2021-07-28 23:03

【GMV 424】いいちょうちょと悪いイモムシ

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世界をよく見なくても、悪く見ないようにする
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
暑いですよね。
8月初旬の頃って毎年一番暑いような感じは持ってるんだけど、
8月初旬に、8月7日ですね。
もう間もなくですよね、土曜日にグッドバイブス勉強会のオンラインの第7回になるんですけど、
確か意味づけを手放すだったと思います。
あと、世界の見方を変えるっていうような文言もあったと思うんですが、
まだ参加者さん、まだ枠いっぱいあるので、よろしければお願いします。
あの、見方を変えるっていうのって、そうなんですが、
例えば、惣礼と不安を手放すだって、ある意味物の見方を変えるってことですよね。
なんですが、結局これは物事をよく見ようっていう発想だってことになりやすいんですけど、
そしてそれもそうなんですが、ある見方を取るというわけじゃないような気もするんですね。
どっちかというと、ある見方をやめる、あとはもう大丈夫っていう感じがあります。
例えば、依頼かな、依頼がいいだろうか。
昨日ちょっとお話ししたんですけど、いいお母さん、悪いお母さんっていうのは、
一番悪い原始的な、原初的かな、要するに一番自分が子供の頃に一番最初にした判断の仕方だということですね。
お母さんが二人いると本当に赤ちゃんが思っているのかどうかは知りませんけど、
私たちはそういう判断の仕方をすることがあるってことですよね。
これは今現在の問題であって、赤ちゃんの頃そうであったかどうかはわからないんですよ、結局。
やっぱり例え話でしかなくて、ただその二つのものはないのに、またかも二つであるように、
こっちが振る舞っちゃうということがですね、いろんな問題を引き起こすんですよね、ややこしい問題。
人間関係が特にそうですよね。
機嫌がいい夫とかがね、機嫌がいい時は自分も優しくできるんだけど、
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一旦機嫌が悪くなったり調子が悪くなると、調子が悪くなると特にですね、
調子が悪くなるのは相手の責任ですが、多分、分かんないじゃないですか、
調子が悪くなるのはしょうがないですよね。
途端にこっちも機嫌が悪くなるというのは、そういう一番最初の頃の判断のところまで、
ある意味戻っちゃっているみたいな感じの、そういう言い方なんですよ。
もう少し、冗長的な問題ですよね、結局。
多分、自分が医者みたいな対応をするんだったら、むしろ調子の悪い人というのに慣れているわけだから、
問題ないと思うんですけど、だってお医者さんが調子のいい人だけを見るということはありえないわけですからね。
だけれども、その時もそうなんですが、情緒込みで対応するかどうかって、
人によっては結構難しいと思うんですね。
情緒、感情的にならないから冷静に対応できることってありますよね。
でも、その時の情緒というものが相手に伝わってしまうんですよね。
この辺はグッドバイブスと私、精神分析ってよく似ていることを言うなと思うんですが、
グッドバイブスではバイブスが伝わるからグッドバイブスなんですけど、
精神分析ではずっと一緒にいる相手には必ず伝わっていき、
そういうことを伝え続けている自分というものに気づこうという考え方なんですよ。
そういうふうに、昨日、自己原因みたいな話をしましたけど、
あれは自己責任という意味ではないんですよ。
結果そういうことになっちゃうところがあるんですけど、
自己責任というと、自分のお金は自分で稼ごうねみたいな、
あるいは人に頼るのはやめようねみたいな話に聞こえるんですが、
これはですね、2者以上の関係の中での自己原因なんですね。
相手が機嫌が悪くなっているのは自分のせいとかいうのですらなく、
相手が機嫌が悪く見えているのは自分の作り出しているものみたいな、
そういう感じなんですね。
だから給料をくれるときは会社がいいものに見えるけれども、
一番嫌な上司と対面しているときは会社が最悪に見えるのは当然じゃないですか。
当然なんだけど、その責任は会社にはないっていうか、
少なくともそういうふうに見える原因は100%会社の側にあるわけではないっていう感じなんですね。
それが結局物の見方を変えるのかというとそういうことになるんですが、
それはきっとある種の物の見方を捨てればいいわけですよね。
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つまりGOOD VIBESで言うならば、
その上司に対する恐れや不安というものをもし手放すことができれば、
その会社に対する見方ってガラッと変えられるというか変化しますよね。
あとは別にその会社が立派だとか、そうやって考える必要は別にないわけですよ。
一番嫌な部分に関する自分の会社が嫌だと思う判断の根拠みたいなものを捨ててしまえば、
その会社は嫌なものではなくなる。
こういうことを一つ一つやっていくのが意外と精神分析なんですよ。
明らかにGOOD VIBESでもやっぱりやるワークだと思うんです。
ワークって言うんですよ、精神分析でも。
私は別に分析をしたいから読んでいるわけじゃなく、
GOOD VIBESはしたいからやっているんだけど、
これをタスク管理的なところに今は投入しているわけですよ。
結局一日の仕事というものは外から来るわけじゃないですか。
同じところから仕事も来ればお金も来れば食べ物も来る。
すべて外から来るんですよ。
この外というものに対してどうしても私たちは二つに分けるんですよね。
これを極力やめましょうと最終的にはなるんですよ。
いい会社と悪い会社に分けてみても、
自分を苦しむだけなので会社は一個しかないわけですからね。
スパッと二つに分けてしまうということをやればやるほど、
二つのうちの悪いことの方ですよね。
自分を苦しめてくる方が世界の中に一つ登場してしまう。
これも見方なんですけど、でもそもそも世界は多分一つじゃないですか。
二つあるわけじゃない。
二つに分けるということこそ物の見方なんですよ。
だから物の見方を変えようというよりは、
自分が作り出した物の見方を一旦やめてみようということだと
言えると思うんです。
庭ひとつとってもそうですよ。
庭に出るとナスが鳴っているとか、いいお庭になるわけですよね。
でもそのナスに虫がついているとか、当然なんですよね。
防虫シートとかをガンガンやらない限り絶対そうなるわけですよ。
そうするとすごい嫌な気分になるじゃないですか。
二つに分かれるんですよね、庭が。
でもその庭を二つに分けているのは私ですよね。
ナスがあって虫が湧くのは当たり前なんですよ。
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それは庭として見れば悪意があってそうなっているわけじゃないわけですよね。
庭が良く見えたり悪く見えたりするのは私がその原因を作るわけですよね。
自分自身に対して。
良いお庭と悪いお庭。
良い収穫と悪い虫かな。
しかも虫だって分けるじゃないですか。
悪い虫、食う虫はいい虫になるんですよ。
液虫と害虫に分けるんですよ。
僕らはこれを絶え間なくやるんですよね。
しかも必ず基本は、ベースは善悪で分ける。
善悪で分ける。
これが多分私たちのうんと小さな頃に培った判断力のベースなんですよね。
これだけになっちゃった時に僕らは多分、
党御主張とかあっちの方に行ってしまう。
これだけで物事を判断する人っていないんですけれども、
これだけに近づけば近づくほど妄想的になっていく。
そういうポジションに入っていくってことですよね。
そこに入らないようにするってことは結局、
ある物の見方を選択しないようにするということであって、
別の物の見方を確立するっていうわけではない。
この二つは僕が割と違うことだと思うんです。
あえてポジティブに物を見る見方を採用するってわけじゃなくて、
私たちがハマった時、結果一番自分を苦しめることになる物の見方を採用しない習慣をつける。
ということがグッドワイプスなんだと思うんです。
そうし続けていれば、多分その人のワイプスはグッドになるってことだと思うんです。
良いお庭と悪いお庭でも、良い会社と悪い会社でも、
良い依頼と悪い依頼でも、良いメールと悪いメールでもいいんですけど、
どうしてこの視点だけをとっていくとそんなに苦しいことになるかというと、
悪者がですね、どんどんどんどん現実の中で、
暗躍というんですかね、する感じにそういう世界に少しずつシフトしていくことになるからだと思うんですね。
これはなかなか恐ろしいことなんですよ。
妄想の話ってそうなんですよね。
妄想を見る人々みたいな本もあるんですが、
妄想なんだから、昨日も一昨日も、
良い妄想だけ見てれば良さそうなんじゃないですか。
イリュージョンといったって、良いイリュージョンもあるわけですよ、色々と。
そもそも良いお母さんって一つの幻想ですよね。
なぜ妄想性というものが、本人がそんなに苦しいかというと、
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悪い妄想だけになってしまいがちだから、
ないしは悪い妄想だけになってしまいがちだから、
悪い妄想こそが問題、その人の世界にとっては重大な存在になりがちだからですね。
簡単に言うとメールが全部クレームメールになっちゃうような悪夢ですよね、ある種の人にしてみれば。
そういうことが起こってくるから。
なんでなのかというと、
やっぱり私たちはそれでもどんな状態になっても生きていくことはできない。
死ぬことより良いという感覚を生きている生き物である以上持つからなんでしょうね。
つまり悪と死っていうのはリンクしてくるんで、
死にたくなければ悪を避けるわけですね。
一旦全部悪で分けたので、
悪の方が主要メンバーというか最初に認識する存在になっていく。
虫は増えると。
虫だらけになると。
対策を打っても対策を打っても根絶はできない。
根絶って言葉がすでに危険なものを感じますけれど。
最近なんだっけなぁ、
最近はね、
ヘイトクライムかなんかのテレビを見たんですよね。
あれは大変問題だと思うんですけれども、
で、例えば、
死ぬとか殺せという言葉を使うと
法的にっていう話があって、
でもかなり危険なものを感じるんですよね。
死ぬとか殺せという言葉を使うと
法的にっていう話があって、
でも簡単な話ではないっていうことがあったんですけど。
で、最後にこの
ヘイトみたいなものを根絶しなければならないって言葉が出てきたとき、
根絶はいいんだろうかって思うんですよね。
つまり、この種のことって何が難しいって
言葉そのものが危険だってことになってくると、
その言葉が使われている文脈の問題になってくるはずで、
善悪の問題から離れちゃうと思うんですよね。
もともと善悪っていうのはそういうものだから、
私面白い、
直点ではちょっとあれなんですけど、
一つの法的な考えさせるお話みたいなのがあったんですけど、
死ぬとか殺人的なっていう言葉を使った
どうでもいいような文章を提示されているんですよ。
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寒い冬の話かな、殺人的な風がとかって、
そういう英語の表現なんですよね。
こう、切りつけるように冷たいとか、
そういう感じなんですけど、要するに寒いって言ってるだけなんですね。
一方で、そういう言葉を一切使わない、
とっても危険な文章っていうのを読まされるんですよ。
アメリカの授業か何かだったりと思うんですよね。
あなたの身の回りを清潔にしなさい。
これからお花畑のある素敵なところに連れて行ってくれます。
っていう、そういう表現を。
この手紙を書いた人が中年のおじいさんで、
出された人が未成年の少女だったとするというシチュエーションなんですよ。
要するに、怖さというものを決めてるのは単語じゃないっていう話をしてるんです。
これは言葉狩りに対する一つの継承みたいなもんだと思うんですけど、
僕らのイリュージョンっていうのは、言葉そのものとかじゃないと思うし、
しかもそのものでもないと思うんですね。
例えば、私、小さい頃は小金虫集めるの結構好きだったんですよ。
嫌な人がいたら申し訳ないんですけど、あれは嫌な虫ではないと思って、
結構小金虫集めるの好きだったんですよ。
小金虫、目の色変えておってたんですけど、今はめっちゃ嫌な虫なんですよ。
ナスの葉っぱに穴開けますからね、あれは。
つまり、そういうことって起きてくるんですよ。
アゲハチョウもそうですよね。アゲハチョウも綺麗じゃないですか。
好きな人いっぱいいますが、パセリとか一株、一晩で2匹あるんですよ。
パセリとかも一晩で2匹アゲハチョウの幼虫いたら、全部坊主になりますよね。
だからアゲハチョウ対策とかってめちゃくちゃ頑張るんですよ。
庭とか始めると善悪変わるんだけど、ただ善悪で分けちゃうということはやめられないんですよね。
やっぱり庭に結構すごい時があるんですよ。アゲハチョウだらけがワーッと来るんですよね。
すごい良い光景かもしれないですよ、人によっては。
僕からすると悪夢感があるんですよ。こいつらっていう感じなわけですよね。
結局、そういう光景にイリュージョンを見るわけじゃないですか。
僕の目にはマガマガしい感じって出ちゃうんですよね。
アゲハチョウが十数匹ぐらいワーッと来ると、食いつくされていく感じ。
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毒々しいぐらいな感じなんですよ、一本は違うと。
カラス、アゲハとか結構真っ黒くて、この辺がでかいんですごいんですよ。
顔とかするような感じなんでね。
結局、これもそうなんですけど。
良いチョウチョは悪いチョウチョに。
チョウチョというか、もう大概の人の視点とは逆だと思うんですけど、
僕なんかはクモはありがたいんで、チョウチョとクモなら万全にクモの方がよく見えちゃうんですよ。
そういうものなんですよ、これは。
そういうので、つまりコンテクストが決めてますよね。
さっきのお花畑に連れてってくれるという話と同じで、
お花畑に連れてってくれるという言葉そのものの意味ではなくて、
そんなものはなくて、そこに善悪もなくて、どういう状況で使われているかということですよ。
チョウチョだってそうで、昆虫採取をしている少年が見ているのか、
庭の手入れをしているおっさんが見ているのかで、見ているものを与える印象は全く違う。
これ、物の見方を変えようと僕はして庭しているわけじゃないんですよ。
チョウチョを嫌な虫だと思うために、こうやって庭の世話をしているわけではないんです。
物の見方が変わるんですよね。
その時は特に恐れと不安を手放す。
つまり、チョウチョに対する恐れと不安を手放すんです。
この言葉を聞いていると変な感じがするじゃないですか。
チョウチョに対する恐れと不安ってなんだよ、強いですよ。
結構、庭を初心者がやっていると、初中級者ぐらいなのかな、そういうことに気づき出してますからね。
そういうインパクトを持ったものに対して恐れと不安を抱いてしまうと妄想が自然と上がってくるんですよ。
庭が芋虫だらけになっていくという、そのイメージをするのはすっごい簡単ですよ。
こういう心境になってしまえば。
こんなことすらこんなに簡単にイリュージョンで強化されていくんだから、
会社の悪い面とかをまがまがしいイリュージョンで強化するのは実に容易にできると思うんですよね。
それが間違いなく本人の人生を一つ苦しくさせますよね。
僕だってもう庭やってらんないみたいな感じで、
一つやっぱり悪くなりますので、まず庭に出る前に虫のイメージが湧くみたいな。
それを見てからやっぱり対応すればいいし、所詮蝶々ですからね。
で、食われたって所詮パセリじゃないですか。
つまりこういうのってのは大きくしちゃいけないんですよ。
メールボックスを悪いメールといいメールにして、そして僕らは悪いメールに注目しちゃうんですよ。
まずは蝶々に注目しますよね。
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収穫物にまず注目するよりも。
そうなりやすいんですよ。
そういうのが大事なんですよ。
こうやっていればやっぱり苦しくなっていくんですよね。
これを一個一個取り除いていきましょうという、多分ワークがあるかもしれないですけど、
一つのメールを取り除いていくというのは、
一つのメールを取り除いていくというのは、
一つのメールを取り除いていくというのは、
やっぱり苦しくなっていくんですよね。
これを一個一個取り除いていきましょうという、多分ワークになっていくのかなと思うんです。
これを一個一個取り除いていくということが、
タスク管理とかでも重要な意味を持つ逆になってしまいがちじゃないですか。
やりにくいタスクのことをまず意識する。
リストがあっても、やりやすいのから手をつけて、やりにくいの後に回すって結構自然ですよね。
でも、なぜ良い依頼、悪い依頼で分けるのかと。
そういうものなんだと思うんだったら、今の蝶々の話が私だったら思い出すんですよ。
良く見えるシチュエーションと悪く見えるシチュエーションと、
自分自身が両方経験しているわけですよね。
子供の時はあれが良くしか見えなかったんですよ。
今では悪くしか見えなくなる。
同じものなんですよ。
同じものが二つに割れたということは、僕が二つに割れているんですよね。間違いなく。
僕が二つに割っているんですよ。
これをやめないと、何かで苦しむ原因が一個一個人生の中で染みみたいにして広がっていく。
この染みが一定以上に広がってしまうと、不幸ということを言い出すんだと思うんです。
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