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明けましておめでとうございます。
グッドモーニングバイブスです。
これ、リテイクで3度目になります。
あの、
めったにリテイクはしないんですけれども、
まず、最初はですね、
あのー、まあ、
おはようございますとつい言ってしまったという程度の話です。
えー、2度目はですね、
なんかこう、
要するに、えー、
喋ることが途中で完璧に途切れてしまって、
そのうちに、えーと、
あのー、
やらなきゃならないことができてしまったという状況で、
3回目になります。
で、あのー、
あまり、こう、
抱負とか目標というものを、
えー、
まあ、宣言するみたいなのしないですけども、私は。
えー、まあ、正月なので、
たまにはそういうのもいいかなと思ってちょっと考えてみたんですが、
今年はですね、
あのー、
まあ、これは完全にグッドバイブスになるべく乗っ取ろうという流れの一環ですが、
あのー、
自他の区別をやめようというのを、
えーと、
今年はちょっとゲーム感覚というやつを使って徹底しようと思っています。
で、
同時にですね、
やりたいことをその場で全部やるようにしようと思いました。
自他の区別がなくやりたいことをやるということは、
えー、
人がやりたいと思っていることも自分のやりたいことになってしまうので、
あのー、
依頼云々の問題は消滅しますよね。
これが一番、あのー、
自分としては今、
簡単だなと思います。
で、もう一つが、
えー、
自分の時間云々も、
もともと自分の時間って、
要するに未来の時間に関する、
えー、
使い方を先決めしておくって話に近いと思うんですよ。
で、
あのー、
これはですね、
えー、
それぞれの信念だなとも思うんですね。
去年、
後半で特にこの種の議論をしてみて、
私はもう40、
今年8になりますね。
えーと、
4週目ですかね。
0歳、
12歳、
24歳、
36歳、
48歳という意味では5週目になるのかな。
まあ何だか分かりませんが、
その辺まで来てみると、
あのー、
自分の時間を大事にするということは、
私には別に大したものはもだらさなかったと思いますので、
えー、
もういいやと。
多分どっちにしてって同じことだろうと思うようになりました。
まあこれはやっぱり、
それぞれの信念で動くしかないことなのかなと思います。
なので、
えーと、
要するに自分の時間というのは、
未来にしかないと思うんですが、
そもそも、
その未来というものがですね、
まあ未来は、
あるとは思えないですよね。
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未来というのは仮定はできるんでしょうけれども、
あのー、
去年がつくづく思い知った気が、
私なんかはするんですね。
あのー、
予想もつかなかったじゃないですか。
おそらく今年も予想もつかないだと思うんですよ。
えー、
年末変異株みたいな話まで出てきて、
あれも誰も言ってなかったと私は思います。
後からだったら何度でも言えるんですけどね。
えー、
分からないですよね。
これからも。
これまで分かってたわけでは決してないんだけど、
えー、
これからも、
おそらくさっぱり分からないだろうと。
オリンピックにしてもできるんだかできないんだか、
えー、
それら含めてですね。
何一つ分からないと思うんですよ。
そういう中で、
まあ、
自分の時間云々といっても、
虚しくなるので、
えーと、
考えないようにするとかいうことではなく、
考える努力をやめようと思いました。
で、
最近ですね、
あのー、
一つまた強烈にやめたことがあって、
まあこれまで習慣的に、
えー、
明日の、
タスクぐらいはある程度並べておいたんですけど、
まあそれも一切やめて、
やりたいことだけを、
しかもやりたいことというのもですね、
発生したときにやろうと。
で、
これをやってみて分かるんですけど、
あのー、
癖になってるんですよね。
先、ちょっと先のことを考えるということが。
二日後三日後とか、
まあ向こう一週間とか、
考えてしまう癖がついていて、
あのー、
昔Getting Things DoneのGTDに、
いつかやりたいことリストっていうのがあったんですよね。
サムデイリスト。
いつかやりたいことをリストアップしておこうと。
いつかやりたいことのリストアップって、
当時から意味を、
あのー、
僕にとっては意味がなかったんですけど、
というのも、
未来になってみると、
それを別にやりたくなくなってたりもするし、
逆にやりたいこともいつまで経ってもできないし、
あのー、
人って変わりますからね、結局。
しかも情勢も大幅に変わるので。
でも、
えー、
やめようというふうに思ったのはだいぶ昔で、
それまで溜め込んでたサムデイリストを
全部削除しちゃったんですよ。
Evernoteにあったやつ。
で、今はそれも含めてなんですが、
えー、
サムデイという意識が働くのは結局、
即その場ではできないか、
あるいは、
えー、
すぐその場では終わらないかのどっちかなんですよね。
あのー、
パーソナルプロジェクトって言葉が一時流行ったと思うんですよ。
あんまり、
巷には流行しなかったんですけどね。
たぶんやっぱり、
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私たちはそういうふうには作られてないんじゃないかなって気がするんですよね。
プロジェクトというのはやっぱり組織のものなんではないかと。
人の依頼は、
えー、
長期計画化していくこともあるんですけど、
長期計画というよりは長期化ですよね。
やりたいことは、
長期化とかするとやりたくなくなっていくので、
えー、
一切やめようと、
思いました。
ものもとやってませんでしたけども。
あのー、
その場でやりたいことはやると。
その場で受けた依頼も、
自他の区別をつけなければ結局、
人のやりたいことは自分のやりたいことなので、
その場でやりたいことをやる。
これだけでいいかなと。
2日後だったらできるとかいうことは、
大体において本当じゃないし、
ですね、
えーと、
やりたいと思ったことが、
長期化してしまうと、
そのうちやりたくなくなったりするんですよね。
そしたら、
えー、
やらなくていいんじゃないかなと思います。
考えてみると、
それをやったほうがいいっていう、
話は、
何ていうのかな、
根拠というのかな。
どこにもないかなと。
で、
こういう話になると、
ついね、
人と議論するんだけど、
これって議論する内容じゃないですよね。
えー、
長期的にかけてもやるべきことをやりたいという人が
いるならば、
その人はそうすると良いわけですし、
それを止める人はいないと思うんですよ。
みんなが同じように認識していないと不安だというのは、
この種のこととしては大変おかしいと思うんですよ。
戦争とかになったら別だと思うんですよね。
みんなが、
相手国を敵国だと思ってないと都合が悪いというのは、
形としてわからんではないんですけど、
パーソナルプロジェクトや、
サムデイリストを、
みんなもサムデイリスト一緒に、
めいめいのやろうねというのは、
そうじゃないと不安だというのは、
よっぽど不自然だと思うので、
私はいいかなというぐらいで、
いいです。
で、
これでですね、
あのー、
だいぶ変わってくるのが私にとってはですね、
まあ、
これも去年の途中から、
こういう変化あったんですけど、
肉体というものに、
これはですね、
このケイドさんの言葉で言うと、
肉体に目的を持たせないということになるんですよ。
まあ、
要するに筋トレするとか、
運動するとか、
健康維持にするために何かするというのを一切やめて、
なぜならそれは長期化するじゃないですか。
長期目標を一切持たないということになると、
まあ、
これを意味する感じかなと。
で、
私はずっとこう運動とかしてたんだけど、
去年の中、
コロナ騒動もあってですね、
去年の春ぐらいからやってないんですが、
何でかよくわからないんですけど、
体調がすこぶるいいいわけですよ。
これは別に運動をやめると体調が良くなるハックとかではなくて、
多分、
肉体に目的を持たせなくなったというのが、
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結果としては大きいんだろうなと思います。
それ以来ですね、
とにかく、
肉体からの衝動というものが、
すごく減った気がするんですね。
食欲も下がったし、
運動しなくなったこともあると思うんですけど、
そのほかいろんなものの欲求がですね、
低下してきてるんですよ。
非常に楽なんですよね。
なんていうのかな、
やりたいぐらいだったらいいんですけど、
やらないともう耐えられないみたいになることって、
不思議とありますよね、衝動とか欲動っていうのは。
力を持っていて、
お腹が空いてどうしようもないみたいな。
割と私はあったんですよ。
飢えるような生活してないのにね。
なくなってきておりまして、
非常に楽なんですよね。
いろんな意味で、
無理がないというのは大事かなと、
思うので、
なるべくですね、
人と必要とされるところで動くっていうことに、
集中したいと。
結局食欲に動かされるというのは、
必ずしも必要もないものに、
引きずり回されているようなところがあるので、
それをなるべくやめるという感じですかね。
この話を突き詰めていくとですね、
自分の肉体に主体性を持たせないみたいなところに、
ちょっと違うんだよな。
自分の欲求に主体を置かないみたいな感じですね。
なんとなく今まで、
例えばですけど、人間関係にしても、
人を選ぼうとしてたんですよね。
この感じと自分の時間を持つということは似てて、
いつかやりたいことをやるみたいなのも、
ある意味自分の時間を作らないとできないじゃないですか。
自分の時間というものを、
自分の肉体で、
肉体ではないんでしょうけど、
自分の肉体を取り巻く空間で区切っておかないと。
そうすることが必要で大事だっていうのも、
結構私たち言われるじゃないですか。
人を選ばないと、
いいように利用されるとかね、
そういうのを未然に防ぐためにも。
でもですね、大体よくよく考えてみると、
こうやって選択して、
つまり主体的に、
何が主体に置かれているのかは難しいところだけど、
自分の時空間に主体を置いて、
付き合う人を選んでいくということをやっていると、
付き合う人がただ減っていくばっかりなような感じがするんですよ。
選ぼうとしていると、
変なことが起きるんですよね。
12:01
何かね、
必要と求められている人じゃない人と関わろうとするという、
変なすれ違いが生まれる気がするんですよ。
何か自分を必要としてくれている人には、
あんまり付き合いたいと感じず、
自分が付き合いたいと思ってない人のところを
追っかけていくみたいな。
何かこう、
よく若者をちょっと皮肉って描く漫画の主人公みたいじゃないですか。
言い寄ってきてくれる女の子は、
何かちょっと魅力的に見えなくて、
自分に全然振り向いてもくれない女の子が
魅力的に見えて、
そっちを追っかけてうまくいかないっていうような感じ。
あれは結局、主体的ですよね、その動きは。
でも、
あれがいいのかなって思うんですよ。
あれをやるほうが、
自分の望みに忠実で、
他人からの要請に従うようでは、
人生の給与が下がっていく。
本当なんですかね。
あれ、
なぜ言い寄ってくれる人に答えると妥協で、
理想を追っているほうがいいのか、
あれ、本当なのかなって思うんですよね。
あれ、追っているからそっちがよく見えるだけなんじゃないのか、
という気すらするんですよ。
逆になったら価値観も逆になっちゃうんじゃないの、
という気もしなくはないんですよね。
恋愛はちょっとね、
話がややこしくなるんで、
私ももう恋愛という年齢じゃないんで、
年齢関係ないんですけどね、恋愛って。
転移なんであれば。
この話は、
おいおい別のところでしたいと思うんですけれども、
つくづくですね、
主体的に人間関係を築いていくっていうのは、
無理があるなというのを、
これもやっぱりここ2年ですごく実感したことでした。
そうしたからといって、
人間関係って、
なんかこう、うまくいかないんですよね。
減るだけっていう感じで、
気がつくと、私はそういう人間ではあるけれど、
仕事関係者と家族しか人間関係いないみたいなことになりそうな感じで、
これだったら搾取される運の考える必要は別にないんじゃないかと、
どっちだって同じような気がしてきたんですよ。
これも人によって、
信念で動くしかないような気もして、
そうしたからといって、
利用されたくないから、
人間関係は限定し、
主体的に選別するんだというのは、
それはそれで全然、
それに何か指摘するほどのことじゃないなという気もします。
しますし、
私もそうやって生きてきた時期もあったなという気もします。
結局でも、
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突き詰めていくと、
長期化するプロジェクトみたいなのって、
何であれ人が絡んできているので、
そこは少なくとも、
うまくやったほうがいいじゃないですか。
気持ちのいい人間関係というのは、
実はかなり抽象的でしてね、
具体的に関わっていくと、
人間関係というのは、
人間関係というのは、
具体的に関わっていく頻度と時間が長くなってくると、
気分の良し悪しだけでいけばですね、
絶対切っていくしかなくなる。
そうすると、
ほとんどのプロジェクトは、
途中で空中分解していくしかなくなってしまうので、
それはやっぱり、
いろんな意味で、
そうそういいことではなかろうと思うようになりました。
年を取ったということなのかもしれないですね。
まあまあ、そういう感じで、
2021年は、
時短の瞬別を、
もうやめようと。
多分、
1,2週間でやむってもんじゃないと思うんで、
ここはやっぱりゲーム感覚だなと。
ゲーム感覚っていうのは、
割と、
浅いテクニックのようで、
なかなか、
必要かなと思うことがあるんですよ。
昔、
宮崎アニメなんだけど、
宮崎駿監督、息子さんかな?
作ったという作品で、
面白いセリフが出てくるんですよね。
殺しちゃう人で、
殺しちゃったのか刺すんですよね。
ちょっと分かりにくい出だしで、
最後の方で、
いんだ僕なんかどうなったって言った時に、
いかにも宮崎アニメらしい女の子に怒られるんだけど、
あなたの言うことはおかしいよって言われるんですよ。
やたらと何か逃げてきて、
命大事そうなのに、
いつ死んでもいいっていうセリフが、
非常に興味深くてですね。
私たちって、
いつ死んでもいいみたいなことを考えてたり、
言ったりする人って結構いるじゃないですか。
でも一方でその人が、
クレームメールとかを怖がってたりするんですよ。
クレームメールとか、
誰かのちょっとした小言とか、
死ぬの怖くもないのに、
妻の小言が怖いっていうのはめちゃくちゃおかしいですよね。
18:00
なんかそこら辺がすっごく転倒しがちなんですけど、
私はそう思う人って、
実はすごく生きていたいんじゃないかなと、
思うことが多くあります。
自分もそういうところがあって、
若い頃特にそうだったんですけど、
あれは何とかしたいというので、
その価値基準だけは逆転させようと。
一番死ぬのは嫌だと思っているんじゃないと、
話の辻褄が合わねえと思ってたんですよ。
人前で恥ずかしい思いをするくらいなら、
死んだ方がマシだというのはやっぱり僕には変だと思うんで、
ちょっとね、
戦時中の軍人みたいな言いずんでもあるんですけど、
なんかですね、
それは生きてるからそれで困るのであって、
死んでも構わないなら恥ずかしい思いをさせられるとか、
相当どうでもよくないかと、
一方では思うんですけどね。
この辺の話って、
なんていうんですかね、
下の瞬別みたいな話を考えた時にも、
不意によぎるんですよね。
つまり他人に利用されるのが嫌だというのは、
やっぱりかなり人生の執着度が強いと思うんですよ。
自分はこの人生でやらなければいけないことがあるみたいなところもある。
例えばですけど、
アインシュタインがちょっとこう、
なんだ、
そうだな、
なんでもいいんですけど、
アインシュタインがですね、
ガレージの掃除をさせられているために、
特殊相対性理論の発見がその分遅れたのは、
自分の人生にとっての損失だという主張であれば、
わかる気もするわけですね。
でも私の場合、
他人によって時間を邪魔されたから、
何かが成し遂げられないというほどのことを
成し遂げる人間だとは思えないんですよ、自分では。
だから自分の人生が、
時間がそんなに大事ってのは、
なんでなんだろうっていうのがあります。
もう一つが、
ガレージの掃除をさせられているから、
一人エッチの時間ができません。
これもこれなりに理解はできるんですよ。
かっこよくはないにしてもですね、
ガレージの掃除よりも一人エッチの方が気持ちがいいじゃないかと、
それはわかるんですよ。
どっちかぐらいだろうと思うんですね。
どっちも私に当てはめると、
気持ちのいい時間が減るっていうのは、
大した話じゃないと思うんですよね。
だからといって、
この20分を節約すると、
特殊相対論に相当するような貢献度を
人類に対してなし得るとは自分は思えないんですよ。
21:00
どっちにしてもですね、
時間を自他で瞬別して、
自分の空気を守るということの意義って、
低くて、むしろなんかこう、
気難しい人が一生懸命自分の中にこもっているという、
先日見たアニメの
耳水が入ってきただけで
噴火しちゃうような
煩わされるのが嫌いだって。
煩わされるのが嫌いだっていうのは、
お気持ちはわかるんですけど、
およそ45過ぎた人が
真剣に主張する価値はないかなって思います。
何度も言うんですけど、
ピカソレベルの画家とかならちょっと違います。
煩わされるのが嫌いだと言っても、
許される気がするんですけど、
私レベルじゃ許される話じゃないな。
24歳で大学院の勉強してるとかなんかね、
ちょっとありかなと思うんですけどね。
ケースバイケースってこともあるかなってことですね。
最近ちょっと娘が言うわけですよ。
今勉強中だから。
幼いんですけれども、
これは許せるなって思うんですよね。
ある程度勉強に集中するために
自分を持っていくっていう努力を
要するにまだ年頃だと思うんですよ。
11歳は。
これを30歳が言うのはどうかなっていう気もします。
あまりにもどこかが子供っぽくないかなってことですよね。
でもそういうこともあるとは思いますけどね。
私で言えば、
この行が書ければ
この原稿は決まるっていう
その行が出てきそうな時はですね、
お風呂に入るのはちょっと2,3分勘弁してもらいたい
みたいなのはありますよね。
全くないわけじゃない気がします。
それでもちょっと子供っぽいかなとは思うんですよ。
なぜかというと、そこが書き上がれば
この本は6万部で、そうじゃないと6千部になるかというと
そういうことはきっとないんでね。
きっとないんですよ、そんなことはね。
私の本のようなものの場合、
芸術作品とはちょっと違うんで、
この行の出来不出来がすごく違いが生むとは
書いてる側は思うんですけど
出た場合の差はそこまでは言えないかなという感じもあります。
それも価値観なんで
ちょっと一概に言えないところもあるんですけれども。
まあまあでもそうですね。
もうとにかく
これは来月だったらやるとかは
予想と。
それは多分
このご時世になってみて
24:00
いい加減
理解しなきゃいけないだろうと
思うんですよ。
変異株まで行ってるこの状況で
先が読めると思うのは
甘いと思うんですよね。
もともと読めてないんですよ、明らかに。
どう見ても。
最近みんなこれに関してはヒンサイドバイアスで
後知恵バイアスがすごくて平気で言うんですよ。
一言も言っていなかったようなことを
後から考えてみれば当然分かった話じゃないですかって
言うんですけど
そんなはずはないですよね。
あのー
米国の総理が
しかもかなり進んだ国の総理が
明らかに読めてないものを
読めるわけがないですよね。
僕ら多分本当に怖いから
2月3月とか言ってるんですけど
分からないんだと思うんですよね。
1月3日より後のことは何が起きるかは全く
ちょっと考えれば何が起きるかが
分かってないのだけは分かると思うんです。
雪降ることもそうだし
めちゃくちゃ火山が噴火することもそうだし
今にも富士山とかが噴火してもおかしくないわけですからね。
そしたらまた全然違う生活が
今この状態でそんなことになったらどういうことになるんだろうって感じですけれども
やってくるわけで
そういうことをほとんど考慮に
というか全然全く少しも考慮に入れずに
3月からはこれができるとかって
我々は考えない。
来年の2月になればうちの子も受験をするから
今から準備をすると。
受験できるって保証はないわけですからね。
これは非常に面白いことに
うちの子が言ったことなんですけどね。
今年のことを見るとちょっとね
そういうことを考えざるを得なくなってくるという面も
なきにしもあらずですけれども
あると思って
盲目的に信じているほうがうまくいくこともありますけど
つまりそれがわからないってことだと思うんですけどね。
ということでですね
今年はその辺
ゲーム感覚ですけれどもね
人の
人自体を分別しないと
つまり分別がなくなるんですね。
そしてやりたいことをやると
即時的にやると
後っていうのがあるかないかはわからないことなので
即時的にやりたいことをすると
いうふうにしていきたいなと思いました。
多分他の人にとっては
27:00
私の見え方は何ら変化がない
例の360度変わりますってやつで
つまり変わってねえっていう話になりそうな気もするんですけれども
やっぱり
自分の中では
違っていけるんではないかなというふうに思っています。
まあ
ついでに今の話とすごく関係が深いんですけど
関係づけてしゃべるとあと30分いるんで
今日はさらっといきます。
さらっと最後に付け加えるんですけど
12月に私はこの超自画っていうのは
僕の解釈ですけどね。あれもね。
よた話だと思って聞いてほしいんですけど本当に
超自画っていうのは
力を持っていて
その力の方向性というものを文化ってやつが決めて
だから
例えば女性は男性に従うべきだみたいな
そういうふうにこの超自画を働かせることもできれば
全く逆に働かせることもできる
これが正しさというものがすごく相対的で
文化的で場所によって違い時代によっても違うけど
でも超自画が働くという力は
車のブレーキが全て同じことをやるように
多分リビドウを
抑止する
そういう力を持っていて
その時に不快感があることが多い
これを12月にすごく徹底して意識するようになって
そうかだから私たちはみんな正しいということをしたい
少なくとも何か不愉快なことが起きると
俺は正しいのか正しくないのかとついつい考える
あれが起こるんだというふうに気づいたんですよ
そしてグッと
グッと何か言われたり怒られたり
全然気になる度合いが全く変わったんですよね
濃縮還元の対応を100倍に薄めると
全然気になると
濃縮還元の対応を100倍に薄めると
味が全然違ってまずくなるじゃないですか
あれぐらいグッと薄まったんですよね
今のはいい例えではなかったけど
このグッと薄まってみるとつくづくですね
これが
さっきの言った関係してるんだけど
関係づけてしゃべるのが難しいんですけど
このグッと薄まってみると未来計画というものは
見えてくる気がします
本当に1月3日から先のことは
なんていうのかな
考えちゃうこともあるけれど
こんな無駄なことはないかなと