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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
えーと、最近はちょっとCMしてなかったんですけど、
第4期の書き上げ塾を、現在1名様募集中です。
最終枠ですね。
多分もうこれ以上増額できないと思いますので、
えー、その、限界っていう感じがしますので、
あのー、よろしければですね、来月の中旬以降にスタートします。
よろしければチェックしてください。
あの、公式ページの方とかを見ていただければ、
あと私のツイッターとか、
えー、倉園圭三さんのツイッターとかを追っていただければ、
割と、えー、定期的に上がってくるので、
あるいはですね、あのー、動画のYouTubeのぶっちゃけ相談を、
えー、何回か見ていただければ出てくるんじゃないかと思います。
すごいいい加減だな。
書き上げ塾で検索していただいても出てくると思います。
はい、えーと、
うーん、その、グッドバイブスというよりは、
私の性格なんだと思うんですが、
えー、どちらかというとですね、
こう、昔相談、ぶっちゃけ相談で、
守りのグッドバイブスっていう表現があったんですけど、
私はそっちに傾きがちなんですね。
理由は割とわかりやすくて、
だいたいそもそもライフハックをしつこくやっていたのも、
同じ理由からなんですよ。
基本私は、あのー、人生は、
あのー、これを成し遂げようとか、
ああなろうっていう、えー、性格ではなくてですね、
いつからそうなったのかを説明するのは難しいですが、
中学生の頃だと思いますね。
えーと、あのー、温和に暮らしていきたい派なんですよ。
で、これは、そのー、守りに入っているからという面もあったとは思います。
えー、体が弱いと思ってましたし、
まあ意味付けですけど、思ってましたし、
えー、なんだ、
あのー、対人関係も得意ではないと、
これも意味付けですが思ってましたが、
えー、仮にですね、えーと、
そこそこ上手くいってる時でもやっぱりこう、
温和に過ごせればいい的なのがあって、
DNA的なのがあると思いますね。
あの、性格があるのかなと。
その、
そういうことについて一切私とはその辺に似ていない
うちの娘がやっぱり私と発想が似てるんですよね。
こう、まあ、穏やかに過ごせれば、
それに越したことはなくて、
えー、何者かになりたいみたいなのがあんまないんですよ。
えー、これを見ると、やっぱり、
遺伝って大きいな、この種の言葉とは思います。
えー、そういうふうに育てるとかはしてないんで、
その、人生は何者かになるより温和に過ごすべきだぞ、
っていうような、その、
なんていうのか、メッセージを発したことはないですし、
えーと、そういう、何ですかね、
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思想的な話は、
えーと、大体学校任せみたいな感じのところがあるんですよ。
この学校任せっていうことに、
ひどく不安を覚えられる方もいるみたいで、
それで分かる気もするんですけど、
あの、子供ってのはそんなに素直なもんじゃないんで、
えー、学校任せにしたからといって、
学校の道徳通りの子ができるっていうことは、
滅多にむしろないです。
えーと、うちの子は真面目に聞いてますけれども、
まあ、明らかにそういう線に沿ってる感じにはならないんで、
えー、人ってなかなかそうはならないです。
あの、何ですか、何て言うんですかね、
そういう価値観とか哲学みたいなものって、
一方か一方からのみ入るってことは、
ほとんどないですよね。
よほどその家が極端でない限り。
うちは実家が寺だった風だから、
そういう意味ではよほどそこは極端なんですよ。
でもなかなかやっぱりそうはならないもんなんです。
で、えーと、話を戻しますと、
えー、だからですね、
守りに入りやすいのは、
気質上あるかなとは思っているんですが、
あの、最近それでもですね、
攻めのってのはおかしいんですけれども、
攻めのって感じとも違うんですが、
あの、怖がらないということに徹しているうちにですね、
えー、苦手な人が減ってくるという、
その効果がじわじわと来ている感じがします。
じわじわと展開しているかなと。
で、これは、あの、
いろんなところでまたですね、
えー、自分の制約がきつかったなって思っているところなんですね。
えーと、例えば人間関係というのは、
党派性って無視できないところがあるじゃないですか。
えーと、誰それという人は、
えーと、我々共通が苦手とする人だっていう、
あの、これですね、よくSFとか漫画とかで図式化されやすいんですよね。
なんか共通の敵がいると仲良くなれるけれども、
そういう、あの、なんていうんですかね、
共通の陰で結びつくような凝集性は危険であると。
まあ確かに危険なんですけど。
そしてこう、本当のこう、
えー、情愛ではないとよく言われるんですけど、
これ私は結構ニワトリ卵なところがありまして、
あるという気がしまして、
共通の敵がないと一緒になれないっていうほど単純なもんではなくてですね、
一緒に暮らしているからその人が共通の敵みたいになり、
ガチだっていう傾向も多分にあると思うんですね。
例えばわかりやすいところで言いますと、
えー、私と妻が一緒に生活しているのは、
共通の敵がいるからではないわけですよ。
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だけれども私と妻が生活しているところで、
まあ娘もいるところで、
えーと、例えばこう、
道で見知らぬおじさんにいきなり怒鳴られたとか、
ないわけじゃないんですよ。
そうすると共通の敵感みたいなのができちゃいますよね。
これは多分バラバラに歩いていて、
たまたまそのシーンを目撃したというのとは、
受け止め方が変わると思うんですよ、大きく。
現に変わるわけですよね。
そういうふうなことっていうのが、
実は利害関係が共通化していくと、
それこそですね、利害が共有されたケースではですね、
この種のことが起こるんですよね、割と頻繁に。
だから必ずしもその共通の敵が絆を深めると、
言い切れなくて、やっぱりこう、
結びつきがあるところに
踏破性が起こるみたいなのっていうのは、
割とこう、実際には、
みんなこれ別にグッドバイブスじゃなくても
避けたほうがいいぐらいには思ってるじゃないですか。
避けられる限りにおいては、なるべくなら。
でもなかなかそれがですね、
言うほどあらゆる人と、
上手に付き合っていけるかっていうと、
そこは結構難易度高いところもあったなと思うんです。
あったというのはつまり、
私は別にグッドバイブスを知っていたわけじゃないから、
対人関係における不安感っていうのは、
恐怖感まではいかないんですけど、
対人恐怖まではまあいったほどないんですけど、
対人不安みたいなものは、
社交不安ってこれ言うらしいんですけどね、心理学では。
結構根強くあったので、
当破的になりやすいっていうのは、
いいことだと思ったことはないですよ。
いいことだと思ったことはないんですけど、
どうしてもそういう傾向って出るなっていう。
例えばあるじゃないですか、
すごい自分が親しくしている人と、
この人の話をするだけでもその人はやがるっていうのがあって、
そしてその人のことを持ち出すだけでもやがるような人のことは
持ち出さなくなるし、
その人についてあまりいい印象を持ってなかった場合はですね、
あるいはその人からいい影響を受け込むってなかった場合は、
お互いでその人を話題にするんだったらば、
ネガティブにするしかないところがあって、
ポジティブにすると今度目の前の人の気分を
害することになるじゃないですか、多くの場合。
こういうことが当破性ってものを生むようなというのがあったので、
ネガティブな人っていうのはどうしてもいなくならなかったわけですよ。
ある意味これはネガティブにしておかないと、
そうしないことには目の前の人との友情が壊れるまではいかないんですよね。
それだったら問題があると思うんですよ。
ただとはいえネガティブであると不便ではないみたいなところがあったわけです。
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この問題はわりと私の中では問題とまでは言わないんですよね。
その人の話題をそもそも出さなきゃいいっていう風になるわけです。
そこからいろんなこういうことがあるにせよ、
やっぱり苦手な人はそれはそれとしているわけですよ。
当破性の話は一例としてあって、
その他にもいろんな複雑な要因があって苦手な人というのはいると。
現実を見に行くっていうのがグッドバイブスにあるわけですね。
クラウド・ノケドさんが時々言う、
現実を見に行く、難しい言い回しだと思うんですよね。
私たち現実を見てると思ってますから。
見に行くっていうことによって何か新しいものが見えるのかっていうことなんですけど、
そもそも苦手な人は見に行かないじゃないですか。
ここにポイントがあるんですけどね。
興味を持って見に行くという段階ですでに、
恐れと不安の選択ではなくなるっていうそれがあるんですが、
実質的に私がむしろできていたのは、
恐れと不安を抱いていることを自覚するが、
まあ石の山だったわけですね。
僕の場合、恐れと不安を抱く人とどうしても関わらねばならないシーンって非常に少ないんですね。
そういう意味では恵まれてるんですが、
とはいえ、例えば家の外であってもですね、
今でリモートワークであっても、
自分が不安を抱くような人と全く関わらないでは済まされない。
し、もともと仲が良かった人に不安を抱くということが全くないというわけにもいかないので、
この種のことはなくならなかったわけです。
一番自分にとってグッドバイブス的に考えるのはやっぱり僕のことなので、
扁桃体というものをなるべくというか、もうなるべくですよね。
なるべく働かせずに接すると。
働いてしまっていることを自覚したら、
その時はその人について考えない。
これは結構難しかったんですが有効だったんですよ。
扁桃体、要するにその人に対して不安から恐怖心に近い、
そうするともうすぐ怒りに転換するんですよね。
これは自覚しておいて良かったと思うことの一つなんですけど、
不安から恐怖に塗り替わろうとしている時には、
もうその人について考えないようにすると。
これが多分一番私が繰り返しやってできていた現実的な対応で、
これを常にやっていると。
それをやっていると、例えばメールとか来て不安になって恐怖になったら、
対応できなくなるんじゃないかと思われそうなんですけど、
大丈夫なんですね。
2、3日経つと少し待たせることになるんですけどね、相手のことを。
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2、3日経つと全然それほどじゃなくなると。
そしたら返すと。
これを割と徹底していたわけです。
寝かせるっていう表現あるじゃないですか。
あれでもいいんですけど、
ただ寝かせるのではなくて、
なんていうんですか、
やっぱり時間をとってですね、
エポケーするんですよね。
この番組の良い言い方をするならば。
カッコに入れるわけです。
この人のこのメールは感じが悪いって思ったら、
グッドバイブスで言う本当にそうだろうかってやつなんですけど、
要するに、
あれですよ、
感じが悪いというのをカッコに入れる。
なぜなら感じが悪いは自分の判断ですからね。
えっと、
ドグサって言うじゃないですか。
ドグサって言うんですよね。
あの、
幻想学では。
感じが悪いをカッコに入れる。
こうやっていくとですね、
あらゆる判断は不可能になっていくんで、
形容詞的な表現は全部ダメなんですね。
ダメってことはないんですけど、
要するに捨てるわけではない。
カッコに入れるんで、
カッコに入っていくわけです。
そうすると、
メールが来たっていうことだけになってしまうわけですね。
何かを要求しているように見える。
これもですね、
カッコに入れることが多くなります。
よく見ると別に要求してなかったりしますからね。
そういうことを繰り返すうちに、
えっと、
少し、
これは私の性格もやっぱりあると思うんですけど、
少し、
見えてくることを
少し、
見えてくることがあるんですよ。
これが多いんですね。
いろんな人について、
いろんなことが、
少し見えてくる。
つまりこの人は、
なぜこういうメールを書いてきたのか、
ということがですね、
分かる気がしてくるんですよ。
これも、
イリュージョンの可能性もあるんですけど、
十分に。
ただ最初のとはだいぶ違うんですね。
怖さがほとんどなくなっているという意味で、
恐怖のイリュージョンじゃない。
で、
もう一つは、
意味づけを極力廃しているので、
現実からあまり離れすぎてはいない。
だから、
多分現実に近い。
っていうのはどういうことかというと、
あまり面白みがない。
よくよく考えてみると、
あまり面白いものじゃなかったりする。
面白いものじゃないっていうのはね、
えっと、結局ドラマチックじゃないから。
それが自分を突き刺すような感じが
最初していて、
ドラマチックじゃないですか、そういう時って。
だけれども、
よく読んでみると、
それはあまりドラマチックじゃない。
それほど自分がそれによって影響を
強く受けるほどのものではない。
ってことが分かってくると、
かつ、それで、
こういうことを繰り返しているうちにですね、
これを敬長とか熟読
って言うんだと思うんですけれども、
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なんかこう、
分かってくる。
フラットな気分で見ないと、
見えないものが見えてくるんですよ。
これを
やっているうちにですね、
今までに比べて、
はるかにいろんなブログとか、
書評とかを
見る視点がだいぶ変わってき
ている気がします。
簡単に言ってしまうと、
よく
分かるような気がするっていうことなんですね。
そういうレビューなり、
ブログなり、メールなりを
書いているその人のことが、
少なくとも前とは
違う
面が見えてきている感じが
するんですよ。
先程も言ったけれども、
これはこれでイリュージョンかもしれないんですよ。
そこまでストイックに
考えることはないんだけれども、
私はやっぱりそういう風に
考える習慣が抜けない
ところはあるので、もともと。
これはこれでイリュージョンであっても
不思議はないんですよ。
でも、それが分かっている
うちにですね、苦手な
人が減っている。これもまた
にわとり卵的で、苦手な
人でないから見えてきているのか、
見えてくると苦手じゃなくなって
いるのかは、
その
きっかけがどっちが先なのかは
なんとも言えませんが、
何にしてもそういう現象が
起こってくるんですね。
苦手な人が
好きになるわけでは、私の場合は
ないんですが、
苦手ではなくなってくると。
そうすると、
いろんな考え方があるじゃないですか。
それこそ私が
得意としない
5カ年計画から、ゴールから
逆算するみたいな、そういうのも
書いている人の
ことが
書いている人の
何点ですかね、
条件とか
条件とか
それによって
自分の中で
克服したい何かみたいなものが
わかってくる
気がすると
少なくとも
その人についての
不安が
なくなります。
全然。
その状況がしばらく続くと
このしばらくは結構なしばらくで
1年以上続くと
なんとなくなんですけれども
要するに、倉園さんが言うところの
興味が持てる
気がするんですよ。
この辺が私は
活性化しにくいんだな
って思うんですよね。
よく見ると関心が湧きますみたいに
倉園さんがサクッと
おっしゃっていたことが
1年半から2年かかってる感じなんですよね。
関心が
少しずつ向いていってるような
気がするんですよ。
そのレベルに留まってるんですね。
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ただ、そうしてみると
思わぬものが結構
発見できてきまして
つまり
当初は全然そういう風に
これもだから先ほど言った通り
事実はそうじゃないかもしれないんです。
これは結構大事だな
と思うんですが、ただ
事実がそうでないんだけれども
異なるイリュージョンを自分が
展開させることができている。
これがですね、意外に
不安に縛られていると
できないことなんです。
特定の見方しかできない
ってのはこういうことを言うんだなと。
つまり、恐怖にふさわしい
イリュージョンしか上がってこないんですよ。
自分の中で。
あるメールをもらって、それがクレームメールである
と思った時にはもう
恐怖、そのメールが
クレームで、自分としては
とっても不愉快だという
その気持ちにマッチするイリュージョン以外は
何も上がってこなくなっちゃうんですが
これをさっき言ったように
手間のかかる方法で繰り返し繰り返し
こう
意味づけを括弧に入れ意味づけを括弧に入れ
していて、不安がだんだん
薄れていくにつれてですね
異なるイリュージョンがおそらく
上がってくるようになる。
これもイリュージョンか現実か
という議論は一旦置いておいてですね
自分の中では
この怖くないイリュージョンが立ち上ってくる
というのは、これがだから
視点が変わるということの
私の中で起こる
現実なんだなと
そういう気がしています。
私にとってこれが
言うならばですね
攻めのウッドファイブスになるんですよ。
これをするために
不安と恐怖を
恐怖と不安を
収めて
意味づけを手放すのは
それをやるだけの価値は十分ある。
結局見えてないものを
見たいというのは
私の中には結構あるんだと思うんですね。
根深くあるんだと思うんです。
だから
私はそういうことがきっと好きな人間なんで
その人が
どういう
さっきも言いましたけど
なんて言うんですかね
どういう問題を
克服したくて
どういう条件であるいは
どんな
それこそ
養育歴のせいで
こういうことを主張したいのか
ということが
それまでとはすごく違う
イリュージョン通じて
感じられてくるっていうのが
面白い。
面白いなと思います。
それまでの自分には
なかなか
なんて言うんですかね
発生しない
展開だったので
この種の展開は大変面白いし
興味深いと
思うようになったんですね。
これが興味なんだと
これは人に対する興味と
ダイレクトで同じじゃないかもしれませんけれども
し
苦手な人が好きになっているというところまで
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言ってないですが
苦手では
なくなる
そしてそうすると
初めて苦手な人が苦手で
なくなるという
この転換は
私の対人的な難しさを
克服する上では
大きな意味を持つんです。
プラゾンさんが時々おっしゃるように
どうしても
長く付き合っている人ほど
苦手になる可能性が
上がるので
長生きするほど苦手な人は増えるんですよね。
今後私は老人になっていくと
私別ということによって
減るかもしれませんが
何にしてもなかなか
人間関係一般の
印象を私が持っているという意味ですね。
良くなる要素が
あまり無かったんですよ。
これまでそれは大きな
困惑だったんですね。
なぜ自分は苦手な人が増えていくのかと。
ようやく
最近になってこの
線で
苦手な人が少なくとも苦手ではなく
なっていくという
逆転現象なので
起きると
だんだん
楽になるじゃないですか。
そしてこの楽になるのは
希望として
でかいですよね。
今でも苦手な人がいたとしても
少なくともその人が
苦手でなくなる可能性は
大いにあって
しかも一応
手段というのかな
分かっているということになる。
同じように常にできるとは限らないんですよ。
やっぱり
まず収めて、収めることはそれなりに
できますけど、意味付けを取っていく。
この作業結構
めんどくさいですからね。
めんどくさいというイリュージョンがありますからね。
そのイリュージョンを取りながら
そこまでして
本当に何か見えるんだろうかと思っちゃうんですよね。
でも
見えるという経験が
ポツポツとでもあると
これをやってみる
甲斐はあるじゃないですか。
それを目指してですね
今ちょっと具体的な話が
欠けている気がするんですが
具体的に言うと
誰を自分が苦手だということが
全部公共的に
ばらしているような感じになるので
それはそれであんまりやりたくないというのが
ございます。
普通に言ってしまうと
例えば
これはもう今でっち上げようとしているわけだけど
苦手な人というものの
主張を
意味付けから
意味付けを一つ一つ
認識していくことによって
例えばその人は
実は
中価格工業時代の
夢を見ているんだという
ようなイリュージョンが
中価格工業時代の
イリュージョンというのはどういうものかというと
物がすげえたくさんあって
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どんどん生産して
そういう工業製品で
人々の生活がどんどん
うろうっていく
今じゃ考えられませんが
三種の神器みたいに言われていた話ですよね
テレビと冷蔵庫と洗濯機
これがみんなに行き渡ると
それだけでもう素晴らしくなれる
みたいな、そういうふうにやっぱり思った人が
私より上の人ならば
珍しくはないわけですよね
それどころか私より下の人にすら
そういう人がいるんですよ
本人は分かってないですよ
ただ子供の頃にそういうことを
教え込まれた経験があって
そういう経験が
そういう価値観を生み出すんですよ
で、そういう価値観が
私が得意としない
タスク管理法みたいなものを
展開するんですね
そういうことが見えてくるってことなんです
これはやっぱり興味持ってみないと
こういうことまでは分かんないですよね
認識の仕様がないです
自分より年下だったりすると
余計ね、今さらそんな感じを
持つっていう感覚を
相手に見出せないですからね
そしてその人が何か
攻撃的に何かを主張していると
余計よく分かんなくなって
いくじゃないですか
そういうことってあるんですよね
今言ったような話は全て
そういうふうにその人が
内心でどういうイリュージョンを
抱いているのかという
イリュージョンを私が抱く
っていうことなんです