2022-01-07 30:09

【GMV530】時間も空間もお金もヴァーチャルであることは間違いない

なんのゲームをしているのか?
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
15時から、グッドバイブス勉強会のシーズン3が始まります。
第1回です。第2期、シーズン2は先月12月で終わっています。
今季からは、年があらたまったから新しい季が始まるくらいな感じでもいいと思いますが、
大体だと1週間とちょっとなので、チェックしてみてください。
シーズン3ですね。
仕事がテーマだったと思います。
仕事がテーマということであれば、仕事術みたいな話をすればいいかなと、今は漠然と思っているところです。
先日も言いましたけれども、情報整理術の本が出ていて、そこそこ好評をいただいていて、
やっぱり僕は今のところこっちの方が読まれるという、つまりこっちの方が期待されているということなんだろうなと思って、
織り混ぜて出していければいいかなというふうに、このグッドバイブスのような内容と仕事術のような内容と、
完全に切り替えるということは多分望まれていないんだろうから、
ただ顔色を伺うの方もですね、売れ行きは全然あれなんですが、レビューの星はそこそこついているんですよね。
そしてそんなに別に悪いわけではない感じなんですよ。
レビューの星の良し悪しで言えば、比較的好評の情報整理術と、実はあんまり変わってないんですよね。
ただコメントの方についている位置というのは影響がでかいんだなと思います。
情報整理の方も星位置あるんだけど、コメントの方にはないんですよね。
やっぱりこれで決めちゃうという方も少なくないんだなと。
まあしょうがないですけどね、ただこのことは僕はよく覚えているんですけど、
しかも昔は大学に入る前までは本屋さんでしか本を買えなかったんですが、
本屋さんに並んでいる本を買うときに星位置のコメントは一切目にすることはないわけですよ。
一体このAmazonの何でも星でランクをつけていますけれども、
この星でランクをつけているものを当てにして物を買うというのはですね、
実は何て言うんですかね、たぶんこういうことなんですよね。
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試すことが難しい、少なくともオンラインで試すのは無理があるという時代に考案されたものだと思うんです。
よくそのことはインターネット本当に全くの霊明期、大とかないよね。
本当の霊明期1995年よりさらにWindows95が出る前に、
僕は秋葉原のラジオ会館でインターネットを白口中触っていた、
バイトしながらやっていた時代があったんですけど、
そういう時代のインターネットって物を買うとかは考えられなかったんですよね。
決済するのも無理だから、しかもどうやってその物の中身を知るんだという感じがあったので、
服を、浅草の方で服を売っている人が友達にいるんですけれども、
家がそういう家ということで、中学・高校一緒で仲良かったんですけど、
服なんかネットじゃ絶対買えないでしょうと言ってたんですけど、
今は普通に買っているじゃないですか。
それはあの当時じゃ考えられないほど大きな画像を出せる上に、
今は3Dとかもあるし、そもそもみんな買ったことがあるから、
こう見えるならどんな感じってのも分かるわけですよね。
こんなる前のインターネットでは何かというとレビューが大事だったわけですよ。
大きな買い物を買う時に店頭と違って、
触ったり試したり試して何とかってやっていけないっていうのが問題だったので、
昔からそうですけど旅行っていうのは結構昔から批評っていうのが大事だったわけですよね。
この旅館のランクとか、どうせダメなんですけどね。
なぜならああいうものは昔はCMの一環だったから、
どんなにどういうところでもいいことしか書いてなかったから、
アットホームな雰囲気とか微妙な表現はあったにせよ、
基本的に星1で悪いことが書かれてるなんてことはなかったんです。
口コミとは違ったんですね。
今でも1回しか試せない旅行のようなものは別としても、
本って中身試し読みもできるわけですが、
あそこまで詳細なレビューをつける意味が、
それを参考にする意味がどの程度あるのかなという感じはします。
学生時代はお金なかったですし、
1500円を間違って使うと致命的だみたいなこともあったかもしれないですけど、
でも1500円なし、本は買って読まなくてもですね。
例えばこれがフランスに旅行に行ってダメダメでしたということに比べると、
全くダメージの点でいうと低いと思うんですよ。
一番この中で僕が信用してはいけないにも関わらず、
人はこれを信用し、しかもダメージという意味でどうなのかと思うのが、
デートのディナーですね。
これを星を当てにしてやるのはやった方に問題があるという感じが私もするんですが、
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でも大学時代そういうこともしました。
ああいうのが社会勉強ですなんだろうなと思うんですよ。
そういうのは良いとして、
だからもう今後ずっとAmazonというもので本を買っていくと、
ああいう流れになっていくのかもしれないんですけど、
どう考えてもですね、本屋さんで本を買ってきたときに、
何にも参照しないで買っていたのと比べて、
より選択感が鋭くなったような気は、
あれを読んでも少しもしないなという感じはするんですね。
だからこれってどうなんだろう、なくなりはしないだろうけれども、
あれは結局ネット例明記の名残なんだよなという感じが今はします。
まあそんな感じで長々と喋っちゃったんですけど、
そういうのも織り混ぜつつが良いかなという風に、
仕事術とグッドバイオスみたいなそういう感じで、
今年もいければ結局良いのかなという風に思っています。
昨日収録を久しぶりにしてですね、
昨日の収録の形はあがき不足危機みたいな話もあって、
新しい試みとして始めてみたんですが、
要は対面で直に質問いただきながら、
それに僕が最初に切り込み役的なのをやって、
その後クラソノさんがお答えするというやつをぶっちゃけ相談で、
撮った時は生だけど、当然それを編集してから出しますからね、
出すという形になりました。
要するにズームで質問してもらって、
それに答えているところを録画する、そういうやり方ですね。
こっちの方が答えやすいんだなというのは、
多分相当していた通りだったんですけれども、
要するに半抜きで書く時というのはやっぱりですね、
半抜きで書いているほうがいいじゃないですけどね、
お質問をフォームにお寄せいただいている時は、
文章にしてしまうんだなというのを昨日は感じました。
口頭で人に聞く時には、非常に分かりやすくなっているんだけど、
文章で相談されてみると、
なんかですね、不思議とあのような分かりやすさは消えてしまうんですよね。
ちゃんとした文章になっているんだけれども、
これのどこに何を答えればいいのかが分からないという感じが、
ぶっちゃけ相談で毎度、毎回ではないけれども、
頻繁にそういう感触があって、
この相談という形式は実は双方にとって難しい形式なんだということを
昨日改めて知ったんですね、私は。
まあ、多分そうだろうとは思っていましたけど。
だから、口頭で直接質問されてみるとですね、
09:03
とてもよく分かる気がするんですよ、質問内容について。
何を言えばいいかというのはまたちょっと違った問題であるにしても、
まず聞いていて、この質問の意図は何だろうということにはならないんだなと思いました。
だからやりやすくなるんですね。
で、あとはぶっちゃけ相談を聞いていただければと思うんですけれども、
昨日伺った中でですね、やっぱり私たちの、
これはですね、話が難しく聞こえてしまうということがあると思うんですけれども、
頭の癖ですよね。
それはつけられたものもあるんですが、生まれながらのものもあって、
一つ重大なものとしてですね、時間というやつだなと思うんですね。
私たちは時間が存在するとでも思っているわけですよ。
でも、ここで難しい話をすることになっちゃうんですけれども、
ビッグバンってあるじゃないですか。
あるとされているじゃないですか、宇宙の始まりですね。
ビッグバンとともに時間は始まったって言うんですよね。
そうすると私たちの頭っていうのはすぐ時間に関する悪い癖が出てですね、
その前はどうだったのって言い出しちゃうんですよ。
これは当然出てくる疑問でありながら、非常に変な疑問なんですね。
つまり時間というものが最初からあるかのような顔をしようとするわけですよ、僕らの頭の中では。
だけれども、ビッグバンとともにすべてが生まれたんだから、
それ以前に何かがあったと思うのは大きな間違いなんですよ。
そもそも時間があると誰も言うと、
時計はありますよ、時刻もありますね。
でも時間があるという保証をした人というか、それを実態として知っている人は
この話を分かりにくいと思う方にはものすごく分かりにくいんだと思うんですよ。
私も学生時代この話を宇宙物理学というのを一般教養でとっていたんですけど、
この話をされてさっぱり分からないと思ったんですよ。
感触として理解が納得がいかないんですよ。
でもその先生は畳みかけるように、空間というのはどこにあるんだと言ったんですよ。
それで自分の空間というのは、僕らもみんな頭の中で思っているじゃないですか。
あると思っていますけど、空間がここにあるという説明はできないんですよね。
例えば空気がここにあるという説明ならできるんですよ。
でもこれが空間ですという説明はできないんですよ。
私たちの頭の中で空間というのは作り上げているものなんて、
あるんだよって脳が言うからあると思っているんだけど、
あるかどうかなんて分からないわけですよね。
自分の目には奥行きがあるというふうに考えていますけど、
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皆さんもご存知の通り、画面で奥行きを作り出すのは実に簡単ですからね。
画面の奥行きを作り出すのは実に簡単ですからね。
皆さんもご存知の通り、画面で奥行きを作り出すのは実に簡単ですからね。
画面の中に奥行きとかはないわけじゃないですか。
よく昔、テレビの中に人がいるかどうかみたいなことを
幼児がどの程度、どんなふうに認識しているかというのが、
子供に聞くといろんな答えが入ってきて実に面白いんだけれども、
とにかくあそこの中に空間はないですよね。
でも目は空間を認識するので、全く同じことを僕らはやっているんですよね。
実際には空間がそこにあるという保証をしている人は誰もいない。
これも当然ビッグマフと共に作り出された何かなんでしょう。
ただしそれが私たちが知っている縦横高さがある空間であるというのは、
おそらくそんなことはありえなくて、
時間が時計と共に進んでいるようなこれもありえなくて、
つまり私たちはそれをバーチャルなものとして作り出しているはずなんですよね。
一番僕がこの比喩に例えられて、なるほど、そういう意味でと思ったのが、
北極より北はどこにあるという質問には答えようがないってやつなんですよね。
東西南北というのは結局のところバーチャルなものなので、
とりあえず北極というものに肩立ててみて、
ここが一番の北なんですというのを作り、
南極というものに肩立ててここが一番南なんですというものを作った場合、
東西南北が一応宇宙の中に仮のものとして、バーチャルなものとして作り出せるんですけど、
私は中学受験の時にこのひっかけ問題にひっかかったことがあるんですよ。
あなたは今北極に立っています。日本の方角はどっちですか?
なんとなく東って答えちゃったんですよね。実に愚かですよね。
北極から見ればどっちの方角も全部南に決まっているわけで、
という話にかなりよく似ているんですよね。
これはバーチャルな決め事だから、そこに立ってしまうと方角に四方向があるはずがないんですよ。
北極を中心にした時に東西南北を言いたければ、
もう北極という表現をやめなきゃいけないわけですね。
同じような理由で、ビッグバンの以前とかを言っちゃいけないわけですね。
北極より北がないように、ビッグバンより前というのはないわけですね。
だからそういう話をするのであれば、全く違う観点を取らなきゃいけないんだけど、
僕たちは全く違う観点を取れないわけです。
常に時間が進んでいるような気がしていて、上と下があるような気がしていて、
これは地球の反対側から見ると、あなたが下だと思っているのは上ですという話と同じなんですけれども、
要するに僕らが認識しているようには、この世の中はできていないんだという、
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ごく当たり前の話なんだけれども、僕らはそれを直感的には認識できないので、
いろいろと試行実験して、空想してみて、空想してみて、多分そうなんだろうなと思ってみるしかない。
こんなに難しい話をしなくても、時間というのはないんですよ。
あるはずがないんですよね、ある意味では。
まず、あると私たちが言っているものってだいたい取っておけたりするじゃないですか。
この辺は難しいんですけどね。
とにかく時間というものは貯蓄とか貯蔵というのはできないし、もちろん時間を作り出すというのも比喩ですし、
節約するというのも比喩ですし、効率的に使うというのが比喩以外の何ものでもない。
多分そもそも時間を使うということはできていないような気がします。
僕は一度も時間を使ったことはないです。
使うということはですね、それを作用させることによって、
別のものを例えば加工させることができるとか、そういうのを使うという話をするじゃないですか。
時間を使うことで加工させるとか、そういうことはないわけですよね、僕らが。
手を使うようには時間は使えない。
だから、昨日の質問をぶっちゃけ相談でいただいた中でも、
一番まずここで引っかかっちゃうんだなと思うのが、何もしないというやつなんですよね。
何もしないということが僕らは、昨日の質問をいただいたような方にとっては特に難しい。
これはその人がある意味優秀だから起きる現象なわけです。
何もしないということは容易にできる人にとっては何にも難しいことではないんですよ。
何もしないということを計測しちゃうから、何もしないでいる時間90分とかね、
こういうふうに計測しちゃうから一気に何もしないことができなくなって、
スマホとかを触り出すわけですね。
そうすると、それに対してなぜかスマホ依存症とかいう病名をつけたがる人が出てくる。
これはビジネスの問題もあるし、教育倫理的な話も出てくるから当然なんですけれども、
実際にはスマホをいじりたがるというのはですね、
私はスマホ依存の方が問題なんじゃなくて、何かしていなければならないというふうに、
私たちが時間の概念を叩き込まれたときに、一緒に教育効果みたいなもので叩き込まれた瞬間なんだと思うんですね。
このことがですね、私はグッドバイブスで初めてはっきり方向性を与えて、
これを絶対やめるようにしようというふうに意識していることの一つなんです。
何かをしているというものが前面に出てくるわけです。
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何もしないというのが背景にあって、何かをそれに対してしている、
そしてこういうふうにしていないと安心できないという、すごく植え込まれてしまった一つの観念なんですよ。
それがですね、さっきの北極の北みたいな感じで、それはあまりにも常識で、
そうでない考え方というのは、何かを歪めているんだぐらいになってしまうんですよ。
無用の用とかいうことをあえて言う必要はないと思うんですよね。
要は何もしなければいいんですよ。
時間術でも、それこそGTDでも、僕が思うにはですね、
常に何かをしていなさいとは言っていないと思うんですよね。
わかんないですよね、全部を確認していないから。
全部確認すれば言っているのもあるかもしれませんけど、
普通そんなことは言わないと思うんですよ。
超生理法とか超時間法とかありますが、ああいうのを読んでもですね、
常に何かをしていなさいなんて別に書いていないと思うんですよ。
これはですね、忙しいから常に何かをしないわけにいかないから、
やるっていう話とは違うように思うんですね。
時間ができたら、この時間は何かしなければいけないんだっていうのはですね、
受験生とかにもよく言われちゃうわけですよね。
それは受験生ならある意味そうなのかもしれないんですけど、
でもうちの子を見ていると災難勧告を受ける受験生であっても、
それをやった方がベターかどうかは、ずいぶん疑わしいなっていう感じはします。
僕はこの受験に関しては、基本的には塾の方がやり方を絶対知っているので、
基本をお任せで、勉強させるにしてもさせないにしても、
いちいち一切口出ししないようになるべくしているんですけれども、
やっぱりうちの子に比べてさせるっていう、うちの子だって相当してますけど、
させるっていう方針で言っている、塾の方針に沿っていれば、
もっとしてる子っていうのは結構いるんだけど、
少なくとも上司に限る限り、そうした方が伸びるってほどはもう伸びないなっていうラインってある感じがします。
一日6、7時間は勉強していると思うんだけど、
ここを越えてやっていっても伸びないなっていう点はあるような感じがします。
僕が思うに、この時間をいっぱいかけるというのが最大効果は受験だと思うんですよ。
つまり人工物だと思うんですよ。人工世界だと思うんですよね。
一般人の話ですよ、これは。
アスリートとかを入れてくると、一番時間をかけてうまくいくのは受験じゃないと思うんだけど、
一般的な人で言えば、つまり割と誰でもできる話であれば、
受験勉強が一番時間効率を最大化できるかなと思うんです。
私一番勉強していたのは小学校5年か6年の時ですからね、間違いなく。
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留学の時も別の意味でそうかな、でも小学校5、6年だったと思うんですよね。
あれぐらいすることで子供が一番伸びさせることは可能だなという感じがします。
私大学受験の時はあれほどのことはできていないと思うんですよ。
記憶効率で言うと、10歳説とか12歳説とか様々ありますけど、
私11歳の頃はすごかったなと思うんですよ、自分でも。
到底あれほどのことが18歳で覚えられたとは思えないですね。
膨大な量を記憶していくことができる。だから時間効率がいいわけですよね、結局。
そういう勝負だから結構大変なわけです。
この癖がつくんだと思うんですよ。受験と違って大人になると何をするというのが鮮明でなくなるわけです。
子供だったら、子供のやっていることはあの年頃の記憶力と独特の体力回復があるから、
効率的にはすごいけど、選択をするという意味では非常に狭いわけですよね。
4教科しか最大でもないわけだから、今やるべきことって言ったって、
算数の計算とか漢字を覚えるとか関東の名前を覚えるとかあからさまに出てくるから、
ああいう非常にシンプルで分かりやすいやり方を可能とするんですよ。
これと同じことをしたくなってるんですよね、多分大きくなって。
でもそんなことはあり得ないじゃないですか。
はっきり言って、例えば今人が休んでいる間に英語の勉強をする方が人生のクオリティーが上がるんだと思って
めちゃくちゃ英語の勉強をしても、もしかするとGoogleあたりがものすごいものを出してきて、
英語の能力とかがほぼ無意味な、何かソロ版の能力に近いようなものになってしまう可能性は十分あると今は思うんですよね。
なるほど、あなたは英語が喋れて、すごいね、まるでソロ版一級だね、ぐらいな感じで。
ソロ版一級だって今でも一定の詳細の対象にはなると思うんですけど、
もはや必須の技術とは言い難いじゃないですか、電卓があるしね。
そもそも電卓があるというかExcelがありますからね。
でもうちの母の時代では二級を持っているというのは就職に十分有利だったんですよね。
英語は今でもそういうところがあると思うんですけど間違いなく。
でも日本語で電話をした瞬間に向こうでは英語になるという技術が出てきてみたり、
文章を全部、その人の国籍によって文章が自動的に全部翻訳されるというレベルが普通のレベルにまで達してしまったら、
そして僕はそれは十分あり得ることなんじゃないかなと思うんですけど、
今のようにはもてはやされなくなるはずなんですよね。
そうなったとした場合ですね、これは仮定の話でしかないですけど、
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そうなるかどうかは知りませんが、した場合でも英語が喋れるということが評価されると思うんですよ。
ただ以前のように何かに有利にはならないと思う。
こういうことが受験では起こりにくいんですよ。
全く起きないわけじゃないけど起こりにくい。
今でも漢字の書き取りとか書き順とかは受験の世界ではバッチリ有意義なんですね。
現実世界ではそうじゃなくなったじゃないですか。
大幅に後退しましたね、その価値は。
僕が漢字が書けるという意義と、うちの娘が漢字が書けるという意義は、
はっきり言って半分以下になっている感じがするんですね、どう考えても。
だってスマホに漢字で書いたとき、書き順が適当でも点があってもなくても、
ちゃんとした字に変換されるようになって、この技術が後退するとは到底思えませんが、
にもかかわらず受験において漢字で、例えば博士の博は点いるかないかが答えられるような大きな意味があるわけです。
この点においては20年前と40年前と今とでほとんど何も変わってないと言っていいくらい変わってないんですよ。
例えば、計算だってそうじゃないですか。今計算できる能力というのは、
私が小学校時代に計算できる能力に比べれば、今計算できる能力は全然必要なくなってきつつありますけど、
計算が早いということの意味は、今の娘にとっても、私が子供の頃の時代でも何にも変わらないんですよね、受験の世界では。
それは日本の受験がアップデートしてなさすぎると言われてしまえばそういうことかもしれませんけど、
とにかくそういうのが通じて、現実にちゃんと集まり、受験の現実にはちゃんと役に立つと、
こうであってほしいなと多少思う人がいるはずなんですよね。
なんかよくわからない、全然学歴も何もない人がいきなり大儲けできるような社会は、
そういう人の目からすると何か不公平なものがあって、そういう人からしてみると、
何もしないでいるということが幸せになれるのは恐ろしい世界なのかもしれないんです。
ここまで言うとややこしくなってきますけど、もうちょっと単純に言うと、
何もしないでいると受験でも開けるよという感覚がそのまま社会に出てもあるような感じ。
その感じをずっと引っ張っているうちに、受験だけじゃないですからね。
中学、高校になると学期末とか中間試験のたびにこの事実を思い知らされるので、
これをずっと6年とか10年ぐらい引っ張っているうちに、
時間というものはこの世に確かにあって、ビッグバンの前からコチコチと流っていて、
この時刻になったからビッグバンが始まったというような不思議な世界観が私たちの中に根付いていくんだと思うんですよ。
こういう世界観って、それが40何億年とか言うとおかしな感じがしてくるんだけど、
私たちの頭の中でそういうきちっとした3次元かける時間みたいな、
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昔ニュートンが絶対静止形とか言ったやつがあるんですけどね、
その時刻を測るためには止まっている場所が必要ですよね。
永遠に絶対不動の部分が、全てのものが動いていたら実際は時間って測れないので、
絶対に止まっている部分があるというようなことをニュートンが昔言ったことがあるんですよ。
そんなものがあるはず無いんですけれども、そこが宇宙の中心みたいになっててね。
しかもそういう話になっちゃうとオカルトになっちゃうじゃないですか。
絶対に変化しない、絶対に動かない、そこにいるのは神様みたいな、
そういう非常に数学的でありながら何かものすごくオカルトみたいなそういうのがあって、
彼が錬金術に凝っていたというのが分かるような気がするストーリーなんですけども、
彼がそのことを本当に信じていたんですよね。
彼がそのことを本当に信じていたかどうかは分からないですけど、
でもそういう感覚ってあるんだろうなと、人間にはですね。
これ人間にしか絶対ないわけですよ。
多分空間把握というようなことは、カエルでもトカゲでもできますけど、
私たちがやっているそれとは全然違うと思うんですよ。
同じであったらむしろ彼らは生きていけなくなると思う。
私たちのこういう時間を製造するとか、電池上げる能力というのは、
明らかに生きていくのに役に立つわけです。
さっきもそうですけど、今もそうですが、
9時30分になったらパンが焼けるみたいなことを知っているっていうのは意味があるわけですよ。
ただ、これは時間が実体としてあるという話とは全然別で、
つまり時間を使うとか、その時間で何をしたということを言葉で言えるということの価値っていうのは、
私は何もしなかった場合と比べて絶対等価だと思うんです。
そこに価値の上下が生まれるわけがない。
ただそれが生まれるというのは、何か受験のようにルールがあるんですよ。
数値化できるんですよ。つまりバーチャルな何かがあるんですよ。
お金が儲かるとか、お金って数字ですからね。
その何かのルールに則っているっていうそのルールを意識してさえいれば、
これいくらやっても大丈夫だと思うんですけど、
このルールがないところでも時間やお金や空間が実体としてあると思い込んだときには、
多分何かを間違ってます。
一番それを平気でできるのが夢の中です。
夢の中には空間も時間もお金も全然ないんだけど、僕らはあると思う。
つまり頭がそれをあると思わせたときに、そこには常に嘘があるっていう意識が残っていれば、
多分ですね、ビッグバンド前の時間はどうなってたんだみたいなことを考えなくて済むし、
私たちのクオリティーを、生活のクオリティーを決めるのは時間やお金の使い方だというふうに、
そこに過剰にがんじがらめにされずに済むと思うんですよね。
このことをどうやって伝えていけばいいのかというのが、今の私の課題かなというふうに思ってます。
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