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おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は5月14日土曜日になりますね。
今日は少し遅め、9時30分過ぎたところかですが、これから少しお話をしてみたいと思います。
昨日は一日配信を休みましたというか、そぼりましたということですね。
昨日は新潟大学のオンラインでやってる授業も担当している日で、
午前中に新潟国際情報大学で授業をやって、その後戻ってきて、
二駒、新潟大学で授業をやって、家からやって、というので、ちょっと慌ただしかったので、
いろいろイレギュラーなイベントが入っていて、授業が入っていて、準備とかいろいろ大変だったんですよね。
ちょっと余裕がなかったとすみません。その授業時期のところです。
昨日夜もツーム会議があったりして、ぐったりしていたので、
今朝もうちょっとスタートが遅くなってしまったと。そんなところです。
今日はゆっくり過ごしたいなと思っておりますが、
今日は何喋ろうかなと思って、そんなわけで、昨日あまりニュースもちゃんと見てなかったんですけど、
今朝はちょっといろいろ見ていって、この話題を持ってきました。
今朝は有田八郎という人の話をしようと思います。
新潟日報が5月13日付け、だから木曜日の夕方配信ですね。
漫画で学ぶ平和を求めた佐渡の政治家、元外務大臣の有田八郎大罪というタイトルでニュースを配信しています。
有田八郎さんという人は佐渡の出身の政治家、私外交官と書きましたが、
佐渡出身の政治家であり外交官ということですよね。
この方が戦前に外交官として活躍されるんだけど、最終的には平田内閣で外務大臣を務めるわけですが、
ご存知の通り平田さんは永久戦犯で処刑されて死刑になってしまうように、
結局戦争への道を止められなかった内閣でもあるわけですよね。
太平洋戦争に突き進んでいく過程で、その流れを止められなかったと。
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落日模様という本があって、ひろた後期を含めて文官、外交官の側が戦争を止めようとするんだけども、
止められずに全面的なアメリカとの戦争に突入していってしまうというような話で、
そういう評価でいいのかっていうのはちょっとわからないですね。
いろんな評価があるからこそ、だから平田後期さんは永久戦犯として有罪判決を受けることになり、
いろいろあるとは思いますが、いずれにせよその頃の平和に向けた努力というのは実らないわけですよね。
実らずにどんどん戦争の道へ進んでいくという話ですよね。
ということになります。
そういうことはあったんだけど、おそらくはこの電気の中では、
有田八郎が外務大臣として平和の実現に努力したという話が書かれているんだと思いますね。
なるほど。
戦争終結を訴える上層文を書く際に強い思い抱く姿を描いたとかですね。
国際連盟を脱退していた日本をいかに国際社会につなぎ止めるかを考えて、
暴挙外交を模索する、いろいろな有田八郎が当時努力したことについて描かれているということです。
実は私は有田八郎さんのことは興味を持っていて、興味を持っていたという割には調べたことはないんですけど、
結構前に佐渡に行って、相川のあたりに行ったときに、行ったときにだったか、行った後にでしたかね、
有田八郎さんのことを展示している資料館かな、
京都博物館か何かに付属して有田八郎さんのことを展示している記念館があるっていうと、
何かで知っていずれ行ってみようと思っていたんですけど、そんなに大きなものでもないというか、
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つまり新潟側からフェリーによって有田八郎の展示を見に行こうっていうほど大きなものではなさそうなんで、
何かついでのときに見に行きたいなと思ってはいたんですが、
そんなことを思っていても、なかなか佐渡に行く機会もなければ、
佐渡に行くと言っても相川に行って、少し時間があってっていう機会がそんなにないので、
そんなにないというか、全然なかったわけですよね、そのことを知ってからね、なのでまだ一度も行ったことがありません。
有田八郎さんという人は佐渡の有田家の人ではなくて、佐渡は山本家って書いてますよね。
山本家から有田家に養子に行って、有田家って東京なんでしょうね。
だから有田家から早稲田中学校、第一高等学校、東京帝国大学というふうに進んでいったという方で、
そこから外務省に入るということでしょうね。
なんで有田八郎さんのことを私は知っているかというと、
実は戦前のひろた内閣による外務大臣としてみたいな話はあまり知らなかったです。
今もあまり知らなくて、さっきちょっと曖昧なことを喋っていましたが、
戦後ですよね、有田八郎さんのことが話題に昇るのはね。
後に三島幸男が宴の後という小説を書いて、
これがいわゆるモデル小説で有田八郎さんのことをモデルにしたとして、
いわゆるプライバシー侵害の問題を起こすというか、有田さん側が訴えています。
どういう話かというと、有田八郎さんと両邸の経営者の女性との間の、
男女関係みたいな話ですよね、を描いているもので、
これが要するにプライバシーの侵害に当たるかどうかということについて、
三島さんにお話しさせていただきたいと思います。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】では、これからもお話しさせていただきたいと思います。
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【佐藤】三島さんの小説は、宴の後、
初めて間接的ながらある種、裁判所が認めた事例であると言われているわけですよね。
何かちょっと、覗き見趣味的な、三島由紀夫の代表作という感じのものではないのかなと思っているほど、
三島ファンともあれ、そうでもなければあまり読んだこともないんじゃないかなと思うんですけど、
じゃあ有田八郎さん、どうしてこういうふうになって、
これが有名になっちゃったので、有田八郎さんという人が戦前に何をやっていたかってあまり知られてないというか、あまり興味を持たれてない。
佐渡でも、そんなに有田八郎を検証しましょうって今まで言ってたかって言ってなかった気がするので、
今回佐渡市の教育委員会が2400部を発行して、市内の子どもたちに配ろうって言ったら、これどういう背景があるのかね。
学芸員の方が頑張って作ったみたいな記事になっているんですが、
あ、ごめんなさい、あったあった。
B&G財団、キャリア教育を支援するB&G財団の助成を受けて、なるほどね。
こういう支援を得て作った副読本みたいなことなんでしょうね。
戻ると、有田八郎さんだから、結局戦犯にはならなかったものの、外務大臣なので、
外務大臣として戦争遂行に加担していったっていうような意味ですよね。
戦後公職追放になるんですよね。
公職追放にあった人がどういうことをしたのかっていろいろあって、
結局アメリカが気に入らない人を追い出したみたいなところもあるので、
そのまま革命通り受け取っていいかわかりませんが、
公職追放になって、要するに表舞台から出されている期間が、
だから46年から53年、だから67年あるわけですよね。
この間にやっぱり皆さんね、いろいろなことがあるわけじゃないですか。
その見事に復活を遂げていく政治家の人もいれば、いろいろいるわけですけど、
この後、有田八郎さんどうなるかっていうと、革新系に転じていくんですよね。
それは平和を追求した外務大臣とか、外交官というような立ち位置で、
革新系の国会議員を目指していくということで、
実は新潟から衆議院議員に立候補して、衆議院議員になるというのが戦後、
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公職追放が解けてからの動きというふうになるんですよね。
なのですが、この後ごちゃごちゃとしてくるのが、
一回国会議員として出るんですが、1955年ですかね、この時期に、
東京都知事選挙に立候補するんですよ。
東京都知事選挙に革新系の候補として出ると、
今も昔も東京都知事選挙ってやっぱり難しい選挙ですよね。
そう簡単には、ちょっとしたキャリアの人でもなかなか当選ラインまで票を集めるのは難しいですよね。
あと非常にセロンのブレに大きく作用されるような選挙でもありますけど、
とにかく勝てないわけですよ。
1955年の選挙で負けて、その後1959年にも負けて、2回負けるということになります。
この時のやっぱり2回の選挙のお金をどういうふうに組みにするかみたいな過程で、
たぶんその後ろでいろいろ応援してくれたのが、先ほど出てきた両邸の経営者の女性だっていうことなんだと思うんですけど、
この女性と有田さんとの関係がいろいろ取り沙汰されていて、
有田さんは最終的には都内の土地を手放すみたいなところまで行くみたいなんですけど、
いずれにせよ両邸の経営者の女性がものすごく献身的に有田さんを応援してくれたんですよね。
この有田さんと再婚してますね。
1953年に両邸の経営者の方と再婚して、その人が結婚して応援してくれたわけですけど、
1955年、最初の選挙の時に応援してくれたけれども、最終的にうまくいかずに夫婦も離婚するということで、
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こういういろいろな経緯ですね。両邸の経営者の女性と再婚して、そして選挙に出てみたいな、この辺を面白おかしく書かれ、
そういうふうに三島幸男さんが書いたのはモデル小説ですけど、たぶん有田八郎さんという人がどういう順番なのかわかんないですよね、今となっては。
調べるとわかるかもしれません。三島幸男さんがさっき書いたのか、その前にいわゆる週刊誌みたいなゴシップで、
有田八郎さんの両邸の経営者との関係っていうのがいろいろ書き立てられていたのか、
ちょっとわかんないんですけど、そういうことで有田八郎さんはスキャンダラスな意味合いでいろいろ書き立てられた。
それに対して裁判を起こして戦っていくわけですが、結局だからそれが戦後の有田八郎のイメージっていうのを作ってしまい、
結局、選挙には勝てず、裁判は最後和解で終わるんですよね。政界は引退すると。1965年に亡くなっています。
晩年は有田八郎さんが政治の表舞台に出てくることは結局なかったということなんでしょうね。最後そのまま晩年を静かに終えられているという経緯なんですね。
なので、人物としては非常に、客観的に見れば、今これから有田八郎という人はどういう生き方をしたのか。
当時のスキャンダルみたいなところで取り沙汰されていた部分が消化されて、もうみんな忘れてますからね。
だからそういう意味で、もう一度有田八郎さんという人はどういう人で、多分その里からどういう経緯で出ていったのかみたいなところもありますよね。
養子に出て、政治家の家か何かそういうところに養子に入ったっていうことなんだと思いますけどね。
その辺の経緯も含めて、改めて勉強してみるというのも面白いのではないかなと思います。
また選挙に出て当選してっていうところも非常に短い期間なんですけど、新潟の側でどういうふうに有田八郎さんは受け止められて当選していったあたりもちょっと調べてみたら面白いかなと思います。
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今日はここまでにしたいと思います。ありがとうございました。