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みやけん🌋パッチマンガアートのサトリの学講です。
ということで、土曜日企画としまして、
普段はイラスト講師、NFTクリエイターとして活動している、
私、みやけん🌋が、趣味で勉強していた、
スピっぽい話をするという、自己満足の企画でございます。
今週はね、
昨日、おつやに行ってきました。
高校の同級生がガンで亡くなったという不法があったので、
おつやに行ってきましたというのと、
中村しんちゃんとタロットライブをした話の、
昨日の続きかな、
改めてね、自分が捉えているサトリの世界観というのを
ちょっと掘ってみようかなと思ったので、
今日はこの企画で立ち上げました。
では、行くぜ!
昨日は、今の自分は全てを受け入れる用意ができているよ、
ということを言ったんですけど、
それがどういうロジックかという話になるのかな、
どうかなと思っていますけれども、
僕もね、年齢的にはね、
そういうふうにですね、
死ぬかもしれないんですよ。
その友人はですね、発覚したのが去年の年末だったらしいんですよね。
だからほんとわずか半年も見たないうちに、
治療で痩せ細った上で、
他界したということになって、
もうね、やっぱ同級生でしょ、
集まればね、もう明日は我が身だよね、
みたいな話ばっかりみんなでしてたんですけど、
まあまあでもそうなんですよね。
ただ、受け入れる体制ができているので、
受け入れられると思っています。
まあわかんないですけどね、
実際になってみないとっていうところがあるんですけど、
まあ一昔前ほどないなっていうのは確実に思えますね。
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いわゆる舵を切る前とはね。
僕子供が小さいんでね、
子供が小さいとまたつらいなっていう気がね、
彼もね、結構子供がたくさんいてね、
一番下の子がちっちゃかったんですよね。
そういうのを見るとね、
悲しいなあと思うんですけど、
自分もね、やっぱり今もし死んだらって思うと、
まあでも保険の話その前にしましたけどね、
準備万端できてるんで、
っていう意味では別に心配してないし、
悔いはないですね。
私の人生として考えたときにはね。
残されたものはまあいろいろ思うかもしれないですけどね。
逆にですね、仮に子供が死んじゃったらどうかと。
これもね、覚悟ができてるというか、
受け入れられるなっていう気はしてるんですよね。
これはもうなってみないとわかんないですけど、
起きることしか起きないって思ってるので、
受け入れるんだろうなっていう。
どうしよう、この話しようかな。
子供を持っている人は多分わかると思うんですけど、
今ね、遺伝子検査とかも体内でできるんで、
ぶっちゃけて言うと、
ちょっと障害とかがあらかじめはわかるんですよね。
それがもしわかったときに、
どうしますかっていう選択を迫られるというか、
考えとかないといけないんですよ。
そういうときって結構、
受け入れるか受け入れないかっていうのをね、
みなさん考えるタイミングが子供がいる人はあったと思うんですけど、
具体的に言うと、
生後じゃないな。
何ヶ月かのところでね、
一番わかりやすいのは、
断所。
断所の親御さんもいるから、
ちょっと言いにくいなっていう気はするんですけど、
実際これは本当にリアルにあることなんで、
言いますと、
首の後ろにコブみたいなのが見えてくるらしいんですよね。
胎児の時点で。
そのときにちょっと疑いを持って、
遺伝子検査しますかっていう話になるんですよ。
実際検査をして、
Y染色体1型、
19番目の染色体でしたっけ、
の異常とかね、
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見つかった場合にさらに選択を迫られるわけですよ。
どうしますか、産みますかっていうね。
これね、相当のことなんですけど、
実際現場ではそれはあるんですよね。
そういうときに悩むと思うんですけど、
今の僕であれば、
当時の僕もそうですけど、
受け入れる体制はできてたみたいなね。
その延長って全部一緒なんですよね。
今、子供がもし死んじゃったとしても、
極端な話ね。
同じような覚悟で受け入れる体制はできてるっていう感じですね。
なぜそこまで言い切れちゃうのかっていう話になるんですけど、
すっぴの話にしていきましょうか。
これは例え話なんですが、
全知全能の神とかね、
全知全能の宇宙っていう捉え方を今時はした方がいいのかな。
っていうのはですね、
全知全能なんですよね。
その全知全能の神がドミノを作るんですよ。
ドミノ倒し。
全知全能の神が作ったドミノは絶対に失敗しないんですよね。
ドミノの最初のコマを倒したら、
全てが完成するまで完璧にバーッとドミノが倒れていって、
全部バーンって完璧に終わるんですよね。
それがもう分かってるんですよね。
全知全能だから。
最初のコマをポンと倒すのがビッグバンだとしましょう。
ビッグバンが起きて、
宇宙ができてバーンってなっていって、
最後に終わるところまで神は全部完璧に作っているわけですよ。
神が完璧に作ってるから、
これもはや倒す必要すらないんですよね。
結果わかってるんで。
これが悟りの世界観です。
何言ってんだ。
一番悟りのポイントとしては、
時間がないっていうことと時間がないっていうことなんですけど、
時間がないっていうのはこういうことなんですよ。
時間が必要ないんですよね。
完璧なので。
スタートすれば答えはこうってのは決まってて分かってるんで、
だからスタートする必要すらないんですよね。
だから実際スタートしてないんですよ。
だから時間はないんですよ。
大丈夫かこれ。
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ちなみにこのドミノの全容をアカシックレコードということになりますよね。
微妙。
僕はそう思ってますね。
これはアカシックレコードというんですよね。
繋がる。
これが心理っていうことで、
じゃあ今我々が感じてるのはこれは何かっていうと、
せっかくだったらそれをちょっと土地を見たいじゃんみたいな、
バラバラバラって崩れてこうやって倒れていって、
ダーンってすごい絵が出るみたいなのを見たいじゃんっていうことで、
自我という幻を作り出して、
これにそれを体験させてるみたいなね。
まあスピリチャンではそういう話もよく出てくると思うんですけど。
まあそういう世界観っていうことですよね。
だから空測絶識色測絶空っていうのも難しいな説明が。
まあその世界観をそのまま受け入れると、
もう全てが無意味ごとっていうね。
全てが幻っていうことになってしまうんですけれども、
せっかく自我というものが、逆にね。
逆に考えればせっかく自我というものがあって、
そのドミノの合間をね、垣間見れるような状態になっているので、
じゃあ見てみようよっていう感じのスタンスで、
人生を私は今ね、捉えるようになっているんです。
だからドミノが倒れるのを見てたら、
何だろう、そういうね、子供が死んじゃったっていうことも起きるかもしれないし。
見てたら悲しいですよ、きっと。
でもそれはあくまで、
そういう世界観でドミノが倒れるのを見てるだけみたいな話で。
見てるこいつももはや幻だし。
もっと引いた目で見ると、
それは自然の中でそういうのが起きているだけっていうね。
たまたまこの人間という種族で自我というものを持って、
いろんなストーリーを垣間見ることができているけれども、
誰かが死ぬ、自分が死ぬとか誰かが死ぬとかいうのは、
雑草がブーンって草刈り機で刈られたりするとかいうのと何ら変わりはないんですよね。
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そうなんだよね。量子力学的に考えても何ら変わりはないんですよね。
同じ波動の折り重なりでそう見えてるだけのものが、
また別な見え方をしただけっていうことでね。
なんかそういうので完全に僕納得しちゃってるんで、
受け入れる。
そしてそういう目にあったときに自分が苦しい、悲しい、
耐えられないっていう気持ちになるのも、
それも自然の流れであり。
これを幻ごときがですね、神の采配に対して抗おうとか、
自分の幻の自我のくせに自分の思い通りにしてやろうっていうのが、
そもそもナンセンスなことなんだよなって思ってて。
引き寄せの法則とかね、よく出ますけど、
引き寄せの法則はどうやらあるらしいんですけど、
この引き寄せの法則の主語は人間ごときではないんですよ。
幻の自我の欲求を叶えるために引き寄せるとかいうのはないと思ってるんです。
引き寄せの法則っていうのは自然の流れであるんだが、
あるいは思考とかを持つことも自然の流れなんだが、
幻の欲求を叶えるために作用したりはしない。
たまたまそういう作用することもあるかもしれないけど、ぐらいに思ってます。
ちょっとそういう妥間性というかね、冷めた感じではあります。
一方ではね。
でもね、なんだろう、ドミノの動きをもっとよく見たいと思ったら、
そういう自然の流れだったり、
なんだろう、ドミノの動きをもっとよく見たいと思ったら、
そういう状況に降りていく方が楽しいんですよ。
生きている意味っていうのがあったりするんですよ。
だから、人間としてこの状況を味わってみようという気持ちで、
基本降りていったところにいるって感じなんですよね。
だから、もっともっと降りていって、
昔の自分みたいに努力教の信者として生きてみようということも、
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別にやったらやったらいいんですよ。
努力して頑張った、努力した末に成功を収めた、
やったーでもいいですし、思うようにいかないなーっていうのでもいいですし。
だから、見る階層を変えてやれば、
なんだろう、楽しむ、アトラクション的に楽しむこともできるし、
見る階層を上げてやれば、それを観察眼として見ることもできるしっていう、
なんかね、そういう境地にはいるんですよね。
これを実感として体感するっていうのが一別っていうことなんでしょうけど、
そこはないんですよ、僕は。そういう経験はないんだけども、
ロジックでも理解というか、負に落ちているので、
だから、全てを受け入れられる体制ができているっていう、そういう感じです。
伝わるかな、でもこういうのをうまく説明したいですよね。
だから、結局最終的には無意味じゃんっていうところで終わるだけじゃなくて、
いろんな階層を下ろして、目線を下ろしてやると、
いろんな楽しみ方ができるっていうね。
ちょっと楽しめないな、これ。あまりにも苦しいなと思えば、
階層を上げてやることによって、また楽になったりするっていうね。
そんな感じ。そんな感じで思ってますっていう話なんですけど。
スピリチュアルでは人生をゲームに例えたりすることもあります。
ゲームをプレイしてて、
マリオが始まって、
マリオのフィールドが平坦で、クリボーも出てこない、穴もない、
雲もない、乗る台もない、ブロックもない、ただ歩いていくだけのゲームって、
絶対安全だけど、無意味ですよね。
だから、あえて穴を開けたり、敵を出てきたり、めっちゃ強力な敵を作ったりすることによって、
ゲームは楽しくなるんだよ、みたいなね。
ハンマーブロス2A、何度も死ぬ、でも何とか倒せた、攻略した時の喜びがたまらん、みたいなね。
ゲームってそういうものだ、人生ってこういうものだよ、みたいなスピリチュアルで例えたりするんですけど、
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それは、クリエイター目線でいれば、
マリオを作ったプログラマー目線でいれば、全部自分で作ってるから、
自分がプレイしてみようってプレイしてみて、
俺、設定よりもハンマーブロス強いなとか、設定より弱いなとか、調節しようとか、
そういう目線でいれば、マリオで別に何もこのゲームプレイして怖くないんですよ。
だけど、自分自身がリアルな感覚としてマリオになりきったとしたら、
スーパーマリオの世界は恐ろしすぎてしょうがなくないですか。
一方的にどんどん攻められるっていうね。でも前に進むしかない、みたいな。
時には強制スクロールされる、みたいな。
マリオ自身が、自分がマリオ自身になって、これがゲームだということに気づいてない状態って、
めちゃくちゃ怖いじゃないですか。
っていうのを自在にコントロールして、マリオに憑依してこのゲームになってみようかな、
マリオプレイしているプレイヤーとしてこのゲームに携わってみようかな、
クリエイターとして携わってみようかなっていう、そういう目線をいろいろ変えて、
人生をいろんな角度で味わってみる。
そういう目線でいると、チャレンジすることも結構怖くないというか、
怖いんですよ、実際。ドキドキしたりとか冷や汗かいたりするんだけども、
うーんと、なんだろうな。
でもこれはプレイヤーとしてプレイしてみよう、みたいなね。
そういう感覚でいろんな物事に当たったりすると、
いろいろ楽しむ目線っていうのを持てるようになってるんですよね。
だから人間でいるのも楽しいな、みたいな。
究極言うと。
えっとね、そんな感じです。
一別を、言えば悟りを開いた人とか、
一別を見てこれが真実なのかみたいなのを体感した人は、
そういう目線になるらしくて。
僕はそれはないんだけども、散々勉強した挙句、結構理解して、
科学的なのともう合致するなと思ったときにめちゃくちゃ不に落ちたんで。
結構そういう目線で物事を捉えるようになっております。
ということでですね、自分自身に迷いはないし、
悩みも、悩んでもいいし悩まなくてもいいなと。
散々悩んでみようかなーっつって悩み苦しむのも自分で選ぶし、
や、やめた。アホらしい。瞑想でもしようと思って、
自分自身にも慣れたりするみたいなね。
そういう状態にあるんだよっていう話でございました。
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ということです。
以上です。
えーっと、終わりましょう。
今ここを見せていただきたいと思います。
えーっと、終わりましょう。
今ここを見つめよう。
ではまた。