1. グッドモーニングボイス
  2. 【581GMV】非難はぜんぶ誤解
2022-04-11 31:39

【581GMV】非難はぜんぶ誤解

愛が憎しみを生む
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
これをお聞きの方は、ほとんど興味ないかスルーされていると思うんですが、
収録している時刻がかなり早まっています。
七時台に突入してしまっていて、
これは、つまり娘が出かける時間が一層早くなったという、
僕にとってはただ苦痛なだけな時代が進行しているんですが、
あの、もうこの時間になってくると普通にサラリーマンじゃんと思うんですよね。
フリーランスになった意味の一つが大幅に失われている。
正直、十時までは寝てたい人間だったりするんですよ。
私はね、九時かな、九時まで寝てたいという人間なんで、
六時に起きるとかナンセンスだろうと思っているのに、
五時台に起きちゃっていて、
まあこう、疲れるなと思います。
で、五時台に起きて今もう収録しているとですね、
起きて2時間くらい経過しているわけで、
起きて2時間でこの時間かよっていう感じがあったりもします。
で、まあどうでもいいことを喋っていますが、
グッドモーニングボイスで何喋ってもいいことにしているので、
こういう時間の使い方ができていいかなと。
で、今週の土曜日にですね、
グッドバイブス勉強会というシーズン3の第4回かなと思いますが、
私とは何かというテーマで、
まあ確かにトータルで見ると私の話はそういう範疇に当然入るなと。
てか最近このテーマは私の中ではかなり大きくなってきました。
自己発信言ってますが、
これも私とは何かという話ですからね、究極的には。
私は私のことを誤解しているというのが、
今のところ自分がお伝えする話の最終的なゴールかなと思うんだけど、
私は誤解って話もここのところ何回かしてきましたが、
要は誤解されたくないというのが一番の入り口だと思うんですよ。
誤解したくないが次に来るのかなと思って、
最後に自分を誤解しているというところに行き着くはずだと。
この先もありますが、
ここまで行くことでいけるということはですね、
少なくとも病理じゃないなというのが大きいと思うんですよね。
自己肯定感をテーマにするけど、
やっぱり自己肯定感もあるときはほぼ問題にならないんですよ。
だと思うんですよね。
赤ちゃんは自己肯定感なんか問題にしやしない。
なぜなら自己というものはないですからね。
自己肯定感が問題になるのは自己肯定感がないときなんですよ。
あるときは決まってスルーされてるんですね。
この空気みたいなやつってのは全部そうですね。
いわゆる内的対象としての母親というのも同じで、
母親イコール自分だと赤ちゃんというのも思ってないかもしれないんだけど、
03:04
でも母親イコール自分だった時代はあるわけですよね。
母親の中にいたんだから。
で、こういう時に母親の存在は全く知られていないんですよ。
この辺のことがすごいウィニコットがすごく強調した点で、
フロイトはもちろんこのことを言ってたんですけど、
ウィニコットはすごい独特の表現でこのことをすごく言うんですよね。
不在としての存在とか、存在しないなんとかとかそういう言い方をするんだけど、
どうしてもそうなりますよね。主観的に見ると。
私たちも習ったからあることを知ってますけど、あることを知らない時があったわけじゃないですか。
でもなくなると知ることになるわけですよ。なくなったということだけは。
自信とか自己肯定感というのは全部そういうようなものだろうと思うんで、
どういうことになるかというと、私というものを誤解しているというのが一番の眼目かなと。
僕らは一番主観的になっている時は、つまり主観しかない時は、
これが主観だということを最も知らないでいられるんですね。
マトリックスみたいな話になってくるということは、
みんなが自分の主観の世界というものを知っているという話であって、
とてもある意味すでに生きづらくなっているわけです。
自分が主観の世界にいるということに気づいているということは嫌なことだと思うんですよ。
根本的には今言ったような理由で。
空気がないというのは嫌なことですから、当然死んじゃいますからね。
なくなって初めて気づくようなものに気づいているということはとても嫌なことなんですよね。
気づかずにどっぷり浸っている時は一番幸せな時のはずだと思うんですよ。
ところが人間の世の中ってややこしくて、
自分主観どっぷりになっている時にはだいたいそれを人に指摘されるんですよね。
みんなが嫌だというのはこれなんだと思うんですよ。
あいつはめでたい奴だと言われたくないわけですよね。裸の王様だとか。
特に今のような時代に一番恐れられているのはこういうことで、
でもこういうことが話題になっているというのはある意味幸せなことで、
電気とか水道とかライフラインがないという時代になってくると、
そんなことにかまってはいられなくなってくると思うんですよ。
人の目が気になると言っている時っていうのは、
だいたいその人は少なくともお金には本当の意味で不自由してないんだろうなって、
私はそういうのをちょっと思うんですけれども、
つまり私はそういうことをすごく若い頃気にしてましたからね。
今は年をとった生後もあってだいぶ気にならなくなったんですけど、
だいぶ気にならなくなってみると意外と多くの方はこれを気にしているということに気づくんですが、
やっぱりだいぶ気にならなくなってきている他の大きな理由として、
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自分がお金の心配をすごくするようになったこととも関係があるんですね。
親がお金や生活の面倒を見ていてくれているから、
人の目なんぞを気にしていられるんだけど、
本当に生活のことをまず第一に考えなきゃならなくなってくると、
人の目を気にするというのはちょっとした贅沢品という感じもしなくはないです。
だからある意味、思春期の特権だというのはわかる気がするんですよ。
それ以前の段階はもう気にしないじゃないですか。
結構気にしますけどね、子供は。
主観なんですよ。
主観というのは当然主観に決まっているんだけれども、
一つにはですね、今言ったような事象で、
これは奪い去られたときに一番苦しみが始まるんですね。
つまり自分は客観視できていない。
客観的であると信じられているときが一番幸せなときだと思うけれども、
この幸せはでも結構深刻な幸せってやつで、
可愛葉さんの言葉を使うなら、他の苦しいってやつでして、
赤ちゃんってすごく苦しそうなとき多いじゃないですか。
主観と客観が完全にダブって感じられている時代ってのは、
確かに幸福なんでしょうけれども、
辛いんですよね、結局。
どんなちょっとした苦しみが深刻な苦しみになってしまうか、
そういう問題があるような気もします。
僕らにとってはそうじゃなくて、
僕らにとっては既に主観イコール客観だなどという時代は、
幸せな時代は遠に過ぎ去っておりますので、
自分の主観というものは主観でしかないというところには入っているわけですよね。
多分私は土曜日にこの話をしたいかなと思っています。
主観は客観ではないという感じなんですけれども、
これをメタ認知という人がいらっしゃるんですよ。
結構一時流行ったんですね。
私はそれは違う気がします。
そういう観点も取れますよね。
自分を外から見ているようなイメージを持つ。
でもそれは、この番組では何回も言っていますが、
想像力の産物であって、
自分が外から自分を見ているという想像をしているだけで、
全然客観じゃないと思うんですよ。
他人が私を見るのと、私が私を見ている空想をするのは違う話で、
多分客観ではないし、
メタ認知というか客観に近づいているというのも、
僕は嘘くさいなという感じがどうしてもしちゃうんですよ。
自覚するように自分を見ていないと思うんです。
それはただ想像するように自分を見ている。
だからメタ認知というのではなく、
もっと違うもので主観であるということ。
気づいてはいる。そんな感じかなと思うんですよね。
自分のその主観、100%主観の中にいないというのは、
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みんな思っていることじゃないですか。
100%主観の中にいるということに気づかずにいるのは、
恥ずかしいということですよね。
つまりそれは調子に乗っているとか、
いい気になっているとか、何でもいいんですけれども、
すっかりそれで安心しきっているけど、
実は危険な状態にいるという事態を避けたいということですよね。
ユデガエルとかも全部同じことを言っていると思うんですよ。
私はそれは基本どれもこれも余計なものばかりだと思うので、
大体聞いていていい感じは抱かないんですけれども、
しょうがねえなという気もしています。
確かに裸の収まって言われるのは嫌だという感覚が
自分の中にも発生しちゃったので、
発生しちゃった以上、おせりゃいふごも抱かないというのは
一つの甲斐になると思うんですけれども、
かつて抱いてしまった感触をまだ持っている以上、
完全にこれを払拭しましたというわけには
なかなかいかないんですよね、自分の中では。
どこかにそれを知っている自分がいるわけですよ。
外から見ているとはさすがに思わないんだけども、
自覚はしちゃったわけですよね。
ここで皆さんが思うことが同じようなことだと思うんです。
自覚しないでいる人に対する
詐欺すみと羨みがあると思うんですよ。
ここまでは多分僕は現代人は全員に近いくらい同じだろうと。
裸の収まると人のことを思っていられる人は
だいぶまだ幸せなんですよ。
多分僕はお互いがそう思い合っているだけだろうと思うんですよね。
みんなそのことに対して敏感になっている。
マトリックスという映画がそもそも成立する
っていうのがそういうことを意味していると思うし、
あの映画があんなにヒットしたってことが
すでにそうだってことだと思うんですよ。
誰もおめでたくなくなってしまったんですよね。
これが私たちの時代の一つの生きにくさかなと。
多分ヘド時代だろうと平安時代だろうと
こういうことを意識していなかったはずはないんですよ。
あの物語を読んでいると
こういうことはみんな意識していたと思うんだけど
さすがにここまでじゃないだろうなと。
今は一時よりは緩くなってきたのかな。
でもこの思春期の悩みみたいなものを
ほぼすべての人が抱えるし
うちの子なんかを見ていてもそうですが
今の小学生は頭の良し悪しにかかわらず
この観点が早いですよね。
あの一つは僕はこれは
写真を撮ることと関係があると思います。
あの私たちの時代、つまり僕が子供だった時代は
写真一枚って高かったんで
あんにめちゃくちゃ撮れなかったんですよね。
今はもうスマホでいくらでも撮れるじゃないですか。
だから幼稚園生が撮るポーズが凝ってるんですよ。
あの客観的にどう見えるかっていうのを
意識する年齢が早くなってると思います。
もちろんもうSNSのようなものも
これに当然進行させるし
12:02
仮にこうなんつうんですかね。
まあSNSに関しては中学行ってから
うるさく指導されるようになってきましたけど
やっぱりみんながこれを気にするっていう
証拠ですよね。
こういうものと写真
つまりIT的なものが進めば進むほど
この方向も進むと思うんですよ。
人からどう見られてるというのを
みんなが気にすると。
これでも話題になってたのは
デビトリーズの他人思考というものを
言葉を出しましたね。
これが社会学に登場したのは1960年で
すごく当時話題になったんですから
これを気にするのが今に始まったことで
あるはずはないんですよね。
もう6、70年ずっとこの状態が
進行中ということだと思うんです。
自信がないわけですよ。
さっき私が
主観100%でいるような人に対する
詐欺すみと羨みとも言いましたけれども
そういう視点はすでに
ずっとみんなあると思うんですよね。
甘えの講座の中で
ドイ・タケオさんはすでに書いてますね。
ドイさんが書いてたのは
あいつは少しおめでたいという言葉には
そういう願望の含みがあると
当然ありますよね。
裸の王様だってことだけれども
逆にでもそれは
めでたいという意味でもあるんですよね。
やはりどこかに
いいなと思っている部分が
少なからずあるんですよ。
私もそうなりたいっていう
雰囲気がどこかにあるわけじゃないですか。
ここには上から目線であると同時に
でもああ生きられたらいいのにっていう
そういうちょっとしたアンビバレンスが
ちょっとしたではないのかな、あって
でも気に非常にしてしまう自分っていうのがいて
それはなんていうんですかね
その種のめでたい人より
自分の方が上なんだけれども
得はしていないみたいな
そういう雰囲気が感じられる。
それがつまり
私はメタ認知ができるっていうことじゃなくて
自分は主観の世界に生きていることを
自覚しているって含みなんだと思うんです。
そしてあいつはそうじゃないっていう
意識があるんだと思うんですよ。
これがどの程度後は
ここの方向性に進むべきかっていう
次のステップに移っていくのかなと
つまりいかにもどれほど自分を
客観視はできないまでも
主観であるという自覚を
強く強く持って
恥ずかしいこと、人に後ろ指をさされるようなことを
極力徹底的に配置することが
どこまでできているかレースに
先頭の方に立ちたいのか
15:01
ある程度のところにいられればそれでいいのか
そしてこの自分を客観視はできないにしても
この言葉何度も使っちゃってますね。
主観の中に生きているという自覚を
強く強く持つということによる
メリットをどうやって獲得していくかという
話になっている気がするんですね。
この線にライフログとかもあるわけじゃないですか。
あれ自分に関する記録を残すわけですから
写真に関してもあるわけじゃないですか。
多分SNSの発信とかにもあると思うんですよ。
人に恥ずかしいとまず思われる発信はしない。
そしてできれば感心される発信をする。
つまりいいねはつくけれども
ディスられることはないというコメントに向かっていく。
そういう方向性に自分を持っていきたいということですよ。
そうは言ってもこの恥ずかしくないというのは客観じゃないから
結局これは自分が恥ずかしくないって話になりますよね。
そして感心されるであろうって言ったら
これまたいいねが突き出せばそれでいいんだろうけれども
いいねが突き出すまでは
結局これは感心されるであろうであって
感心されるという確信を外側の目線で
確信を持つところには至りようがないと思うんですよ。
この話手遣いみたいになっちゃうんですけど
そういうことだと思うんですよね。
自分の目の外には出られないってやつですよね。
しかもいいねがいっぱい突き出したからといって
次はさらにややこしいステップがあって
一旦自分の主観に過ぎないということを自覚しちゃった以上ですね
いいねをつけてる人たちも
いいねの数だけ主観があるだけであって
どこにも客観はないんですよね。
この数が一定数に達したものは客観とみなすっていう
考え方の持ち主もそれなりにいらっしゃるんですけど
厳密に言うとその理屈は無理があるんで
やっぱり1万だろうと10万だろうと100万だろうと
いいねがいくらついても
大体それに応じてリスる人の数も増えていきますから
結局のところ批判ゼロで
いいね100万というわけにはいかないんですよね。
そのような客観的な視点
これはもうほとんど神の視点ですけど
そういうものを持つのはほぼ無理だと
そういう絶望に近いものがこういうところにあるんだと思います。
これは今話をSNSに寄せると分かりやすくなるだろうなと
調子よく喋ってましたが
実際にはこれはSNSの話じゃないと思うんですよ。
結局これは主観と客観という話で
僕らはもう客観に立てないっていうのは知ってますから
そこでデビット・リースマンも他人思考というのを書いたわけですからね
内的思考から他人思考へ
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あの話もすっごく誤解されていて
私誤解されている話に興味がつまり持っちゃうんですが
内的思考というものがなんかですね
自分なりの自信のある自信に根差した
個人的判断でいいんだと言える人の発想というような意味で
しょっちゅう使われているんですけど
あれはそういう意味では全然ないですよ
デビット・リースマンが内的思考と言って
言葉が悪いと思うんですけど
他人思考と対比させたのはあれはですね
お父さんとお母さんの観点という意味ですから
昔はお父さんとお母さんが正しいと言ったことが絶対だったと
それが子供の中にバッチリインストールされる
これが内的思考なんですよ
昔はそれで何にも困らなかった時代が実際あったんですね
だからそういう時代があったんだけれども
当然そういう時代は終わったと
リースマンが言うのはラジオが登場したとともに終わっていったんだと
民主主義ってこともあるんですけれども
要は多数で多数がどう考えているかというのが
すごく大事にされる時代で
しかも多数がどう考えているかというものを
ラジオとかテレビが伝えてくるようになった時代では
お父さんがこういう服で行かないとダメだと言っても
流行と全くずれた服は着ていけないんですよね
そういうところからお父さんとかお母さんの
言ってみれば経営主義ですよね
内的思考というのは
ただ経営主義と彼は少しそこをさらに社会学者だったんで
割と厳密に分けようとして
実際分けて考えて
要するにアメリカならではの部分もあると思うんですよ
そういう内的思考というものから
他人思考というものに移っていったというのは
完全にあの話もやっぱり客観というものを
信じられなくなったって話をしていると思うんですね
主観というものになっていくんだけど
でも主観100%だととても不安だと
だから他人が実際どう見ているんだろう
先生とかもそういうことをやり始めたんだ
って話
それが1960年だからやっぱりアメリカって進んでたんだと思うんですけど
70年とかですかね
先生はつまり正しいことを生徒に教えられるだけじゃなくて
生徒から人気者にならなきゃいけないと
当然そういうことになりますよね
他人思考なんだから
他人がどう感じて心地よく感じているかどうかってのが
その人の生き方の価値を左右する以上
当然そういうことになるわけですよね
昔の先生はさすがにそんなことに頓着しなかったと思うんですよ
もちろん今の先生でも
そういうものに頓着したくないという気持ちから
あたかも権威主義的に振る舞う人っていると思うんですけど
リズムはその辺までもう書いてるんですよね
あの時代に
それはただ反他人思考であって
権威主義でも何でもないと言うわけですよね
それはそうだと思うんですよ
つまり人気取りをするのが嫌だっていう気持ちが
21:02
そうさせるのであって
その人の信念がそうさせるのかどうかは疑わしいものだと
彼はすごくめちゃくちゃ真面目な社会学者ですけど
あの本はすごく皮肉に満ちた本でもあります
タイトルは孤独な群衆ですからね
そういう話になっていって
最後に行き着くところというのは
途中の段階としてはですね
どうやって自分の主観性というものを
客観的に認識しようかって話に
途中必ずなると思うんですね
僕がライフログをつけていたみたいに
あるいはタスクシュートをつけて記録を取るわけじゃないですか
それは自分の時間の使い方を知るっていうことになるんだけど
ここに客観っぽいものが出てきますよね
客観じゃないんですけどね
これを主観的に認識するほかないわけだから
これを客観というわけにはいかないと思うんだけれども
少なくとも自分の主観性に対する自覚は発生するわけですよ
ほらよく言うじゃないですか
そりゃないだろうと
この話もやっぱり
それこそグッドバイブスで
起こらない話につながっていくと思うんですが
例えばつい最近
そういえば昨日話がどんどん飛んでますが
佐々木老貴がパーフェクトしましたね
この話もするだろうってツイッターで書かれてましたけど
この話をただどう展開すればいいのか分からないから
しましたねで終わりますが
そのロッテの外野手が非常に奇妙な失策を犯したんですよ
その時そりゃねえだろうと僕も感じたんですね
これがいけないわけですよ
ここに戻ってしまうのが一番まずいのは確かだと思うんですよね
これがおめでたい主観ってやつなんですよ
そりゃねえだろうって言うってことはですね
客観的にそれはおかしい
それはダメなエラーだって言ってるんですよ
ジジイ佐藤さんが即座に反応してたのはさすがだなと思ったんですが
ジジイ佐藤さんって人は
北京オリンピックですごい失策をした外野手なんですよね
でものすごい叩かれようだったんで
私は人が叩く理由というものは
戦争犯罪と野球の失策がほぼ同じレベルになっちゃうんだなと
そのぐらい凄まじかったんですよ
私いろんな書き込みを読みましたけど
実にひどいなと思いました
で佐藤さんがそういう失策をしたものだから
ああいうエラーが出るとですね
非常にこうツイッターで擁護するんですよね
この観点が一瞬失われるんですよ
ファンとかやってると
考えてみるとですね
エラーをするということが
結局犯罪っていうぐらいだから
グッドバイブスじゃないですけど
24:01
そこに罪を見るんですよね
これほど全然客観じゃないものもないんだけど
見るんですよ
そういう感じを抱いちゃうんですよね
ところが私
昔子供の頃
巨人阪神の試合をたまたま見に行った時に
僕は阪神側の席に
それも阪神ファンだったからじゃないんだけど
たまたまいたんですけれども
当時松本っていう
青い稲妻って呼ばれていた
足の速い外野手がですね
めちゃくちゃ取っちゃうんですよね
ほとんどどんな球でも取っちゃうんじゃないかぐらい取っちゃって
外野席に阪神ファンの席にいたんで
空気の怒りみたいなものが感じられてきたんですよ
それでしかも巨人が対象してたんで
なんだったかな
すごい
査中感だったかな
ちょっと厳密じゃないんですけれども
のボールをすごいファインプレーしたんですよね
その時に面白い矢字が飛んで
そんなの取れなくても誰も怒んねえぞっていう
矢字が飛んだんですよ
私あれを見て非常に感じたことがあった
記憶を今思い出したんだけど
要はそれがいいことなのか悪いことなのかは
やっぱりこんな視点でもこんなに違うってことなんですよね
さっき言ったのは失策するのは犯罪的だって話じゃないですか
でもそれはそのチームを応援してるからに決まってるじゃないですか
私はロッテを応援してるから
エラーを見るとそこに罪を見るんだけど
ファインプレーに犯罪を見る人もいるわけですよ
相手から見れば面白くないですもんね
12対3ぐらいで標識が勝手で
そんなの取れなくてもいいだろうってのまで取っちゃうのは
犯罪的なんですよ
僕はこういう
これももちろんどっちも主観であって
どっちも客観じゃないんですけど
僕らはそういう結局
物の見方の中に生きているわけだから
どっちに主観性を見るとか
どっちに犯罪性を見るとか言っても
そういうものを見れば見るほど
客観の中に閉じ込められていく
つまり
簡単に言うと僕らは
常に世の中を誤解し続けてなきゃいけない
生き物だから
だからあれなんだと思うんですよね
人に誤解されたくないという権利はないような気がするんですよね
客観に立てないのに
他人には客観に立ってほしいと
しかもそれは無理だってことは知ってるわけだから
ここが僕が思うに
最後のゴールじゃないけれども
そこに大体の時間立てるようになれば
多分この問題からは
解き放たれるんじゃないんだろうかって感じがします
まだなお
北海道のドームのボールを見失ったぐらいで
ロッテファンやってるせいで
そこに罪を見ちゃうんだから
27:00
犯罪を見ちゃうんですよ
一瞬の気持ちの中ではですね
全然僕はできないんですけれども
つまり人を誤解するんですけれども
でもやっぱり
これしかないと思うんですよね
主観というものに気づいてしまった以上は
最終的に行き着けるラインとしては
主観の見え方というものは
愛の対象みたいなものなんですよね
愛しているということがやっぱり憎しみを生むんで
この観点を忘れることさえなければですね
多分みんな愛しているから
結局主観の誤解というものが始まるんだけど
その中でも一番まずいのが
多分愛しているから憎たらしいってやつで
楽球に怒りを込めるなんてまさにそのまんまなんですが
逆になれば当然逆になるわけですよ
相手のことが憎たらしければ
その犯罪的行為が賞賛的行為になるはずなんですよ
そういう観点さえ見失わなくなればですね
この苦しみというものはなくなるだろうなという感じがします
この苦しみって本当不思議ですもん
だって北京オリンピックで誰がエラーしても
野球興味ない人から見ればですね
そこに一抹の苦しみもないでしょう
このジージーさんが楽球したって
知らない人が多いぐらいなんじゃないかと思うんですよ
野球ファンからすると知らないなんてあり得ないんですよ
このあり得ないって言った時が
一番私は色濃い誤解の中にどっぷりはまるんだけど
あり得ないものはあり得ないんですよね
全部あり得るんですよ
だけれどもどうしても僕らは
その楽球はないだろうって言っちゃうんですよね
思ってしまう言わないまでも思っちゃうんですよね
これを思っているうちは
一瞬でも思ってしまううちは
やっぱり自分を苦しめるっていう瞬間が
どこかで発生しますよね
だって自分がその楽球を
野球やってないから楽球はしないんだけど
この楽球に相当することは
するわけじゃないですか
プロ野球選手がするんだから絶対するはずなんですよ
そういうことをすると言った時に
あり得ないって言われてしまう
自分はあり得ないって思っちゃいましたからね
思っちゃったってことは誰かが思うってことですよね
それは主観的な誤解なんですけれども
あり得るからやることですからね
あり得ないって言ってしまったり思ってしまったりする
その時に私は一番客観というものがあるとしてから
遠くに入ってしまう
だから主観的な世界に生きるということは
おめでたくないんですよ
幸せそうに思うかもしれないけれども
大体においてこれは苦しい時に起こる現象なんですよね
ものすごく苦しい時ほど
自分の主観が絶対の客観みたいに感じられてくる
30:03
間違いなくジジイさんが
あのエラーをした時もそうだったと思うし
それを叩いてる人たちもそうだったと思うんですよ
どう考えても客観的にダメだろうって
思った時が一番おかしくて
しかもみんな苦しんでるじゃないですか
この中でおめでたく楽しんでる人って
誰もいないんですよね
バッシングはしてるかもしれないけど
だからとっても不思議なことが
その時に起こりがちなんだけれども
簡単に言うとみんなある程度正気を欠いてるんですよ
だから人を誤解するということと
自分を誤解されたくないということは
基本的にこの線から抜け出てないなと思うんですよね
自分は誤解するんですし
する生き物なんだし
みんなそうなんだってことを
みんな知ってるわけなんで
このみんな知ってるってところから入れれば
さっきも言いましたけど
繰り返しになっちゃってますけど
自分そこから解き放たれるんだろうと
野球のシーズンになるとですね
私はこれに気をつけたいなと思うんですよね
すっごい簡単そうに思うじゃないですか
野球興味ない人からすれば特にですよね
ここにも愛の対象があるんですけれども
つまり愛が憎しみを生むんだけれども
野球興味ない人は
特にロッテなんか好きな人はほとんどいないから
すっごい簡単だと思うでしょ
レフトがボール見失って落とした
だからどうしたのって感じじゃないですか
ところがそうは絶対に僕は感じられない
という瞬間があるんですよ
31:39

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