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2021-07-07 34:00

【GMV 412】タスクリストをうまく裏切りたい

正解がないのにそれを追求することはできない
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
おかげさまでといいますか、ちょっとぶっちゃけ相談の相談をいただくことができていて、
多分今日収録は普通にできそうかなと思っているんですけど、
途切れるとですね、なくなってしまうと、番組はあれを読むことが基本ですから、
それで僕ちょっと最近思ったんですよ。
なかったらどうなるんだろうと思って考えたんだけど、
あれはですね、読むってことに意味があるようなところがあるなって思うんですよ。
今日はちょこっとそういう話をします。
なので、まだ出したことがないという人は、悩みってあるんじゃないかとこの際も思うんで、
まあまあそんな悩みって思われるかもしれませんけど、
本当は悩みにあまり代償って意味がないと思うんで、
よろしければですね、匿名なんで。
しかもやっぱり最初の人って言うのはありがたいんですよ。
なんて言うんですかね、やっぱり番組のぶっちゃけ相談という番組のYouTubeでやっている動画のですね、
異論がまた増えるわけじゃないですか。
そこがいいかなと思うので、何かあればぜひ遠慮せずですね、
実名を出すとすぐわかっちゃうような方でも匿名だとわかんないと思うんで、
自分は自分のことだからわかってると思うんですけど、
人はですね、そんなことわからないんで、よろしければお寄せください。
来すぎて困るってことはないんで、そういう感じで一つお願いします。
今言った話に関連するんですが、
もう一つあった、10日ですね。
今日は7日ですけど、10日に勉強会ありますんで、これは罪悪感。
罪悪感ってのは罰が問題なんですよ、一つには。
罰を与えないと完結しないということが問題で、
必ず罰を与えたくなるというのが最大のポイントです。
ムカつくとか、心がもやもやするとか、
全部罰されてない何かに対する未完了タスクを持ってしまっている。
しかもそれに極めて強い情緒的な何かを持っているという、
こいつのことを罰したいというものを罰せずにいることが最大のポイントですよね、この場合。
これを何とかしたいということなんで、これを手放せるとですね、
どんなに楽かということなんですよ。
人を罰さずに済むことほどいいことはないんですよ。
そうじゃないと思っている方がとてもいっぱいいらっしゃるんですけど、
本当に人を誰も罰さずに済むことほどいいことはないんで、
罰しても絶対に相手は心から復讐するとかってないですから、
必ず相手は復讐の機会を伺うだけなんで、ものすごくこれは割が悪いと思うんですね。
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しかもこの罰したいという気持ちはイリュージョンなんで、
そうは思えないんですけどね。
そうは思えないんですけど間違いなくイリュージョンなので、
ぜひその辺のことをまた整理し直したいくらいの感じでもいいんですけど、
よろしければ当日でもご参加いただけます。
すごいんで、私がかつてセミナーをやっていた時では
考えられないような蔵園さんとやる時というのは、
もう何でもありみたいなところがありますんで、
途中で参加もできちゃうとか、
当日とかも昔は絶対ありえなかったですからね。
当日もできてしまいますし、全然いけます。
時間もめっちゃ延長できたりもしますしね。
結局のところ延長とか言ってもですね、
その場では考えつかないことも多いから、
ものには限度というものが必ずあるんですよね。
いくらでも時間が延ばせるという一方で、
そんなにはできないんですよ。
参加している人も、主催している人も結局。
だから、いつでも出られて、いつでも入れて、
というのは非常にいろんな意味でいいんで、
そういうのでもあると。
オンラインだから特にできることっていうのもあります。
リアルな会場ですとできませんからね。
結局そういうことは。
この話も関連しているんだけれども、
私が最近気づいたわけでは全然ないですけれども、
すごく、
意識するようになったのが、
さっきの罰とも絡むんですけど、
必然的じゃないことをいかにできるかっていうことだなって思うんですね。
自由な空間のいいところは、
要するにそういうことで何をしてもいいじゃないですか。
何をしてもいいということは、
それを絶対することになっている、
それじゃないことができるってことなんですね。
よくこういう話をすると脱線という話になるんですけど、
脱線というのは、
真っ黒すぎるんですね。
もっとミクロに脱線しようということが思うんですよ。
最近ちょっとご相談いただいた件で、
私もこのことをよく考えるなと思ってたんですけど、
挨拶の難しさってありませんかね。
私結構挨拶って難しいってよく思っちゃう方で、
例えば挨拶をして無視されましたとか、
気づかなかったですみたいなのってあるじゃないですか。
結構これがことを深刻にするケースもないわけじゃないですよね。
それで僕はすごい昔からそのことをよく悩んでたんですよ。
子供の頃は特にですね、挨拶できねえって思ってたんですよ。
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本当に気づかないことも結構多い子供で、
子供の時に思ったことを不意に思い出したんですけど、
挨拶を例えば無視されたと、相手気づかなかっただけなのかもしれないですけどして、
その時になぜ深刻になるんだろうっていうことを考えたんですね。
挨拶をしながら挨拶をしながら挨拶をしながら挨拶をして、
その時になぜ深刻になるんだろうっていうことを考えたんですね。
深刻になるというのは必然的な何かを感じるんですよ。
必然性みたいなものを感じるんです。
喧嘩する人って割とそうじゃないですか。
一杯一杯になるじゃないですか。
一杯一杯にならないと喧嘩ったりもしないですよね。
先日も先々日もコンテインって話しましたけど、
心の余裕というのか隙間って、実は心の隙間なの余裕なのか、
心の広さとかスペースって全部おかしな表現なんですけどね。
イリュージョンですよね。
心がなぜスペースがあることになったんだ、いつからだって話あるじゃないですか。
話はないですけど、心は物質じゃないから、
本当はスペースとか余裕とか広がりとかいうのはおかしいですよね。
何かでも我々は共通のイリュージョンとして持っているということは、
そういう感触があるんだと思うんですよ。
このスペースがいっぱいになるということを、
僕は今、基本避けるべきだと思っているんですね。
喧嘩する人ってここがいっぱいになりやすい感じがありますよね。
短期ってそういうことかなと思うんですけど。
挨拶というやつ、あの時なぜ私たちはいっぱいになっちゃうの?
みんななるわけじゃない。
たぶん気楽にできる人もいると思うし、
僕も開けようと思うんですけど、
昔ですね、だから子供の時思い出したんですけど、
この時舌出してあっかんべーってやったらどうなるんだろうって考えたことがあるんですよ。
ものすごいこのことはですね、
ある時心を捉えたんですよね。
本当にやったことが実はあるんですよね。
何も起きなかったんですけど、残念なことに。
心の余裕っていうのは、
その時にいろんなオプションがあるということを忘れないってことだと思うんですね。
で、私最近こうタスクシュートやってるじゃないですか。
これ最近始めたもんじゃないですけどね。
僕は今日やる一応リストを全部持ってて、
1分以上かかることは特に、
そうだな、今日トイレの話はぜひしたいとさっき思ったんだな。
1分以上かかることは絶対に開始集中して、
開始終了時刻を入れるんですけど、
これをいかに上手に裏切るかだなっていうのを最近すごく考えるようになったんですね。
この通りにきっちりやれるのがベストだって考え方、
私は昔から同意できなかったんですよ。
いろんな理由がありますが、
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とにかくそういう機械みたいなことをしちゃいけないって思ってるんですね。
これはコンピューターのプログラムのようにっていう表現があるんですけど、
そうなっては絶対ダメだっていうのが昔からあるんですよ。
理由は非常に単純でして、
生き物はそんな風に絶対動かないんですね。
生き物って見てると思うんですけど、
いかに機械的じゃないかっていうのを思い知らされるというか、
私たち、私、私じゃない、家で庭とか作ってたりするとですね、
こうなってほしいってどうしても人間は思っちゃうんですよね。
この辺に葉っぱ生えてほしいとか、茄子なってほしいとか、
だいたい確実に裏切られるんですね。
結果見ると、いつ見ても自分の浅はかさというものを考えさせられるんですよ。
脳ないじゃないですか、植物なんて。
無意識とかいう言い方をするのすらどうかと思うんですけど、
非常に正しい方向に向かってたんだってことを、
いつも考えさせられるんですよ。
いかに人が先に考えたことがダメかっていう、
これほどはっきり示してくれるものはあんまなくて、
大変僕はある意味ハマってるんですが、
自分同じのはずだよなって思うんですよ。
絶対に機械のように動き出してしまったら、
僕の中ではそれはもう最悪の動きに近い可能性が高い。
最悪も最善もないんですけどね。
ここが非常にからくりなんだと思うんですけど、
でも理想としては、
必然なんですよね、ある意味植物の動きというのは。
ただ私がその必然が分かってないだけで、
こういうのがいいって思っちゃう何かがあって、
それが全然よく分からないんですよね。
非常に不思議な感じで機械を裏切られて、
これをやれるようにある意味なりたい。
そうするとタスクシュートっていうのをやるのは、
あんまりそのという意味では、
あんまり褒められた話じゃないんだけど、
でもタスクシュートを見ていて思うのは、
これはある種の必然だと思うんですね。
朝起きる、必然じゃないですか、朝起きるのは。
私にとってはほぼ必然なんですよ。
さっきトイレって言ったんだけど、
トイレってめちゃくちゃ必然なんですよ。
なんでこのことをあんまりタスクシュートでも、
タスク管理でも強調されないのか、
僕は非常に不思議なんですよね。
いつもこれは生涯かけても伝えようぐらいなノリなんだけど、
なぜみんながトイレとかの話をしないのかが、
分かんないんですよね。
先送りって皆さんよく言いますよね、
トイレどのくらい先送りできてますかっていうことなんですよ。
一つにはね、明日トイレ行こうとかって無理ですよね。
絶対無理だと思うんですよ。
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必ず行きたいと思ってから、
おそらく数時間以内にそれは実行されますよね。
この力がもう間違いなく何が何でも働いちゃいますね。
このことを考えてみると、
私たちは意志力が弱いとか、
意志の力が当てにならないとか、
実行力がないとか、
全部デタラメだと思うんですよね。
必ずその人は絶対に必要なことは絶対に実行するんですよね。
ただただしたくないことはしないっていうだけだと思うんですよ、これは。
そしてせずに済むってことは、
その程度のことなんですよ。
どんなことであっても、
せずに済まないことは絶対にしますよね。
呼吸とかね。
呼吸はいいんだけど、呼吸って記録に残るようなものでないので、
やっぱりトイレっていいなと僕はいつも思うんですよね。
しかも終わった後必ずいい気持ちになってますよね。
だいたいよほど調子が悪い日でもそうだと思います。
僕はだから低気圧とか湿度とか信用ならないと思うんですよ。
肉体が気持ちよくさせるぞって決めたら、
肉体は必ず僕のことを気持ちよくさせちゃうんですよ。
このことにミスとか失敗とかが起こらないんですよね。
絶対そうなっちゃうっていうのがあるんですよ。
絶対私は逆らえないんですよ。
肉体がこれをさせるぞと私に決めたら、絶対それはさせられるんですよ。
だからこれをせずに済むとか言っているのとか、
意思力がどうのこうの言ってるやつは、
全く本気になってないことなんですよね。
何か調子悪いなとか言う、あるいは気分悪いなというのが通ってしまうときというのは、
肉体はそんなのどうでもいいと思っているんですよ。
本当に僕の気分を良くしなきゃならなかったら、肉体は必ずそうしますよね。
これは非常に僕は大事なことだと思っているんです。
いつでも気分は良くなれるんだって思うんですよ、つまり。
放置されているってことは、その程度の状態にあるんですよ、きっと。
で、今の話なんですけど、つまり必然っていうことがあって、
タスク手動のリストを見ると必然のリストなんですね。
私のリストはもう、やるかやらないか分からんとかできたらいいなっていうのは絶対入れないんで、
なぜなのかというと、必然を裏切るためにやっているからなんですよ。
必然に乗っかるっていうことは、プログラムじゃないですか、機械ですよね。
人間であればもっとできると思うんですよ、いいことが。
植物にできるんだから、できないとは思えないんですよ。
そうすると、必然のことをただ必然的にやっているだけじゃダメなんですよ。
だいたいトイレって予測通りにならないんですよね。
まさにこの順番に来るだろうってところに僕は置くんだけど、裏切られるんですよ。
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これが大事なんですよね。多少ですよ、完璧に裏切られるわけじゃないけど、
多少裏切られるんですよ。大きい方しか描けませんけどね、わざわざ。
でも裏切られることに間違いはない。日々裏切られるんですよ、微妙な形で。
これなんですよね。これをなぜ自分ができないのかと。
なぜ肉体は正しいことを、正しいというのかな、
最も適切なタイミングというのが分かっているのに、
私には分かっていないな、どうしてなんだろうって一つ思うんですね。
これちょっとグッドバイブスと言っていることと反対に聞こえるかもしれませんが、
私は反対じゃないと思っているんですよね。
その辺は今日は説明しきれないので、別の機会にします。
この必然のリストがあって、とにかくこれにのっとってやっているだけでは絶対僕はダメだと思っていて、
それではもったいなさすぎると思うんですね。
これを何とか挨拶の時に舌を出すように、赤んべいするようにですね、裏切りたいんですよね。
ただ、脱線すりゃいいっていうのでは全然ダメなんですよ。
さっき言った真っ黒すぎるというのはそういう意味で、
必然的な行動をただしないということではどうせそれはするから、
許されるという、それでは何にもならないんですね。
原稿を書くってあるのは必然なんですよ。
もう今日書かないとしてもどうせ書かなきゃならないんですね。
書くんですよ。この時にYouTubeを見るとかではないんですよ。
そのようなことをやっても子供騙しでしかなくて、そうじゃなくて、
書くんだけど、なんかこう、もっとうまく巧みにこのリストの裏を書くような書き方をしなきゃいけないと思うんですね。
このまんま書けばいいってことは絶対なくて、この通りの順番でやればいいってこともないんですよ。
うまく出し抜いてもっといい結果にできるはずなんだと思うんですね。
そのためにはもっとミクロのところでなんかこう、余白が必要なんですよ。
余白も必ずあるんだけれども、余白がなければ絶対ダメだと思うんですね。
余白がないということは、駅で喧嘩するのと同じで、つまり何もスペースもないときに起きる現象ですから、
最近先日ですね、すぐわりと近いところで水出ましたけど、
ああいう風になってしまったらもう逃げるじゃないですか、人間というのは。
これしかないですよね。リストに何か書いてあるとか論外で逃げるしかないですよね。
これはもう必然中の必然で、それは余白がないときの現象なんですよね。
で、余白があるときにまで余白がなくなってしまうというのは、
要するに妄想分裂ポジションなんですね。
だから私は罰するとか攻撃するとか怒るというのは、最後の最後の最後の手段なんだろうなと、選択肢なんだろうなと思うんです。
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通常は封印しないといけないというのは、すぐそこに行ってしまったら、
すぐに私たちは必然的な行動しか取れなくなるじゃないですか。
自由全くどこにもないですよね。
相手にバカにされました、殴るみたいな機械になってしまうんですよね、そういうことをやっていると。
そこまで極端なケースはあんまないですけど、やっぱりそうは言っても、私も身近な人で知らないわけじゃなくて、
非常にピリピリしているというのかな、自己境界線みたいなものなんだろうと思います。
そこを浸食されたと思うと顔色が変わるという人は知らないわけではなくて、
たぶん誰でもある程度、一人や二人は知っていると思うんですけど、
やっぱり非常にいっぱいいっぱいですよね。
コンテナに入るものはほとんど隙間がない。なぜなのかはわからないけどない。
そういう人の番やっぱり入れるわけにいかないとみんな思っちゃうから、
余計その周りの空気は必然に満ち溢れたものになってしまうんですよ。
怒るか怒らせないかぐらいのノリになってしまう。
僕はだからそういう時に何か遊びがいるんだと思う。
遊びっていうのはつまり、ブレーキの効かない部分も遊びって言いますけど、
そういうことであって、必然性のないこと。
用もないのに人に会うっていうじゃないですか、それは遊びじゃないですか。
私そういうのを今増やしたいと常に心がけているんですけど、
タスクシュートをやっていると必然的なことがどうしても目についてくるので、
自分は必然的な行動を取ろうとしてしまうんですけど、
極力全ての行動の中で、ある意味全部を遊びにしていくみたいなのが目指されたいところなんですね。
僕の今の感じとしては。
そうしないと、結局それはそれでいいんですが、
僕の感じではそうしないと自分が生きていることにやっぱりならないと思うんですよね。
自分が自由であることにもやっぱりならないと思うんですよ。
そこでそのリストを表面に現れない形で裏切りたいっていうのかな。
そういう感じを持っています。
これとまた関連してなんですけど、
遊びっていうのは、僕の知っている言葉の上で言うと孤立っていうことなんですね。
孤立っていうのはウィニコットって人の表現なんですが、
孤立っていうのはドナルド・ウィニコットか、
あれもフロイトの方面の人なんですけど、
フロイトですよね、フロイト派です。
派っていうのはおかしいのかな。
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精神分析家です。
有名な人で、意向対照っていう表現を使うんですけど、
やっぱり一番それを感じるのはテレビ、ドン、野球なんですよ。
野球を見ているときっていうのは、
僕は容易にできちゃうんですけど、昔からすごい好きだったからなんですけど、
野球場に入っちゃうんですよ、テレビを見ていると。
これは比喩ですよ、むろん。
でも僕の感覚では比喩じゃないんですよね。
パッとこの家の空間からそこへ行けるんですよ。
本当に容易なんです。野球だけです、これができるのは。
これを僕らはするとき、孤立するんですよね。
非常にコット的に言うと。
孤立するじゃないですか。
だって他に誰も野球場に行っている人いないわけだから、僕だけが行くわけですよ。
その場にいながらですね。
そういうことってありますよね。
映画とかを見ていて入り込んだときとか、漫画を読んでて入り込んだときとか、
僕は割と頻繁に起こる方だとは思うんですけれども、
割と完全に入り込んじゃう口なんですね。
これをやったときに他の人と一緒にいるんだけどいなくなる。
これが大事だというのがミニコットの言い分なんですね。
これが全く正反対ののが引きこもりだって言うんですよ、彼の表現。
引きこもりって表現なんですよ、ほぼ。
withdrawalですね。
どういうことかというと、人と人との間についた手を、自分と人との間についた手を立てる。
二人で野球行ったりするとするじゃないですか。
野球場にデートとかでもいいんですよね。
映画の方がいいですね。
映画を観に行くみたいなのがあるじゃないですか。
そうすると、何ていうのかな、映画を観に行くと、
二人でいると孤立できないんですね。
一人で見てれば多分完全に入り込んじゃうんだけど、
二人で見ているときには、
二人ともスクリーンを見ているはずなんですけど、
相手のことを意識してしまうと完全に入り込めませんよね。
このときに相手のことを意識しすまいとするのが、
引きこもるってことだと思うんですね。
そのときには、人は孤立できないんですよ、ミニコット流に言うと。
一人になりきれないから。
これが多分、苦痛でしょうがないケースが、
実質に入り込むっていう形になるんだと思うんです。
こういうことが起きるケースっていうのは、
一時この番組でよくジゾイド、スキゾイドとも言ってたけど、
分裂的っていうことになるんですけど、
なぜならば、映画を観ている自分とこのケースで言えば、
相手のことを意識している自分に二つに引き裂かれますからね。
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この状態が続くんですよ。
ある種の人にとっては、どこへ行っても人がいるところであれも、
だから人がいないところに行かなければならないんですね。
そうするとその人って、ある意味では常に人と一緒にいることになるじゃないですか。
非常に逆説的なんですけど、
私が家の中にいて野球場に行っちゃうのとは全く逆の現象じゃないですか。
だから、孤立と引きこもりっていうのが対義語になってるんですけれども、
必然になるんですよ。
この部屋にいるということは、この部屋にいるということじゃないですか。
そこに必然性がありますよね。
私が野球を観ているのは遊びですけれども、必然性がなくなりますよね。
どこにいるんだか分かんなくなる。
この種のことって、実はタスクシュートに記載しにくいことなんですね。
例えば、私がグッドモーニングワイブスをしましたと、
でも頭の中は完全に全く違うことを考えていましたと。
どっちを書くべきだっていう話が出てきますよね。
私はこれをポジティブに活用したいんですね。
どこにいるかはどうでもいいことになっていきますよね、そうすると。
そして何をしているかもだんだんどうでもいいことになっていきますよね。
つまり、自分がここにいるというのは必然的なことなんですけれども、
引きこもりっていうのは、誰かと一緒にいることが誰かと一緒にいるということになっちゃうんですよね。
そこから逃れられなくなる。
人の気配を感じるとかって言うじゃないですか。
そこから逃れられなくなるわけじゃないですか。
この必然的な状態に人がずっと置かれるというのは、基本的には苦しいことだと思うんです。
それはどうしてかっていうと、結局多くの場合は何かを、何か肉体にまつわる何か恐怖があるせいで、
そういう何らかの恐怖っていうものは、私たちを必然的な状態に置くんだと思うんですよ。
だってそういうふうに認識しないとですね、いざ何かが起こったら大変ですからね。
相手が何か殴りかかってきた時に逃げなきゃならないとか。
こういう時に私たちはイリュージョンを見るんだと思うんですよ。
結局そういうことは起こらないじゃないですか。
起こらないと、信じきっていないと、どっかに行っちゃったりできないですよね、心の中で。
このどっかに行っちゃったりするというためには、安心しきっているということが何よりも大事で、
そのためにはやっぱりこう、結局グッドバイブスで言う話みたいになるんですけど、
信頼しきるということが大事なんですよね。
ミニコットはこれを母親っていう表現を取ったんですよ。
信頼しきると、逆に言うと信頼しきれないと、
必ず偽物の事故っていうのが現れて、そいつが何かを見張ることになると。
外をですね、見張ることになると。
これを分裂と彼は表現したんですね。
さっきので言うと、人の気配を見張るわけですよね。
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これは非常にまた逆説的なんですけど、見張っているときは常に感じられるものだと思うんですよ。
人の気配がするかしないかなんて、本当は分からないじゃないですか。
でも必ず分かるっていう方もいらっしゃるじゃないですか。
それは警戒心の高さの問題だと思うんですね。
警戒心が高くなれば高くなるほど、必然的に気配というものを感じるってことになる。
全部問題になってきているのは、ある種の逃れられなさだと思うんです。
これって非常に変なもんで、既読スルーとかでもそうですよね。
恋愛関係になるととかこそうじゃないですか。
考えたくないことを考え始めて、逃れられなくなると。
それについて考え始めて、逃れられなくなると。
考えたくないことを考え始めて、逃れられなくなると。
それについて考えるのは必然みたいになっていくんですよね。
考えなくても全然いいんですけど、他の人の目からすれば。
私が非常に家の中のことを恐れていると。
奥さんがこう言ってきたらこう言おうとか、
こういうふうに言われたらこのように返そうとか、
それを考えておくことは必然みたいになっていくんですよ。
考えずに過ごせばって言われると腹が立ってくるんですね。
考えずに過ごすのは無防備すぎて、
それじゃ人間の能力を使う意味がないぐらいの勢いになってくるんですよ。
それぐらいこういうことに徹底的に防御していくっていうことが、
自分にとって一番安心な結果をもたらすと信じるようになっていく。
そうするとやっぱりここに必然性ってものが出てくるんですよね。
スクシュートって面白いことに、私は最初はそういうリストでした。
これをやっていれば税務署にとりあえず言われないとか、
これをやっていれば老後にお金がゼロにならないとか、
全てこれをやることの必然性というものを追求していくリストになってたんですよ。
今いかにそこを壊していくかっていう方向なんですけれども、
そのためにこのリストはある意味あるんですけどね。
いかに必然的でなくしていくかっていうことなんです。
ちなみにこの話、私の話をしているのであって、
スクシュートを使いましょうって話では全然ないです。
このグッドモーニングバイブスの話って全部そうで、
正しさってものはここには何もないんですよ。
手放すって話もグッドバイブスにはもろんあるんですけど、
それよりも何よりもこの話は私の話なんですね。
よく再現性って言うじゃないですか。
そんなものはないんですよ、こういう話には。
これは科学やってるんじゃないんで、
私にとってある種の合理性がここにあるんだけれども、
だからこの話を頭から信じないでくださいねって話に結局なっちゃうところもありますが、
リドマス試験紙、赤いのをアルカリ性につけたら青になります。
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これは私次第でやったらダメじゃないですか。
誰がやっても、つまり私がいなくても赤は青にならなければいけない。
科学っていうのは全部そういうものであって、
少なくとも自然科学で厳密なものはそうであって、
私抜きで成り立つから科学なんですよね。
私がいるときは必ず青くなるんですけどねって言ったら、
明らかにごまかしがあるじゃないですか。
でもグッドモーニングバイブスで喋ってるようなことは、
私がいなきゃ成り立たないんですよ。
これは全部私に関することなんです。
他の人にはある意味では参考になるところはあるかもわからないんですけれども、
直接それが同じ形で再現されることはきっとないと思います。
そういうものではないですよね。
だから正しいというのもいろいろなんですけど、
少なくとも科学的なそれではないと思いますね。
再現性はないと思うんですよ。
私についてだってどうかと思うくらいなんですね。
だからタスクシュートを使うにあたっては、
書いてある通りにきっちりやっていくっていうのが正しい人は、
そうしないとダメだと思うんですね、むしろ。
私はそうしないようにする。
これは両立しないとおかしいと思うんですよ、やっぱり。
科学じゃないってのはそういうことなんですよね。
これが不思議だって思われるというのは、
私にはむしろ不思議で、
それはよっぽど科学の教育ってものなんですけど、
科学の教育ってものが行き届いてきたんだろうなとは思います。
それだったら、政治とかすぐめちゃくちゃ危険な状態になるじゃないですか。
全員同じ人に投票するっていう世界ですよね。
そういう科学的に正しい世界って、
すぐ隣国の北ぐらいのものですよ。
あそこは100%同じ人に投票されている。
あれ明らかに不自然じゃないですか。
つまり、正しいってのは、科学じゃない場合は、
ああはならないんですよね。
だから私の話も全部そういうもんです。
正しいからこうしましょうっていうことでは、
まったく正しいからって部分がどこにも成立しないんですよ。
これは私がそうしようとしているっていう話であって、
再現性というようなものは、もともと考慮の範疇外ですよね。
しかも私はそれは大したことだとは正直思えないんですよ。
この人のことを、こうすれば必ず幸せな人生が送れるとか、
そういう充実した時間が過ごせるということになるはずがないと思うんですね。
そういうのって、リトバス試験紙じゃないんで本当に。
そんな風にはならないはずなんですね。
結局、そういう結論で私は、
いかにミクロな世界の中でオプションをいっぱい意識できるようにするかと。
マクロにオプションを意識するだけではダメなんですよね、きっと。
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ミクロに意識できるようになっていくのでないと、見過ごしてしまう。
結局、必然性というものを考えながら、
それはやっぱり必然じゃないんですよ、本当はね。
お金がなくなってはダメだとかいうのは必然なようですけれども、
そうじゃないはずなんですよね。
だからマクロに見ていくだけだと、
大して小学生の言うことと変わらなくなってしまうので、
やっぱりもう少し考えていくとですね、
ミクロにミクロになっていく。
そうすると、たぶんですけれども、
いつもいつも意外なことを考えてしまう。
たぶんですけれども、
いつもいつも意外性というものがないと、
おかしいんじゃないのかなというふうに、
最近すごく思うようになりました。
やっぱりこうですね、挨拶をするときに舌出すというのは、
意外性というものを意識していたんですよ。
子供っぽいですけどね。
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