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2022-10-18 43:29

【691GMV】続『ねじまき鳥クロニクル』雑感

いまが佳境ですね

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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月16日日曜日の19時45分ですね。
だいたい土日はこの辺りに落ち着きつつあるかなといった気がします。
下での収録できてますしね、まあまあいい感じなんではないだろうかと。
時間の話だけですけどね、別に。
この時間に撮れば、ここで撮れば、なんでもこううまく収録できるとか言った話では全然ないんですけれども。
実際朝のうち撮った方がいいかなと思ってたタイミングもあったんですよ。なんとなく逃しちゃったんですけどね。
まずは、いつも恒例のお知らせ。
私はこれでお知らせするのがとりあえずいい感じになってるのかなと勝手に思っているわけです。
10月中に私と60分対話するというのがあるんです。できるというのがあるんですけど。
カウンセリングとかまして分析とかでは全くありませんが、とりあえず60分対話できるよっていうのが。
値段も一応ここで言っておくと、10月中のどこかで1時間6600円といったところです。
こちらですね、セットでやってしまったんですけれども、10月の日曜日に働く人のための心理セミナーというのをやったんですよ。
おかげさまでまずまず多くの方にいらっしゃった、私の犯人内での多くの人に聞いていただいたんですが。
こちらの第3回の方は対話をしていただくと無料でご参加いただけるんですね。
だからこれ終わっちゃった後だと、価値下がるじゃんと思ったんですが、アーカイブの動画があるのでそちらの方を無料でご視聴いただけるといった形にしておきました。
これについてはちょっと考えないとなと思うようになって、これが終わった後だった場合次の月のやつにするという点もあるなと思いました。
これ回数えてるから、第1回、第2回、第3回と。続けて聞かないと意味ないみたいな話にもなりそうだし、ある程度今シリーズ化しちゃってはいるんですけれども、最近思うんですよ。
だからYouTube始めたってこともあるんですが、毎回聞くことで知識がシステマティックになっていくといった話では全くないような気がするんですよ。
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そういう面がないわけではないんですけれども、あくまでもこれは別のものと捉えていただいても何ら差し支えない、つまり1回1回独立していると思っていただければいいんじゃないかと。
そうするとですね、もっとシンプルなものにできるなと。
これも知識的にもらえないんじゃないかという気すらするんですけど、一応このYouTubeの10分ずつでやっていくとよろしいのではないかというふうに知識としての精神分析みたいな話に興味ある方はそっちを見ていただくと取り付く島みたいなのが提供できると思うんですよね。
そこら中に精神分析的な考え方を理解するためのヒントはそこら中に満ち溢れているんですね。
だからそのちょっとした観点だと思うんですよ。そこから先は本は実はいっぱいあるんですよね、読んでいくと。それぞれクセがあるのでどれから読めばいいとかは、どれから読めばいいっていうのを仮に私が言ったとしてもそれに意味が果たしてあるんだろうかということがあるんだけれども。
つまりそれを読んでもちっとも面白くないとか面白いとかいうのはすごく個人差があると思うんですけれども、なるべくそこら辺から入れるものを探っている最中なわけです。
先日ポッドキャストでもお話ししたネジ巻き鳥クロニクル、村上春樹さんの代表作の一つだと、あの人の代表作はいっぱいありますけどね、を今読んでいて、これはなるほど全く精神分析的だと思っているので、今日もそのお話をしますけれども、
例えばあれもヒントになるわけですよ。非常に大きなですね、もうそのまんまなんだと言っても過言ではないと思うんですよね。
私あれを読むのも実は初めてとは言い切れないんだけれども、私は一回目は少なくとも最後までは読み切れなかった上に、精神分析だと理解できてもいなかったんですよね。
これもまた変な言い方になっちゃうんですけれども、ネジ巻き鳥クロニクルって私はユング的だなってすごく強く思ったんです。
それはですね、何でかというと、下で呼ばれて用事を済ませてきたために間が空いちゃったんですけど、つまりユングだと思って読んでいたんですね。
ユング心理学的にネジ巻き鳥を読むと理解しやすい感じがしたし、そういう読み方以外私はあの種のものを理解する方法を持ってなかったんですよね、そういう術をね。
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カワイハヤオさんもよく村上春樹さんを引用されたりするし、納得なんだけれども、それで全くそういう読み方に問題があるとかいうわけじゃないんですけど、今読むとやっぱりですね、私はフロイト的に読むんですよね。
その方がはるかに、これは私の当時に比べて人生経験といったものもあるからなんですが、それでもどっちかというならばフロイト的に読む方が私にはわかる気がしたんですよ。
むしろですね、ここが変なんだけど、とはいえユング的に読む方がはるかに多くのことがわかりやすいんですよ。だけどこのわかりやすいっていうところが罠で、罠っていうのが難しいですね、ここを説明するのは大変難しいです。
ただ、あれをアニマとアニムスといったような観点で読むと、とってもわかりやすいし納得感が高いんですが、そうするとですね、わかったようでよくわからないままになってしまうんですよね。
そしてそこが、あの本のある意味、わかったようでわからないというのが、村上春樹さんってそういうのを書くのが非常に巧みだとは思うんですけども、わかったようでわからないというのがすごく大事なポイントだなって思うんですね。
そうは言ってもまず河合俳夫さんの話をちょっとするんだけど、あれはテーマの一つに井戸があるじゃないですか。井戸にやたらと降りていきますよね、人が。あるいは落とされると。井戸はつまり井戸なんですよっていう話は河合さんもしてます。
そこはフロイトでもあるんですよね、最初から。フロイトとユングって切っても切り離せないんですし、河合俳夫さんは間違いなくユングだと思いますけれども、メインストリームはっていうのかな。
でも明らかにフロイトの方も本場で学んでこられた方ですし、すごいですよね。ある意味神様的な存在だと思うんですけれども、臨床心理の世界では。
井戸なんですよ、とにかく。井戸に深く降りていくと。一つの現代的な問題として、深く深く降りなきゃいけないっていうメタファーがあると思うんですよね。
深く深く井戸に降りるというのはつまり、深く深くSの底の方まで行かないと見えてこないものがある。一つはそれは孤独だってことですよね。
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自我の表面まで上がってきたときには、もう周りの分かり合える存在なんて一人もいないから、深く深く降りていかなければならないんだけど、深く深く個人の底に降りていくってことになってくると、ますます孤独になるじゃないですか。
でも、そこで逆説的に人と繋がれるという、そういう領域があるんだというのが、笠原銘っていう変な女の子が出てきますが、変な女の子っていうのはつまり、主人公の、つまり一つのアニマなんだと思うんですよ。
アニムスでも何でもいいんですけれどもね。つまり魂の内なる異性ってやつですよね。河合俳夫さんの言う、言うっていうか、ユングが言ったんですけどね。内なる異性というものとの出会いがあるわけですよね。そこに行って。
でも、その笠原銘っていう女の子と表面的に表層的に現実の世界の上でやりとりしている中では、当然全く見えてこない繋がりというのがあると。あの辺はやっぱり小説家なんですよね。何度かこの番組でも言ってますが、上手いんですよね。
つまり井戸の底に降りるという、来てれつなことを主人公するんですけれども、それをたまたま見とがめた笠原銘さんは、その主人公を井戸の底に閉じ込め、疑似的になのかどうなのか微妙なところですが、閉じ込めようとしてしまうわけですね。ここで分かり合えるわけですよ。
こういうものすごく危険なことをやることで、お互いが急接近できる部分が出てくるじゃないですか。昔ですね、曽根雅子さんとにかくコミックがあるんですね。そのコミックの中で曽根さんが親友を山の洞窟みたいなところに閉じ込める。そこも落とし穴みたいなものなんですよ。落としてしまう。
そこですごい面白い台詞が出てくるんですね。その子は結局、その女の子のことが嫌いなんですよ。だからその山の穴なんかに落とすんだけど、でも昔は仲が良かったと。
そして、いろんなことが落としておきながら殺す気はないってね。この辺もまた微妙ですけどね。落としたんだけど殺す気はないから色々物を届けて、しかも話し相手にもなると。
こうしている時のあなたは昔のように好きだわっていうセリフがあるんだけど、ああいう感じの世界観ですよね。非常に問題をただ含んでいるんだけれども、分かり合うためにはこうまでしなければならないみたいな。
そういうニュアンスがまずあるわけです。そういうニュアンスがあるんだけれども、井戸ですよね。井戸っていうのは結局ラテン語ですけれども、私もラテン語なんか知りませんけどね。ドイツ語ではSですよね。Sなんですよ。字形SのSです。
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しかもそれがすごく深いっていうのを繰り返し強調するわけですよ。そこには当然ものすごく理不尽なものがありますよね。暴力的だったり、やたら政欲が強かったりね。この辺なんですよ。
ユング的に考えてもいいし、フロイト的に考えてもいいんだけど、ユング的に言うとアニマとか言って話になるわけじゃないですか。内なる異性と。
だけど、もっともっと現実に引きつけて考えると、現実に引きつけて考えないからああいう話が出てくるんだけど、魂っていう手前に親っていうのがまずあると私は思うんですよね。異性の方の親ですよね。
父親でも母親でもいいんですけど、ここで考えるっていうのが私はやっぱり生々しくて嫌な分必要なんじゃないかと思うところが大きいわけです。内なる異性っていうのは本当はもっと生々しくて嫌なものだと思うんですよ。
ところが魂と言ってみるとですね、僕の感じですよこれは。親よりもいい感じがしちゃうんですよね。これが罠なんじゃないかというふうに思うんですよ。こうすることで話がわからなくなっちゃうような日がむしろするんですよね。
主人公は、この話全体で僕が言いたいのはですね、まず小説家じゃない人が精神分析の話をするとかカウンセリングの話をするって話になってくると、臨床例というものを書くのがやっぱり一番多くの人は読みたくなると思うんですね。
この番組でも繰り返しお伝えしているような例えば平気で嘘をつく人たち、あれはなんだかよくできた小説のようですけれども、あくまでもあれは分析家の方が書いてるから、アメリカの自我心理学の方ですがカウンセラーの方が書いてるから、カウンセラーの方が書くと訳のわかった話に必ずなるんですよ。
どれほどクライアントさんが訳わからんことを言っていても、それを分析している側はあくまでも現実に立脚していますから、訳のわかった話として書けるんですよね。
そして読者も安心して訳のわかった話として読める。
例え登場しているクライアントさんが、いやもう人を跳ねたかと思って心配で真夜中に2時間車を飛ばして跳ねた現場を見に行ってしまうんですよとか、立脚を渡っている最中に橋が崩落する恐怖から渡れることができずにいて、隣町の方の橋までわざわざ行くから家に帰るのが夜中になるんですよとか言っていてもですね。
これはあなたのそれは脅迫神経症と言ってですね、もっと死ぬっていう自分がだんだん健康を損ねているっていうことにちゃんと向き合わないとどんどんどんどん事態は悪くなるんですよみたいな話をすると。
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するだけで現実の側からこれを見ることができるじゃないですか。
僕はこれをひっくり返して考えると、ひっくり返して描写するとつまりネジ巻き鳥クロニクみたいな世界がわっと広がってくると思うんですね。
つまり患者の側から描くとああいうことになってしまうと思うんですよ。患者は普通描かないからこういう話は多くの場合ですね。
でも患者の側から描いた上で、しかもそれが正気に戻って描くんではなくてどっちかというと狂気に近い部分、あるいは自分の妄想分裂ポジションですよね。
から描くとですね、ああいう世界が広がると思うんですよ。
つまりあれを精神分析をしている側じゃなくて、精神分析を受けるっていうのはクライアントの世界から見るとどんな風に見えるのかというと、
多分一例ですけどね、あくまでもサンプルとして考えるならば、ああいうクロニクルみたいな世界にきっと見えるんじゃないかなっていう気がするんですね。
というか、私はそういう風に読んでいると、とってもよくわかるような気がするんですよ。
心理学の中での解釈をするっていう、結局解釈をするっていう観点から見ると、やっぱり正気からこれを見ることになるんですよね。
さっきの平気で嘘をつく人たちの遠くの橋をわざわざ渡るとかいう感じにとっても近いことをやってるじゃないですか、主人公は。
一つ一つの行動にはそれぞれまともなロジックがあるんですよね。この辺も笠原銘って女の子がわざわざ言っていますよね、主人公に。
あなたはとってもまともなのにやってることが全くまともじゃないから、そこが非常にいいんだと。
でもそういうもんだと思うんですよ、実際のところは。
実際にクライアントという人がやってることっていうのは、とってもクライアントの人格なり性格なりはまともで良心的なのに、やってることや言動は明らかにどうかしているというふうに周りの人には見えてしまう。
その辺のやっぱり描き方があの作品というか小説家ならではだと思うんですよね。
当事者じゃ描けないんじゃないかなと。クライアントさんはクライアントさんでそんなことを描きたくないと思うし、分析家の方が描くとああは描けないんだと思うんですよ、やっぱり。
分析している観点にどうしてもなってしまうから。
でも分析を受ける側の立場に立ってみるとね、やっぱり遠くにわざわざ、だって橋崩落したら死ぬよね。
それは私の静電気恐怖症なんかの日ではないんですよね。
だからずっと遠くの橋まで行って夜中になって家に帰ってくる。
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明らかにおかしいですよ、それは。
そういうのが描かれているじゃないですか。
わざわざ全然必要もないのに猫がいなくなった。
やがて奥さんもいなくなった。
それで一体これはどういうことなんだろうと真剣に考えてみようと思って、
たまたま家のそばにあった古井戸のね、奥底、まあ底ですよね。
そこにはしごをかけて降りていくと。
完全に頭の変な人になっちゃいますよね、見ていると。
でも本人の主観を通してみるとそうじゃないんですよね。
それは正気の沙汰じゃない行動かもしれないんだけれども、
あくまでもまともな頭の中でやっていることなんですよ。
現に主人公はそういうことをすることによって、
昔の昔の古井戸の中でずっとじっとしていることでですね、
だんだん思い出してくるわけですよね、大事なことを。
完全にこれやっていることは分析ですよね。
だいたい分析っておかしいじゃないですか。
ここがミソですよ。
私はそう思うんですよね。
やっぱり週に5回もね、見ず知らずの人のところまでわざわざ行って、
1時間もですね、自分の身の上話だか昔話だか、
あったんだかないんだかもわからないような話について
延々しゃべるわけですよ。
これ完全にこういうものが市民権を得ている世界ならば、
それは正しい行動だというか、文化的な行動として認められるんだけれども、
これをですね、やっぱりやってたらおかしいんじゃないの少しっていうことになりかねないですよね。
でもその井戸の底に降りていってですね、
しかも笠原芽って女の子がそこにあった縄橋を取り上げてしまうということにして、
あなたがこうやって弱っていって、死に直面してどれぐらい取り乱すのかを見てみたいんだとか言われるっていうのは、
完全におかしいんだけれども、患者さんの場にしてみれば、
例えばですね、そうやってあなたは深い深い自分のね、
Sの無意識の領域にまで降りていって、
そこでどういうことが起きているのかっていうのをちゃんと見定めないとダメなんですよって言われたとするじゃないですか。
そんなこと言わないと思うんですけどね。精神分析家に言われたとするじゃないですか。
でも平気で嘘をつく人たちの分析の人は、はっきり言ってそれに近いですよ。
支持的療法ですからすごく。笠原芽に言われますよね。
ついに井戸の蓋が開いてるからまだ外の景色が見えるのに、
彼女はすごいことに閉めちゃうんですよね、その蓋を。
それでその前に言うセリフがありますよね。
考えなさい、考えなさい、考えなさいと。
これは支持的療法で精神分析家が言うセリフと、
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多分かなり響きは似てくると思うんですよ。
あくまでも聞く側の方ですよね。
クライアントさんにとっては完全にこういう風に響くと思うんですよ。
考えろ、考えろと言われてるような気がすることはあると思うんですよね。
そして井戸の底みたいな、井戸ですよね、だからつまりSですよ。
Sの底まで行って考えろと。
それでどうなるんだろうって多分思うと思うし、
そして時間が来たら入ってみて、
料金払って帰ってきたら、
あの主人公と全く同じような気分になるんじゃないかと思うんですよ。
一体現実って何なんだろうっていう感じがするじゃないですか。
あの主人公は幸いにも助けられるわけなんだけど、
助けてくれた、縄を下ろした女性というのは、
やってることはもう本当に分析家のそれって感じがする。
下ろしてみて考えさせてみたり、
梯子をかけて登らせてまた現実に戻してみたり。
そして何かこういうこととすればですね、
今あなたに起こっているようなことというのは、
本当に大切なことなんですとか、どうでもいいようなことしか言わないわけですよ。
これはカウンセラーの言う話がしばしばそこにあるんですよね。
だから、その時に、
解釈じゃなくて、もっと支持的であっても同じですよね。
あなたはもっと死に向き合うべきなんです。
死が怖いのは誰だって同じなんだから向き合うべきなんです。
これ、実に一般論じゃないですか。
どうでもいいようなお説教ですよね、ある意味では。
でも、その時に、
何かを考えて、
何かを考えて、
何かを考えて、
そういうお説教ですよね、ある意味では。
でも、結局それをやるしかないんだなっていうことに、
主人公もなっていきますよね。
結局これから逃れようがないんだ、という話になっていくじゃないですか、あの話。
こういう観点で見ていくと、
つくづくなっているのかな、
僕らのある意味。
だからその辺が村上晴樹の言いたかったことなんだと思うんですけど、
僕らの置かれている状況と、
実はとてもよく似ているんですよね。シュールな不吉な音調の不吉な通送低音みたいな音が、
しかもいい音は全然聞こえてこないような小説ですけど、謎に満ちててね、ああいう話なんだろうと。
奥さんは奥さんで、もちろん主人公の内なる異性なんですと、私はそういうふうに最初にいかにも可愛い俳優が好きだった
学生らしく読んだんだけど、学生じゃなかったかな当時は、読んだんだけれども、
今思えば、やっぱりあの奥様を
侵単する意味は何もないんですけどね、でもやっぱヒステリーみたいなところで考えた方が、はるかに
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今の私にはですね、得るものが多い気がするんですよね。かなり重度ですよ。ヒステリーでは済まないかもしれない。でも
やっぱりヒステリーっていうのがいいんじゃないかと思うんですよ。何かにつけて、最近私はヒステリーって言ってるような気がするんだけど、ヒステリーってやっぱり
どれくらい大事な概念だなという気もするんですよね。あの奥様は少なくとも乖離性じゃないですか。
多重人格感が非常にありますよね。そういう意味ではイブブラックとイブホワイトなんですよ。
で、明らかに性欲っていうものが、まあそれこそ井戸の奥に押し込められているんだけれども、
それはしょうがないですよね。あの奥様のその養育歴から考えて、ああいうひどいことをやる人は、でも
つまりあれはひどいけれども、犯罪じゃないですよね。ああいうことって、この辺もやっぱりさすがに物書きで、村上春樹さんなんですけれども、
ああいうことがよくあると思うんですね、はっきり言って。
あんなことでああいう子供をほぼにぐれくとか、さらにそれより悪いけれども、でもああいうことっていうのは普通に起こってしまうことだと思うんですよ。
でも、ああなってしまうと、やっぱりこう散々、私がYouTubeなんかでもお話しているお父さんに愛されたかったっていう気持ち、あるいは親に愛されたかったって気持ちが、
それこそ井戸の底に置き去りにされますよ。そうした時に、親に愛されたかったという気持ちが分裂しますよね。
一つは性欲に向かう、異性愛に向かう。一つは極めて精神的な方に向かう。
精神的な愛を親に求めた時、そこに性は、セックスは求めないから、こういうのがまさにフロイド的だと思うんですよ。もちろんユング的だと言ってもいいんですけど、
フロイド的だと思うんですよ。だから、ある意味ではすごく、すごくですね、そういう、なんて言うんだろうな、
精神的な父親という人と、人と出会って、結婚すると、そして全く新しい人生を、主人公にもいろんなことがあるんでしょうね。
でも非常にやっぱり現代的なんですよ。余計なしがらみは断ち切ってですね、全く新しい一戸人として新生活を始めるんだって、そういう考え方ってあるじゃないですか。
だから、二人で、つつましくですね、経済的にも身の丈に合ったお家を手に入れて、ちょっと上手いことやって手に入れるんだけど、
そこでカプセルのような世界で、二人だけの新生活を始めるわけですよ。どこも悪くなさそうですよね。
むしろ理想なんじゃないかって記載します。けれども、1回目の子供が生まれた時に卸すって話があそこでまた出てくるわけですよね。
非常にこれも象徴的な話なんですよ。どうしてもそうしなければいられなかったってセリフが出てくるんだけど、まさに僕らはよくこれを使いますよね。
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そうしないわけにはいかないんですよ。何をするにしてもね。そこはいつも必然的な選択が満ち溢れているわけです。
だけれども、そうしないわけにはいかないと言って、クミコさんは親にある種のことをされたというか、されなかったんじゃないですか。
親からすれば、あれもまたそうせざるを得なかったんですよ。そして子供がほとんどいないも同然の扱いを受ける。
その中でクミコさんは結局、自分のある種の欲望をないも同然のものにしていくんですよね。
そういうことに、ある意味主人公は気づいてるんだか気づいてないんだか、ほぼ気づいてないんですよね。
そして2人を愛し合ってるという非常に単純で、ある意味抽象的な気持ちにのっとって、2人だけの世界を築いていく。
何も悪いことはなくて、むしろあの時代のですね、1990年ぐらいかな、もうちょっと後かもしれませんね、の理想の在り方を2人は追求していくんだけど、まあうまくはいかないですよね、それでは。
これがうまくいかないだろうなと、当然だろうなと思えるようになったのは、でも僕は多分40、少なくとも40過ぎてからであり、
おそらく本当にそれがそれじゃダメなんだろうなとわかるようになったのは、グッドファイブスの力も相当借りて、47、8以降の、ごく最近ですよね、私が要約すれば。
私には30半ばの頃は全くこれが、40の頃は少しですね、かすめるようにはなってました。
でも30の頃は全くわかってなかったから、あの2人の生活が理想的であると思ったと思うんですよね。
愛し合う2人で新生活と新しい自分というものを見つけていくんだみたいな、とっても抽象的な感覚の中で、あの2人、特に岡田徹さんですよね、主人公は。
友達がいないって話を盛んにしてますけど、そうなんですよね、徹底的に孤独なんです。
それはでも、孤独になったからなんですよ、自分で好んで、そういう人嫌いもする性格じゃないですよ、あの人はまともな人ですからね、良心的な人だし。
多分彼の中ではあまりにも人というのは良心的でもなければまともでもないから、孤独の道というものを選ぶんですよ。
久美子さんのような、やはりまともで良心的な人とだけ付き合って生きていきたいというわけです。
そうすると非常に面白いことにほとんど人付き合いをしない人が出てくるんですよ。
つまり世の中の人の大半はまともでもなければ良心的でもないわけです。
でもそれは彼らの主観なんですよね、とってもとっても狭い彼らの主観なんですよ。
でもそれがとっても良心的でまともなように描けている村上さんがすごいんですよ。
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つまり現代に生きる私たちの感覚ってこれなんですね。
ほとんどの人が井戸の中で生きている、非常に狭くて細くて深い井戸の中で生きていて、
そこから見ると他の人たちは明らかにやばい人で、暴力的でエゴイスティックで、ろくでもない人ばっかりなわけですよ。
その中で自分たちのような極めて良心的でつつましい人たちのつつましい生活を守ろうとするという、
そういう当然、そうせざるを得ない生き方をしているわけだと、そういう話なんだと思う。
で、その中で置き去りにされがちなものがあるんですよ。
暴力性とか性欲とかそういったものがですね、スマートに扱えないんですよね、どうしたって。
付き合う人間も少ないわけだから。
で、深いところに置き去りにされていく。
なるべくこう結局は、結局はですね、あってもなくてもいいような、性欲なんてあってもなくてもいいような扱いをしながらセックスはするっていうですね、非常に微妙なことが起こるんですよね。
だから子供が生まれるっていう話は、いろんな意味で難しいんです。
もちろん現代だから表層的にはですね、
表層的には今の私のキャリアからしても、あなたの経済力からしても、子供を育てるというのは無理があるし、ここはやっぱり下ろすっていうのが唯一可能でまともな選択肢なんだと思うという、極めて真っ当なセリフがそこで展開されちゃうわけですよね。
この裏で、裏でというのか、この奥底で何が起きていて、そして何が起きていないのかっていうことがスルーされている。
で、だんだんだんだん考え方ですけどね、だんだんだんだん自体が、案文が立ち込めていく中で、結局その久美子さんは、精神的な父親だけでは、どう考えても飽きたらなくなるわけですよね。
精神的な父親というものを夫に精神的な父親もさせて、できれば肉体的な関係も得てっていう話を進めていくと、まあ無理があります。だから乖離するのも当然なわけです。
この置き去りになっている結びつかない欲望、性欲と父親に愛されたかったと。父親じゃないわけですからね、結局夫っていうのは。愛されたかったという気持ちを全部いっぺんに満たせるようなものが不意に現れると大変なことになっちゃうわけですよ。
これをですね、あの話の中ではこの世界は血なまむさい世界ですって表現になっちゃうんですけど、つまり血なまむさくない世界っておかしいじゃないですか、ある意味では。あれはもちろん違う意味で使われてるだけれども、つまり血がない世界になっちゃいますよね。
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この比喩も結構出てきますけど、ものすごく暴力的になってしまう。Sがそのまま紛失すると、何しろ置き去りにされている期間が長いのでね、ほとんどこう全部、全部ってのがやっぱりいけないわけですよ。全部のSを一気に満たそうとするというのが。
これってよくジョークになって出てくるんですけど、変な話になっちゃいますけど、性欲と食欲って同時に満たそうとすると変な感じになっちゃうんじゃないですか。やっぱりSっていうのは一度に全部満たそうとすると大体良いことないんですよね。暴力的な感じになる。だけれども僕らは高度にこれをコントロールしようとするから、いろんなものがある意味置き去りになったりしやすいんですよね。
ある種の力のある人のSが優先されて、久美子さんのご両親とかそういう人たちですよね。優先されるためにどうしてもあんまり権力がその場では持ってない人のSというものが非常に粗雑に扱われて、お父さんに愛されたかったとかそういうのが粗雑に扱われて放置されがちになるんで、それがずっといろんなものと結びつきながらいきなり爆発するとですね、本人は本人であることをやめなきゃならなくなっちゃう。
これってやっぱり精神分析だと私は思うんですよね。だからこそ聞き役というものが非常に大事だし、話を聞いているうちにみんな井戸の底の方に降りていかなきゃならなくなるわけですよね。
その間にやっていることを外から見ると極めておかしいわけですよ。バットを持って血まみれになっているTシャツを着ている人がそのまんまの形でバスに乗ると、あなたはとてもまともな人間なのにやっていることは全然まともじゃないというのはこういうふうになるんですよね。
そういうのって私たちは多分目にするとそんな感じがすると思うんですよ。真夜中に井戸の底に降りていく人を見たら絶対に通報とかしたくなっちゃうじゃないですか。それをでも精神的な意味ではやっているんですよね、ある意味では、カウンセリングの現場というところでは。
そこでもう一つなかなかエグい話ですけれども、夢の中に登場していって、そこで夢の中でセックスするという話が出てきますよね。あれを多分考えようによってはですね、あれはそのまま分析なんだと思うんですよね。そういう話って分析の中では時々出てきます。
つまり、転移性恋愛なんていうのはまさにそうですよね。意識の中だけで恋愛をすると。あの中の話が不思議なのは、言ってみれば精神分析家に相当する人が相手の夢の中に入っていけるっていうことを言ってるんだけど、でも考えように言ってはまさに分析の現場でやってることって起こることってそういうことじゃないですか。
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朦朧としている中で、朦朧とはしてないかもしれないけど、つまり井戸の世界の中で自由連想をして、いろんなことを思い出して、勝手に精神分析家の方々を自分の恋人だと思い込んだり、母親だと思い込んだり、そういうことをするって夢見てるようなもんですよね。そしてそういう夢を見ているということを分析家の方々も知ってるわけですよね。
つまり人の夢の中に入っていってるような話ですよね。
こういう、このまんまのことがクロニクルの中では出てきますよね。あなたの夢の中に来ました、みたいなことを言うと。そういう話なんだと思うんですよね。もちろん電話をかけてきたっていう女の人っていうのは、乖離している奥様なわけですよね。
完全にあれはイヴ・ブラックの話だと思うんですよ。でもイヴ・ブラックの話って実話ですからね。そういう意味ではあそこの小説に書いてあることっていうのは口頭無形なんだけども、小説ですから。作り話なんですが、ある意味ではああいう話っていうのは、分析の世界にはいくらもいくらも登場するわけですよ。普通にああいう話がいっぱい載ってるんですよね。
ただそれが全部、普通はカウンセラーの立場から最初言った通り書いてます。だから僕らはそれを夢の中、現実の中、分からんという立場に立たずに済むんですよ。あれもしクライアントの立場から見たらどうでしょうかと。多分夢の中、現実の中、本当に分かんないっていうことになって、ここが大変なんだと思うんですよね。
まるで井戸の底にいたら、はしご外されて、文字通りですよね。はしご外されて、このまま二度とここから出られなくなるかもしれないっていう恐怖に怯えるわけですよね。ここから出られるかどうかは分析家次第だと。だからクライアントさんは分析家を愛してみたり、分析家を憎んでみたりするっていうことが起こるんですよ。
やっぱりそういう恐怖についてもよくあの話では出てきますし、逆転する場面もありますよね。分析家の方が井戸の底に降りていってしまっているっていうシーンもあります。まあ分析家じゃないですけどね。カノークレタさんですけどね。でも結局あれはそういうことだと思います。そういう事態というのにも僕らは直面しなきゃならないじゃないですか。自分だけが井戸の底に降りるわけじゃないですよね。
相手の人が降りるってことも当然あるわけだ。で、そうするとやっぱりこうある意味では置いていかれたような感じがするし、自分は現実の方にですね、相手だけがこう井戸の世界に入っていっちゃうわけですよ。そういうことでもしないことにはお互いがお互いのものがさっぱり分かんないっていう、結局あのご主人は、あの夫はクミ子さんのことが何にも分かってなかったということに気づくわけですよ。
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これは僕らが多分置かれている状況とそんなに違わないと思うんですね。私もこう長いこと絶対起こらないっていうような約束の下、悪いミッションになったんだけれども、散々それにもかかわらず怒られるというのを通じてだんだんだんだん分かってきたわけですよ。
で、その間に分かっていくことにはどうしてもやっぱりですね、相手の養育歴だとか、つまり相手の井戸の中身っていうものが分からないことには何にも分かんないんですよね。考えてみればそうでしょう。私たちは愛し合う一人生と一緒に、これだって大変ラッキーな話なんですけれども、お互いが好きだと言っている相手とつつましやかなカプセルみたいなところで暮らして、めでたしめでたしだと思い込んで生活し始めたんですけれども、
そこから始めるわけですよね。最近私はもっともっと軽い話で、でもある意味重い話で、離婚してもいいですかみたいな、これもやっぱりエッセイ風の女性が書いた4コマコミックの中でどんどんどんどん夫のことが信じられなくなっていってって話なんだけど、やっぱり最後の方で出てくるんですよね。
私はあなたのことを何も知らなかったと。そうなんですよね。結局何も知らずに一緒になる。何も知らないから一緒になれるっていう気もしなくはないんですけれども、何も知らずに一緒になるんですよ。お互いすごくいろんなことを知った気になってるんですけれども、こうこうこういう考えで価値観でとか言って、しかも一緒にセックスまでするもんだからお互いいろんなことを自分らは知ってると思い込むんだけれども、私は全然知らないんだなっていう感じはやっぱり、
受けるんですよ。精神分析っていうのは要するに普通だと全然見えてこない、知りもしないことをどんどん誰かに知らせていくっていう部分がというか、それが全部みたいなところがあるので、その中でですね、やっぱり井戸の底で笠原芽衣にやられそうになった、つまり殺されそうになったと、少なくとも本当に殺されてもおかしくはないなってところまで行くわけですよ。
あれがつまり、遠江同一化だと思うんですよ。ここで非常に奇妙な形ではあるんだけれども、お互いが同じ気持ちになるんですよね。死ぬかもしれないというのと、殺すかもしれないというのと、結局、つまりその先にあるのはどっちになるのか、どういう自分になるのか、いざとなってみないとわからないというところですよね。
でもそれが僕らが要するに置かれている状況ですよね。それこそ一寸先は闇なんですよ。これも同じですよね。結婚した当初に相手のことがわかっていると思い込むのと同じで、未来というものはこの人と一緒にやっていけば大丈夫だとどっかで思ってるわけですよ。1年後、5年後、10年後みたいなのもわかっていると思ってしまうんですよね、僕らは。だいたいこうなるだろうみたいな。
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だから地震みたいな時にわりとあからさまになる部分があるんですよね。そういうことが別にわかっていたわけじゃないと。結局、グッドバイブスってよく聞くような話になるんですけどね。倉園さんによく聞かされた話だなと思うわけですよ。
僕らは人のことは全然わかっていないし、自分の未来のことも本当はわかっていないし、一番問題というのは自分自身のことが全然わかっていないと。井戸の底にでも降りてみないとわかっていないということがだんだんわかってくるんですよね。
あの話すなわちいいじゃないですか。わかってきてみると、ちょっとわかってくると、いっそ何もわかっていないことがどんどん露呈してくるじゃないですか。あの辺は大変な技術だと思います。どう見てもそれおかしいだろうと。手品みたいですよね、ある意味ね。
それはオカルトでしょうって思うと、いや、そんなことはない。これは現実に起こり得るんだというのをちゃんと見せつけられますよね。ギリギリだなって思うようなのもなくはないんですけれども、マジカルな部分。それがつまり僕らがわかっていないという証拠でもあるわけですよ。そういう話なんですね。
ただ私はここまで言っておきながら、もうベタボメに近いですけど、やっぱりちょっと苦手な作家さんなんだなっていうのは、このところまで読んできて感じますね。
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