こんばんは、ささきるです。今日は、先日7月7日に遠野の内田書店で開催されたトーク&トレッキング、その前半のトーク部分の内容をちょっと編集してですね、お届けしようと思います。
その内容なんですけれども、メディアヌップを以前からお聞きの皆さんは何度か耳にしたことあるかもしれませんけれども、
ホドボラ稲荷神社の秘密を取り上げたもので、エピソード131 酒の瀬に乗った英雄の謎とホドボラ稲荷神社の秘密、そしてエピソード155 分解さんを守るための思考法、この2つで過去お伝えしてきた内容があったんですけれども、その内容がちょっとご好評を受けまして、リクエストでもう一度ということで、
トーク&トレッキングというイベントを開催してきました。 ただですね、内容重複しないように編集しましたので、過去お気になられている方もまた違う感じで聞けると思いますし、今回これを初めてお気になられる方はですね、過去のエピソードをちょっと探して聞いてみていただけるとより楽しめるんじゃないかと思います。
ミディアムープ、歴史とか民族文化を扱って専権して、だんだんとディープな話が増えてるんですけども、もうめちゃめちゃディープですね。もうすごいニッチな細かいことを調べてやってる感じになっちゃってるんですけども、ただですね、どんなふうにそのアプローチを楽しんでるのかみたいなものは、なんか聞いて楽しんでいただけるんじゃないかなと思うんで、
歴史が歴史であるためには常に想像を必要とする、みたいな、っていうのを字で言ってる内容ですので、ちょっとその辺も聞いてみていただければと思います。それではどうぞ。
メディアムープ。 今日はお話しさせていただく佐々木大輔と申します。出身が岩手県遠野市で、特にこのホドボラ稲荷神社があるですね、
下久美町というところの出身で、遠野小学校、遠野中学校、遠野高校というふうに出てきましたので、18年間ずっとそこに住んでいました。
ということもあって、このホドボラ稲荷神社は私自身、すごい親しみがある場所なんですけども、そのホドボラ稲荷神社が修繕工事が必要だということで、
私のおじさんが今、相談をやってるんですけども、なんとか資金集めできないかという相談を受けたのが最初のきっかけなんですけども、
ホドボラ稲荷神社って、遠野の人でも知らないか、知らない人がほとんどで、行ったことある人ほとんどいないという場所なので、そういう場所に寄付集めることも難しいだろうということで、
ちょっと遠回りではあるけれども、どんな場所か知ってもらえるようなイベントをやったらどうかというふうに提案したところ、言い出しっぺなのでやることになり、
今日、これで3回目です。去年の10月に1回目をやって、今年の1月に市民センターでやって、今日また内田書店さんでやらせていただくというのが3回目です。
実は、やってるうちに遠野市さんから大事な役割を授かりまして、1個がですね、民和のふるさと遠野大使という、なんて言うんでしょうね、PRする、PRか、PRしてくれる大使になってくださいみたいなオファーを受けて、
別にどこにも言ってなかったんですけど、今日ちょうどいいんで言うんですけども、引き受けをしました。
あともう一つが、遠野遺産認定調査委員というのが10名ぐらいの委員のやつがありまして、それも引き受けをしました。
ホドボライナリーについて喋っているうちに、大層な役を授かって恐縮しているんですけども、
そういうことをちょっとね、今日深掘りしつつお話ししたいと思うんですが、私の自己紹介はこれぐらいにして、田田さんからもご紹介お願いします。
はい、私は遠野号八幡宮で官主をしております、田田義文と申します。
ホドボライナリーとの関係で言えば、ホドボライナリーには常駐の官主さんがおりませんで、八幡宮の官主が兼務している状態なんですね。
今度、あさって7月9日、ホドボライナリーの礼祭なんですけれども、そこにも八幡宮の新職がいて、礼祭を奉仕する。
私もそれに行ったことがあるので、私一番最初に礼祭に行くときって大体雨なんですよね。
やっぱり神様に認められるっていうのはあると思うんですけど、ホドボライナリーに最初行ったときも雨でした。
なので今日も雨なので、なんかちょっと親近感があるというか、騎士感があるというか、そういった感じですね。
はい、私は遠野文化友の会という会長もしておりますし、あとは遠野市観光協会の理事という立場でもあるので、
遠野の歴史、文化、そういったところには詳しくなければならないんですけれども、なかなか勉強が進まなくて、私自身今日も勉強させてもらえるような感じで参加させていただきました。
先ほども、これ3回目というふうに大輔さんおっしゃってましたけれども、今日も大輔さんだけいればいいんじゃないかと思ってたんですが、私なりにフォトフォアラの振興とか、あとはうね鳥さんの結びの振興、そういったところについてちょっと補足的にお話しできればいいのかなというふうに思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いします。3回目という話がちょっと出たんですけれども、全く同じ話し方をするとちょっと僕も飽きちゃうので、というのもありまして、今日ちょっと過去2回とは違うアプローチで話し始めようかなと思っているんですけれども、それがですね、今日手元に配っておりますガイドマップの中にですね、レジュメがあります。
あと2枚紙がありまして、一つが年表風のものと一つがレジュメがあるんですけれども、ちょっと最初これに沿いながら話をしていきたいと思うんですけれども、まずホトボライナリ神社について僕がなんで喋っているかというと、さっきそれが出身だからと言ったんですけれども、実際にはですね、私は東の物語という本のマニアでですね、本自体よく読んでいるのもそうなんですけれども、
関連書籍とか研究書みたいなのは、言ってもそんな数ではないんですけれども、研究者ほどではないんですけれども200冊ぐらいよく読んで、しかも繰り返し読むのは趣味にしておりまして、読んでいるうちにこういうことだったのかというのをまだ誰も発見していないようなのを見つけたりするのが好きで、それでホトボライナリ神社についてもいろいろ発見があってお話ししているんですけれども、
やっぱり東の物語といえば、第1話に出てくるここですね。レジュメの番号2番に書いているんですけれども、これが東の物語第1話です。有名な柳田久仁が書いたやつですね。
ちょっと読み上げると、伝えゆ東の語の地、大昔はすべて一縁の湖水なりしに、その水さるかいし川となりて人海に流れ入れしより、自然に角のごとき雄楽をなせしなりと、ということがあるんですけれども、
この昔一縁の湖だったんですよというのは、いろんなところに引用されているので、博物館の展示にも出てくるし、書籍にもとにかく出てくる。しかも第1話の冒頭なので、もうすごく有名な言葉なんですけれども、これ本当なのかどうか、皆さんどう思っているかというのをちょっと1回聞いてみたくてですね。
今日1、2、3、10名ぐらいいらっしゃると思うので、挙手をお願いしたんですけれども、2種類です。東のは昔一縁の湖水だったと思う人は1番、最初に手を挙げてください。いやいや、これただの言い伝えで湖じゃなかったでしょうと思う人、ノーだという人は2番。どちらか、どっちもあげないのなしにしましょう。
このぐらいの人数なんで。僕あげるとなんかアレになっちゃうんで、田田さんもあげてもらっていいですか。東のは昔湖だったと思う人、挙手をお願いします。1、2、3、4、5、6、7名ですね。これは単なる言い伝えで湖ではありませんでしたと思われる方で挙手をお願いします。先生いかがですか。わかりません。じゃあわからないもあれにしましょう。
そうですね。これちょっと正解ずるいようなんですけれども、部分的にイエスなんですね。すいませんね、2択って言ったのに答えが中途半端なんですけど部分的にイエスなんですけれども、それどういうことかというとですね、東のが湖だったってなんとなく映像としては直感的にイエスと思いますよね。
例えば最近だと高清水からの雲海の風景とか、雲海ない時の松崎盆地の田んぼに水が張られている風景なんかがよく写真に出るので、盆地の底が昔湖だったんだよなっていうのをなんとなく思いやすいんですけれども、そういう意味ではあの辺り一体が湖だったという事実はないんですね。そういう意味ではノーというか嘘なんですけれども、この一円のっていうのがちょっとこの難しいところで、
今の東の市みたいなとこが全体が湖だったって事実はないんですけれども、部分的に本当に湖だったっていうのを確かめた先生がいまして、これちょうど私と田田さんが東の高校に通っていた時の地理私学の先生が、地理の有名な先生で、5年間ぐらい調べて、東ののその大昔の地層とかを調べながら、本当に湖だったのかどうなのかっていうのを調査した論文があるんですけどね。
結論で言うと本当に湖だったんですね。ただしその湖だった部分っていうのはどちらかというと綾織盆地の方、松崎盆地のあの田んぼある方じゃなくて、綾織のあっちの方ですね。市内中の川を集めて一番水が今でも来るようなところ、あの辺の一部が本当に湖だった。
ただしその湖だった時代っていうのは旧石器時代より前で、人間が住んでいる時代よりも以前のことなんですね。なので部分的にイエスというのは本当に湖だったところはあるんだけれども、それは人間が住んでいる時代よりはるかに昔なので、その湖だった時代を知っている人は存在し得ないんですね。
なので昔この辺が湖だったんですよっていうのを見て知っている人っていうのは言い伝えレベルでも存在しないぐらい昔なんですね。なのでちょっとややこしいんです。田中さんどっちに挙げましたっけ?
私は湖だったに挙げました。
知ってた?知ってますか?
私の同級生が調査したそういう論文があるので。
あの時にあの先生が5年間ぐらい調べてたので、極地的にというかその数年ぐらい有名だったんですけれども、なかなか地理の論文を探さないと出てこないのであまり知られてはないんですけれども、ここに書かれてあることって実際は半分は事実ですね。一部湖だったと。
ただしそれは人類が住むよりはるかに昔のことだったということなんですね。
でちょっとこれを冒頭に持ってきた理由がありましてですね。このレジュメの何番だ?
この3って書いてるとこですね。
遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙湖を越えて鮭に乗って入ってきたそうだが、その当時はまだ遠野湖は一円に広い湖水であったという。
ということなんですけれども、先ほどの事実に照らすと湖がある時代に鮭に乗って、その鮭に乗ってっていうのも何かちょっとファンタジーなところありますけれども、実際その時代に人が来たわけではないんですね。
ここら辺は昔話というかフィクションというか言い伝えの要素が混ざっているところなんですけれども。
なんでこんな話が残っているかというのが、この小野原神社を巡る話の面白いところなので、今日はその辺の話をしたり実際歩いて見に行ったりしたいなと思っております。
ちょうどこの淵の端っこのところにあるのがうねどり様だと思うんですけど、あれがどういう言われでというか、
どこからかというのを、資料がチラチラ見えているのでお伺いしてもいいですか。
うねどり神社というのは、その当時、不大村の宇野取神社から環状してきて建てられたと言われているので、
本社が宇野取さんなんですね。そこの信仰のところまでちょっとお話ししてもよろしいですか。
その不大村の宇野取神社というところも、実は縁結びで有名なところで、
実は山頂のあたりに小文になっている松が生えているんですね。
それというのは、その松を小さい苗の段階でくるっと結んでおいて、
その松が縁結びの元をかけてくるっと結んで、その松が枯れずに成長すると、
その本人の縁結びの願いが叶うという信仰があるそうなんですよ。
その宇野取神社からご神礼を環状してきて、宇野取神社を混流したときにも、
おそらくその信仰も一緒に入ってきたであろう。
その信仰が、赤い布を左手で結ぶと男女の仲が結ばれるという信仰につながっていったんだろうと思っております。
この結ぶという行為自体が呪術なんですよね。
これ何を結びつけているかというと、実は自分の魂なんですよ。
霊魂を結び目に込めるという信仰が、ずっと日本人は昔から持っていたわけですね。
確認できる一番最古のやつが万葉集にすでに書かれてあります。
万葉集の3056番の歌に、
いもがかど、ゆきすぎかねて草むすぶ、かぜふきとくな、またかえりみむ。
いもというのは女性のことですね。女性が住んでいる家の前を通り過ぎようとしたんだけれども、通り過ぎることができない。
その女性に恋をしている男性がいるわけですね。
ただ通り過ぎることはできなくて、そこの門前で草を結んだと。
また通り過ぎるんだけれども、また帰ってくるときに、その結び目が解けていないように願をかけているんですね。
これというのは完全に縁結びの呪術で、その草が解けなければ恋が実るというふうな信仰が昔にあったということですね。
これ、一番皆さんに理解しやすいのが、自分の霊魂を込める、自分の分身を込めるということですね。
このことについて、皆さんに一番身近な話題というのが、自分の子供のことを何と言いますか。
息子、娘。これは折り口忍の説なんですけれども、これは実は結び子、結び女。
つまり、魂がそこに込められた子供だから、結び子、結び女というふうな説があります。
さらにこれを発展させると、亡くなるときには何と言いますか。亡くなった状態、人が亡くなった状態。
お仏さんと言いますよね。
つまり、結んだ魂が仏けて亡くなってしまう。結んだ魂が仏けて体から離れてしまうと亡くなってしまうという信仰があるんです。
またちょっと話は飛ぶんですけれども、うちの八幡宮の霊祭のときにババめぐりってありますよね。
ババめぐり。ババを右側に回るんですけれど、これは神様から御霊をいただく。
その神様からの御霊を参加者全員の魂に結びつけて元気になる。活性化させるという意味があるんですね。
その反対に百万弁と言って、お寺さんで皆さんで呪図を回しますよね。
あれ実は左回しに回すんですよ。
亡くなった方がちゃんと成仏できるようにという意味で、ちゃんと魂を解いてあげる。
そういった右に回って結んだものを左に回して解いてあげる。
そういった信仰がずっと昔からこの日本には息づいていて、
それがうねどりさんの縁結びの信仰にも結びついているということを、この場でちょっとご紹介させていただきたいなと思います。
マップを開いていただくと、うねどり神社の勘定が1861年頃って書いてあるんですね。
今の不大村の迂回神社からうねどり様を勘定してきたのは、19世紀の半ば頃ということなんですけども、
ここからは僕の作家的な想像力になっちゃうんですけども、
この同じ地図に関連する年表というのは左側にあるんですけども、
このあたご橋っていうのができたのが1666年なんですね。
逆に言うと、この時までにどうしてたのかっていうと橋がなくて渡し船でのみ行き来をしていたんですって。
渡し船は大きな荷物乗せられませんから、一人二人乗って、旅人が乗ったりね、
あるいは商人がちょっとした荷物乗って渡し船で乗るっていうことは、この時まであったらしいんです、あたご橋ができるまで。
あたご橋ができてからもしばらくはあったらしいんですけども、
その間、東野に入ってくる人っていうのは、大きい荷物とか馬とかどうやって入ってきたかっていうと、
月申の東禅寺の方から来たと。
なので今の感覚で言うと、なんか月申って東野の中でもなんとなく田舎、道路があんま通ってない、幹線道路ではないってイメージあると思うんですけども、
昔はそうではなくて、この川に橋がかかってない頃は内陸部、森岡からの荷物が来るときは月申の東禅寺あたりを来て、
最後は松崎の方ですね、観音様がある松崎の方を通って、まだ横田城にあった頃の阿蘇沼市の城に荷物を届けていた。
あっちの方がメインというか、あっちに物流のメインのルートがあったんですね。
ただとはいえ直線で行けば、川を渡っていけば内陸部に近いのはこのあたりなので渡し船があったということなんですね。
ここからが僕の想像のあれなんですけど、渡し船に乗るってことは旅立ちの場所っていうか、人との別れの場所みたいな感じするじゃないですか。
そうですね。
するんですよ。するので、ここに縁結びとか、また会いましょうとか、またお会いしましょうとか、戻ってきたときにはっていうような、
祈りの場所としての信仰というか習慣みたいなものが、もしかしたら最初からあって、それに対してうねどり様とかが勘定してきたときに、
もともとあった心の性質、ここは別れの場所、旅立ちの場所みたいなところと、縁結びっていうもともとあったうねどり神社の習慣とかが、
うまく結びついて、本当にすんなりと定着したみたいなことがあるのかなと思って。
そうですね。
ここに書いてある片場の足を生じる、それに願をかけるとっていうと、これ何もうねどり様のことをまだ言ってないんですよね。
昔は片場の足を結んでやっていたと。そこに、もしかしたらこっちの方が古くて、こっちの19世紀半ばのうねどり様ができた方が後だったのかななんてことを思ったり想像したりしました。
実は万葉集の中にもヒレを振って人を見送るっていう習慣があったんですよ。それが今のバイバイなんですよね。
昔は布を持って人を見送ったんです。そうすることによって間を払う、そしてまた帰ってくることができるっていう、そういった風習があったんです。
まあ、黄色いハンカチじゃないですけれども、やっぱり布を振って人を見送るっていう風習はあったと思うので、今大介さんの話を聞いて、なるほどな、確かに布の方が古い信仰なのかもなっていうふうに思いました。
今ではね、たくさん橋も架かっているんで、当時の面影ないとは思うんですけども、この辺の場所って、僕の友人が東野のハリウッドサインと呼んでいる、ようこそ東野へって山肌に書いている、ハリウッドサインって僕の友人が呼んでるんですけど、
あれがあったり、高速道路の東野インターチェンジの出入り口があったり、風の丘があったりするように、なんか人が出たり入ったりする、地形的にそういう場所なんですよね。
それが、もっとそういうものが、高速道路もない、風の丘もない、橋もない、時から既にそうだった。タシブネとかなんとかでそうだったんじゃないかなっていうのが、今でも歩くとね、あ、これちょうど船で行けそうだなみたいな距離が、距離なんですね、見えるとね。
そういうのを見ると、ただ、堤防で視界が遮られているので、ちょっとある程度高くまで行かないと、そういうところは見えないんですけども、それ見やすいのが、あたご神社の階段の途中のところにありまして、今日そこなんかも行けたらいいなと思っております。
あと、田中さんももう1本喋りたいやつなんですね。
あ、神聖様信仰ですかね。
神聖様、じゃあ今地図の一応ね、下から今順番に話してたんで。
そうですね、御堂の稲林って神聖様で有名で、遠野市内ってすごく神聖様が多いんですよ。私が大学の頃の、ちょうど地学の先生が神聖様巡りをするために遠野に来たっていうくらいで、なかなか全国でもこれだけ神聖様が。
そうなんですよ、知らなかった。
知らなかった。どこにでもあると思ってますね。
どこにでもないです。
そんなにないんですね。
本当にないですね、意外と。なかなかやっぱり造形的にね、そういうものがあるんで。
少なくとも私の中で調べた中では、この琴原稲林神社、そしてすぐそこの田賀神社さん、あと荒川駒形神社さんを公開してますね。
あと、うちの八幡宮にも神聖様神輿っていうのがありますし、山崎の神聖様はすごく有名ですね。
あとは早稲神社の中にも神聖神社っていうのがありますし、あとは、私これこの間初めて聞いたんですけど、続石を神聖様として数形してる人もいると。
実は裏から見ると横の神聖様の形に見えるんですって。
だから、小田から沖縄に行く人もいるっていうのを最近地元の人から聞きました。
あとはですね、なかなかこれ行きづらいところにあるんですけども、津川に抜ける峠の山道を登っていくと、縦石神社っていうのがあるんですけど、すっごい大きい神聖様の石があります。
大きいってどれくらいですか?
10メートルくらいです。
でっかい!
明らかに神聖様の形してるんですよ。そういったところもあるくらい神聖様が多いんですが。
で、なんでこんなに神聖様が多いのかっていうと、岩手って実は神聖様、もう党の字だけじゃなくて、岩手自身が神聖様信仰のメッカで、江戸時代の貴公家の菅谷の真澄っていう人がここら辺を旅したときに、
神聖様信仰というのを初めて見て、ここにはこういう信仰があるって紹介してるんですが、実は意外と神聖様信仰ってそれが初めてぐらいで、だから岩手県の真澄神社が全国の神聖様信仰の一番始まりなんじゃないかっていう話もあるくらい、実は岩手県って神聖様信仰のメッカなんですよね。
で、なんで党の地内でそれだけ神聖様が信仰されるようになったかっていうと、やっぱり法削を願う気持ちがすごく多かったんじゃないかなと思います。
神聖様っていうのは説明するまでもなく男性のシンボルですけれども、法削のシンボルでもあるんですよね。
稲作のことを種付けって言ったりもしますけれども、そのものズバリで、やっぱり神聖様を拝むことによって、ちゃんと植物が、稲が育つように願をかけるっていう信仰があったわけですよ。
その後、子孫繁栄とかそういった信仰も付随してくるんですが、一番根本的なところはやっぱり五穀法上。
それが一番現れているのが奈良県の飛鳥二松神社っていうところは、神楽を舞うんですが、明らかに男性と女性のその行為をもう本当にダイレクトに演じるんですよね。
そういったことによって、お田植え祭でですよ。お田植え祭でそれを舞うんです。
それを舞うことによって稲が成長するっていう信仰があったわけですよね。
その遠野はやっぱり例外、貴賓とかでなかなか苦労したっていう歴史があるところから、皆さん、五穀法上を祈って神聖様を信仰してきたんじゃないかなというふうに思っております。
そのトレッキングでも、施設に行きますから、神聖様を祀っているところをご案内しますので、ぜひ皆さん一緒に参拝しましょう。
今日、実際に歩いていくホドボライナリ神社なんですけども、このレジュメの3点目に書いてある話につながっていくんですけども、
これは遠野物語周囲の138話ですね。
遠野の町に宮という家があるというこの138話なんですけども、この宮というお家が誰のことかっていうのは、必ずしも遠野物語そのものの中にははっきりと書いてないんですけども、
答えがわかってまして、宮家っていうのは、その前は倉堀家という名前のお家でして、
もう一回地図に戻りたいんですけれども、右側の方に鍋倉城跡というのがあります。
国指定市籍になりましたけれども、
これはですね、阿蘇沼弘里がこの16世紀後半ぐらいに今の横田城、松崎の横田城辺りからこっちに、
本拠地を移したと。
移して、その次の代ですね、博長という息子がいるんですけれども、
その博長の代になった時に、この博長というのが、部下たちの空手団によって、
二度と島に戻ってこれなくなってしまうという事件が起こります。
ただしですね、その博長の弟ですね、吉政というのがいるんですけれども、
吉政が逃げ込んだのが、このほどぼら稲荷神社です。
距離で見るとものすごく近いので、あれ逃げ込んだと言っても見つかっちゃうんじゃないかという風に思うかもしれませんし、
僕もそう思ってたんですけれども、僕と田田さんがですね、
このほどぼら稲荷神社の近辺を奥の方まで探索したんです、道なき道を。
そしたら1時間も経たないうちに遭難しかけたというのがありまして、
本当に薄そうとしてたらまず見つけられないだろうなとすごく実感があるので、
このぐらい離れてていると実際見つからないものなんだなという実感があるんですけれども、
現にこのぐらいの距離で逃げたそうです。
ちょっと今、歴史的な人物の名前がバッと出ちゃったので、整理のために年表の方を見ていただきたいんですけれども、
この年表を作成するにあたってはですね、
今日いらっしゃっている荒木先生の本で、荒木先生が参考になされた
阿蘇沼広廃記という記述に従って書いているんですけれども、
時系列に沿ってご紹介したいと思います。
一番上に年号が書いてあるんですけれども、この1189年ですね、
この時に阿蘇沼広津那というのが、党の領を廃了します。
これ今の栃木県の佐野市辺りから阿蘇沼氏が党のを廃了して移ってくるという時代です。
ただこの広津那自体は党のには来なかったようで、
その息子の世代に部下を引き連れて実際にたくさん移動してきたということだそうです。
それが今の松崎の横田城辺りにありますけれども、
それがおよそ400年ぐらい阿蘇沼統治時代というのが続きます。
次は年号、1600年ですね。
これは関ヶ原の戦いがあった年ですけれども、この時に党の騒動、クーデターというのが起こります。
この部下たちが広永というのを裏切ってというか、
広永が党のを留守している間に政権を乗っ取るという事件が起こります。
広永はその後は党のに戻ろうとして3回戦争が起こるのですけれども、
いずれも敗北して生涯党のには戻ってくることができなくて、最後は伊達藩仙台あたりで亡くなります。
この広永の兄弟が何人かいるのですけれども、記録に残っている一番下が吉政というものです。
この吉政は広永が党のを留守している間にも党のにいたので、クーデターが起こった瞬間には党のにいました。
命を狙われていますので、ホドボラ稲荷神社のところに逃げ込んだという事だそうです。
ちなみに広永の奥様とか息子さんは世田前の方まで逃げますので、全員がここに逃げたわけじゃなくて、
安全なところまで逃げられた人もいれば、吉政のようにここに隠れ潜んだという人もいます。
この吉政が名字を倉掘りという風に変えます。
当時このあたりの土地の名前をホドボラとか倉掘りという風に言ったそうなので、倉掘りという名前を取って倉掘り吉政という風に名乗ります。
この倉掘り家が吉政を始めとして4代続きます。
4代続いた後に名前をミヤという風に変えまして、ミヤ道義とかミヤ道義と発音する人もいます。
このミヤ道義が名前を変えて、今の六日町のところに住んでお医者さんをやります。
名前を変えたというのが象徴的だと思うんですけれども、名前を変えて下の町に出てきたと。
つまり自分たちの一族を滅ぼした南部家の恨みを忘れて、ちゃんとミヤ遣いをするというか、医者として、藩医として南部家に仕えたそうなので、そういうつもりで下に降りてきたんだということだそうですね。
ただ、これはミヤ家のお家に伝わる資料を見せていただいたんですけれども、やっぱり悪い噂を立てられて、
前政権の人たちの生き残りなので、あの病院にかかると毒もらえるぞ、みたいなことを言われたということだそうですね。
それに腹を立てて、一度もう一回、ほどぼらいない神社の方に引っ込むらしいんですね。
当時は神社というよりかは住居で住んでいたんですけれども、それに戻ったんだけれども、やっぱりこの辺の人たちはお医者さんに見てもらいたいというのがあるので、
いろんな説得というか呼び戻しによって、もう一回下の町に降りてくると。
降りてくる代わりに、昔住んでいた場所を神社に建て替えた、建て替えたかというか神社を新たに勘定して作ったというのが、このほどぼらいない神社の出来上がりで、
1765年ですね、地図に記載があるんですが、1765年にほどぼらいない神社ができるというのは、
宮同義が自分のキャリアの終盤に自分たちの地属が住んでいた場所を神社にしたというのが始まりだそうです。
ここから先は想像になるんですけれども、宮家の人たちはこの後もお医者さんを何台も何台も連続して排出するお家になります。
なので、今でも婦人病だとか慢病に効くといった神功というか、霊水なんかがほどぼらいない神社に出ていますけれども、
医療と関係のある人たち、一族の床になる場所として、それが医療に関係のあるような神功を集めたんじゃないかなというふうに思っています。
こうして地図をもう一回見てみると、空出た地で追われた鍋倉城も、あと六日町というのは地図の真ん中あたりですね。
東の高校の前あたり、グラウンドが映っていますけれども、そのあたり六日町ですけれども、そのあたりと、
あとは今でいう下組町とか桜幅というのが、この辺の中で政権交代とそのゴタゴタドットみたいなのが動いているのがわかると思うんですけれども、
そういった名残が今も残っています。地図の一番上の方には城福寺さんというお墓があるんですけれども、
ここには、倉堀家、四代のお墓が昔、ほどぼらいない神社の境内に、神社になる前ですね、あったそうなんですけれども、
それが移動して、今でも城福寺さんにあります。城福寺さんに行くと、倉堀家の墓、宮家の墓、
浅沼家の方のお名前とかをずらっと貼って、一番でっかいお墓が城福寺さんで、一番大きいお墓が多分そこだと思うんですけれども、
宮家代々が眠る墓が今もあります。
ペラペラ喋っちゃいましたね。あとはもう実際に現場に行って。
そうですね、あとはレジュメに返って、ほどぼらとはどのことかって、この最後、すみません、細かくなっちゃうんですけれども、
今の下久美町とか、六日町、新町とかっていうのは、すべて南部家が鍋倉城を作った後に、
町人町を作るために新しく作っていた場所なので、この浅沼家の人たちがいたときには、当然その町の名前は全くないですね。
その辺、山の辺りを全部ほどぼらと言って、ちょっと、あと、倉堀がどこのことかわかるんですけど、倉堀かほどぼらかどっちかで呼ばれていた、
今の下久美町、桜川が、六日町辺りが、なのでこの名前がたくさん出てくるんですけれども、
どうしてもね、何々町っていうとすごくなじみがありますけれども、それもわずか400年前の話で、
今日歩くところは、400年より前のこの残画を鍵に行くっていうかね、見に行くって感じなので、
今日歩くところ一帯が実はほどぼら、今だと山のとこだけ指すように感じますけども、
今日歩くとこ全部ほどぼら、というような名前だったそうです。
ちなみにこのほとほらっていう言葉なんですけれども、実は言う人が言うには、女性の性器のことだっていうふうにしゃべるんですよね。
いざなにいざなみが国生みをして、いざなみのみことが最後に火の神様を生んで、ほとを焼いて死んだっていうふうに書かれている通り、
ほとっていうのは女性の性器のことを指すので、さらにほらですから、まさにそれは意味してるんじゃないか。
だからこそ、婚姓様がそこに置かれるのに意味があったんじゃないか。
女性機と男性機を合体させることによって、さらに生殖の力を増すという信仰があったんじゃないかというふうにも言われてますね。
それで、僕昔、ほどぼら稲荷神社って山の奥のことをほどぼらって言うんだと思ってたんで、山の奥行くとちょうど境内とかが、
ちょうど子宮的な形してますよね。狭いとこ行って、最後広いとこ出るみたいな。
だから僕そこのことを言ってるのかと思ったんですけども、ほどぼらってそこのことだけじゃなくて、もっとここ全般のことを言ってるんですよね。
じゃあ、もしその言葉の説でそう考えると、どこがそうだったのかなっていうのを改めて考え直すところがあって。
死刑、考え直したりしました。
ただね、ちょうどこの辺りって橋も架かってないと、どん詰まりっていうか、クーデターで追われた側が身を隠すのにちょうどいい場所だなと思ったんですね。
ちょうどこのほどぼらより裏の山は物見山に続いて、すぐ裏が伊達藩のところなので、隣の藩に逃げ出すと、
当時藩を越えては警罰追ったりなんかできなかったので、いつでも他藩に逃げられる場所、山を背中に守られながら、目の前は橋も架かってない川と淵なので、前から誰かが攻めてくる方向がかなり限られていると。
なので、見張っていればいい場所が限られている。出口が一箇所しかないようなどん詰まりというか、川と山に囲まれている。
だから安心していられるというか、そういう全地形的な意味で、至急的な安心感がある場所だったのかなと思ったんですけど、ちょっと考え過ぎかもしれない。
住んでる人のことまで、逃げた人はそう思うかもしれないけど、住んでる人はそう思わないかもしれないんで、考え過ぎかもしれませんが。
今は道路と橋があるんで、そう思えないんですけど、かなり四方、三方か。三方を川と山に囲まれた、そういう場所というか、な感じがしますね。
最後に総代の人からお知らせがある。毎年、ほどぼら稲荷神社の霊体祭が7月9日にあって、これは非固定で毎年7月9日で、今年は火曜日なんですけども、
ただあそこまで行くの大変なので、ちょうど下組町の道路、車で通る道路のところに御神体を下まで下ろしてきて、
小さなやしろができていますので、そこでお祈りしたり、お祭せとかご寄付もできるようになっていますので、
今日皆さん行く人たちなんで、そんな気遣いは無用かと思うんですけども、もしお近くの方に山登れないよって人いたら、
今のタイミングだけ下に降りてきてるんで、ありますよということをお伝えいただければ嬉しいです。
あとは実際に行ってみましょうかね。
ありがとうございました。
ここまででトーク部分が終了で、この後十数名で、ほどぼら、今でいううねどり様、あたも神社、おやくら館、ほどぼら稲荷神社っていうのを歩いて回りました。