2021-08-02 30:58

【GMV 427】グッドバイブスとフロイトを読むこと

私の中でどうつながるかと言うこと
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週の土曜ですね、グッドバイブス勉強会第7回かな。
8月に入らないと時間が湧かないと思ってたんですよ。
だから、第1週の土曜日のオンラインセミナー。
オンラインなので、全国どこからでも、離島からでもご参加いただけます。
この番組って、私がグッドバイブスを実践するというのが趣旨なんですよ。
私のグッドバイブス実践体験談みたいなものであって、
別に精神分析の話を素人くさく説明するという趣旨ではないんですけれども、
そういう風になるのは、たぶん僕がグッドバイブスをやっていると、
だんだんそういうのを自然読むようになるからなんですよ。
今特にそうなんですけど、本とかもそうですが、
最近読書術的な話がまた賑やかになってきて、いいと思うんですけどね。
私、本とかノートとかも一切取ってないんですよ。
だから全部記憶で喋っているわけですね。
なぜかというと、別にこれをどこかにまとめて後で発表しようという気はさらさらないからですが、
もう一つは、精神分析みたいなものをやっていただくとわかるんですけど、
一つの言葉が逆転するみたいな話が普通に出てくるんですね。
つまりナルシシズムといっても、いいことなのか悪いことなのかすら人によって定義が変わり、
その人の仕様の中でももしかすると時々定義が変わり、
極端に言うとフロイトとかの定義って、最初フロイト定義というのは一番良くないものだぐらいのノリで書いてたんだけど、
やがて定義こそ大事なんだぐらいに切り替わっているんですよ。
そういうのを別々に読むと意味不明になるじゃないですか。
スクラップボックスとかで定義とかを定義しておいてもダメなんだと僕は思うんですね。
そういうことで定義が分かるとは1ミリも思えないので、
そして別にそんなことは僕ら分からなくてもいいわけじゃないですか。
精神分析とかをやるわけじゃないですからね。
ただこういうことを僕がグッドワイブスをやるうちにすごく意識の中に入ってきて、
こういうのは定義的状況って言うだろうなって思うようなことが起こると。
そういうときはグッドワイブスという問題との兼ね合わせがとてもややこしくなって、
それは整合性を取ろうという話では全くないんですよ。
こういう流れにしたからこんがらがってるんだな。
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例えば天一星恋愛という、僕はフロイトの論文では一番良い論文だと思うんですけど、
あれがあるとやっぱりこの人は2世紀分ぐらい先を行ってる感じがするなと思うんですが、
昔そうだ、なんだっけ、ドラマだか同級生、高校教師かな、なんかそういうのがあったと思うんですよ。
今だったら大問題になっちゃうと思うんですけどね。
でもいつだって大問題なんですけど、高校の先生が女子高生と駆け落ちしちゃうみたいな話だったと、
僕ちゃんと見てないんで、本当にちょっと色っぽいところだけつまみ食いしただけなので、話全然わかってないんですけどね。
確かそういう話、でもそういう話普通にありますよね。
あれを天一星恋愛と呼ぶべきだと思うんですけれども、
フロイトの論文って僕が思うにはすごくて、フロイトの言ってることの中がすごくてですね、
天一星恋愛こそ恋愛なんだって言ってるんですよ。
つまり恋愛で天一星でないものなんて一つもありはしないんだということなんですね。
何をここで言うかというと、正しい恋愛と間違った恋愛、僕らすぐそれを言うじゃないですか。
これしか他に方法ないからですね。
あるんだけどフロイトに寄せればそんなものはないんですよね。
もちろん彼は分析家なんで、カウンセリングとか精神分析の場で必ず恋愛ということが起こってしまう。
恋愛だけじゃなくて殺意とかを抱くんですよね。
それも本気で殺したくなっちゃうんで大問題なんですが、絶対そういうことは起こるんだと。
そうすると後で訴えられないようにも当然シュールわけですよね。
でもそれを間違った恋愛だから恋愛はやめるようにしましょうとか言ったら治療はそこで終わるんですよ。
そして例えば女性なり男性なりが分析家に恋をしちゃうと。
それは同性愛かもしれないし異性愛かもしれないけどとにかく恋をしてしまうというのをそこで断ち切るとですね、
次のところに行ってまた恋愛を始めるはずなんですよということを彼は書いてるんですね。
そこでも断ち切ると、さらに次のところに行って恋愛が始まると。
たぶんその恋愛が変な形で進行すると、変な形でしか執行しませんけどね。
形で進行すると急にその患者さんが例えば不意にその分析家に愛想をつかして、
私は性的に誘惑されたとか何とか言って訴え始めると。
それを何とかオンラインとかで取り上げられるということが起こるわけじゃないですか。
変異性恋愛というものを恋愛だと認めてしまうとですね、
先生と生徒であれ患者さんとお医者さんであれ絶対やっちゃダメだという風に考えておくじゃないですか。
とりあえず建前としてね。
これ欲打つモードって欲打つポジションだ。
欲打つポジションということになるんですよね。
経緯があるから。
ここにいるのは先生と生徒として始まったんですという経緯があるから。
06:04
ここにいるのは患者さんとお医者さんであれ絶対やっちゃダメだという風に考えておくじゃないですか。
先生と生徒とお医者さんなんですという経緯があるから。
最初そうやってスタートしましたと。
恋愛するためじゃありませんよと。
これが建前ってことですよね。
ところが恋愛がいざ進行し始めるとそんなことはどうでもよくなると。
先生に奥さんがいるかどうかそんなこともどうでもよくなると。
これ妄想分裂ポジションなんですよ。
恋愛ってのは結局すべからく妄想分裂ポジションを含み込むはずなんですよね。
ある程度。
幸いにしてそういうシチュエーションになければ
妄想分裂ポジションだったとしても問題のない関係であれば
20代以上でお互い独身で
何か職場とか何かとか職場もダメか
何か敬意や戦いもあまりなくうまくカップリングになりましたという話であれば
恋愛が猛烈に進んでいたとしても
妄想分裂だとしても誰からも非難はされないけれども
そもそも妄想分裂だから僕ら恋愛して
あ、違った。ごめんなさい。
欲打つポジションにいたまま僕ら恋愛しますよねっていうのはおかしいだろうってことなんですよ。
諸々の事情が許す場合には恋愛ができるけれども
そうじゃない場合にはこの感情は引っ込めておきましょうという風に
引っ込められるぐらいならそれは恋愛とは言わないよねとフロイトが書くわけですよね。
ここですでにあの論文は一往復している感じなんですよ。
つまり精神分析中に起きた恋愛感情を恋愛と認めるんだと
そうしたらどうなるんだろうってことになりますよね。
多分開業医やめなきゃならなくなります。開業している人だったりした場合はですね。
そしてすげえスキャンダルとかになる可能性もありますよね。
もう一周して彼はつまり恋愛をしちゃいけないんだという風に書くわけですよね。
この辺の書き方が実に巧みというかですね。正直だなとも思います。
つまり彼が伝えているのはここで悩まないというのはおかしいってことがまずあると思うんですね。
この話って東映同一課の話とも同じようなところはありますけど
コミュニケーションなんだと。つまり患者さんはこういうことで悩んでいるという
その心の苦しみそのものがそこに持ち込まれる。これまさに治療状況じゃないですか。
治療するべきことはそれですよね。心の苦しみそのものですよね。
心の苦しみっていうのはそういう恋愛をしちゃいけませんとか
そういう感情を持っちゃいけませんという理性の声にパタッと従うことができるくらいならば
苦しまないわけですよね。その人が深刻に社会的地位もある人だったら余計に
だって精神分析ってお金かかりますからそんなにお金をどんどん払えるぐらいの人が
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そういうことで苦しんでやってきているということであれば余計にですね
よっぽど何かしなきゃいけない苦しみがあるわけで
スペが分析中だから恋愛はやめておきましょうということで
ザッと済む程度のものであるならば
もともとそんなものはそんなことでそういう人は来ないわけですよね。
でもそこでいい関係になっちゃったらもう簡単に言ってしまえば
肉体関係持ってしまったらそれはそれで治療は終わると。
だからギリギリのところまで行ってそこで何とかできるようにならなきゃいけない
というような話なんですよ。という話が全部店員に含まれちゃっていて
これを読書した後の記録を残しておくぐらいのことで
僕は済むとは思えないんですよね。
夫婦喧嘩一つとってもそうですよ。
夫婦喧嘩の種になっていることを全部リストアップして
一つ一つについて十分じっくり吟味しておけば
全然その次の日から喧嘩しないで済むようになるかとか
そんなことはあり得ない。
あり得ないと僕は思うんですよね。
それで問題が解決できますって言われると
多分言われた人は東映同一かと全く同じで
こいつにはわかってもらえないということで
もしその人と付き合い続けるということになれば
分からせようとするでしょうね。
私がかつてタスクカフェとかで割り込みについて分からせられたのと同じですよ。
僕らはすぐ簡単に割り込みを記録しましょうとか言うけど
記録できないレベルで割り込まれてくるわけですよね。
絶え間なく絶え間なくその人が割り込みで苦しいんですということを僕に訴えてくる。
30秒に1回ぐらいになってきて
いい加減嫌になった頃に気づくわけですよ。
気づかなかったですけどね。
これが割り込まれるということなんだと。
つまりこの苦しみが相手に
よく共感とかって言うじゃないですか。
だから僕は逆だと思うんですよ。
共感していればカウンセリングが済むというのは
私アメリカでも言われたんですけど
エンパシーって言うんですけどねアメリカでは英語では。
エンパシーで済むぐらいなら
そんなものは治療でもなんでもなくて
エンパシーさせられるわけですよね。
お前に伝わっていないということが
俺の悩みなんだってわけですよね。
こういうふうに考えてみると
転生恋愛もそうですけど
夫婦関係っていうのは
まさにそうだなっていうのを痛感させられます。
そうするに一時的に悩みや苦しみが
取り除かれたり沈静化するってことは
普通にありますよね。
いつでもどんな時でもちょっとした一言とか
なんかどっか食べに行ったりすれば
それで済んじゃうということは多々ありますけど
また振り返すと。
それはもしかすると
私がそこにいるからすでに苦しいみたいなね。
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にもかかわらず離婚するわけにはいかないとかね。
そういうことがあるはずなんですよきっと。
だから何度も何度も反復して
何度も何度もトライさせられる
反復脅迫とかって言うんですけど
要するにOCDと何ら変わらないわけですよね。
手を洗っても手を洗っても
手を洗い足りないという状況を
何度も何度も反復させられると。
この何度も何度も起きているっていうことが
まさに解決するべきことそのものになっている
っていう感じで
グッドバイオスなんですよ。
つまり僕がグッドバイオスをやっていて
問題になってくるのは
恐怖を手放すとか不安を手放すというのは
できる人にはそれで
一つ聞けばできるっていうことも
あるのかもしれないんですけど
まず僕の場合は全くそうはならなかった。
何度も何度も自分の恐怖感というものが
戻ってくるわけですよね。
何度も何度も戻ってくる。
何かというと恐怖をすると。
人は恐怖をした時というのは
必ずその恐怖の原因というものを
探しに行っちゃいますから
恐怖って何にも起きていないのに
自分の中から湧き上がってこないので
必ず恐怖になっている対象というものを探す。
怒っている人とかそういう家族とか
そういうことになりますよね。
こいつが私を怒らせるって考えるんだけれども
違うわけですよね。
ここがグッドバイオスと精神分析の
実によく似たところだと
カウンセリング大体そうなんですけど
結局自己原因なんですよ。
恐怖を抱くんですよ、私が。
怒られるから怖いっていう言い方をしてもいいんだけれども
今ならよくわかるんですけど
怒られても別に怖くないし
よくわかるんですけど
怒られても別に怖くなくなることはできるんですよ。
そうなってみて初めてわかるんですよ。
自分が原因で怖いんだと。
自分がこの恐怖感を作り出しているんだと。
自分がこの恋愛を繰り返すモードになるんだと。
そうは思わないですよね、恋愛中って。
この先生が、この精神分析をしてくれる先生が
すごく親身で親しみやすくて
しかも声もいいし顔もいいから
恋愛するんだって思っちゃいますよね。
でもだいたいそうじゃないわけですよね。
その人には反復脅迫なところが何かあって
ある意味では誰とでも親密な関係になり始めると
恋愛モードが進行していくという
無意識の働きがあって
その人が原因で恋愛が起こる。
だから精神分析科の方は知ってるはずなんですよ。
なぜならば他の患者さんとは恋愛が進行しないから。
もし他の患者さんとも全部で恋愛が進行しちゃうというなら
その分その精神分析科の人自体に問題が抱えている。
でもだいたい普通、分析科の人も問題って抱えているはずだから
ミックスして問題って持ち込まれるんですよね。
この2人ならではの起こる問題みたいなものが多分きっとあって
15:00
そういうものと極力キープできるっていうのかな。
そこで治療がダメになっちゃわないように
訓練分析とかいうものを受けるわけじゃないですか。
そういうものを受けるんですよ。
それがもう5年とか10年とかひたすら分析を受けると。
この辺からしても精神分析の世界って実に独特だなと思います。
どうしてもやっぱり将棋クラブとか思い出しちゃうんですね。
プロの将棋指しみたいだなっていう感じがします。
寝ても覚めても分析してるわけですよね。
寝ても覚めても将棋指してる。
じゃないとやっぱりどんな人が来ても
その人を将棋だったら勝てるみたいにはなかなかならないと思うんですよ。
一部特殊な天才を除いてですね。
私はそんなことはできないので
訓練分析これから10年も受けていられないし
10年毎日毎日人と5人も6人も1時間ずつ会ったりもできないですから。
しかも多分その5、6人しかクライアントさんいないみたいな世界ですよね。
だってその人たち毎日来るわけですからね。
原則にどこまでも従うなら。
多分私はそうじゃなくて会議をやってる人は週に1回とかのケースもあると思いますが
それにしたって週に1回ですからね。
しかもこれオンラインでできるのかよっていうと
すごい難しいんじゃないかと思うんですよね。
とはいえ分析をしないにしてもですね
ウッドワイグスを実践する機会は山のようにあるわけですよ。
最初に言うと家族といくらでもやれるんですね。
常に不安を抱かないっていう
一切先のことを考えないというのはほとんど毎秒毎秒が実践になっちゃうんです。
すぐ考え出していた時期がありましたから
今は油断するとある種のことを考えてしまうくらいまで先へ進めたんですけど
何か程度もすぐ考え始めるという時期がありましたから
先のことをですね。先の不安を。
そこからすればだいぶ変わったというか進展はあるんだけれども
でも戻った時はすぐまたすっかり何もかも元に戻るんですよ。
私の場合は妄想分裂ポジションです。
やっぱりこの用語を使うと僕の場合は分かりやすいんです。
自分は完全に妄想分裂ポジションだっていう感じがするんですよ。
戦いがどうでもよくなるんですよ。恋愛ってそういうもんです。
それがどうしたのよってことになるじゃないですか。
それで会って初めて本物だけど、本物になればなるほどにやばいわけですよね。
だから欲打つポジションに踏みとどまるから
せめてそういう欲打つポジションに戻れるような
きっかけを自分に用意できるような
先進状態を保たなきゃいけないんだけど
18:00
保つということができるという段階で
既に恋愛とは言い難いみたいなところがあるわけですよね。
抜き刺しならないっていうのが大事なんだと思うんです。
この抜き刺しならないというのがダメなんですよ、当然。
抜き刺しならないからつい喧嘩して刺しちゃったとか
つい殴り殺しちゃったとかそういう話になっちゃうわけじゃないですか。
抜き刺しならないから。最初の戦いはなんかこうね
家にあるわずかな借金があって
コウロンが始まった程度のことかもしれないけど
なんか急にどこかで抜き刺しならなくなるんですよね。
その抜き刺しならないというのは妄想分裂ポジションで
誰でもここに入るんですよね、そういう時が来れば。
私はどんな人でも1日に1回ぐらいは
プラザのけぞうさんはないかもわからないですけど
僕の感じで言えば大概の人は1日1回ぐらい
妄想分裂ポジションに絶対踏み込んでしまう。
その時にある意味ではこの世の実装に
ある意味では近づく面があるんですよね。
なぜならこの世というのは別に一騎殺だけで
できているわけじゃないですからね。
今ここしかないわけですよ。
こういうところに昔私はすごい思い悩んだことがあるんです。
非常に経緯を理解して物を考えられるということは
すでに非現実的な世界に入っている。
抑鬱ポジションってある意味非常に非現実的な世界に
入っているところがあるわけですよね。
抜き差しにならない方が実装に近いところって
あると思うんですよ。
昆虫の世界とかそうですよね。
喧嘩は殺し合いみたいになっていますよね。
抜き差しにならないですよね、あの世界は。
代わりに経緯というものは無視されていますから
個体にとっては常に妄想分裂ポジションに
いるようなもんだと思うんですよね。
幼児ってそうですよね。
常に妄想分裂ポジションにいると。
だけど私たちはそれじゃ生きられないので
抑鬱ポジションに踏みとどまっているわけです。
妄想分裂ポジションに行くんだけれども
基本的には戻ってこれるようになっていると。
こういったいろんな話を交えながらしていると
無駄になっていくじゃないですか。
でも私の脳内ってこういう状態なんですよ。
常にグダグダなんですよね。
これが整然としていると思ったときは
だいたい何か間違っているんですよ。
単純に言うとイリュージョンを作り出しているだけなんですね。
物語を勝手に編み出しておいて
その物語に沿っているから頭が整然としている感じがする。
実際には非常に曖昧でむちゃくちゃなのを
無理やり偽物の幻想をストーリーとしてこしらえ上げて
世の中こうなっているんだなと思おうと無理やりするわけですよ。
春夏秋冬みたいな感じで。
21:02
大枠で大雑把に捉えればそこに嘘はないんだけれども
代わりにすっごく大雑把になってしまう。
梅雨の日は絶対雨が降るみたいな。
事実に照らし合わせるとどこかに必ず嘘があるみたいな
ストーリーの上に乗っかって生きている限りは大丈夫なんですが
それすぐダメになるので恐怖感に襲われるわけですよね。
今のこの話が私は万能という話とすごく関係があるんですよ。
私が万能感の話で一番言いたかったことは
人は万能なんだってことなんですよ。
万能感というのはいろんな意味で大切なんだけど
実は二の次なんですね。
ここがどうしても前回の喋った感じだと
どっかおかしいなと、どっかおかしく聞こえそうだなと思ったんですよね。
ここもウッドバイブスと似るんですけれども
ウッドバイブスでは最強で傷つかない自分と言いますよね。
そこまでは言えてないんですけど
精神分析の対象関係論という一般の人たちなんですけど
私は万能だってことに間違いはないと思うんです。
そこまで言い切ってないかもしれないけど
私の感じでは万能だというのが基本だと思うんですね。
万能感などというのは万能であることに比べれば
極めてくだらない話ですよね。
だって万能感というのはあれですからね。
子供が先端品物のヒーローであると
自分が思い込む、これが万能感じゃないですか。
これは大事なんだけど
万能であることに比べれば
どうでもいいことですよね。
人は万能だということなんだと僕は思うんです。
ただ、それにはやっぱり条件があったらおかしいんだけど
いくつかの条件が整っている方が
万能という状態を発揮しやすいというのかなと
万能であることを発揮しやすいというのか
一つにおそらく万能感を持っている。
万能なんだから万能感を持っているのはいいわけですよ。
むしろそれが損なわれている方がおかしい。
この話もさっきの店員の話とか
東映ドイツカーの話と似てるんですけど
精神的なポジションみたいな
例えば抑圧ポジションみたいなものと
現実の自分の荒らせ方と
それによって周りの人を巻き込んで
生きていく様子が完璧にリンクしちゃっているので
どっちかだけで語るのは意味がないんですね。
万能なんだけど万能感じゃない。
万能感を失っている万能は
もはや万能とは言い難い万能みたいになっちゃうんですよ。
こういう感じがずっとあるんですよ。
定義性恋愛もそうですし
何でもそうなんですけど
イリュージョンが現実になるみたいな言い方を
蔵野さんもされることがあるんですよね。
これと僕は一番近い部分だと思うんです。
24:04
見たいように現実を見るとかは
まさにそういう感じなんです。
定義性恋愛をやると逆転移みたいなのが起こって
そこで恋愛が本当に起こってくるわけですよね。
でもそれは無意識の
幻想ってのはおかしいな。
無意識の実態のないところから
何か力が働いていって
現実がそういう風になっていくっていう話じゃないですか。
そういう話なんですね。
万能っていうのもすごくそういう感じのものであって
万能ってそもそも一人では何の意味も別にないんで
万能感というものだけでも良くなっちゃうんだけど
現実に万能であるためには
やっぱりいくつかの所条件があるわけだ。
その条件は通常満たされてるはずなんですけどね。
一つは万能感を見失ってないということと
もう一つは外から環境が提供されているということ。
これが母親っていう表現を取ってるけど
環境を供給してるのは現実には母親だけじゃないんだけど
母親が象徴的に環境を供給する
窓口になってるというんですかね。
そういう感じなんですよね。
現実から環境は供給される。
だって例えばミルクっていうのは
母親が作ってるケースも多々ありますが
そうは言っても例えば粉ミルクだったら
買ってきてるわけじゃないですか。
現実から買ってきてるわけじゃないですか。
それを供給されると。
いやいやそんな食事から配配から
おむつの世話からお休みまで
おはようからお休みまで全部面倒見てもらって
万能はないでしょうって言ったら
その人は客観的視点というところに行っちゃっていて
大きな間違いなんですよ。
これが転移性恋愛だろうと
遠いドイツかだろうと確実に言えることは
そこに第三者の視点で見に行っちゃいけないんですね。
絶対赤ちゃんの視点から主観で行かないと
何の意味もなくなる。
なぜそれが万能じゃないと言えるのか。
母親がいなかったら万能じゃないでしょう
って話をするからなんですよね。
それはつまり環境供給が途絶えたら
万能じゃなくなるのは
万能じゃないってことになっちゃうんですよ。
環境供給というのは
太陽の光があって
酸素とか水とか全てを含むので
この世で最も優秀とされて
最も権力がある人でも
裸で路線とかに放り出されたら
即死ぬわけじゃないですか。
こうじゃないから万能じゃないっていう話をする意味は
全然ない。
だから必ず環境供給というのは
もうあるものなんですよ。
ないということはあり得ない。
だから万能でなくても
万能でなくても
ないということはあり得ない。
だから万能でなくなるということは
あり得ないんですね。
赤ちゃんはこれがミニコットの言った
一人でいる赤ん坊なんていない。
必ず母子はカップルなんだ。
これは僕らの状況を指して言ってるわけですよね。
27:00
比喩的に。
僕らは常にたった一人で
孤独に生きているってことはあり得ない。
必ず環境が供給されていて
それとセットで万能なわけですよ。
ここから見ると万能感というのは
大した話ではないんですね。
この赤ちゃんが夢の中で
おっぱいに囲まれていようと
3歳児ぐらいになって
自分がフリキュアだと信じようと
それが万能感というものを
象徴的に意味しているんだけど
そういうことは大した話ではないわけです。
でも失ってしまうと
自分が万能であるということを
完璧に忘れてしまうと
もうダメだ。
引きこもるしかないってことになるじゃないですか。
そうするとその人は万能であることで
という
何て言うんですかね。
自分が万能であって
当然のものがなくなってしまうと
それでもやっぱり万能なんだけど
本当は
もはや社会的には
そういう機能を果たし得なくなってしまうので
万能感を見失わないようにしましょうねと。
そして環境供給というものが
どこから来ているのかも
見失わないようにしましょうねと。
環境は供給され続けるんですよ。
日光は注がれ続けますからね。
だけれども
それがさっきの
何て言うんですかね。
抑鬱ポジションにいなければいけない
大きな理由なんだけど
窓口が基本的には必要で
お母ちゃんだったら
お母さんという窓口が必要で
環境を供給してくれるところは
必ず依頼を持ってくるんですね。
この依頼がですね
話題にも
私の昔やった
J松崎さんの
やったセミナーでも出ましたけれども
依頼ばっかりやっていると
自分のという話は
この文脈からすると
どうしてもやっぱりおかしいわけですよ。
依頼というのは
赤ちゃんからすれば
お母さんが寝ましょうねというのは
依頼ですよね。
もしかするとうざいかもしれません。
でもそれは環境供給そのものじゃないですか。
そういう形になっているはずなんですね。
会社に行ったりなんかしても。
そうするとその依頼ばっかりやっていると
自分のやることがというのを
最初から全てが
自由になるんですよ。
要するに環境依頼
供給されていては
私が自由ではなくなるという話を
し始めてしまうと
自由になるために
土星に行っていきましょうみたいな
そういう話になっちゃうから
最初からそういうことは
問題に本当はなっていないはずなんですね。
代わりに依頼という形で
環境供給を受けるんだけど
そうしていて
しかも万能感を持っていれば
その人が万能であることが
損なわれることは決してないと
はずだと
もちろんこれは
カウンセリングに来る人なので
万能感が損なわれました
どうしましょうというところから
来るんだけど
今のようなことを体感として
思い出すというのかな
再セットすることができれば
30:01
その人はやっていくことができるでしょう
という流れなんですね。
多分そういう治療論みたいなものが
あるんだと思うんです。
実は自分がグッドワイブスで実践して
だいぶ戻ってこれたなと
戻ってこれたというのは
つまり五、六歳児の頃の感覚に
戻ってこれているなと思っているんですけれども
その感覚に戻ってこれるということと
その治療論が非常によく似ているところがあると
その治療論というのは
要するにフロイトが考え出した
治療論ですけれども
似ているところがあると
酷似しているという感じが
あるんですけれども
似ているところがあると
酷似しているという感覚を
自分の中では抱くところがあって
だからグッドワイブスを実践するということが
そのままフロイトを読むという話に
僕の中ではなっていくという
そういうようなことなんだと
それをこの中で喋っていると
30:58

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