部思うべきではないんですね。
幸いなことに娘が真剣に聞いているんで、娘に聞いたんですよ。
楽しいとか何がいいとか聞くんです。そうすると私には分からないことを答えてくれるじゃないですか。
私はその好意的に聞けてなかったわけだから。 だけど娘はZoomの授業の方が言って受けるより好きなんで好意的に聞いてるわけですよ。
だからここで悪い感想を出したくないんですよ。その見方に必ず引っ張られるんで。
いい感想を言ってくれるわけじゃないですか。それで聞くんですよね。
なるほどそういうところがいいのねと。 聞いているうちにですね
私が娘の見方に引っ張られるんですよ。こういうことってあるんですよね。 だからやっぱり怖いんですけどね。
とにかく聞いているうちに、こういうふうなところがいいのかと思っているうちによく聞こえてくるんですよ。
そうするとですね、その状態で仕事に入るとスッと入れるんですよね。
全然気にしていた時とは違う感覚になれるんですよね。
これを自分はすごい発見だったなと思っていて
私はアメリカでですね、非常に音に敏感な障害者さんというのを
見たことがあって、普通の人なんだけど盆壁の家で暮らしてるんですよ。
ほとんどと言ったことはあるんですけど、音がしないんですよね。すごいなぁと思ったんですよね。
お金あるんですよ。 すごいんだけど、もっとすごいことに、その人は
音が聞こえちゃうんですよね。防音壁なのに。 私は耳がすごい良い方なんですよ。
大体どうでもいいことなんですけど、 盲人の方というのはすごい耳が良いので、そういう方には及ばないですが
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一クラス50人くらいいたら一番小さい音まで聞こえるんですけど、私のその耳には全然全く聞こえない音をその人は拾っちゃうんですよ。
気のせいとか幻聴とかじゃないですよ。本当に、でもあそこまで行くと幻聴のレベルだなと思うんですけど
この人は本当に防音壁の部屋にいて、 外でヘアピン落とした音を拾えるだろうなと。
あの誇張じゃなくて、絶対そういう感じなんですよね。 恐ろしいなと思うんですよ。しかもその人はイライラするんですよね。
実に怖いなと思ったんですよね。 それ以来私はその体験以来ですね
音を気にしないように頑張ろうと思った。 決意したことがあるんです。
気にする方面で守るっていうのは無理だ。 気にしてれば気にするほどこういう方向になるしかないらしい
と思ったんですよ。 絶対無理だと思ったんですよね。私には音全くしない家でしたからね。
要するにそういうことだと思うんですよ。 なので
一番いいのはですね、やっぱり 行為的に聞くことなんですね。行為的に聞くと非常にまた面白いことに
無視しようと思えば無視できちゃうんですよ。 非常に不思議ですけど、ただなんとなく思うところがありまして、あんまりいい話じゃないですけど
うちの父とかはですね、食事中とかに平気で本を読む人だったんですよ。
で、あれ家族だからできるんだと思うんですよね。ある意味。 家族喋ってるわけじゃないですか。で全然気にならずに
食事中に平気で本に集中できる。これは行為的に聞いてるせいなんだと思うんですよ。
イライラしてる時ってそうはいかないじゃないですか。本に集中できない、うるさいとかっていう話になっちゃいますよね。
イライラしていない時というのは耳に入ってきてもスルーできるんですよね。 これが多分
大事なんじゃないかなと思っております。 だから先送りしないためにはですね
仕事のハードルを下げるとかではなくて、 ブログだったら一行でもいいですとかいうあの話を聞いてもですね、多分
特に他人のブログに批判的な人などというのは、一行今日は何々を食べて美味しかったですとか
書けないと思うんですよむしろ。 自分でハードルを上げてるわけだから
下げるということはそれでもいいって思うっていうことではなくて
何かそこを好意的に見る理由がなきゃいけないと思うんですよね。
そうすると、時間のことって結局これと絡むんですけれども
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ハードルが下がれば時間かからない気がするじゃないですか。 これはデタラメなんですけども。
実はハードルが下がろうと上がろうと、自分が好きなものを十分堪能して書くとなると、一定の時間がかかるに決まっているので
無理やり一行で切り上げるとかそういう話ではないので。 ブログだったら私も仕事はそうはいかないじゃないですか。
ハードルをどんどん下げましょうって言っても、多分仕事はまずそうはいかないと思うんですよね。
勝手に自分でハードルを極限まで下げるということは許されないと思うので。
そうするとですね、
最終的にできることとしては、一切批判をしないみたいなのが理想かなと思います。
多分そこまでいけば先送りってしなくなる気がします。
ということは逆に言うと、その人は口に出していないかもしれないけど、内面ではかなり批判的なんじゃないかなと、先送りばっかりしちゃうというの。
これがですね、意志力の強さというものとは実は何の関係もない。
あえて意志力を発揮するならば、仕事を何としてもやり遂げるとかじゃなくてですね、
人のことを悪く思わないというところに意志力を発揮すればですね、きっと先送りってなくなるんではないかなというふうに。
なくならないにしてもだいぶ減るんじゃないかなと。
その時に、人のことを悪く思っちゃったから同じようなみっともないことができないから、ここで時間をかけなければいけないという発想から解放されることで、
どれほど時間間隔としては楽になるかということ。
結局非常に批判的なまま、ありとあらゆることをバッチリやるっていう人になるためには、忍者ハットリ君みたいになるしかないじゃないですか。
あれならば何でもかんでもやってすぐ終わったでござるとか言ってればいいんですけれども、私はああああいう人いきたいと思うんですよ、基本的に。
で、ああ思われてるだろうと思っている方もいらっしゃるかもしれないですね、線が。
あれはハットリ君だと、ああすごいなって思うんですけど、普通の人があれをやると、全然好感持てない気がするんですよ。
多分、なんかよくわかんないですけどね、私たちはスーパーマンというものに対して、ルールが決まっている特定の場面でしか興味を持たないような気がします。
例えば大谷翔平選手みたいな人が、大リーグで160キロを投げる上にホームランを持てますってことになると、それはすごいなと思って、その時は興味を持つんですけど、
根本的に他の点で興味を持たないですし、しかも、それって場面をはっきり区切っていますよね。
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どっちがすごいかは、同じ距離を同じように投げて、急速も測るみたいな。仕事ってまずそうはならないんですよ。
だから、例えばある人が本を1日で書いてすごいなって思うのって、実はすごいって言うんですよ、みんなで。
書写仲間とかだって、みんながみんな言うかわかりませんが、すごいって言いますよ。とりあえず言っとけぐらいな感じで言っときますけれども、別にそのことが大谷翔平選手がすごいようにすごいと思う方とはそうは思わないんですよね。
なぜなら、書いてるジャンルが全然違うと思うし、何よりも同じようにするとなると、何かひどく犠牲にしなきゃならないものが出てくるということがわかっているから、同じ土俵に乗っている人ほどそうは思わないと思うんですよ。
あっとりくんみたいには見えないんですよね、結局。
何て言えばいいんですかね。
結局、チート技に本当の意味で感動するというわけにはいかないってことなんですよね。
私はそれに対してもそれほどチート技って嫌いじゃないので、感心しちゃう方なんですけれども、チート技にベートーベンのような偉大さを感じるとかできないじゃないですか。そういうわけにはいかないんですよね。
だから多分、早く膨大なことができるということは、芸人の一発芸みたいに見えるということ以上の意味はないと思うので、そこでですね、むやみに苦しまなくていいような気がするんです。
この話したのは、最後に先送りってのは大体完璧主義となぜか絡んでいて、この種の人が持つ完璧のイメージって、あっという間のイメージと似てるんですよ。あれはですね、よくできた芸でしかないんですよね。
すごいと思いますよ。一輪車に乗って松明とかをジャグリングしてたらすごいと思うじゃないですか。
でもなんて言うんだろう、なんか素晴らしい人だ、こういう人こそ私たちの目指す人だって思わないんじゃないですか、不思議と。
コブラを笛吹いて壺に出し入れするとか、すごいとは思うんですけどね。
なんかこう、そうなんですかね、そういうものでしかない気がするんですよね、その種の完璧主義というのは。
先送りしないっていうのは結果として時間はかかると思うんですけれども、いわゆるイリュージョンですけどね、それも。
でも、多分ですが時間というのは空間よりは確かにないものなので、なくなるという心配をそんなにしなくていいんじゃないかなと。
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で、時間の心配している時は必ず人は競争している。
そもそも私たちが最初に時間の心配をしだしたのは、テストが早く終わる人がすごい教室で育ったせいなんじゃないかと。
でもそれはうんと昔のことですよね。小学校1年生の時の話だと思うんですよね。
もういい加減その価値観から自由になったっていいはずで。
自分思うんですよね。早く原稿を書き終わるということが自慢になるのは、1たす1が2っていうのをいかに早くできるようになったかの延長戦のような気がします。