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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
この週はよくこの話をしていますが、来月に1ヶ月集中コースというのをするんですね。
これは、つまり1ヶ月でずっとやれなかった本のタイトルみたいですけど、やりたいことをやっちゃいましょうという趣旨なんですが、
なんでもいいんですよ。パッと思い浮かぶところで掃除とかでもいいと思うんですよ。
結局これは、向き合えないっていう問題なんだと思うんですね。
書き上げ塾でもしょっちゅう問題になるところで、書く題材はあり方針はありサポートもされることになっていて、
しかも6ヶ月もあるという状況で、なんで書けないかというと、多分書きたくない理由があると思うんですね。
ここが私は書く仕組み作りとかだけではダメだとよく思う部分で、書きたくないわけだから仕組みにも乗っかりたくないはずなんですよね。
仮に仕組みに乗っかって書けたとしても、肝心のところをスルーしちゃうと思うんです。そのまんまだと。
このことがその人の必ずしも掃除に向き合いたくないわけではないんだけど、何か向き合いたくないことがあって、
それがですね、部屋をずっと散らかし続けるとか、続けるつもりは本人には全くないんだけど、片付けるという要素がどこにも入ってこないので、そういう結果になるということですね。
もうちょっと言うと、やりたいことなのにずっとできずにいるとかね、そういうことが起こるわけです。
変な話なんですよ、これは。そんなの放置しちゃえばいいじゃんっていうアドバイスも時々聞くんですが、それはできないんですよ。
理由は問題は掃除じゃないからだと思うんですね。書くことっていうのもそうなんだけど、本当は書けないことが問題じゃないと思うんですね。
ある事柄を思い出したくないってことだと思うんです。その辺になってくるとフロイト感が出てきますけど。
じゃあ思い出さなきゃいいじゃんって言われると思うかもしれないんだけど、そうではないんですよ。思い出さなきゃいけないと思う何かがあるんですよね、そこには。
つまり思い出さなければいけないんだけど思い出したくはない。
この葛藤が苦しさであって、そのことが書けないとか、掃除ができないとか、サーフィンに行けないとか、様々なその人にとってまた何か引っかかるところ、つまり実はやりたいんだけどできなくなっていることみたいな話になってるんですね。
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ここまで来ると書き上げ事項やってるのか、精神分析やってるのか、フットバイブスやってるのか分からなくなってくるんですけど、
葛藤さんの文脈からするとあれはフットバイブスを書き上げ塾を通して学ぶっていう書き上げ塾なので、だからおかしな話では実はないのかなと。
一ヶ月コースもそういう部分があります。
だから守備力スムーズにただずっと貯めていた経費生産ができましたっていうのが一番めでたしめでたしなんですが、実は全然違う話がその人の中では物語られていくっていうのかな、そういうことになるかもしれないですね。
7月の頭です。よろしければ。
こういう事情があってですね、1ヶ月2人でサポートさせていただくという実務的な理由もありますが、値段が5桁になっているといったところです。
で、今日は色々、金曜日っていつもそうしようと半ば思ってるんですが、テーマがぐちゃぐちゃでもいいやと。もともとそうですけれども、特に今日はいいやと。
なぜなら一応などなくですけど今週みたいなのが私の中にあって、今週がこれで終わるのでまとまらなくても、普通逆かもしれませんけどね。
でも私はこれをカチッとさせるのは絶対嫌なんですよ。
このカチッとしすぎている時代に対する一つの反逆みたいなところもこの番組はあるので、カチッとはさせないぞっていうのがあります。
だから筋が通ってないとか趣旨が一貫してないっていうのは非常にいいことだと思ってるんですよ。
ブログ書く時はさすがにそんな風には思いませんけど、これは喋り倒してますから、だから絶対これを私は、他の方がやるのは全然どうぞご自由になんですけど、絶対私はこれを書き起こすことはしないし、スクラップボックスにまとめるとか論外なんですよ。絶対私はしません。
なぜならこれをまとめようという気が全くないからですね。そう思ったら多分少しまた違う構成を持つだろうと思います。
積み上げようという気も、これ自体はないです。これによって何かが積み上がるのはいいことなんだけど、これ自体を積み上げていこうというつもりは私はこれに関してはないんですよ。
どういうことなのかな、ちゃんとしたものにしたくないっていうのがまずすごく明確にあります。それぐらいだったら違うことしますよね。
書き起こすとか、さっきスクラップボックスって言いましたけど、整理していくとかいったことって、整合性が取れんるっていうのを案に意味すると思うんですね。
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ということは私が正解を知ってるってことになるんですよ。
ちなみにこのGood Morning Vibes、Vibes.iVoiceは私の立場としては引用自由で、社作権フリーです。好きなように使っていただいても、もし使いたければ結構です。
私の言ってることだよって言ってしまっても構いません。ただし、この内容にはいかなる保証もできません。
私、昔からよく言われることですけど、これがいけない面もあると思うんだけど、精神分析というものは精神分析家しか基本語れないみたいなところがあるんですよね。
私精神分析家ではないし、受けたこともないんですよ。語る資格がないのに語ってるんですよ。
これはそういうものなんです。だから下手にこの内容をそのまま使うとですね、どうなっても知りません。
ただ今精神分析って勢力としてはものすごい低調なので、多分どこからも文句きてもそんな心配することはないです。
大した勢力じゃないという言い方もできます。ただし、そのすごい勢力になって文句言われても、私がそれを何か保証することは一切できません。
私はあらゆる意味でその種の資格を持ってませんからね。私が持ってるのはただの学士ですから。心理学の学士。
大学を出ましたってたったそれだけですから。PhDも他にも何にもないですからね。
だからこれの内容をいくら引用していただいてもいいんだけど、これは何のバックボーンもないというのが大事です。
私はこの何のバックボーンもないという立場で喋りたいってね。
心理学士とかPhDとか博士課程とか医療関係者だとか言えると非常に安心感があるでしょう。
そういうものは一切ありませんからっていうのが、これの私の一つのある意味では売りどころだと思っています。
だからもうめちゃくちゃな順番でめちゃくちゃに喋ってるはずなんですよ。
それも意図的に多少やってますから。意図的にじゃないんですよ。
意図的にちゃんとしようという気を一切持ってないから、多分そうなるはずなんですよね。
この点が大事だと私は思ってるんですよ。軸がないってことです。
ブレるとかではないんですよ。そもそも軸がないと。
ここがこの番組の軸です。そういう言い方をするのは。
だから180度逆のことを平気で言い出しかねないところもあるってことですね。
これもすごく私がこの番組では大事だと一応思ってることです。
だから軸がない上にプランもないから何喋るかも全然わからなくなるんだけれども、
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でも喋ることはあるんですよ。不思議ですよね。
精神分析っていうのは今大別して世界には2つ、3つかな。
でも3つは非常に微妙ですからね。とりあえず3つとしまして、流布があるような気がします。
ただ最近少し混ざってきて、それは良いことなんですけど混沌とし始めてる感じもしなくはないんだけど、
とりあえず主要なストリームが、この番組では一番私としては一押しの対象関係論というのがあります。
内的対象としての母親みたいなのを結構重視する。
イギリス学派?独立学派?なんかよくわかんないですよ。
ウィーン学派みたいなそういう感じもだんだん細分化されてっちゃうんでね。
基本的にそういう対象関係論っていう考え方があります。
これはですね、この5文字漢字ではさっぱりわかんないんですけど、
やっぱり山田太一さんの異人達の夏、これ先日ある方ともお話ししたんですけど、
あのドラマどっかで見た気がするんですよね。
私のような世代の人間だったら、どっかで見てる気がするんですよ。
本は読んだ記憶僕ないんだけど、絶対ね、幼い頃っていうのはおかしいんで、
子供だった時代にあのドラマを見たんですよね。
でもドラマってなんか断片的に見るじゃないですか。
私昔火曜サスペンス劇場とかのエッチなシーンだけ見てるとかやってたんですけど、
ほとんどそういうなんか通しで見るには長いんですよ。
子供には宿題もあるしね。
あとナイターも見たいんで、そんなかさずばっかり見てらんないんですよね。
だから、あれも見たんだけど、多分一部のシーンだけ見た。
でも記憶がなんかね、妙な感じがするんですよね。
でも記憶がなんかね、妙な感じで残っているんですよ。
あれが対象関係論。
ただし、山田さんはやっぱりホラーとしてのホラードラマにしてるから、
対象関係論じゃないような気もするんだけど、
対象関係論感がすごいありますね。
つまり、昔のお母さんとお父さんにあまりにも寂しさがあったという幻覚を見ると、
その幻覚は自分の心の中にあるわけですよね。
これが内的対象と単なるイメージの重大な違いなんですよ。
内的対象というのは、そうやって心の中で生きているわけですよ。
あの人の顔を覚えているとか、そういうレベルでは全くないということですね。
それはもう本物そっくりのような振る舞いをして、現実に強い影響を及ぼすものだと思うんですね。
基本的には母と父ぐらい、せいぜい兄弟とか、
うんと濃く関係している親友とか幼なじみとか、
そういうのが内的対象として存在し得る。
よくドラマや漫画で、夢の中で出会ったり、死ぬ前に出会ったり、
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あの世で出会ったりする、そういう存在ですね。
一回だけ会った絵、顔もおぼろげな人、あの世で会わないですよ。
そういう意味ですね。
内的対象論、内的対象関係論。
この人たちとの関係性で私たちの心というのは、すごく決定付けられている面があるから、
ここを難しいことになってしまったら、再度考え直して、捉え直してみましょうと。
内的対象としての母親と、いつもくっつきたいと思っていて、
そのために実際の母親ととてもうまくいかないとかね。
そういった話になってくるところを、観世に結ぶわけです。
このポイントはですね、内的対象としての母親は年を取らない可能性が高いってことなんですよ。
これはつまり、よく誤解されているんだけど、誤解とは言い切れないんですけどね。
過去に戻って、お母さんとの関係を云々しましょうとか、
お母さんがよくしてくれたことを思い出しましょうとか、
お母さんがよくしてくれたことを思い出しましょうとか、
トラウマをどうにかしましょうっていうのと、精神分析がイコールじゃないってことなんですね。
だって、過去にあったことをただ思い出しているわけじゃないんですよ、これは。
ところが、アメリカの方での自我心理学みたいな、
自我というものをすごく重視する精神分析があるんですけど、
こっちの方が主流です。世界の主流ですね。
こっちは、ある意味では子供の頃から発達してきたという、
発達ラインというような観察して、子供はどういうふうに大きくなったかを重視するみたいなところがあるんですね。
エリック・エリクソンなんかが、ちょっとこの学科とイコールじゃない気もするんですけど、かなり有名です。
まずこのフェーズを乗り越え、次にこのフェーズを乗り越え、
乗り越え損ねたところ、例えばトイレットトレーニングのところですごく難しいことになっちゃったら、
そこに戻るっていうような考え方を取るのが、アメリカの精神分析の考え方なんですよ、多分。
で、これは全然違うんですね、対象関係論とは。
対象関係論というのは多分、過去に戻っているということは一切なくて、
その時、内的対象としてのお母さんや大人とか、その時何かが起こるっていうのを重視するんですね。
あれは今ここなんですよ。
イシンたちの夏がそうで、お母さんとお父さんは死んでるんですよ。
思い出の中に行ったとかではなくて、主人公も何度も言うんですが、
これが幻覚だったら現実は全部幻覚だって、あの感覚が非常に大事なんですね。
山田太一さんは精神分析のことだと全然意識せずにドラマを書いたって言うんですけどね、
この辺は私が倉園さんのお話を上げた時に受ける特有のショックと似てます。
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まったくその話と同じ話なのに、いきなりその人のオリジナルから出てくるっていう、
この話はでも大事なのでどこか別のところでしたいんですけど、
今日はあまりしないです。
山田太一さんは特にそういう意識はなく書いているということを
河合俳夫さんに言ってびっくりさせるということがあったみたいなんですよ。
河合俳夫さんは山田太一の作品が好きですね。
そんなようなことがあるんだけれども、とにかく今ここなんですよ。
今ここって何?つまり、もう本当に幻覚を見ちゃうっていうのは、
今ここで見るわけではないですか。昔のことを思い出す。
片目から見ればそういう面もあるかもしれないけど、
昔のことを思い出しているわけじゃないんですよね。
だからあのドク親みたいな話も、親ガチャみたいな話も、
対象関係論の文脈と私はその発達ラインの文脈だと大きく違うと思うんですね。
対象関係論の文脈でいうと、ドク親かどうかは、
ドク親だったかどうかは重大な問題じゃないんですよ。
今ここで親の対象がドク親だと見なされているかどうかが大事なんです。
それだけが多分大事だったと思うんですね。
これを捉え直す必要があるならば捉え直すんだけど、
本当は親がどうだったかとか、本当に親に何をされたかという話をしてはいないんですよ。
だからそういう意味では本当に虚勢恐怖を感じたのかとか、
父親に虚勢されそうになったのかとか、そんなことがあるはずがないんですよ。
私たちの心がどういうふうに何を捉えるかという話をしているだけで、
その時に対抗っていうのは、子供っぽくなるってことで、
子供時代に戻っちゃうってことでは本当はないんですね。
子供っぽくなるんですよ。
大人が子供っぽくなることと子供が子供らしいことって非常に違うじゃないですか。
でも一方で、子供が強く子供時代に感じるであろうことっていうのは、
ある意味非常に現実世界から乖離しているようなところがあるので、
例えばイブ・ホワイトが昔、妹が生まれて妹に嫉妬のあまり足にかぶりついたとかいうのは、
非常に現実の大人はそんなことをしないですよね。
こういう嫉妬のですね、大人は嫉妬って簡単に言うんだけど、
もっともっと根深いじゃないですか。
6歳児にとってこの子に据えてお母さんが奪われるというのは、
もっと切実なんですよね。
その切実な感じがそのまま大人になって出てくると、
どうしても畳からは幼児っぽく見えるわけです。
でもそこには乗っ引きならない状況ってのがあって、
その乗っ引きならなさが要するに神経症になっていくわけですよね。
神経症って乗っ引きならないじゃないですか。
沖縄まで行ったんだけど戸が閉まってるかどうか確認するために飛行機で戻ってきたとか、
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これは乗っ引きならないわけですよ。
子供っぽいかもしれないけど、子供っぽいというのは乗っ引きならずということなわけです。
これはただ昔のことを思い出しているかどうかという文脈で捉えてもどうにもならないんじゃないかと私なんかは思うんですね。
一方ででもこれはやっぱり幼児の頃に戻っている感はあるので、
子供の頃に本当にそういうようなことがあったんじゃないかというふうに、
本当に過去を探り出すという考え方をどっちかというとアメリカではしてた時代がありました。
確かにきっと。
だからエリザベス・ロフタスという女性が、確かそういう名前だった。
こういうのを当てにしないでくださいね。
適当に僕は喋ってますから。
ロフタスという女性がフロイトの過去に戻るというのは誤解なんだけど、
点を非常に強く批判して人間の記憶が歪むんだと。
記憶の歪みというものをショッピングボール実験という非常に有名な実験で
実証してみせたわけですよ。
全く体験のないショッピングボールで迷子になったという記憶を
青年に大学生に植え付けることができると。
そしてその大学生はショッピングボールで迷子になった記憶と思い出というものを
しっかりと認識するので、事実そんなことはなかったと。
後から植え付けられた記憶ですから。
そういう記憶を実験的に操作的に徹底してうまくやれば、
後から植え付けることが簡単にできるということを
ロフタスは証明したんです。
あれはもうセンセーショナルでした。
心理実験の中では心理学者ってみんなこういうセンセーショナルな
ちょっとした実験でみんなにインパクトを与えたいと
それは思っているわけですよ。
有名になれるし、キャリア的にも大きいですからね。
ロフタスはこれで揺るぎない地位を築くんですけれども、
結構大問題なことが起こってくるわけですよ。
後からですからね。
これロシアでも評判になったんだけど、
大変なことになるわけですよ。
昔お父さんとお母さんに虐待されましたとか、
それも性的虐待でしたみたいな。
後からでも記憶がいくらでも捏造できるということになると、
裁判での証言なんてすっとぶじゃないですか。
でもこれは相当大事なことなんですけどね。
昔旧ソ連で、だからロシアで話題になったんだけど、
昔ソ連で親をやたらと弾劾しては
強制収容所に連れて行かせてしまう
思春期の反抗的な少年少女の問題というのが
結構話題になっていたんですよ。
マスタリの時代というのはひどかったんで、
できれば多くの人を強制収容所に入れたそうな、
それも変な話だと思うんですけど、ところがあったんで、
こういうのに片っ端から乗っては、
どんどんどんどん弾劾裁判を受けて、
親は連れていかれてしまうわけですね。
あとはどうするんだ子供って話なんだけど、
子供ってそうじゃないですか。
21:00
親がすっげえ気に入らない時は、
もう親を殺したくなってるんで、
非常にいい話なわけですよ。
やたら当局に密告すれば、
全部その通りの話だということにしてくれちゃうので、
もうたまったもんじゃないですよね。
こういう話との兼ね合いもあって、
つまり、記憶というものは後から作り出せると、
その通りだと思うんですよね。
アメリカの精神分析はこれで痛い、
おそらく結構打撃を受けたとは思います。
過去にこういうトラウマがあったんじゃないかというのは、
そんなに単純な話をしているはずないと思うんだけど、
でもこういうことが一旦実証的に、
科学的に示されてしまうと、
こういう論理に基づいてカウンセリングしてましたっていう、
アメリカっていうのはそういうところをきちっとしてますから、
言われると、弾劾されると非常にきつい立場になります。
そういう話は、
催眠療法みたいなのをすれば、
デタルメばっかりを思い出して、
それによってそういう記憶を何とか消化するという、
そんなに単純じゃないんだけど、
消化するという方法でうまくいくわけがないって言われると、
どうにもならなくなるわけです。
対象関係論がこれによって重大なダメージを受けたり、
受けなかったと私は思うんですが、
のは多分、もともとそういう理屈ではないからなんですよね。
まさにロフタスが言うことは何の不都合もないわけですよ。
後から記憶はいくらでもねじ曲げられるわけです。
親にどういう育てられ方をしていようとも、
その親は最低だったという解釈も、
決して悪くなかったという解釈も、
どっちも十分な離脱わけですね。
それは問題じゃない意味ですよ。
親にどう現実に育てられたかは、
確かに多少は問題なんだけど、
要は大事なのは、現在主観的に
親という対象との関係はどうなっているのかと、
いったことが問題なわけです。
思い出せなくなっているとか、
ものすごく悪くなっているとか、
逆にものすごく良いとか、
それは全部捏造されているに決まっているわけで、
捏造されていようといまいと、
そんなことは大した問題じゃないんですよね。
事実かどうかじゃなくて、
どういう人なのか。
親がその人の心の中で、
そのどういう人なのかということが、
結局、今現在片付けられませんとか、
今現在あらゆる人との関係を
ちょっと先まで行くとすぐ切っちゃいますと、
いったような現実行動に多大な影響を
及ぼしているんですよということを、
自覚してもらえれば、
それでかなりのところまでは行ける。
というのが、
多分対象関係論の考え方なんだろうなと。
だから、過去に戻っているわけではない、
過去には戻れませんし、
過去をただ思い出しているわけではないわけです。
今現在の自分の心との関係を、
24:04
言ってみれば洗い出しているわけですね。
今多分アメリカの方でも、
そういうふうになってきていると思うんです。
結局、きっちり、
記憶がきっちりしたものでないのは、
誰もが承知しているじゃないですか。
ロフタスの確かにセンセーショナルでしたけれども、
改めて言われるまでもなく、
3、4歳の頃の記憶が、
そんなに記憶している通りだということは、
ありえないわけですよ。
イヴ・ホワイトのまさにいい事例で、
イヴ・ホワイトは、
顔桶のおばあちゃんと無理やりキスさせられたと、
別れの挨拶をして、
それが大変嫌だったと。
これをドラマなんかでも、
イヴ・ホワイトのドラマになっているので、
それがドラマになって、
イヴ・ブラックとホワイトに乖離したって話なんですけど、
そんなことは分からないと思うんですよね。
そんな説明をするよりは、
妹に強い嫉妬心を覚えていた。
いろんな人に、あの人は結局嫉妬しちゃうんだけど、
そういう嫉妬からヒステリーが生まれているっていう、
ヒステリー型の乖離が生まれているっていう方が、
説得力がある気がするし、
実際、妹に被りついたのも本当かどうかだって、
そんなことじゃないと思うんですよ。
この証言はお母さんの証言だから、
多分本当なような気もしなくはないんですけれども、
いずれにしても、
本当にそういう出来事があってもなくても、
それは良いんですよね。
大事なのは、現在ヒステリー型乖離という現象が起きた時に、
お母さんという人は、
ホワイトの中ではどういう人なのかと、
ブラックにとってはどういう人なのかと、
イヴ・ホワイトとイヴ・ブラックでは、
母親に対する評価が全く違いますから、
全く違うというのはおかしいじゃないですか。
明らかにどっちも自分の母親であることは100%確かなんですから、
イヴ・ブラックに寄せれば、
母親は赤の他人だってことになって、
そのぐらい評価が低いってことですよね。
でも、新人期の女の子がそれを言うことって、
時々あるじゃないですか。
いや、男の子でもしょっちゅうありますよね。
親に対して、あの人と言うっていう、
他者だっていうことを強調したいという、
そういうことはありますよね。
一方でホワイトのように、
お母さんの言う通りに生きていきたいっていう、
一方ではそういう自分の人格があったら、
その間はもう調停が効かなくなるから、
お互いの記憶を共有しない方がいいわけですよね。
というのが乖離の説明になっています。
こういう話って全部、
なんて言うんですかね。
結局言ってみれば解釈なんですけれども、
過去のことをどうにかこうにかするっていうわけではなくてですね、
今の私もそうなんですけれども、
過去の私が遡ってみても、
例えば妻との関係で、
いろいろ思うところがあるんですよ。
だけれども、妻との関係を考えたときに、
27:02
私の母との関係というのが、
影を落としているときに、
母との関係というのが、
影を落としていることは確かなんですが、
父との関係も、
それは父がこう本当に言ったとか、
母にこういうことを本当にされたというのは、
あんまり問題じゃないんですよね。
多分、母の非常に強い、
当時私に対して強かった独立思考というのが、
大きな影響を及ぼしているのは確かだろうなと思うんだけど、
これだって、今ここで私が勝手にそう考えていることですよ。
妻とは全然違う言い方をまたするでしょうしね。
きっとそうだと思うんです。
でも、妻と私ではそもそも男女が違うし、
立場も違うんで、
同じことを伝えられているかどうかすら怪しい。
しかも、さっきも野田さんが言った通りで、
妻の記憶も私の記憶も、
捏造されているに決まっているわけです。
ここは、ここに焦点を当てようとすると、
正確なライフログを撮るとか、
そういう話になっちゃうと思うんですよ。
いくら正確な過去があっても無駄だと思うんですよね。
私がどういう風な印象を強く抱いているかが大事で、
だから恥ずかしい思いをしたくないとか、
馬鹿にされたくないとか、
いうことになってくるわけですよ。
ある程度、私の心が勝手にですね、
母親なり父親なりを位置づける機能というのを、
この辺がややフロイド的だと思うんですけどね、
生まれながらにして備わっていて、
こういう風に解釈したいとか、
ああいう風に解釈したいという欲求が
最初から多分あるんだと思うんですよね。
最近の池谷雄二さんという農家農者さんの
ツイッターを見ていて、
面白いなと思ったのは、
生後間もなく、ほぼ1歳未満ですね、
もうでも正しさによる、
グッドワイフス流に言うと、
正しさによる他者抜という欲求を持っている
というのがネイチャーに発表されたと。
私はやっぱりきっと人間という種は
そういうところがあるんだろうなという感じがします。
どっちかというと、
これは今までは教育効果とされてきたんだけど、
違うんだという話が今出ているわけですね。
他者を抜したいわけですね。
チンパンジーにもあるんで、
多分これは教育効果なんかじゃないんだと思うんですよ。
つまり他者が不当な利益を得ていると感じると、
自分の利益をそっちの件にしてでも他者を抜したいと。
つまりこういうところが利己的でないから、
他者抜なんですよね。
そういうのが生後5、6ヶ月から生まれると。
これはそんなことを、うちもそうだったけど、
まさかそう教えればそう教えられると思いませんからね、
親としては。
生後5ヶ月の若者なんて、
はいはいもまだらない状態ですから、
まさかそんな風に考えるなって思わないんだけど、
多分これは制徳的なところがあるんだと思います。
30:02
確かにチンパンジーだったと思うんですけれども、
チンパンジーにはあるんですよ。
不当に、余計に餌をもらっているチンパンジーがいると、
自分の餌を度外視してでもチンパンジーを抜したいって思う。
これはつまり公平性に向かうっていう意識づけなんだけれども、
そういうものが霊長類には多分どこかであるんでしょう。
これが現代社会でははなはだ邪魔をしている感じはするんですよ。
ほら、あれですよ。
自分とほとんど働きが同じなのに、
なぜか週3の休暇を認められる人がいると、
そいつが週5になるまではみんな働くのが嫌になるみたいな、
話ってあるんですけれども、非常に不思議なんですよね。
その人たちには何の関係もないわけですよ。
公平であることに、この実験はイギリスでやった実験なんで、
イギリスってすごく他人のことは他人は他人、自分は自分的な文化なんだけど、
そういうところですらこういう感情っていうのはかなり強烈に芽生えるんですよね。
それは文化とか教育の圧力だってされてきたし、
そういう面は絶対あると思うんだけど、
私たちは生まれながらにしてそういう傾向を持って生まれてきて、
それゆえにこの種の文化というのが世界のどこでも両立、成立しやすいんだろうと思うんです。
つまり人間の心っていうのは偏りを持つようにある程度最初からできていて、
その偏りの中でも世界中に見られる偏りの一つがエリクスコンプレックスだっていうのが、
フロイドの大きな発見だったんだろうと、そんな感じがします。
それは過去に戻ってそれをどうにかしましょうって話ではなくて、
大人になったときのエリクスコンプレックスは、
今ここで再度解釈し直しましょうみたいなところが、
多分カウンセリングなんじゃないかなっていうふうに思いますね。