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2021-02-25 26:50

【GMV 328】夢を見ている人に罪はない

他人を夢から覚ましてあげるとは、自分が夢見るのをゆるすということになる
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
あのー、倉園さんがですね、
そう来たかというのを割と大事にしているというお話をどっかでされてたんですが、私がここのところずっと
意識しているのは、夢を見る人に罪はないっていうやつなんですね。夢を見ている人に罪はない。
だいたい私は最近これで、これを一番こう意識するようにして乗り切ろうとしているわけです。
で、様々なケースがあるんですけど、一番というかやっぱり自分のワールドでは一番わかりやすいのがですね、
被害妄想というやつなんですね。 で、よく日本人は自分がないという言い方を
自分にもしますし、他人にもしますし、ほぼ日本人に向かってやりますし、
代わりに西洋人は進歩的で自分があっていいなぁみたいに思う人もいるんですけれども、 あれ私、非常に最近、まぁちょっと前ぐらいから、アメリカ留学した頃から強い違和感があってですね、
白くじ中自分があるっておかしくないだろうかって思うんですね。
例えば、なんとなくですね、こう庭を眺めたり、まぁ私の部屋は海ちょっとだけ見えるんで、海眺めてぼーっとしてる時ってあるわけですよ。
そんな時にまで主体性があったらむしろ奇妙だと思うんですね。 まあ私は西洋人が実際のところどうであるかとかは、人の中に入ってわかるわけじゃないのでわかんないんですけれども、
わかるわけがないんですけど、でも間違いなくこういうことだけは言えますよね。 アメリカ人の人の話、夢の話を聞いていると、
彼らだって寝てる時には自分が3つも4つも分裂しているわけですよ。 他人になっちゃってるわけですよね。
自分自身というのはその中にももちろんいるんだけど、それは明らかに分裂してしまった自分自身で、
夢を見ているわけです。 で、夢を見るということは別に悪いことではないんだけど、
まあ言ってみればちょっと旗迷惑なケースはありますよね。 で、日本人の場合一番自分がない自分がないって言われるのはですね、
非常に面白いことに自分が一番ある時なんですよ。 どういうことかというと被害にあったというか、まあ被害にあった妄想だから被害妄想ですよね。
被害妄想を抱いているとき一番その人は自分が出るんですよ。 特にこう、この我が国の文化構造ではそうなる傾向は確かに強いんですね。
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あのー、みんながそうですね、
カレー食べに行こうよと言ってる時に、それに逆らえずに、同調圧力って言うんですけど、そんな圧力はないんだけど、
まあまあ言い出しにくい。自分はラーメンを食べたかった。 この時に出てくるのが自分はですよね。
不意に思い出すわけですよ。自分というものをですね。 そしてラーメンを食べたいと。この思い出し方をする限り、自分というのは被害観と一体なんですよね。
被害にあった時だけしかこれが浮かび上がってこないわけです。 そしてこの種のことをですね、私たちは批判します。
この話をですね、自分というものが被害観とともにしか現れないという人について決して良くは言いません。
つまり日本の文化においてこういうことは起こりがちなんですが、 でもそうであってはいけないよねという、これは何というか文化的な弱点でもあるし、
その人その人の弱点度も見なされるんだけれども、そういうところがあるわけですね。
で、これがいけないのかって話もちょっとあると思うんですけれども、まあまあこういうことだとしてですね。
ところが私は自分ってのは大体そういうふうにして現れるもんだろうとやっぱ思うんですよ。
日本人にほんとは限らないんじゃないかと。 まあ例え日本人がそういう傾向が強いにしてもしょうがないじゃないかと思うんですね。
私というのはそうやって現れるのが自然じゃないですか。 さっきも言いましたけど何でもないのに私がどん常にこう四六時中意識されているというのは
むしろ不自然だと思うんですよ。 例えばまあその
最初は母子一体ですから親子というのもしばらくですね、やっぱり一体感があるじゃないですか。
ところがそれだけではいられないですよね。 私ってものが出てくる時がある。それは大体ですね、被害感情とともに現れやすいと思うんですよ。
パッとですね、そういうお箸の持ち方やめなさいと。 お母さんに言われて子供もムッとするんですよ。見てるとムッとしますよ。
結構小さいうちにね。 この時に私が出てくるわけじゃないですか。
私はお母さんとは違うんだよと。 これが私っていうものの、私はその原型だとまでは言いませんが
非常によく現れるパターンだと思うんですよね。 被害感情とともに私が浮かび上がってくるというのは
ごくごく当然のことで、そうじゃない時はむしろ お母さんと自分で一緒にご飯を食べています。
それで十分満足していて、私の輪郭はぼんやりしていると。 そうでないと困ると思うんですよね。
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今日は唐揚げですと。いや私はラーメンが食べたかったと。 ラーメン食べ始めます。っていう子供がいたらですね、結構反抗期間しかないですよね。
やっぱり都合悪いと思うんですよ。そんなことばっかりやってたら。 ところがこれが
いいというか、こういう自己主張ができないとダメだって言いつつも いつもこういう自己主張ばっかりしている人は明らかによくは見なされないっていう
難しさは絶対日本に限ったことだとは僕は思わないんですよね。 日本がこの傾向が強いのはわかります。
いってアメリカはそうじゃないというのはよくわかりました。 ただそうじゃないととっても楽かというとそんなことは全くないんですけれどもね。
で、例えばまあ簡単に言うと自分だけで作った方が常にうまいものが食べれるとか自分の満足度が上がるということは絶対に起こらないことです。
ただ単にいつもまずいものを食べることになっちゃう恐れも多分にあります。
で、それは良いんですがこの被害感情とともに私が現れるというこの私の現れ方はしかしですね、
完璧にイリュージョンですよね。 私このことをよく考えてみると自分というのはそもそもイリュージョンなんじゃないかと思うんですよ。
だって今の被害感情って明らかにイリュージョンじゃないですか。 例えばお母さんがちゃんとお箸持ちなさい、
そういう持ち方するのやめなさいって言った時だけ私が現れるそういう子供はいっぱいいます。 その時その子はですね
私は被害に遭った。 私のやり方を否定されたっていう風なイリュージョンを抱くんですよ。
私はこれは完全にイリュージョンだと思うんですよね。 お母さんにおそらくそういう意図がないことは多々ありますからね。
そうするとどこにも実態はないわけじゃないですか。 その人が被害に遭ったという実態はないわけです。
だけれども私は被害に遭ったという思いを抱くとするとそこにイリュージョンがあります。
このイリュージョンとセットにして初めて自分はお母さんとは違うっていう自分が現れるということはこの自分も含めてイリュージョンですよ。
そうするとそういう風に考えていくと自分ってのはよっぽどのことがない限りイリュージョンばっかりだなと思うんですよ。
これが私はですね、夢を見ている人に罪はないってことだなぁってつくづく思うんですよね。
私を消し去ってやりたいって多くの人は戦っている時は思っちゃうんですけどまさにそれが夢なんですけれども。
消すべきは私の方ではなく明らかにそのイリュージョンに対する怯えの方ですよね。
これが多分クラゾノさんがグッドバイブスでクラゾノ圭三さんがよくおっしゃっている話だろうと。
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そしてですね、これは確かに既存の宗教と少し違う、こういうのがないわけじゃないんだけど、こういう考え方がこれまでも全くないわけではなく、特にカウンセリングってのは明らかにこういう考え方にすごく沿ってますが、
それにしても例えばお釈迦様が最初に悟った時とかこういうやり方でなかったことはもう明らかです。
自分自身の内観ですよね。あの宗教は内観をすごく注視しますが、内観だけでイリュージョンを完全に取り払えるって人はやっぱり天才的だなと思います。
私も全然できる気がしません。
だからクラゾノさんのこのグッドバイブスの面白い着眼点なんですが、他人のイリュージョンの方がよく見えるわけです。
これも非常に見えやすいですよね。子供がムッとしていて、この子イリュージョンを見たとすぐわかります。
なのに自分のはわかんないんですよ。大人になっても結構。すぐクレームとか見るとムッとしたりドキッとしたりするじゃないですか。もうその瞬間にアウトだと思うんですよ。
あの別にグッドバイブス的にアウトなわけじゃないんですよ。しょうがないんだというところに、しょうがないという言い方をしてます。しょうがないんですよ。
しょうがないんですけれども、夢を見始めたことは間違いない。
ところが本人にそれを指摘してもなかなかそれを受け入れられずに、クレームが来たことは事実、紛れもない事実ですからって言い方をする。
クレームが来たことは紛れもない事実かもしれませんが、それがクレームっていう段階で意味付けが入ってますけど、
よしとして、来たことは紛れもない事実だとして、それが恐ろしいというのはもうイリュージョンですよね。
おそらくそれが恐ろしい、私は被害に遭ったという瞬間に私が現れているはずなんですよ。
被害妄想を持った私が。これはもう紛れもなくそれこそイリュージョンです。
だからこういう人に対してやってあげられることとしては、このクレームメールは何もあなたに害を与えていない、つまり加害ではないということですよね。
これを認識すると私というものがおそらく一つ消失するはずなんですよね。被害を抱いた私というやつが。
これが夢を見ている人に罪はないと。この時の反応ですよね、相手の。
恐怖感を取り去ってあげた時の相手の反応。お子さんにだっていいんですよ。
そういう持ち方をしていたいのかと。 ただお母さんは別にあなたの持ち方が悪だとか、
あなたの持ち方を罰心だからですね、ここで手叩くとかをするのはいけないわけですよ。
まずいやり方なんですね。イリュージョンを決定的なものにしちゃうからだと思うんですね。
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そういうものは攻撃じゃなかったんだと、
いうふうにみなすことができると、その子はですね、落ち着くんですよ。
それは目に見えてわかるんです。これがイリュージョンを取り去ると。人に、人のですね。
そしてお釈迦様がやったのと違って内観じゃないので、これは。
目で見て目の前でわかるじゃないですか。自分が取り去ってあげたこともわかるじゃないですか。
このようにして
夢を見ている人の目を覚ましてあげると、その人は落ち着くんだということがすごくはっきりするわけですね。
ということは自分が夢を見た時も自分に罪はないんですよ。
このことをですね、他人の夢から目を覚まさせてあげるというやり方で自分に納得する。
自分の夢を許せるようになる。 これを繰り返すんですね。
最近私はこれを頻繁に繰り返せば繰り返すほど、自分がいちいち夢を見たことについて罪の意識を覚えずに済む。
いうことをようやく体感的に認識しつつあるわけです。
私というものが夢によるイリュージョンであるならば、夢によるイリュージョンはおかしいな。
夢でありイリュージョンであるならば、
非常に楽ではないですか。主体というものにそこまでこだわらなくて、しかも主体というのはだいたい被害患者と結びついているならば、
一層疲れるわけですよ。いつも主体的である。外国人は知りません。ただ日本人であれば主体的であるということと被害を受けているということが非常に関係が深いことが多いので、
ほとんどの主体に捨て去ってしまえば、ほとんどの被害は捨て去ることができるわけです。
これがもう日常になっているという人はいらっしゃいます。ほとんどのケースはやっぱり親御さんとの関係があまりよろしくない。
そうすると仕事は全部被害になっちゃうんですよ。 どういうことかというとですね、例えばお母さんに子供の頃
お手伝いをさせられた。まあそれは良いでしょう。遊びに行きたいときにお手伝いをさせられた。 私は遊びに行きたいのに。この時に私が登場する。
子供は誰もが知っている通り大人ほど少なくとも主体について確固たるものは持ってないので、
おおよそ被害を受けた時に主体性を感じます。それはまあそれこそ私は絶対当然だと思っていて、
そこにアメリカ人もイギリス人もないと思うんですね。 当然日本人も。
で例えばそんな洗い方でなってないとか言われて殴られた。 いや私はこれでいいと思ったって思いますよね。誰だって。
こういうことがあまりに続くと、
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何かの作業をするということはですね、 よほどの見返りがない限りは被害であると考えるのが当然ですよ。
だってそれをしたいと別に思ってないわけですからね。 グッドバイブスとかをやろうとしている話でもないし、
例えば夫はテレビを見ていて私は皿を洗っている。 被害あっている。
たとえこれが今日は皿洗いの当番の日だとか、
家事をきっちり分担しているとしても思いますよ。 なぜならそういう記憶が必ず蘇ってきてしまいますからね。
何と言ったって問題は主体だというふうに認識してしまうわけですね。
私は割り送ってはいけない。 私は被害にあってはいけない。それはやっぱり
だんだん防衛的になりますよね。ずっとお家でそういうことが繰り返されていれば。 そして
何か作業をしている度に被害感が蘇ってくればですね、 そしてその時に主体性というものを意識しますよね。
私もテレビを見ていたい。 これはですね、テレビを見ていたいのでは多分ないんですよね。
テレビを見なければ私が被害にあってしまうってことだと思うんですよ。 こういうのは常にそうなるというわけではないですよ。
今のは図式的に説明するからそうなっちゃうんですけど、
不意にどんなきっかけでそうなっても全くおかしくない状態にあるというだけです。 例えば
その前にご主人とちょっと言い争いをしたと。 こういうことがきっかけになるわけですよ。
この人のためにさらおう私は表せられているみたいな。 その感情は普通に発生するじゃないですか。
私とあなたは同じではないと。 その時に被害観というものがあり、主体性というものがつまり私はというか
自分はというものが現れると。それまで現れてなかったものが不意に意識されて
私はこう日の夢にあっていると。 これがお金になるとか言うならいいんですよ。
こういうことなんだと僕は思うんですよ。お金になると言うならいいんですよ。 お金になるということによって
私が現れなくて済むわけじゃないですか。 私だけが浮き上がらなくて済むわけじゃないですか。
お金のためにはみんなやるでしょ。 そうすると非常に面白いんですよ。
主体性にこんなにこだわってるのに主体がなくなった瞬間に主体性が取り戻された気がするんですよ。
これって完全に復習ですよね。 主体がなくなった瞬間にですよね。お金のためって主体性ないじゃないですか。
お金のためです。ところが大概の人はそうは言わないではないですか。 ただ働きをさせられている。私には自分がないみたいな。
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仕事をしている人には自分がある。 自分があるというのはつまり主体性がある。自分の得のために動けている。
私はこれは非常に微妙なものの言い方だと思うんですよね。 確かに被害に遭った時には私は現れます。
それがお金によって償われ、被害ではなくなった瞬間に私というものが薄れていくわけですよね。
これにどうして主体性があるのかと。 でも佐々木さん、自分の時間がないんですけども同じ議論が実は起こってるんですよ。
社会のためや会社のために時間を使うのは主体性がない。 私のために時間を使わなければいけない。
だから好きなことであれば償われるという感じがあるわけですよね。 これは会社で仕事をさせられるというのは被害に遭ってるという感じもあるわけですよ。
その時に私がむしろ現れるという話を私はあの中ではちょっとしてるんですけれども、
仕事をさせられている時、あるいは保育園に子どもの送り迎えをさせられている時には、 もっと自分の時間が欲しいって思うんですよ。
その時に被害に遭っている私というものが強烈に意識されて、 被害に遭っている私を償うものが必要だと考えるんですね。
お金か時間なんです。 よく話出てるじゃないですか。
専業主婦の家事や育児を合わせると20万から25万円みたいな。 これが償いですよね。
育児は もし子どもが好きで子どものために背負うしたいというのであると、この文脈は非常に変わってくると思うんですよ。
でも、この好きで子どもが好きで子どものためにさせられるというのは、
何て言いましたっけ、やりがい搾取って言うんですよね。 つまりやりがいですることにより、本来払われるお金が払われないという話ですよね。
私は確かにそういう言い方もきっとできるんでしょうけど、ベビーシッターはお金払うんだから。
でも、この話をするということは、お金のためであれば主体性が確保されるというのは、とっても不思議な概念だと思うんですね。
お金のためだから、それは主体性は別にないじゃないですか。 みんなお金欲しいじゃないですか。
どこにもその人の個性的であるとか、自由意志であるというところがむしろなくなっていってると思うんですね。
だから自分がなくなるということの方がいいわけですよ、このケースにおいては。
自分じゃなくたって、つまりベビーシッターだってお金をもらえば子どもの面倒を見るわけですよね。
そうすると、自分じゃなくたっていいっていう状態が、その状態に自分を置いた方がいいって話をしているわけだから、
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自分自身がそれをさせられているという気持ちさえ解消されればいいわけですよね。
自分が一番現れた時が、自分が一番ない感じがする。
多分これがリベンジを生むんだと思うんですよ。
私が一番意識させられた時、友達と遊びに行きたかったのに皿洗いをさせられている。
私が一番意識されている。
私の自由が奪われた時、私が一番意識されて、意識に上がってくる。
これだと思うんですよ。
これはお話は何度も言いますが、日本人に限った話だとは思わないです。
それよりもここで大事なのは、この時その人は夢を見ているということが非常に大事なんだと思うんですね。
この被害感は間違いなくイリュージョンなんです。
でもお母さんがブツとかお母さんがすごく怒鳴るというのは、イリュージョンと言っても子どもには酷だから、
これは紛れもなくはないけど一応事実だとしますね。
被害はイリュージョンですけどね、多くの場合。特に殴られていなければ。
でもこの気持ちをそのまま引っ張って大人になりました。
そして、例えばPTAに出させられて無駄な時間だ。
この無駄な時間を私は損をした。
被害に遭った。この時私が登場するんですよ。
この私を解消するために何かが必要だ。こういう償いが必要だという考え方になるんですけど、償いようがないですよね。
なぜなら被害に遭ってないからですね。
PTA総会に出ることが被害だっていうのは定義としては成り立たないじゃないですか。
もちろん解釈としてありますよ、無駄な時間だったと。
でもその人は間違いなくその時に思い出してしまったんですよ。
かつて自分が被害に遭ったという気持ちをですね。
何ならそれは皿洗いをさせられたのだというそこそこ大層なことじゃなくてもいいんですよ。
例えば肩ひじついてご飯食べてたら注意された。そんなことでもいいんですよ。
被害感を子供の頃に持った。それを思い出すんですよね。
無駄なことをさせられたという表現によって、その時に私は私の貴重な時間を無駄にさせられた。
この時に私が現れる。
ただPTA総会に出ただけですから、PTA総会それ自体は人に害を与えるための会ではないので、
それは解釈次第ですよ、もちろん。でも会自体は、ぶつとか殴るとか攻撃をするとか、
時間を徹底的に無駄にさせるためにやるとかそういうわけじゃないじゃないですか。
それは結果としてそういう解釈が成立するという話であって。
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だから害はそこにないわけですよ。だけどもうごく当たり前のように、
あー被害に遭ってしまったと。その時私がこの貴重な私の時間を損をした。
その人の主体がカッと現れて、被害感というものと共に現れる。その人は夢を見ているんですね。
多分昔何か嫌な目にあったということを思い出してるんでしょう。
その思い出はそこに目の前にはないわけですから、目の前にはPTA総会しかないわけですから、
PTA総会のために無駄なことをしたというのは明らかにイリュージョンなので、
このイリュージョンを見ている人に罪はないんですよ。
これを例えばご主人が聞いて、本当に無駄なPTA総会で前口ばっかりだなって言ったらアウトなんですよ。
一緒に夢見ちゃいけないじゃないですか。で、夢を見ている人に罪を見てしまうんですね、私たちはね。
PTA総会に出て、その時間を無駄にさせられたという、
そういう夢を見ている人、昔ひどい目にあったという多分思い出と共に、いろんなイリュージョンの中に巻き込まれている人に対して、
お前は夢を見ているっていうのはですね、
現実に、何でもいいんですけど、ホラー映画みたいなものを見て、井戸から人の手が出てくるような夢を見て、
その手を必死に振り払っている人のぶんぶん手を振り回しているのを見て、それは危ないだろうっていうのと同じなんですよ。
その人は夢を見ているんで、その人に文句を言ってもしょうがないんですよ。
で、私たちはその夢を見ている人に向かって文句を言うということは、一緒になって夢を見るっていうことになっちゃうじゃないですか。
で、その時にですね、
何らかの形で、こいつは夢を見ているんだと、
ちょっと起こしてあげようということをするということは、つまり夢を見ているということは悪いことではないっていう意味になりますよね。
このようにして私たちは、愚痴を言っている相手に文句を言ってしまう自分を許すことができるんだと思うんです。
だって夢を見ているわけだから、別に愚痴を言ってしまって、愚痴を言っている相手に対して怒ってしまっても罪はないじゃないですか。
不適切な行動ではあると思うんですけどね。罪はないんですよ。一緒に夢を見ることは。
これが大事だと思うんです。こうして自分もイリュージョンから覚めていくことができると、
こういうメソッドなんだろうなというふうに思います。
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