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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日はですね、休む予定は全然なかったんですけど、
家族の用事ってやつで、いきなり取るべき時間がなかったんですね。
なかったっていうのが、いかにもこういう場合、適切な感じで、
あるはずの時計がないみたいな、机の上にあったはずのものがないみたいな、
そんな感じで、時間がこう消えていて、
気がつけばもうお昼を回っていて、
そっからもうお昼食べてミーティングして、
気がついたらもう夜なわけですよ。
夜でも撮ろうみたいに思ってたんですけど、夜すら撮れない。
ちなみに昨日夜にCSでロッテ戦やってましたからね。
そういうようなことがもろもろあり、結局できずじまりでした。
思いっきりできずじまり。
今週の土曜日にオンライン合宿があります。
コミトレというのをやります。
昨日こそ薄っ飛ばしましたけど、今週毎回のように言っているので、
よろしければぜひということです。
ついでについてじゃないんだけど、
YouTubeでぶっちゃけ相談というのをやっていて、
困ったことがあったら投げていただくとですね、
あとは私の聞いていて納得がいかないとか、
私の最近出た本を読んで納得がいかないとか、
そういうことでもいいと思います。
倉園さんの本で納得がいかないということでもいいと思います。
その辺何でも結局いいので、
よろしければお寄せいただけると、
結構もうやばい感じというか、
お悩みのストックが底を突きそうになりつつあるので、
無理やり悩みをひねり出していただくというのも変なんですけれども、
何かあったらその時忘れなければ、
寄せていただけるとありがたいです。
こうやってCMしてるじゃないですか。
昨日面白い話が出たんですけど、
CMは罪かというと全然意味が分かりにくくなるんですよ。
CMが罪悪かどうかということではないんですね。
CMが罪悪という気持ちになったその気持ちをどうできるかって話だと思うんですね。
ぶっちゃけ相談にもあったんですよ。
アフィリエイトを少しでもしてる人を見ると、
今までどんなにリスペクトしていた人でも許せなくなると。
これは僕は一種のヒステリーで表現できると思うんですけど、
理想化と脱価値化ってやつでね、
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素晴らしいと思っていたものが最悪のものになるという、
そこにはすごく強い罪悪感というものが働いてると思うんですけどね。
これはまずですね、私最近これをいじめの文脈で思い出したんですけども、
構成世界仮説っていう精神分析の用語ではなくて、
社会心理学の用語にあるんですね。
なかなかエグいというか嫌な話なんですが、
心理実験で、心理っていうのは実験が付きものなんですが、
拷問されている人を見せると、その拷問がひどければひどいほど、
拷問されている人のことが嫌いになっていくという実験結果があるんですね。
これは私は非常によくうまく作った実験セットだと思うんですが、
これはですね、かなりの人に作用する傾向だと思います。
無自覚の人だと相当なものになるはずです。
なんでかというと、これは簡単でして、
人は罰を受けるということは罪を犯しているという、
これはウッドバイブスでもおなじみの罪と罰はセットであるというやつですね。
だから本当は逆なんですが、
罪と罰がセットであるというときには、
ここに因果率があると人は非常に簡単に、
そしてすごくイリュージョンなんですけどね、
100%イリュージョンなんですが、
何が100%イリュージョンかというと、
逆であっても構わないところが100%イリュージョンなんですよ。
完全にそれはニュートンの万有引力の法則レベルになっちゃっていて、
罪を犯した者は必ず罰せられるぐらいになっているんですよ。
そんなことはこの世の中では成り立っていないのは、
誰もが知っていると僕は思うんですけど、
ここが非常に堅くねな人っていっぱいいて、
かなり頭がいい人でもここから全然抜け出せないんですね。
フロイトがエディプスコンプレックスは、
人間の心の法則だというぐらいに言い切っている感じなのは、
ここに大きなポイントがあるんですよ。
フロイトは公正世界仮説などとは言わなかったんですけど、
ここから当然の起結として公正世界仮説は成り立っちゃうんですね。
つまり、罰せられるということは罪を犯したんだと。
ひどく拷問されている人を見て、
こいつは悪人だというふうに考えるのは非常に間違っているわけなんですが、
私たちの心にはそういう傾向が多分かなり強くあって、
この人がひどい目にあっているということは悪いことをしたんであると。
陰が横行なわけですよ。
フロイトはやっぱり仏教は意識していたと思うんですよ。
陰が横行というんだから、これはエリプスがあるのは100%間違いないですよね。
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悪いことをするということは悪い罰が待っていると。
ちなみに誰が罰するのかというとお父さんですよ。
だから楽園を追放されるわけですね。
こういう物語がほとんど全宗教にあります。
久しぶりに言いますけど、私は家がお寺でした。
宗教の話はやたらと自動的に聞かされるので、
世界中の宗教にこれがあるというのは結構小さい頃から知ることになるわけですよ。
陰が横行なわけですね。
陰が横行などというのは原則中の原則みたいな、
それこそフロイトのエリプスコンプレックスと同じで、
寺にいるということは陰が横行みたいなものがこの世に充満していることになるわけですね。
陰が横行が万有陰力並みに偉いわけですよ。
子供の頃にも全然釈然としないんですけれどもね。
足とかを角とかにぶつけるじゃないですか。
それは何かしらの罰が当たったんだって言われるんですよ。
親とか来ている信者さんとか、たまたまその時に来ていた坊さんとかに言われるんですよ。
だから絶対に陰我律になっちゃうんですね、そこが。
だけれども、こんなことをずっと言われている方がですね、
私の感覚ではこういうものに対して怪異的になる気がするんですが、
とにかくそういうものを私たちは非常に簡単に信じやすい、
それをかなり鮮やかに社会心理学者が明らかにしたのがこの拷問実験だったんだと思います。
拷問はもちろん桜で本当に拷問されているわけじゃないけど、
そういう人たちは上手いんで、見ている人はみんな信じますよ、
そしてそもそもなぜ見ているんだって話ありますが、
見ている人は拷問されている人が拷問がひどければひどいほど嫌いになっていくと。
こうやっていじめてエスカレートするわけですよね。
いじめられている人はよっぽど悪い子供だったんだってみんな思うわけですよ、
いじめている人がね、なぜならこんなにいじめられているんだからっていうわけじゃないですか。
これが構成世界仮説の大きな問題ですよね。
私たちの世界は構成にできているという仮説をみんなが持っているので、
ひどい目にあうということは悪事を働いたと。
ひどい目に合わせている子供なので、この構成世界仮説がすごく未熟に働くわけですよね。
その辺のことは教室に広場を書いている人が詳しく書いていますけれども、
要するに名前忘れたので、著者名すっとばしますが、教室に広場なんですよ。
つまり、こういうものを未熟のまま放置していく限り、
いじめというのはどうやったってなくすことは難しいという話を彼は書いていて、
そうじゃなくて、未熟でも模擬でもミニでもいいから裁判形式を取るべきなんだという考え方なんですね。
あれはすごいラディカルで面白いと思うんですけど、
取られているという話は一向に聞いたことがないんですね。
要はいじめというのはエスカレートせざるを得ないところがあって、
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なぜならいじめている子たちはみんないじめられている子を見て、
ひどい目に遭えば遭うほどその子が嫌いになっていくと、
しかもその子は悪い子だって思うようになるわけですよ。
未熟ながらもそこには法意識があるので、ひどい目に遭うということは悪いことをしていると。
これは非常に手前勝手な理屈で全然理屈になっていないようなんですけれども、
僕らは大人になっても何らかわらず平気でこれをやるんですよね。
つまり、後世世界仮説のすごいところというのは、
これが因果律になっちゃっているところなんです。
罪を犯した以上絶対罰が下るはずだというマストな確信が病ませていくわけですよ、人を。
いじめもそうですし、先日なぜこのいじめの話が頭をよぎったのは、
クローズアップ現代で取り上げられていたんですよね、ひどいいじめの話。
私はその後世世界仮説というのをたまたまその時脳内によぎったので、
この黒原の作りというものがまさにそういうものなんだという感じを抱いたんですよ。
当然なんですけれどもね、そもそもこれはいじめを告発するためのドキュメンタリーなので。
でもいじめを告発するということはですね、何をそもそも告発するのかと。
いじめた子供たちを告発しているのかというと、なかなか番組でそうはできないじゃないですか、はっきり言って。
やっぱり何が悪いのか、一番悪いのは大人社会だという話にするしかないわけですよね。
でも大人社会だと言っただけでは何も救われた感じがしないので、
もう少し具体的に攻撃対象をはっきりさせたい。
攻撃対象といってもさすがにテレビ局が攻撃するというのもあれなので、
視聴者が攻撃したい気持ちに持っていくという形を取るしかないと思うんですよね。
というか取るしかないわけじゃないけど、取るんですよ結局、ああいう話になってくれば。
その時に僕らの何が刺激されているかというと、公正世界仮説なんですね、やっぱり。
こういうひどいことが起こっていますということは、ひどいやつがいるんですよ。
順番が一点理にかなっているようで必ず逆になっているんですね。
だって私たちはひどいことをやっている光景そのものを目にすることは不可能なので、
必ず過去に遡らなければいけないわけです。
ひどいことが起きたということは抜しなければいけない。
ということは罪を犯したやつがいるというこの流れに持ち込むしかないんですよね。
その罪を犯したのがいじめっ子に決まっているんだけど、
番組の構成上そういうふうに言うわけにもいかないので、
罪を犯したのは大人社会だとこういう話をするんだけど、
そうするとなんかこううっすらとした感じになっちゃうので、
罪を犯したのは学校の関係者だってここに持っていきますよね。
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これしか多分ないと思うんです。
あとは教育委員会とかね、これも絶対入れてくるんですよ。
いかに教育委員会がダメで怠慢かって話をずっとこうすることになるわけです。
そうなのかもしれないんですよね。
大事なのは僕らがその時に公正世界仮説を使っているということなんです。
罰されなければいけないということは、
ひどい罪があったはずだっていうここにあるんですよ。
その人たちのことを私たち、その教育委員会の人たち、
一人も知らない可能性が高いじゃないですか。
これ聞いている私もそうですが一人も知らないわけですよ。
でもそれがどれほどひどくて悪くて、
怠惰で無能で悪人であるかというのを
あれほど音楽付きで展開させられていくと、
すごいそういう感じがしてくるんですよね。
顔も見えるような気が、
僕はイメージ能力低いんで顔は見えるような気がしないんだけど、
でもやっぱり顔も見えるような気がだんだんしてくると。
実はこれは拷問でひどい目にあっている人を見ると、
そいつが嫌いになるというのとほぼほぼ同じなんですよ。
僕の感じでは。
そういうふうに番組を見るとですね、
いかにこの番組がそこを叩き、
視聴者にそこを叩かせようという方向に流しているかというのを
感じさせられるんですよ。
強圧というものを感じるといっても、
いいぐらい。
これは別に、
教育委員会がいいとかいう話ではないですよ。
多分この流れというのは、
私たちのいろんな意味では、
いじめを減らすという方向と逆を向いているような気がするというだけなんです。
要するに、いじめというのがある種の罰であると考えるならば、
この種のドキュメンタリーは、
ある種の罰であると考えるしかないと思うんですね。
罰ということは罪があって、
あとは罪に比例して罰はあるというふうに、
私たちが勝手に仮説を立てているので、
世界は公正であるという仮説を立てているので、
私たちが罰しなくても、
いずれ強烈な罰が下らなければならないと思っているから、
あれを見て腹を立てるはずなんですよね。
腹を立てるという方向に番組は作られている。
それは、僕が思うにこの怒りというのは、
なぜかいじめっ子たちが持っていた怒りと、
よく似たものに違いないと思うんですよね。
罰が足りないというきっと怒りなんだろうと、
罪というものが見落とされているという怒りなんだろうと、
それによってひどいことが起こった、
事実はこれだけですよね。
ひどいことが起こったというだけなんですよ。
そこに罰があるべきだとか、
罪があったというのはまだ確定していないと思うんですけれども、
私たちはそれを確定させたくて仕方がなくなるんですよね。
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それがそういう行動につながるんだと思うんです。
これに比べると日々起きていることは薄いんですけれども、
ただ常にこの順番は逆になっているんですよね。
常にこの順番は逆になっているというところが要注目だと思うんですよ。
宗教って全部基本そうなんですよ。
私たちが罪を犯しました、
したがって罰がきますという順番には絶対になっていないんですよね。
だってなぜかというとですね、
罪って絶対過去のものなので、
どうしても遡るしかないわけじゃないですか。
それがドキュメンタリーのように一見見えても、
リアルタイム進行のわけがないんですよね。
リアルタイムでそれを取れるわけがないから、
とりあえずその出来事は過去に起きたことなはずなんですよ。
ということは罰を先に見るという形を取るしかないので、
後世世界仮説ってすごく変なんですよ。
一見したところすごく理にかなっているって我々は思うような
死に状態が作られているんですけれども、
拷問されている人を見て、
こいつはひどい悪人だって思うのって、
明らかに順番が逆転しているんですけど、
この順番は違う。
多分目撃することは本当はできないんですよね。
アジャセ王子のお話もそうですし、
エディプス王子もそうですよね。
彼はお母さんと相関しちゃって、
だからお父さんと喧嘩になって殺し合うためになるわけですよ。
という罪を我々は犯しているから、
楽園から追放されたんですよ。
これはリンゴを食べたから楽園から追放された話と
全く同じような話ですよね。
必ずそれは太古の昔にあったことになっているじゃないですか。
いつだかさっぱり分からないぐらいのお昔に、
人類の最初とか、とにかく古代の話なんですよね。
なんでそうなるかというと、
私たちはすでに罰を受けちゃっているわけだから、
罰というのは楽園から追放されてしまっていて、
多分なんですけど、私たちみんな、
ここがソロイトの発見でしょうけれども、
私たちみんな罪の意識を持っていると、
欲打つポジションと言っているわけですからね。
結局、母子が一体だったこの番組でいうと、
この母と子がユニット、ワンユニットであった幸せな時代から、
なぜかすでに切り離されていて、
しかも罪の意識まで持っていて、
いつ罰されるかという漠然とした不安というのに、
もののいているわけですよ。
なんでこうなったということを考えたときに、
過去にさかのぼるしかなくて、
しかも全人類がそうなっているとすると、
全人類が罪を犯したことにするしかなくて、
この物語を宗教は全部提供してくれるわけですよね。
昔、アジア製王子は悪いことをしたからこういうことになったとか、
昔、アダムがリンゴを食ったからこういうことになったとか、
昔、プロメテウスがジュピターから火を盗んだからこういうことになったとか、
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何でもいいんですが、とにかくあるわけですよ。
あと、箱を開けたからこんなことになったとか、
あれはパンドラの墓ですね。
とにかくあるわけですね。
そういう、かつて罪を犯しましたと、
そしてお父さんがすごい怒りましたと、
この罪が私たちの不安を作っているんですという物語を作ったわけですよね。
私たちはその物語はもう信じていないので、
信じていないのでカワイハイオさんが怖いことを言っているんですよ。
つまり、こういうことはもう私たちは信じていなくて、
そこで仏教は少し先へ進んで、
生きている間に罰が下ることはないんだけど、
死んだ後に地獄に落ちるという大きな罰が下るわけですよ。
これが釈迦の思想が地獄を作り出しやすいという、
それを書いたのが梅原たけしさんだったと思うんですけどね。
うちにある本だったんで、私が読んだのは小学生の頃だと思うんで、
もう定かでないんで、
たぶんでもこういうことを言っている人はいっぱいいるような気がします。
要するに地獄を作るんですよね。
つまり、どう見ても生きている間には結構罪をいっぱい犯しているわりに、
ちっとも罰されずに住んでいる人とかがいるので、
戦国武将とかね、結構人を殺しまくっているけど、
いい目を見ているように見える人もいるので、
そうか、現世では完結しないので、
この罪と罰は来世で完結するというふうに、
この罪と罰は来世で完結するという話になりました。
ということになったんですね。
でも、これすら我々はもう信じていないじゃないですか。
死んだ後に地獄人が待っていますということは、
たぶん半数以上の人はどうだろうな、
でも半数くらいの人は信じていないと思うんですよね。
残るは現世に地獄を作るしかないんですよ。
ということを河合俳優さんが言っていたんですね。
現世に地獄を作り出す、強制収容所とか、ああいうところですね。
ああいうところを用意して、とにかく罰する装置というものを作るわけですね。
だって、罪を犯せば必ず罰が来るというのは人は信じなくなり、
罪を犯したら地獄に行くというのも信じなくなったので、
残るは、特にそうなんですけれども、
来世を信じない思想になった時は、
現世に地獄を作るという形になりやすいんですよね。
非常に不思議な感じがするんだけれども、
労働系の党、例えばスターリンとか、
そういう人たちにとっては、これしか方法が多分ないわけですよね。
死後について脅してもどうしようもないので、
現世で脅すと、現世であそこに行きたくなければ罪を犯すのをやめろという、
何かしらこれに頼ろうとするわけですよね。
でも、これはいつもそうなんですけれども、
罰が先に来るんですよ。
罪は後から確定するんですね。
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なぜならば、罪を犯したところは誰も見たことがないので、
必ずこの形というのは、過去に遡って検討していくより他はないわけです。
日本だけはちょっと独特で、アジャセとかエディプスとか、
プロメテウスとか、アダムとイブはわかりやすいんですよ。
全部怒っているのはお父さんなんですよね。
罰しているのはお父さんなんですよ、あれは。
どう見たってお父さんじゃないですか。
なんか超偉そうででかいけど、あれはもうお父さんそのものですよね。
なんですが、日本だけはちょっと変わってて、
ここでお母さんがなぜか罰する役にも登場しちゃうんですよ。
これが日本的だなとよく思うんですけれども、
しかも非常に不思議なんですが、鶴の恩返しになっちゃうんですよね。
見るということによって罰されるんですね。
これも見るなんで、しかも覗き見るときているんで、
完全に性的な話が絡んでいると思うんですけど、
楽園水宝の物語に違いはないと思うんですね。
リンゴ食べるとか、火を盗むとかわかりやすいんですけれども、
それに比べると覗き見るというのはある意味生々しく、ある意味わかりにくいんですが、
結局お母さんとお父さんの何かを覗き見るとか、
あるいはお母さんの様子を覗き見るとかいうことに気づいてしまったとき、
つまり年頃になったと言っているんですよね。
そうするとお母さんが唐突にですね、
今まで優しかったはずのようにめちゃくちゃ怖くなり、罰しに来るわけですよね。
これ、古事記にもありますよね。
ほぼ同じような話が。
だけれどもここが不思議だなと思うのが、
どこにもお父さんが出てこないんですよね。
この時罰するのはなぜか決まってお母さんということに日本ではなっているらしい。
同じ形なんだけどちょっと違和感がある。
だけれども、いずれにしても鶴の恩返しがそうでしたけれども、
覗くまでは楽園だったわけじゃないですか。
羽ひたすら折って、何もしなくても食えるようになったんですよね。
覗いてしまったために楽園から、なぜか老人が取り残されるんだけど、
追放されてしまうわけですよね。
つまり我々は漠然とした不安を抱えているわけです。
罪をかつて犯したという、なぜか意識を持っていて、
その罰がいつ来るかわかったもんじゃないから、
いつも恐れているわけですが、
そうなった理由というものを、よくわからん物語で教えられるわけですよね。
楽園を追放されたという、かつてそういうことがあったので、
みんな罪の意識におののくのはしょうがないんですということになっているわけです。
全然しょうがなくないような話なんだけど、
でも我々がそういう後世世界仮説を使って生きているのは確かなことなので、
この物語を信じることは多分ないと思うんですけれども、
結局信じなかったとしても、
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漠然とした不安が消えないわけですよ。
一番最近でわかりやすいのは、
儲けすぎた奴は必ず罰が下る。
みんな思っているじゃないですか。
金を儲けた奴は罰が下ると。
だから、用心深い人はこっそりと儲けてますよね。
こっそりと、人目になるべくつかないところで、
オンラインサロンとかを、これもなるべくこっそりやって、
人にもよるんですけどね。
この漠然とした不安が強いか弱いかによって、
おっぴらにやるか、ある程度こっそりやるかは、
違いが出るんですけども、
私はこっそりやっても、おっぴらにやっても、
基本は全く変わらないと思うんですよ。
これは、よっぽど混同しない限り、
罰がリアルに下るかどうかは重要じゃないと思うんですね。
これはあくまでも意識の内階に起こっている話であって、
だから、そこがフロイトナス王国を逆転させたところなんです。
ある程度、我々はそれまで丸々ではないにしても、
外界で起きたことだと思っていたわけですよね。
神様は本当に外在していて、本当に罰を下す。
それ、外側から来ますが、
明らかに1900年ともなってくると、
この罪と罰の話は、ほぼ内側からの話になっているわけです。
私たちの心の中で起きていることであって、
外から罰が降ってくるわけではないという意識になっても、
なお、これに囚われていると。
そうした時には、こっそりやっていて、
みんなに見つかっていないというのは、
理由にならないんじゃなくて、意味がないんだと思うんですね。
こっそりやっている悪事であっても、
罰するのは結局自分の心なので、
恐れを罵いているというのはことに変わりはないと思うんですよ。
漠然とした不安が外にバレているせいであろうと、
内側だけで完結していったとしても、
結局同じような心理状態というものがそこに出現していて、
必ず同じ事態が起きているわけですよね。
まず先に、罪とそれに対する罰があり、
過去に何をしたかというのは、後で決まってくるという。
なぜならば、罪って常に過去のものなので、
結局は後世世界仮説に閉じ込められることになると思うんです。
必ず自分がひどい目にあっていると、
人ってそういうふうになぜか考えますよね。
自分がお腹が痛いと、
昨日何か悪いものを食べただろうかとか、
自分の最近の体型が気に入らないと、
最近食べ過ぎるという罪を犯したとか、
そういう発想になりますよね。
必ずと言っていいぐらい、
最初に現れているのは既に罰であって、
後ろに戻っていき、
それについての不安というものを抱え込むことになると、
そういう形になっちゃっていると思うんですよ。
27:00
常に本末転倒なんですよね、この話。
だからイリュージョンなんだと思っていいはずなんですけれども、
だってこの因果率が本当に絶対に未来予測に確実に役立つのならば、
この観点でだけものを見るというのはおかしいと思うんですよ。
人のでも全く同じじゃないですか。
あいつは最近オンラインサロンのCMばかりしている。
いずれ天罰が下ろうだろうって思うんだけれども、
結局のところそれは既に罪は確定してますよね、見た瞬間に。
で、その人がまだひどい目に遭っていないのは、
公正でないから、いずれ公正な世界がやってくるっていうのは、
結局のところ必ずそのひどい目に遭うというのは、
先に来ちゃうことになってます。
自分の場合はもうすっごいわかりやすいんで、
常にひどい目に遭うんですよ。
で、常にひどい目に遭うんだけれども、
その原因は必ず過去を探って、
昨日食べた柿だみたいな、そういう結論に達するんですよね。
この結論の持ってき方ってすっごいめちゃくちゃなんですけど、
なぜならその日お腹が痛くなければ、
柿食べたことは罪じゃなくなるわけですからね。
すごくいい加減なんですが、
必ずこのパターンを乗るような気がします。
予期不安に恐れるというふうに考えてるつもりなんですけども、
実は過去をひたすら探りまくっているに過ぎなくて、
それっぽいものを見つけ出したりすれば、
自分はそれで十分納得できるという、
不思議なパターンなんですよ。
一番それを露骨な形で示したのは、
拷問されている人を見ると、
その人が嫌いになるというアレなんですね。
つまり、僕が思うに、
実は罰は絶対に下ったことがないんだな、
というのがまず一つなんです。
時間があまりないので、
はしょって多分申し訳ないんですけど、
そのうちまた調べると思います。
罰は絶対に下らないんだと思うんですよ。
つまり、ある意味では罪だけがあるんですよ。
罰が下るということは、
罪と罰が本当に確実にセットならば、
そこで不安は消えなければなりません。
だって罰が下ったんだから。
あの楽園追放の物語でもそうですけれども、
不安が残っているということは、
またさらに罰が来るんじゃないだろうかと思うということは、
つまり、生産されていない罪があるという意識があるわけですよね。
今の時代の人たちは、
犯罪とかじゃないので、
多分失敗なんだと思います。
この罪に相当するのは。
失敗は罪であると、
無知は罪であるというのとよく似てますよね。
迂闊に生きているのは罪であると、
そういうような考え方ですよ。
全部これは楽園追放的なんですよ。
気づかないお前が悪いってやつなんですよね。
でもそういうふうに言うってことは、
その人は間違いなく、
罪の意識で不安を持っているわけですよ。
つまりそれは、
まだ罰が来ていないって意味ですよね。
ということはですね、
ひどい目にあっているのに、
罪を探しに行ったわけですよね。
30:00
お腹が痛くなった、
これは罰だから、
ちょっと何を食べたのかという罪を
探しに行こうなんだけれども、
そうやって一個一個検討したり、
精算したりしている割には、
依然としてでっかい、
漠然とした不安みたいなのを
抱え込んでいるということは、
実は罰って来ないんだなってことなんですよね。
永遠に先送りされている感じがあるわけです。
死後の罰というのを、
人間の頭が地獄という形で作り出したのは、
いかにも分かりやすいことで、
たぶんでっかい罰が
ないので、
でもずっと不安を抱えているので、
罪だけが実はあるんだと思うんです。
この罪だけがあるというからくりが、
非常に人に罪を投げるという理由、
理由付けというのかな、
からくりになっていると思うんですね。
罰を与えられるんじゃないですか。
というか、罰を与えられたところから始まりますよね。
その後、罪に気づくんで。
腹板が一番いい例だと思うんですけど、
全部そういう形を取っていると思うんですよ。
そういうことを考えてみると、
誰かに何かを言われたと。
それは罰なんですけれども、
という罰をくらったというふうに、
すぐ感受しちゃう人は誰もいないと思うんですよ。
腹立てますよね。
必ず腹を立てると思う。
ということは、過去の罪を探しに行くんだけれども、
適切なのがたぶんすぐに見つからないんですよね。
すげえ怒鳴られると。
間違いなく自分が悪いんだけれども、
つまり罪がそこにあるというふうに考えてしまうんだけれども、
この怒りとマッチしていないというふうに考えるんですよね。
そうすると、常に僕たちがやることはですね、
嫌な目にあったのは、
怒鳴った人のせいであるというふうに考えると思うんですよ。
多責って話じゃないですよ、これは。
他人に罪をなすりつけるという話とは、
僕はちょっと違うと思うんです。
イコールで結んでしまってもいいですけれども、
たぶん多責とイコールじゃないだろうなと。
これは結局、罰というものに心の底から納得することはありえないということだと思うんですね。
だから必ず罪というものの投げ合いにならざるを得なくて、
投げ合っているということは、ずっと罪はどこかにあるということですよね。
浮遊し続けるわけです。
罰が来て、それによって納得できて完結してしまえば、
不安がなくなってしまうので、そして罪も消えちゃうと思うので、
その後の苦しみってないはずなんですよね。
でもそうはならないですよね。
怒られたということによってその後の苦しみがなくなるなんてことは決してなくて、
怒られたということによって苦しみがむしろ増しますよね。
それまでなかった苦しみが追加されたりもしますよね。
相手に対して腹を立てるということが必ず起こると思うんですよ。
ということは、全然生産されてないってことですよね。
生産されてないってことですよね。
この状態が永遠に続くということは、
実は罰というものが罰としてのみ認識されたり、
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確信されたりすることは、たぶん決してないんだなというふうに思うんです。
私、これ妻とのやりとりを考えていてよくわかるんですよ。
いつもお互い理不尽だと思うんですね、喧嘩したときは。
相手が間違いなく悪いように感じられる。
はっきり言って、人に対してはそうは言わないけれども、
結局内心で思っていることはそういうことです。
決して自分が罰された以上っていうふうには絶対思うことができないんですよ。
ってことは、それは罰だとみなされてないということなんですね。
原因を作ったのは自分であり、しかもそれが罪だと誰かが相手が言っているにもかかわらず、
自分が罰されたということには納得がいかないということは、
実際にそこにあるのは単なる構成世界、仮説であって、
実体というものがないと自分でも思っているわけですよ。
だから全体的にイリュージョンなんですけれども、
全部が明らかに誤解と錯覚の産物なんですけれども、
特にやっぱり僕が一番おかしいと思うのは、
罰が先に来ちゃっていて、しかもそれは罰とみなしていないんですよ。
実はそこから始まっているんだと僕は思うんですね。
楽園追放から始まったんじゃなくて。
必ず何もなかったところに罰がやってきたんだけれども、
これを必ず罰じゃないものだとみなすんですよ。
あとはもうその人の罪の意識みたいなものの強さですよね。
こういうことに敏感かどうかです。
単なる腹痛なのか、これは悪いものを食べた、
あるいは何かの食べ過ぎによる罰だと考えやすいのかによって、
つまり罪の意識があるとか罪悪感を持ちやすいというのは、
正確に言うと多分、罪悪感を刺激されやすいんですね。
その人は多分そういう世界観が強いので、
いつ罰が来てもおかしくないと思っているわけです。
でもどんなにその人に罰が来ようとも、
多分それを罰だとみなすことはなく、
全部罪だとみなして終わってしまう。
だからその罪は多分自分に身に覚えがなければ、
必ず罰した相手に向かっていくはずなので、
そして罰した相手は罰した相手なんですけれどもね、
決してそれをまた自分の罰だとはみなさないので、
つまり反撃をただの反撃であって、
相手の罪だとみなすので、
永遠に消えないまま残っていくんだと思うんです。
だから完結しないと。
だからこうして世界仮説というものが、
ずっと仮説のまま、
僕らはその仮説世界でずっと生きていかなきゃいけない、
というのがイリュージョンというものの
嫌なところだなと思うんですね。