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おはようございます、グッドモーニングバイオスです。
おとといですかね、セミナーで、傷つきやすいというテーマでやったんですけれども、
その時、私が話した内容というよりは、倉田の啓造さんが喋っていた内容を聞いてつくづく思ったんですが、
結局、結局って言うほど単純ではないんですが、傷つきやすいという時に一番やっぱり問題になっているのはですね、
間違いということなんだなと、思いました。
結局間違いって言うからには正しさって話が出てきちゃうんですけど、 正しさにまず行く前に、
間違っているのはどっちなのか問題なんだ、これはと思ったんですね。
で、今に始まったことではないと思うんですけど、それにしてもですね、今は傷つきやすいというキーワードが極めてこう、
やっぱり言ってみればバズってるに近い状態だと思うんですね。
で、これ結構そんなに最近のことではなくて、 私が大学生の頃も結構傷ついたとか言う、傷つけたという言葉はですね、
重大なワードだったんですよ、割と。そんな気がします。
で、傷つきやすいということは、結構セミナーの中で
考えていたんですけれども、
なんというか、意外に広い言葉で、 この中にはいろんな意味が含まれているんだなと思ったんですね。
で、ただ共通して言えるのは、共通して言えるというか、傷つきやすければ傷つきやすいほど、
間違いは許されないという、 間違いを許してはならないという傾向が強くなっていって、
そうするとですね、
どこまで、どんなコンテクストにおける間違い、 誤りであれば許容するかと、
いった問題になっているんですね、これは。
で、結構ですね、人によってそういうものに 幅は当然あるわけですけれども、
意外に間違いというものに対して、 私たちは寛容でないんですよ、きっと。
で、特に嫌なのが、
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自分が間違っていると責め立てられる。 その時もいろんなパターンがあるんですけど、
対別して、自分が確かに間違っているケースと、 そもそも相手が間違っているケースとあったりするわけですよね。
で、当然、相手が間違っているケースの方が嫌なわけですよ。 自分間違ってないんだから。
なんですけれども、相手が間違っているんであればですね、 ある意味優位に立てているわけじゃないですか。
それは相手が間違っているから。 自分が本当に間違ってて責め立てられている場合には、
もうどうしようもない面がありますよね。 これを避けたいというのがですね、
傷つきたくないという表現で言い表わされているんだなと。 だからなんですよ。
だから私のライフハック、私の仕事のメインは ライフハックであり心理学でもあるんだけど、
合流地点にこれから多分ますますバズっていく ではないかと思われるワードにHSPというのがありますが、
これについては今日は深入りしないんですけれども、 このHSPでも何でもそうですけれども、
なぜライフハックと傷つきやすさが合流できるかというと、 間違いたくないからだと思うんですね。
で、間違いをすべて未然に防ごうと。 自分は一切間違わない人間になろうという
一つの方針を立てた時、ライフハックというものが 有効に働くと考えられるのではないか。
その発想はそれこそ間違ってますが、 つまり無理ですけどね、そんなこと。
無理ですがそういう期待を寄せられるということは あるだろうなと思うんですね。
で、さっき途中になったけど、 傷つくということの中には人から責められるということがあるんですよ。
で、その人から責められる場合にも、 相手が間違っているケースと自分が間違っているケースとありますが、
自分が間違っているケース、両方の中に今度は相手の 責め方が間違っているケースっていう、
そもそも責めることが間違いだという 言い方もありますけどね。
例えば、あまりにもひどい言い方をするとかって 言うじゃないですか。
ああいうことですね。
あるいは、もっと他にやり方があるだろう っていう言い方もあるじゃないですか。
あれもそうですね。
つまり、どこまでも問題になっているのは 間違いなんですね。
間違い探しみたいなところがあるんですよ。
で、この間違いによって 私たちは傷つくと思っているんですけれども、
傷つきやすい人ほど、途中で言った通り、 あらゆる間違いを正していかなければならないと感じているんですね。
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で、これはなぜかというと、ここがですね、 心理学的でちょっと分かりにくいかと思うんですけど、
これはなぜかというと、 超自我が極めて否定的で強い…
本当は強くないんだけど、 超自我が極めて否定的に機能しているために、
その人の世界はいつもですね、 傷つきやすくない人に比べれば不安定なんですね。
超自我ってのは私たちの心の中の指導者だと。
多くの場合は親ですが、そういうもんだと思ってください。
私たちの中のと言っているのはですね、 もちろん実際の両親やら、教師やら、コーチやらが関係してはいるんだけれども、
それらの総合的な存在なので実体はないんですよ。
で、誰を特に参照すればその超自我に近づけるかというと、 まあ親でしょうけれども、イコール親ではないので、
ちょっとですね、ちょっとモンスターっぽいんですよ、それは。
私たちの道徳的指導員みたいなもんだと思ってください。 内面的な。
で、これがですね、否定的に働いてばかりいるというケースが、 これはだから指導者なので、
いろんなものがあるんですよね。 価値観を示したり方向性を示したりと。
大概余計なお世話感もあるんですけれども、 まあそういうものなんですよ。
で、問題なのはこれがとても常に否定的な存在である場合、 何かにつけて否定をしてかかりたがるわけですよ。
まああれですね、昔の嫁シュート目問題の、 すごくうるさいシュート目側のみたいなもんだと思ってくれればいいと思うんですけど、
例えば自分と全く関係ないようなものを見ても批判するわけですよ。
で、これがどうして私たちの問題になってくるかというと、 結局それは私たちの中で起こることだからだと思うんですね。
なんかこう、都知事がこう言ったみたいなのに対して、 長寺賀が批判するわけですよ。
でも長寺賀っていうのは私たちの内面だから、 結局それは私たちが批判的に感じていることと、 自分にとっては同じ意味になっちゃうわけですね。
なんでもあるんですよ、これはもう。 道にゴミが落ちているっていうのを見ても、長寺賀は批判するわけですよ、そのこと。
そうすると嫌な気持ちになるわけですよね、言ってみれば。
で、この嫌な気持ちになるということがですね、 当然この種の長寺賀を抱えている人はとっても多いわけじゃないですか。
ツイッターとかをタイムライン眺めていれば、 すぐにこれが起動して、ありとあらゆることを批判したくなるわけですよね。
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だってそれはその長寺賀的世界からすれば、 許せないことがいっぱい起こっているわけだから、
この人のこの言動は許せないし、 あの人のあの言動も許せないし、ということになるわけです。
我慢はすると思うんですけど、 我慢するってことは既に気分が悪いってことなので、
これがですね、たぶん長寺賀がそれほど否定的に機能していない、 否定的に機能しない長寺賀を持っている人からすると、
眺めてても全く腹が立たないわけです。
つまり全然違う世界に住むことになるわけですね。 何をしてても。
ってことがあって、この批判的長寺賀を持っている人は、 傷つきやすいわけですね。いろんな意味で。
まず、批判したい存在が常にそこら中に溢れているのに批判できない。
既に傷つきますよね。 例えばこう、
なんか、無遠慮にどんどん音を立ててくる人がいる。
批判的な長寺賀を持っている人はめちゃくちゃ批判すると思うんですよ。
でもその人がすごい怖そうな人だと何も言えない。 こうして傷つきますよね。
こういうことが頻繁に起こると思うんです。
で、結局これって私たち誰もがある程度持っているので、
極論すると私たちはみんな傷つきやすいんですよ。 フロイトがある程度でも正しければ。
あんなフロイトもそうですけどね。 つまり、
批判的な長寺賀、長寺賀というのはある程度批判的ですから、 それはそうじゃないと機能しませんよね。
なんかそこら中でおしっこしましたっつってても、 ほとんどニコニコしているご両親というのは非常に少ないと思いますよ。
やっぱりそれは怒られるじゃないですか。 それが内面化される。
内面化されるという言い方が分かりにくければ、 しっかりと清くされる。だからトイレに行くわけですよね。
フロイトはすごく長寺賀とトイレトレーニングの関係について、 こと細かに分析してるんですけど、そういうことをですね。
そうすると、そこら辺で汚いことをしている。 例えば、今でもたまにいますよね。
ツバをペット履く人がいる。 傷つくわけですよ。
その人に向かって内面が批判するということは、 内面的な批判をする、そういう記憶をしっかりと持っている人からするとですね、
嫌な気分になるじゃないですか。 でもそこでまた何か言う言わないというのも一つの
分岐点みたいなものになりますよね。 言うべきか、黙って見過ごすべきかみたいな。
これを重大視している人にしてみればということですよ。 そうすると、いろんな場面でこのことが起こってくると思うんですね。
つまり、間違いを見過ごせないということは、 傷つきやすいということだと思うんです。
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こうやってありとあらゆるものを批判していればですね、 この人は文章大したことがないのにブログを書き上がってとか、
この人は英語大したことないのに有料で漫画売り上がってとか、 いろんな批判があるわけじゃないですか。批判というものは。
例えば、細かいことを言えば、余白の使い方がなってないのに、 製本して本を出そうなんてどうかしているとか、
見た途端にいろいろなことを考えるわけですよね。 考えさせられるという言い方をしてもいいと思います。
それは内面に持っている、自分の指導員がそのように批判するので、
それに対して私たちの自我がですね、 そんな批判を当たらないんじゃないかと内面で葛藤することもあるわけじゃないですか。
自分の親に対して自分の親が必ずしも正しいわけじゃないっていうことで葛藤することもありますよね。
そういったことのすべてがですね、やっぱりいろんなシーンで自分にとってですね、自分にとって、
言ってみれば批判してくるような感じになってこざるを得ないと思うんですよね。
そうやっていろんなことを批判していれば、いざ自分がブログを書こうとした時に、
当然こう批判的なものが自分に、自分でそう批判した以上、そういう批判が自分に戻ってこざるを得ない。
しかもそれに加えてそこを頑張って、自分の内面の親は黙らせて頑張ってブログを出したとしても、
まさに自分の親が言いそうなことを外から言われると傷つきますよね。
このようにしてその、誤りとか間違いというものが、の可能性がですね、すべて。
世の中で行われているすべての間違いと、自分が行いそうなすべての間違いの可能性が全部潜在的には自分を傷つけるわけですよね。
これが傷つきやすいってことなんだろうなと思うんです。
で、当日クラゾンさんが話したもう一つ大事なことにはですね、
とはいえ心は傷つかないっていうのがあって、傷つくのは肉体なんだって話があるんですね。
これは私がよく言ってみれば、
コルチゾールで、体の中にコルチゾールが分泌量が増えてくれば、
まずは副陣がその影響を被る。
これはですね、体にダメージを与えるために脳はこんなことをやっているわけじゃなくて、
私たちは傷ついたということは危機がやってきているわけだから、対応しなければならないわけですね。
で、これを差し止めするのは不可能に近いんですね。
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ある程度以上の訓練を多分積まないと無理だと思うんです。
だってですね、これは要するに虎なり熊なりに襲われた時に、
突っさに反撃するか逃げるかということを有効な手段にするための私たちに備わっている機能なので、
例えばこの傷ついた時と私たちが心理的に判断しているこの肉体的変化が起きた時の状態であれば、
出血しにくくなるんです。
止血しやすくなるはずです。
走りやすくもなりますしね。
つまりこれが機能する速度が遅いようではなくて、死んでるんですよね。
私たちが生きているということは、私たちの両親が生きていたということであり、
それは私たちの祖父母が生きていたということになるわけですが、
つまり私たちはこの電光石火の速度で逃走モードと言いますが、
戦うか逃げるかするモードに切り替わり、しかも意識で判断できる前に戦ったり逃げたりできるような機能を持っているから生きているわけですね。
この機能ってその場が収まればいいわけですよ。
つまりコルジゾールというものは出た途端にそれが終焉モードなんですよ。
終結の合図なんですね。
出ればいいわけで、それについてくどくど考えたりするためのものでは元々ないんですよ。
だから肉体が傷つくと言ってもほんの一瞬のことだし、しかも肉体は傷つくというか変化するんですよね。
そういう風に血は止まりやすくなるとか、出血もしにくくなるとか、すぐ走っても腰が痛くないとかそういうことですね。
そういうモードに実際に身体が変化するんですよ。そうじゃないと死んじゃうんですね。
というか私たちはそもそもそうではなかったら生きていないと思うんです。
これがあるからこそ生きてこれてるんだけど、
これがブログを書くときとか書いた本を批判されたときに起動しても何の役にも立たないわけですよ。
なんかディスってるやつを殴りに行くとかいうわけにはいかないんで、そんなことできないですしね。
で、ツイッターの前から一生懸命走り去っても意味ないじゃないですか。
世の中やっぱり変わってしまったんですよね。
私たちの身体が変化すれば危機を脱出することができるというモードとは全然違う、今世界に生きていて。
上司がすごい嫌なことを大声で言ってきたといっても、やっぱりいきなりその上司を殺したり、そこから走り去ったりするっていう手段は有効ではないわけですね。
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だから私たちはどうしていいか分からず、ずっとその肉体を変化させる方向に切り替え続けるということをやっちゃったりするわけです。
それはそうすると身体にダメージが残る。
これは私たちは心の傷となぜか呼ぶんですね。
たぶん脳の変化としてすごく認識できる範囲が大きいからだと思うのが一つと。
もう一つはですね、動物ってのは忘れっぽいので、この変化が強烈に起きた時のことはよく覚えておくようにしてるんです。
注意を逸らさない、記憶に留めるって考えると非常に心の傷と関係が深いじゃないですか。
本当はですね、ここに来るとヒグマに襲われるから、ヒグマから注意を逸らさない、これは当然じゃないですか。
ヒグマのことをすっかり忘れてたら食われますよね。
次にそのことをよく覚えておく。
でも動物ってのはすぐ忘れるから、またヒグマの巣とかに平気で近づくわけですよ。
それを避けるためにもそこには近づかないようにする。
そのためにも注意を、そこに行ったらクマからの注意を逸らさないということと、そのことを忘れないということが必要になるんだけど。
これが果たしてパーハラの上司の時はどうなるかというと、言われたことをよく覚えておいて、
しかもその上司のことから注意を逸らさない。
もう全然それが有効に働くはずはないわけですよね。
上司はクマじゃないからね。
家に帰ってきてからも上司のことが忘れられずに、
家に帰ってきて気分転換のために漫画を読んでいても、どうしても上司のことが頭から離れない。
これが注意のロックというやつで、
つまりクマに注意を残しているのと、注意を集中させているのと同じことが起きちゃうわけですね、人間にも。
これが、しかし今の社会では何の意味も持たないに近いんですよ。
これに対する決定的なものは、僕はグッドバイオスが一番いいと思うんですけれども、
それを抱かないとか、愛すると言っても難しいと感じている。
まさに今そういうふうに感じているというような話の場合にはですね、
とりあえずまず肉体の傷をこれ以上増やさないようにするというのが、とりあえずの措置かなというふうにセミナーを聞いてても思いました。
要するにですね、少しで少し、これ意外と女性よくやってるんですけど男性やってないんですよね。
自分を甘やかすという表現をよく女性の方が使ってるんですけど、
あれですよ、なんか良さそうな香りのお風呂にして長く浸かるとかそういうやつです。
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なんか多分ですね、そっち系のブログとかを読めば必ず出てきます。
それをするのがアリだなと思います。
何がこれはやってるかというと、肉体に今の現状はその危機モードは去ってますということを徹底的に教え込むっていうことをやってるんですね。
どうせ脳内は反するじゃないですか。
嫌なことを言われたとか、あの言い方はないとか、そういう間違ったことを自分はされているのにその間違いを正すことができないという危機ですよ。
クマに襲われた危機とは全然違う危機ですね。
これ、最近クレームの話が出た時にもよくよく学んだんですけれども、
つまり間違いが行われていて、その間違いによって自分はダメージを受けたにもかかわらずその間違いが正せないと思った時、
クレームというのはすごく腹立たしいものに変わるということを聞いたんですけど、それとよく似てると思うんですね。
同じじゃないはずなのに、つまり誰がどう間違ったのか、それに対して自分はどの程度のダメージをこむっているのかが一個一個結構違うのに、
私たちは結構ですね、さっきの長時間の働きによるんですけど、間違いを正せなければならないと思っていれば思うほど間違いが正せない自分に対して強烈な働きかけをするんですね。
この強烈な働きかけというのは何かというと、結局のところヒグマと戦うみたいなモードなんですよ。
これがいかにも有効じゃないので、まずはその肉体に教えるということですよね。
危機的なことは何も起きていませんと。
まあ簡単に言うともっと言うと、蛇に噛まれたわけじゃないですということですね。
だから自分を甘やかすという、ああいう方法になるんでしょうね。
で、これもう一つ僕はよくあるあるなんですけど、これライハックでは、記録を取っておくというのはこの際有効だと思います。
ただこの記録、蓄積されるという確実に思えるところに取っておかないといけません。
ヒグマに襲われました日記ですよ、言ってみれば。
だからもう脳は覚えておかなくていいんです。
ただこの日記、脳というのは頭がいいので、そこら辺のメモに書いておいてどこか紛失するというふうに考えているようでは、もっと覚えておこうとするのでダメなんですよ。
ワーノートでもノーションでもいいですけど、一個に決める必要は絶対あります。
そのノートには書いてあると。
読み返す必要はないんです。
これは二度とそのような事態を起こさないということは、単に記録を取って対策を打つとかいうことではできるようにならないので、
そういうことではないんですよ。
大事なのは忘れるってことなんです。
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で、脳は覚えておこうとするのはさっき言った事情でして、ここを通りかかった時に襲われたんだから、
そのことを忘れないようにしようっていうのが脳の戦略ですが、
ジャングルに生きているわけじゃない私たちにそれはあんまり意味がないので、
この傷ついたリストは記録はするんだけれども、
だからいつでも思い出せるようになりましたよということを自分に教えて、
で忘れてしまえばいいと思うんですね。
この2つがハックとしては有効かなというふうに思いました。
で、一番ただ根本的にというか、Good Vibes的に、
私がやっぱりこういう方向性で自分を気をつけておくのがいいと思うのは、
関与になると。
ただしこれはですね、モードがそれになっちゃった時にはなんないので、
普段自分が気分が悪くない時に常にこのことを気をつけておくのが一番、
自分を結局傷つけないようにするんじゃないかなと思うんです。
要は長時間に力を与えないということですね。
何かを見て、あれはダメだというふうに、
その批判精神を持たないのは難しいので、
一つ一つを、そこまで自分が非難しなくても、
多分大丈夫だというような考え方に切り替えていく。
この言い方すごい曖昧なんですけど、
曖昧なのはですね、いろんなシチュエーションが考えられるから曖昧になるんですよ。
だから道端でおじさんがタバコ吸ってて捨てたみたいなそういうのに、
一言で言うと、ショックを受けないってことなんですかね。
逆をやらないようにする。
そこからストーリーを作り出すってよく倉園さんがおっしゃるし、
これはよくあるんですよ。
自己啓発でも見かけるんですけど、ストーリーを作っちゃうんですね。
逆の方向に行くんです。
おじさんがこうやることによって、
子供のがんの発生率が増えてみたいなそういうことを言い出す人がいるんですけど、
逆なんですよ。
どっちの可能性が高いかというよりは、
もう自分のためだと思うべきなんです。
でもこれ自分のためだと思うと、
かえって正義感からできなくなるっていう人もいるんですよね。
でもこの正義感がそもそも長自我の持っている正義感ですからね。
この出来事が不愉快なのは、
自分の世界の中だけだっていうふうに思えるのがベストなんですが、
そこが遠いのであれば、
これによってダメージを食らうことはあるかもしれないんだけど、
円外度かね。
あるかもしれないんだけど、
それが致命的なことにはこれまでなってこなかったはずだぐらいな感じですかね。
結局これ、もっと本当はですね、
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根本的にグッドバイブスでいったほうが絶対いいと思うんだけど、
応急処置的にあまりにもこの批判が渦巻きやすい人の場合、
とりあえず数を減らすということが第一歩かなと思うんですね。
この数を減らせば減らすほど不思議に思われるでしょうけれども、
傷つきにくくなるんですよ。
やっぱりこれが一番いいかな最初は。
一番最初の入り口ですね。
本当はこれがゴールにはなってはいけないと思うんですけど、
傷つきにくくなるために少なくとも批判的であることを極力避ける。
言ってしまうとこういうことになっちゃうんですよね。
ただこれがなぜそういうふうに機能するかというのは今日長々と話してきた通りで、
つまり間違いを犯した世界というのに自分を転落させないためなんです。
間違いが許せないんですよ、傷つきやすい人は。
だからクレームも入れるんだなっていうのは新しく知ったことなんですけど、
とにかく間違いが許せない。
でもクレームを言われた時にはよく私はそういう感じは持っていました。
はっきりとそういうふうに意識するよりも体調が先でしたけれども、
やっぱり入れられた時に感じることは、
なんかこう小さくてもなんでも間違いが許せないんだなっていうニュアンスはありました。
間違いが許せないというのは、つまり自分の中の超自我がそう言ってるんですよ。
間違いを許してはならない。
慣れてないけれども独裁者になりたいみたいなところなんですよ、これは。
すべての人の間違いを罰していきたいっていうそういうですね、感覚なんですね。
これが自分を傷つけるんです。
大概の人は独裁者じゃないんで、
北朝鮮で一番偉い人とかやってるわけじゃないんで、
当然のことながら間違いが起こったからって自分が罰する側に立てるとは限らない。
というかそうじゃないケースの方が圧倒的に多いので、
全部のことに傷つかなきゃならない。
間違いが正されていない。
それによって悪が栄えて、
その悪の世界で自分は生きていかなきゃならない。
っていう傷つき方があるわけですよね。
ただ、こういうことがあるっていう程度のことであれば大した問題じゃなくて最悪なのはですね、
おそらく自分が些細なミスを犯してしまう。
間違いですよね。
それをしてはいけないということがあるから、
そういうことをしてしまった自分はもう社会の正しい世界から転落してしまう。
間違った世界に落ちてしまう。
そこへ持ってきて、その間違った世界に落ちた自分をわざわざですね、
間違った上司が間違ったやり方で激しくパワハラ的に罵る。
こういうワールドに落ちるというのが僕は傷つくってことだと思うんです。
これはさっきのタバコのおじさんの間違いによって悪が栄えるレベルでは全くなく、
悪の世界に転落して挙げく、悪によって懲らしめられるみたいな、
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そういう地獄に落ちて鬼にいじめられてるみたいな感じですよね。
これが起きることを私たちは多分非常に恐れていて、
現に時々起きて大変絶望的な気分になるとは思うんです。
でもこれはですね、これもですね、やっぱりそれが大して有効に思えないかもしれませんが、
第一歩としては、さっきのお風呂に浸かるとか、
悪いことリストを書くということとはまた別に、
間違いを正そうとしないということですね。
それが結局最後のところに繋がるわけじゃないですか。
地獄で鬼にいじめられない。
なぜならば間違いというものが究極的にない世界では地獄はないんですよ。
落ちないから、誰も。
これが信じられないんだと思うんですよ。
なぜならば地獄に人を落としたいからですよね。
だって独裁国で一番偉い人がやってることというのはまさにそういうことですから、
これをやめるということが、
多分日頃からやらずにおくということがですね、地獄を作らないということに繋がるし、
鬼が出てきてもそんなに怖くはなくなるはずなんですよね。
逆を多分やっちゃってることが多いんじゃないかと。
あの悪の境みたいなイマジネーションを作るということは、
つまりそれ地獄ですからね。
悪が栄えてるわけですから。
問題なのはその批判精神なんですよね。
突き詰めて言えば。
ただそれを一瞬で消し去ったりはできないので、
今のような長い目で見た戦略も必要かなと思ったわけです。