00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
ようやくですね、まあようやくではないんですけど、決して遅い方じゃないんですが、
新刊のF1.0で生きる技術のレビューというか、感想のようなものをちらほらいただきまして、
おかげさまで、もう基本的にすごい大好評だなっていう印象のレビューしかいただいていなくてですね、大変ありがたいことです。
引き続きですね、著者というのは分からないですけど人にもよりますが、私は感想を読むのはとても好きなので、
別にAmazonのレビュー、Amazonのレビューが一番ありがたくはあるんですけれども、
星1とかじゃなければありがたくはあるんですが、じゃなくても全然結構なので、何らかの形で感想をいただけると大変ありがたいです。
ということで、先日ですね、倉園圭三さんと土曜日曜と連日でオンラインのセミナーを行いまして、
その中で自己肯定感のようなテーマ、ちょっとフタワイブスでこれを取り上げると、
やっぱりいわゆる世間的でいう心理学でいう自己肯定感、セリフエスティームとちょっと違うニュアンスも出てくるんですけど、
自分を信頼するっていう感じなんですよね。
それも絶対評価的に自分を信頼するという話になってくるので、
これは結局臨床の世界でも同じ話はするんですけどね、臨床心理学でも最終的には。
そのロジックが違うというか、そこの論理が少しヒットバイオスには特徴的、特有なものがあって、
その話を私も聞くわけですよ。
言っていて、だんだんこの問題に決着できそうな気がしてきたので、
そこら辺を生に柄なままセミナーってあんまり喋れないものですから、
生に柄なものはここのグッドモーニングバイブスで喋ると、生に柄なもの喋るってすごい難しくて無理があると思ってたんで、
ブログは別としてもブログくらいだったんですよね。
喋るってことはなかなかできなかったんですけど、
このグッドモーニングバイブスでは生に柄なものをどんどん喋ってるんで、
こういうことは可能なものなんだなと思っていて、
喋っていて、こういう表現形式もありだなと最近はつくづく思います。
生に柄とか完全に論理をしっかりさせてからとかって言うけど、
03:06
5年くらい経ってみると論理をしっかりさせたつもりでいても十分生に柄であるケースも多々あるので、
結局同じこととも言えるんですよね。
今の自分がどうか生に柄なまま喋るっていうのに多少の勇気が必要だという程度であって。
で、この自己肯定感というか、自分を信頼するという話の中で、
やっぱりどうしてもですね、
特に私がアプローチすると、クラゾンさんよりもそうなるんだけど、
自己不信の方に偏るんですよね。
それは多分、自分がこの自己不信というか、
自分がだらしないって言うのかな?
ということにすごくトラウマとは違うんですけどね。
それだと深刻すぎるんですが、自分がだらしないということに不安?不安ですね。不安ぐらいがいい。
結構持続的に持ってきてしまっていたということが、
根本的にというか、潜在的にというか、そういうふうにあるんですよね。
今こうやって喋って、ふっと思い出したんですね。
母の決め台詞の一つでしたね。
だらしないんだからっていう表現。
よくよく考えてみると、意味がわかんないですよね。
だらしないとは何なのかと。
よく考えてみるとわかりにくい。
母は決め台詞で、これを振りかざしていた気がするんですよ。
思えば父にも私にも妹にも振りかざしていたけど、
一人一人相当違うんで、私と妹じゃ全然違うんでね。
一言で片付かないんですよね。
だからそういう意味では、一体あれは何を言いたかったのかというと、
多分部屋が汚いとかそういうことが言いたかっただけなんですけど、
こういうのが結構いけないんだなと。
こういうふうに言うと、また親戸の格室みたいな話に聞こえてしまうと思うんですけど、
僕はそこまでは全然、今の今まで忘れてたぐらいなんですよ。
だから悪影響って、親の悪影響ってあるかもしれないじゃないですか。
それ残ると思うんですけれども、
大したことじゃないのを大したことのようにはするのもどうかなと思うんで、
だらしないなのと言い出せば、
私から見れば私より母の方がだらしないですから、
部屋とかの話ですよ。
だらしないっていうと性的な話にも含むみたいな感じがするんですけれどもね。
あれ何でなんでしょうね。
なんかいろんな意味があるような気がします。
06:01
で、そうだ。
性的な話をしてみてもきっとこのテーマ面白いんでしょうね。
今日はちょっとそっちは全く念頭に置いてなかったんで、
いくら何話に絵でもそっちに行くとどうなるかがあまりにもわからないんで、
また後日にしますが。
なんか、例えばですけど、
最近ですね、また離婚したい女性のコミックエッセイを読んだんですよ。
あの人の話が大変私はいいと思っているのは、
本当はそうじゃないんでしょうけど、
主観度が濃いからなんですね。
つまり大体夫がすごい悪く描かれているけど、
夫が描けば絶対同じようにはならないじゃないですか。
でもあの主観がいいんですよね。
主観の100%だとイリュージョンと意味付けにまみれるので、
嫌でも大でもそうなってしまうので、
そこが大変実は読みごたえがあるなとよく思うんですよ。
偏っているからこそその偏りが読みたいっていう感じなんで。
で、その離婚してもいいですかというタイトルで、
その第2弾なんですが、しょうこの場合だったと思うんだ。
そのしょうこさんが、やっぱり夫に言ってみれば傷つけられるわけですよね。
でもいつも自分はニコニコして夫を立てているんだけど、
夫が実は大嫌いだと。
非常にいい展開なわけです。
他人ごとで恐縮なんですけどね。
ニコニコしていて夫は自分に舵を全部押し付けてくるというお話なんですけれども、
専業主婦なんですね。
でもいつからこうなったんだろうみたいな、
よく10回があるわけですが、
最初は幸せだったということになってるんですよ。
今でも人から見れば自分たちは幸せな家族なんだろうという、
この表現が私は大変いいポイントだなと思うんですけれども、
前は幸せだったんだけど、今は夫が大嫌いだと。
いろんなことが起こるわけですよ。
この時に私は今までこれらを一緒くたにしていたなと思ったんです。
夫が例えば帰ってきたその夫の物音で自分はビクッとしてしまうと。
この話だけ撮るとなんだかちょっとHSPっぽさもありますよね。
自分が料理でちょっとうっかりしたところがあると、
夫がそれを言うとすごく怖いと。
この話もいろんな受け止め方があるんですけれども、
09:01
私はこれを一つのものとして見てたんですよね。
要するに傷つくと。で、怒られるのが怖いと。
で、怒らなければうまくいくのにと。
でもこうやって今Good Vibesをいろいろ脇で旗で聞いているということもあるし、
散々読んできたし、こういうことばっかり考えているということもありますが、
だんだんですね、このパターンとあのパターンは別のパターンだというか、
パターンというのも良くないんですけれども、
要は一つ一つは違っていて、
このしょうこさんの離婚してもいいですかのケースは、
夫が悪いんですよね。
自分が責められているというよりは夫が悪いんですよ。
よくこう、自分が何かで傷つくって話になった時には、
きっかけとしては大体他人に責められているケースがほぼほぼだと思うんですけど、
夫が自分を攻撃するにせよ、上司が自分を叱り飛ばすにせよですね。
その時まず問題になっているのはどれなんだろうということが一つあるじゃないですか。
自分のミスということにフォーカスが当たっているのか、
それとも怒る人の怒り方が問題なのか、
あるいは怒っている人はパハラかなんか、
つまり自分はミスをそもそもしてもいないのに誤解かなんかで怒られていて、
それが嫌なのか、いろいろあると思うんですね。
どっちを選ぶかということに実はなっている気がするんですね。
例えば上司が自分を激しく罵倒したとして、
でも自分も少し至らないところがあったと。
こういうケースが多分かなり一般的なんだと思うんですね。
例えば最近エフタさんという方と高梨さんという方の協調で、
容量が悪い人のための仕事術図鑑かなというような本が出たんですね。
ここで例えばタスク管理とか仕事術とかにフォーカスするということは、
ミスを全部なくせばこの罵倒は飛ばないはずだという、
ある種の期待があると思うんです。
だからどんな小さなミスでも可能な限り潰していこうと。
そうすると何が起こるかというと、
怒られたら怒った人が悪いわけですよ。
12:01
そういう方面に持っていくことができるわけです。
一方でそんなことをしなくても、
些細なミスでやたら罵倒するのは最初からパワハラする上司が悪いと
考える人もいるじゃないですか。
その人は多分ですね、怒られることを少なくとも
タスク管理で徹底的に潰していきたいと思っている人ほどは
怒られることを怖がっていないと思うんですね。
様々なケースが想定されるんだけど、
最終的には自己不信を選ぶか、
他人がハラスメントしているという方を選ぶかの
どっちかを迫られている感じになると思うんですね。
自分がミスをするのがいけない、このような自分がいけない。
だからこのような自分を自分で攻撃するか、
それこそタスク管理なりで改善するかを選択する、
そういう選択を迫られていると。
または、たとえ自分のミスがあるにせよ、
しょうこの場合に乗り込んで言うと、
ハンバーグがチーズが乗ってないとか言われるんですよね、夫に。
言う方が悪いとは思いますけど、言う方が悪いことになっているんですが、
タスク管理方面でいくと、
チーズを乗せるというチェックリストを作るべきなのか、
または、いやいやこの夫はどうしようもない夫だという認定というのかな、
そういう認定を選ぶのか。
しょうこさんはこの認定を選んでいるわけです。
で、どっちを選ぶのかということに、
実はまず迫られてくると思うんです。
この種のことが起きたときはいつでも、
書類にミスがあったと、ミスをしないというタスク管理を選ぶのか、
あるいはそういうミスをしてしまう自分というのは、
情けない人間だとか、だらしないとさっき言いましたが、
だらしない人間だと認識するのか、
または書類のミスごときでものすごく起こり始める
上司のパワハラを問題にするのか、
そういう選択肢がいくつか用意されると思うんですね。
で、どの道にもそれなりの問題があるわけですよ。
もしかするとこの3つ全部やってみてダメだったというケースもあると思うんですね。
結構あると思うんですよ。
それが発泡ふさがりだなと僕は思うんですけど、
これが上司が悪いと認定すると。
これ一見すると何も問題ないような、
というか自分が悪くないということにするというメリットがあるんですけど、
これを選択すると毎日悪人のもとに行かなきゃならないことになるわけですよね。
あるいはパワハラ上司という存在がいるところに、
毎日毎日好きでも必ずしもないラッシュに揺られて、
15:01
パワハラ上司のところに行って挨拶しに行かなければならない。
結構困った事態だと思うんですよね。
このショウコの場合という、
離婚してもいいですか?のコミックエッセイはまさにそういうパターンにハマっていて、
私は夫が大嫌いって書いていて、非常にこう何て言うんだろう、
読み言によっては切ないコミックエッセイで、
離婚というものを肯定的に受け止めるというメッセージにも受け止められますが、
別の読み方をするとですね、
この状態ってすでにもう全く地獄でどうしようもないですよね。
だって大嫌いな人とずっと生活を共にしなければならないということが選択肢になったわけですよね。
大嫌いという認定はそれを意味します。
これある意味では同じようなもんですね。
なぜなら夫の大嫌いな夫は会社員で平日外に出てますから、
まあまあ会社に行ってパオハラ上司のところに行くのとほとんど同じですね。
たぶん毎日その夫が在宅ワークだったら、
今テレワークがコロナで出てきてますけど、
だったらもっと地獄だと思いますけど、
要は、なんだろう、蜂がとても嫌いな人が蜂の巣の工場に行って、
養蜂場に行って仕事させられるような感じですよね。
毎日嫌いな人に毎日わざわざ会いに行く。そこが職場ですと。
これがですね、悪人認定の大きなデメリットで、
たぶんこれがあるからこの悪人認定をしたくないんだと思うんですよ。
一方でですね、そうすると悪人認定はいかんと。
こういうモンスターを会社に作り出すということはとても辛いので、
辞めて自分の攻撃認定にするとですね、
自分のミスがいけないと。自分はだらしない人間だ。
そうすると今度は、当然自分はダメ人間だという気持ちをずっと背負いながら、
一生過ごしていかなきゃならないじゃないか。
これはさっきのよりさらに良くないですよね。
さっきは悪人がいるところに仕事に行かなきゃならなかった。
最悪これは職場を変えれば何とかなりそうな気配もあるんで、
まだ大丈夫だというか、まだ救いがあるけど、
自分がダメ人間となると自分からは離れられなくなっちゃうので、
これの方がきつい気がするんですよね。
これにだから夫がない嫌いは近い恐れがあると思うんですよ。
だから離婚なんだけど、離婚しない間はずっとこの状態ですよね。
そういう意味でやっぱり会社にモンスターがいるよりも悪いような気がするんですよね、この認定は。
18:00
もう一つがタスク管理で、これについては時間の関係もあるし、
話し出すと全然違う方向がブワッと肥大化して、
こっちの方が期待されているかもしれないんですけど、
こっちも僕は決して良い解決策だとは思わないんですよ。
この解決策を選ぶということは簡単に言ってしまうと、
潜在的には会社にはモンスターがいて、
潜在的には自分がダメ人間だということを温存することになると思うんですよね。
タスク管理でその表面を取り繕ってしまうということは、
ちょうどハンバーグにチーズを乗せるということによって夫は文句を言わない。
でも夫のことは嫌いなわけじゃないですか。
本性はそういう悪い夫だというのをチェックリストで言ってみれば、
塗り固めているだけという言い方もできるんですよね。
この問題は僕はですね、こういう解決策を選択すると、
潜在的な恐怖感を温存することになって、
結構つらいと思うんですよ。
こうしてですね、私たちは三方ですが八方塞がりになるんですよね。
やれることは全部やりましたと。
ちなみに接地不安ってありますよね。
私はみんながとっているのはこれだと思っています。
上司が100%悪いわけじゃない。
上司はおしゃるいのミスとかで罵倒するけど、
50%パンハラなだけだと。
10%は私が悪いと。
これは私はですね、選択するということは、
50%モンスターがいる会社に、
50%ダメ人間である自分が行くということになってしまうので、
実はその他の全ての選択肢よりも厳しい事態を招くのではないかと思うんですね。
これをただ私たちは大体大人な考え方だと思い込まされてきているんですけど、
この考え方は私は今言った中でも決して良い方の、
今言った解決策はいずれも良い結果を招いていないんですけど、
中でもあまり良くない方なんじゃないかと。
極端に言うと50%分かりにくいんで、
2日に1回モンスターになる上司のところに、
2日に1回ダメ人間になる自分が行くわけじゃないですか。
あるいは2日に1回DVっぽいというわけじゃないんですけど、
モラハラっぽい夫と一緒にいる2日に1回ミスをひでかす奥さんという構図になるわけじゃないですか。
運の良い日はいいと思いますけれども、
良い方の2日に1回両方揃った場合には、
運が悪いとすごい最悪ですよね。
この図式を選択するのは、この解釈を選択するのもどうかと思うんですよね。
だけどこれが多分世の一般の選択になっちゃってるような気がします。
21:02
これが大人の考え方みたいな。
大人でもなんでもないような気がするんですけどね。
みんなが辛くなるだけな選択肢のような。
で、残るは分離なんですよね。離婚か転職と。
こうやって自分考えてきてですね、
この問題に決着できつつあると感じたのはですね、
信じるっていう話なんですよね。
既に長くなってきていて長くなる気配を感じますが、
まあ構わず突っ走りますけど。
私たちは知ってるという表現を取っちゃうんですけど、
知ってることって何にもないような気がまずします。
グッドバイブスで散々言われていることですけど、
ありとあらゆる人がいろんな形で言ってはいますよね。
例えばグッドバイブスでもよく言う、
76億の人がいるっていうこれ。
私たちは76億人全世界にいるって知ってるつもりになってるんですが、
知ってるわけではないですね。
信じてる。誰かがそういう風に言ったのをただ信じてる。
76億数えたことはないはずだし、
76なのか75なのか74なのか77なのか知らないですよね、本当のところ。
それどころかですね、日本に人口1億何千万いるってのだって、
知ってるって言うけれど、
これは社会の教科書とかに書いてあったことを信じたんだと思うんですね。
多分正しいと思いますよ。正しいと思いますが、
知ってるということはそれが確実であるということを
自分は何らかの形で確認をできているって言わんばかりですけど、
そんなはずはなくて、多分信じてるだけですよね。
地球はできてから46億年経ってるって話ですが、
知ってるってみんな言うけど、知ってるはずはないですよね。
私も知ってるって平気で言ってましたけど、
信じてるんですよね、そのように。
746億年なのか、これがですね、教科書に実は20億年でしたって書いたら、
それを信じるしかなくなっちゃうんじゃないですか。
地球の年代規則、定法ってあるけれど、
そんなものをみんながみんな知ってるはずはないと思うんですよ。
やっぱり信じているわけですよね。
私たちが地と呼んでいるあの汁の地ですね。
これは基本的には信じるという、ただ強く信じているということに過ぎないと思うんですね。
というかおそらく考えてみるとそうなってると思うんです。
そうすると問題なのはですね、
信じるということと知ってるということを私たちが分けたがるのは、
24:04
多分騙されたくないという気持ちがとっても強いからだと思います。
どっちでもいいことは簡単に信じられるんですよ。
人口76億でもそうではなくても別にどっちでもいい。
だから私たちはそれを簡単に信じられるんです。
仮に実はそんなことはなく、77億でしたって困らないですよね、別にね。
だから信じるという言い方をせず、知ってるという言い方を簡単に採用できるんだと思うんですね。
で、この話がどういう話になっていくかというと、
例えばですけれども、この株が上がると信じていましたと。
知っていたというよりは信じていましたと。
でも下がりましたと困りますよね。
だからそういう時は私たちは知ってると信じるを分けなきゃいけないと思うと思うんです。
騙されたくない。しくじりたくないから。
だからさっきの夫の話で言いますと、
夫の話とかこういう時にいいんですけれども、
夫はいい人だと、この人と一緒にいれば幸せになれると、
しょうこさんは知ってはいないんですよ。
信じていたんだと思うんですね。
でも恨みられたということになって、
実は夫はろくでもない人だったと今では知っているわけですよね。
このパターンが私は傷つくという表現で言われている全ての中身なんだと思うんです。
多分いった会社に採用される前から、
会社にはモンスターのようなパワハラ上司がいると思っていく人はいないと思うんですよ。
最初はいい上司だと信じているわけですよね。
だけれどもなんかわけわかんない、ほとんど100%誤解な感じで、
セックハラもモラハラもパワハラもめちゃくちゃしてくると、
恨みられたと考えるわけじゃないですか。
だから不審に陥るわけですよね。
これは本当は知ってたはずはないんですよ。
そんな上司がいないと知っているってことはあり得ないですよね。
だってその会社に誰がいるのか知らないんだから。
知っているというのは実は信じていたに過ぎなんで、
それも相当不確かな情報と乏しい情報をもとに勝手に信じていて、
それが裏切られるんですね。
その時に僕らがやっぱり本当は理想論みたいに聞こえると思うんですけど、
本当にしなくちゃいけないのは信じるということのアップデートであって、
ここで話を止めてしまうと、
不審、裏切られましたというところで止めてしまうと、
さっきの悪人認定か自分はダメ人間認定のどっちかを選択しなければならなくなると、
27:03
発泡ふさがりになっているのはここだと思うんですよ。
私たちは信じているだけなのに、本当は知識として知らないのに、
知っていると思っていることは全部強く信じているわけですよね。
知っていると信じているっていうようなもので、
本当のことだって裏切られたって言うんだと思うんですけど、
違うと思うんですよね。
知らないのに知っていると思っちゃっていて、
だから信じ直さなければいけないと思うんですよ、結局。
そうしない限りは、
悪人認定か自分はダメ人間認定のどっちかを、
つまり夫が正しければチーズを忘れるような妻はダメなんだし、
自分が正しいならばそんなことで文句を言う夫はダメなんだし、
どっちかを選ばなければならない。
どっちを選んでも嬉しくはないわけですよね。
チーズを忘れないようにするタスク管理も多分嬉しくはないと思うし、
チーズを忘れた自分はダメ人間だと認定するのは全く嬉しくないし、
そんなことでケチをつける夫はとんでもない夫だということにすれば、
大嫌いだということにすれば、
その大嫌いな夫とずっと一緒にいなきゃなんなくなって、
これもちっとも嬉しくないわけですよね。
このどれかを選ばなきゃなんなくなっているのは、
最初にこの夫といれば幸せになれると信じた、
その信じたというのが不審の念にさらされたときに、
もうちょっと別の、この人はこういう人でもあるんだという新しい情報が入ったときに、
改めて信じ直さなければならないと思うんです。
そのときに一つ一つの行動を結局拡大して詳細に捉え直していかないと、
信じることのアップデートってできないと思うんですよね。
つまりもっとよくはるかにしろうとしないとどうしようもないと思うんです。
これが多分他人に教えてもらうということの中に含まれると思うんですけれども、
あの離婚してもいいですかにあるんですが、いろんな事例があります。
多分読む人はこれはあるあるだ、うちの夫もそうだって思うと思うし、
そうなんだと思うんですよ。
それが全くその通りだと思うんですけれども、
このあるあるの一つ一つの事例はハンバーグにチーズだったり、
娘さんの様子をちゃんと見ておかないだったり、
テレビの番組を見ていて必要以上に大声で笑うだったり、
一つ一つは非難に値する行動かもしれないんですけど、
30:00
一つ一つ違うわけですよね。
全部同じように描かれてしまう。
全部同じように描かれるのは大嫌いな夫のろくでもない書業なので、
全部一つのセットにしてラベリングしておけば済むように思われるのかもしれない。
でも漫画家が絵に描くぐらいだから、やっぱり一つ一つの行動は違うわけですよね。
その一つ一つの行動の違いに拡大鏡を当てていくようにしていかないと、
結局それは悪人認定の証拠集めみたいになるんです。
これはいわゆる拡張バイアスですけど、
悪人認定をしてしまった後でその証拠を集めるのはとても簡単なことで、
いくらでも見つかると思うんですよね。
これをいくらやっていても、
自分はその夫を嫌いだということの確信をますます深めるばかりで、
決してハッピーではないと思うんですよね。
なんか小さな復讐が成し遂げられたような独特の喜びがあるとは思うんですが、
それ以上のものはもたらしようのない展開だなと思うんですよ。
これはフェアじゃないんです、今やっていることはね。
漫画が出ているから取り上げてその話をしているに過ぎないんですけど、
私が難しいんですが思ったことは、
自己不信というものは、実は他人を悪人認定したくないという、
そっちの道を回避するときに確実にもたらされる何かみたいに思えるんですね。
自分はダメな人間だという、
あの証拠さんの場合はそっちは回避していますが、
もしこれで、いや夫の良いことにも一理あるとか、
夫は仕事をよそって頑張ってお金稼いできているんだからっていう話を持ってきたら、
もうすぐに自虐的な話に切り替わると思うんですよ。
夫が悪いっていう部分を封じると、自分が悪いになっちゃうわけですよね。
このどっちも避けたいと僕は思うんですよ。
で、両方避けなきゃいけないと。
で、説中はもうダメだと思うんですよ。
夫も私もフィフティーフィフティーだっていうのもダメだと思うんですよね。
それでは大人らしく見えたとしてもことの解決にはならないと思うので、
自分と夫の両方に対する信頼をアップデートしていく以外の手はないんじゃないかなと。
そうしないと両方に対する不信感を増大させるという結果にきっと追わると思うんですよ。
さっきの整理はそれをしたかったんですね。
で、信頼をアップデートするというか、信じるということをアップデートするのは、
33:04
さっきも言った通り、どっちにしても害がないことだったら簡単にできるわけじゃないですか。
76億ドルは間違いでした。77億でした。
あ、そうなんだ。そっちを信じ直そう。
これでいいはずだと僕は思うんですよね、本当は。
夫はこういう地図とかのことに言いますが、でも信じましょうということは本当は不可能ではないと思うんですよ。
すごい難しく感じるはずなんですけど。ほぼ全く不可能だと感じられるはずなんですけど。
長くなってきたので、回を改めたいんですけどね。
私の経験で言うと、信じ直すときに必要なことって実はとても少ないんですけれども、
ほとんどないぐらいなんですけど、不思議なほどにそれを絶対に許してくれない自分がいたりするんですよね。
やっぱりこの話をすると長くなりますね。
1回か2回だけなんですが、私は娘と争ったことがあるんですよ。2回ぐらいだと思うな。
娘がですね、私が半分はやっぱりこれ出ちゃうんだよな、口癖みたいなもんだ。
半分悪いんですが、娘がずっと無視し続けてたんですね。
この子は画が強い子でもあるなとはつくづく思い知ったんですけど、
8歳ぐらいかな、7歳ぐらいかな、今よりはだいぶ前です。
その時に今思い出してみるとなんですけど、
私はですね、しかしすごい簡単にこの信頼のアップデートっていうのができたんですよね。
こういう面があるんだっていうことが嬉しかったんです。
で、なぜこれが娘以外の人間についてはできなくなっちゃうんだろうと思ったんですよ。
娘以外の人間だとやり返されるからとか、娘以外の人間は大人だからとか、全然理由になってないと思うんですよね。
僕の場合は特にそうです。
娘と大人というものを明瞭に分けるほど価値があるその区別だとは思わないので、
例えば娘に比べて大人というのは何でもできるかというとそんなことは別にないし、
頭がいいかというとそれも大変疑わしいんですよ。
で、娘以外の場合には、いざこざが起こった場合、娘は無視だけど他の人は殴ってくるかというとそんなことはないんですよ。
そうすると結局関係を修復しなければならないという時に考えることは、
娘は一向に折れる気配なかったんで、その時は。
36:00
丸一日近く無視してたんですよ、私のことを。
で、それが僕の場合、娘についてたと嬉しいのに、
なんで他の人だとこれがなんかもうすぐ離婚とかいう発想になっちゃうのか。
その時娘と縁切ろうとは少しも思いませんでしたから。
で、これは新しい情報を得た時に私たちがしなきゃいけないこと、少なくとも僕がその時にしなきゃいけないこと、
信じるということについてのアップデートだと思ったんです、その時にね。
この言葉は先日の倉園さんのセミナーを聞いていて思ったことだ、考えついたことでしかないんですけど、
その時にはこの言葉は考えつきませんでしたけど、
でも私がその時やろうと思ったのは、信じるということのアップデート、これしか選択肢に残ってこなかったんですよ。
だって娘と縁切るとかなかったし、娘を悪人認定するとかもなかったし、
じゃあ私が悪いのかというと、さっき半分悪いって言いましたけど正直別に私が悪かったわけじゃないんですよね。
だからこれは同時にやらなきゃならないなと思うんですよね。
娘を信じ直すということをやるならば、小さなことですよこれは。
信じ直すということをやるならば、自分についても何かしら信じ直すということをしなきゃならなくなる。
アップデートしなきゃならなくなる。
今までの自分を信じていたのと娘を今まで信じていたのと違う信じ方をしなきゃならなくなる。
これはその時には軽くできたんですよ。
飛び箱3段飛ぶぐらいな。
人によってすいません、これ難しいって人もいるからね。
僕にとってはこれは簡単なんです。
ぐらいな苦労で済むんですよ。
これはどうして全く同じことが奥さんとの間に起きたらですね、たぶん。
飛び箱10段飛ぶようなイメージになっちゃうと思うんですよね。
おかしいと思うんですよね、これは僕は。
おかしくないとたぶんイメージでは思われるでしょう。
なぜなら奥さんは大人だから。
これ理由になってるかな。
理由になってますかね。
私はこれでは何の説明にもなってないような気がします。
だから簡単にできるはずだと思うんですよね、本当は。
必ずこの時忘れちゃいけないのは、自分を信じ直すということもアップデートしないとならなくて、
相手の不信を取り除くだけでは、不信を取り除くんじゃないんだよな、やっぱりな。
済まされないなと思うんですよね。
これ以上の説明はさすがにないなと思ってたんですけど、
先日倉園圭祖さんがセミナーの中で、
信頼というのはチャンスを与え続けることだっていうような、
39:04
無限にチャンスを与えるみたいな感じなんですけど、
チャンスを与えないという選択をしないということっていうような説明をされたんですけど、
私もおおむねそういう感覚だったんですね、その時は。
娘に対してチャンスを与えないということはありえない選択なんですよ。
もう無視してきたんならいいや。
二度とこっちも対応しないようにしようっていう選択を最初から考えつかないんですよね。
リアリティが全く感じられない選択肢なんですね、それは。
欲々ですね、これもまたいきなり話がすっとぶようなんですけど、
見ているとプロ野球の監督で強い人ってこれを言う人少なからずいるなって思うんですよね。
チャンスはいつまでも与え続けるみたいなことを言うんですよね。
あれおかしいと思うじゃないですか、普通に考えると。
なぜならばあるピッチャーが打たれてもまた次の当番機会を与える、
打たれても当番機会を与える、これずっとやってると監督不備になりますよね、一つには。
もう一つはそういうことをやると他のピッチャーの投げる機会は失われますよね。
だからあらゆる選手にあらゆる機会、チャンスを無限に与え続けるということはできないんですよ、構造上。
だけれども見ていると確かにこの監督って無限に与え続けてるようなファンが見てると分かるんですよ。
ファンって打たれると腹が立つんで、なんかそいつは二軍に行ったらいいんじゃないかって思ったりするんですけど簡単に。
翌日兵器で出てくるわけですよね、打たれまくったのに。
ああいうのを見ているとこの人はそういう感じってのを与える人なんだなっていうのが大人になると分かってきます。
で、全くそうじゃない監督さんもいるわけじゃないですか。
昔なんか特にそうだったんですけど、もうなんかエースカップのピッチャーでも初回5点の断られたら翌日二軍に行くみたいな。
あったんですよ、結構普通に。
で、それはファンが見てると割とスカッとするんですよ、気持ちが。
それもどうかと思うけど。
あれと似てると思うんですね。
枠があっても無限にチャンスを与えられるんだって感じられるケースと、全く逆に見えるケースってあると思うんですね。
で、それって結局こういう情報が入ったとしても、信じ続けられるような視点というのか見方というのか、どうしてもこの言い方としてはこうなるんですが、
信じるということをやり直すという感じがしてですね。
これは簡単なケースではいたって簡単なんですよね。
日本の人口は1億になりました。
あ、そうですか。すぐなるじゃないですか。
42:00
それはつまりそうであっても困らないからなんですよ。
てことは、そうであったら困るというイリュージョンがなければ、信じ直せるはずだってことになると思うんですよね。
つまり、娘がさっきの事例だと僕の場合は説明しやすいから娘にしておきますが、
娘がこうやって半日も一日も私を無視しても娘を信じるということによって、私がこう思えるデメリットはないなって思えればいいんですよ。ないんでね。
で、ないなって思えたら信じ直すのは簡単じゃないですか。
そこだと思うんですよね。
しょうこさんのケースで言えば、
お子さんの面倒をあまり見ようとしないのは良くないんですけど、
チーズ、ハンバーガーの上にチーズが乗ってないことに対して細かいことを言うというのはですね、
それで悪人認定をしてもいいと思うし、それは自由だと思うんですよね。
それでチーズを乗せるチェックリストを作るのは全くいいと思うんですよ。
私なんか本当にそうしてたんで。
それを言うにもかかわらず、そういう情報を得たけれども、
それによって自分が失われているものっていうのは、そんなにバカでかくはないと思うんですよね。
嫌だと思いますよ、絶対に。
嫌だと思うんだけど、
多分その時に私は夫が大嫌いだと思っているほどのもののダメージは本当は受けなくていいと思うんですよ。
そのことと信じ直すということは、セットになるしかないと思うんですよね。
もう一回夫にシャスを与えるという言い方でもいいですよ、この際。
その方が言い方としてはスマートだな。
同時に自分を信じ直す必要があると思うので、
ダメージを受けた場合は特に、
もう一回自分にもチャンスを与える必要があると思うんですよね。
この際、チーズをもう一回忘れてもいいと思うべきだと思うんですよね。
だからタスク管理でチェックリストというのに僕は尻込みするようになったんですね。
躊躇するというのかな。
昔はこれこそが最前回だと思っていたんですけどね。
そうじゃない気がするんですよね。
もう一回ハンバーグをそのまま出してもいい、そういう自分であってもいいという方がいい気がするんですよ。
乗っけてもいいんですよ。乗っけた方がいいのかもしれないんだけど。
どっちでもいいって思えるという、そういう風に自分を捉え直すという方がいい気がする。
45:03
その方が素に近いですからね。
つまりこういうことなんですよね。
さっきの娘の、本当に今日長いな。
娘の点で言うと、何か娘に気に入らないことを私がして、
あるいはそのように娘が思って、こいつは許しがないって思ったんだと思うんですけど、
この次は同じことが起きても多分娘は受け入れてくれるだろうと思える気がしたんですね。
分かんないですよ。何が起こったか僕よく分かんなかったからね結局。
でもきっとそれは大丈夫だろうと。
つまり、信じ直すということはそういうことであって、
自分が行動を改めてもいいんですけど、改めなくてもこの人は次は受け入れてくれる可能性があると。
同時にこのように振る舞われたとしても、自分は縁を切るということは決してせれたくしない。
こういうことですよね。
その場合、両方そのままなんですよね。
結局、悪人認定とかパワハラ認定とかをするというのは、相手に改善しろというふうに迫るわけですよね、最終的には。
もしくは自分がダメ人間だということは、結局自分が改善しなきゃならないということを自分に迫るわけですよね。
その一環としてタスク管理というのは自分の改善案の一つとして選択するんですよね。
どれも避けたいのは、その改善によって自分は少し否定される、相手を否定する。
それが良くない気がするってことですね。
だから今警告が出まして、最大60分までだからいい加減にしろみたいなことをアンカーに言われているので、
今日はこのぐらいにしますが、いつもの2倍ぐらいですが、この問題に僕は結着つけたいんですよね。
要するに信頼をアップデートするということは、変な話なんですけど、何の改善も次第ということになっちゃうんですよ。
僕はこれをかなり納得しかけているんですね。
ので、今日十分説得的に話せたとも思いませんけれども、とりあえず結論はこういうことだと思ってください。
何か傷つくようなことがあったら、関係者は基本的に改善はせずに、
48:00
ただ新しい情報を得ながら、相互にチャンスを与え合うという、それは途切れることが基本的にはないという原則を何らかの形で確認し合えるときっといいかなと思います。
以上になります。