1. 名谷教会
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2012-01-15 48:51

2012/01/15:聖日礼拝(旧音源)

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2012/01/15 聖日礼拝(旧音源)


00:01
主の血にて現れ、清くなれに
救いは好み、上々を受信
我以下で疑わん主の御業を
今心に在るは安き人
主に捧ぐる感謝の清き調べ
我以下で再び快楽を
愛して主の御元を去りゆくべき
救いは好みに上々信む
我以下で疑わん主の御業を
アーメン
ご着席ください。
聖書を読みいたします。
今朝の聖書家書は、
使徒の働き二十章三十一節から三十八節、
新約聖書の二百七十一ページをお見てください。
使徒の働き二十章三十一節から三十八節です。
申田姉妹に聖書朗読をお願いいたします。
使徒の働き二十章三十一節、
ですから目を覚ましていなさい。
私が三年の間、夜も昼も涙とともに、
あなた方一人一人を訓誡し続けてきたことを
思い出してください。
今私はあなた方を神とその恵みの御言葉とに委ねます。
御言葉はあなた方を育成し、
全ての聖なるものとされた人々の中にあって、
03:02
御国を継がせることができるのです。
私は人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
あなた方自身が知っている通り、
この両手は私の必要のためにも、
私とともにいる人たちのためにも働いてきました。
このように老苦して弱い者を助けなければならないこと、
また、主耶穌御自身が受けるよりも与える方が幸いである
と言われた御言葉を思い出すべきことを、
私は万事につけ、あなた方に示してきたのです。
こう言い終わって、パウロはひざまずき、
皆の者とともに祈った。
皆は声を上げて泣き、
パウロの首を抱いて幾度も口づけし、
彼がもう二度と私の顔を見ることがないでしょう
と言った言葉によって、特に心を痛めた。
それから彼らはパウロを船まで見送った。
聖火体の賛美、新聖火279番に続きまして、
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
聖火体の賛美、新聖火279番に続きまして、
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
聖火体の賛美、新聖火279番に続きまして、
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
聖火体の賛美、新聖火279番に続きまして、
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
06:03
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
内田牧師より人生は出会いと別れと題して説教をしていただきます。
おはようございます。
おはようございます。
私の第三誠実をここに迎えましたことを感謝をいたします。
今日も御言葉をいただきますが、一言お祈りをさせていただきます。
恵み深い天の父なる神様、こうしてあなたがこの礼拝の主として今ここにともにいてくださることを信じます。
そして、まず神の国と神の義を求めてこの水戸へと集ってこられたお一人お一人上に、主の豊かなお導きがありますように、
私たちはこの礼拝を通してもう一度あなたを覚え、またなくてはならない宝を私たちがもう一度確認するときとさせてくださいますように。
09:13
思い返せば、1月の17日のあの出来事、メモリアルが近づいております。
また、昨年の3月の11日のこと、深く覚えますが、
神様どうぞ、すべてを御存じの主御自身がそれぞれに必要なものをお与えくださるように、
慰めと励ましと、そしてまた希望が与えられてそこに立ち上がることができるように、
どうぞ全国で持たれていますこの礼拝とまた追悼のときもどうぞ豊かに祝福してくださるようお願いをいたします。
今日も私たちはいつもと変わらずあなたの御言葉をいただかんとしております。
御言葉の中におられる主御自身がそれぞれに語りかけてくださいますように、
私たちもしっかりとそれを受け止めて、また私たちの信仰を強めてくださるように。
語る者小さく乏しい者でありますから、主をどうぞ憐れんでお支えくださいますように。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は使徒行伝、使徒の働きの二十章を開かせていただいております。
この選挙の働きにおいてパウロがさまざまなところに出かけていっては、そこで福音を伝えたということが、この使徒の働き、使徒行伝の証であります。
この二十章だけでも、パウロがいかに各地を訪れて、そこで福音を伝えたか。
もちろんうまくいくこともありますし、うまくいかないこともありますけれども、
この一節のところでも、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてマケドニアへ向かって出発した。
マケドニアということが書かれています。
二節では、多くの進みをして兄弟たちを励ましてからギリシャに来た。今度はギリシャに彼は行きました。
六節に行きますと、いつかかかってトロアスで彼らと打ち合い、ここにトロアスがありますが、
十三節に行きますと、アソスに向けて出版した。そして十四節で彼らはその次にミテレネに着いたというように、彼らは各地をめぐり歩いたわけです。
12:06
十五節でも翌日、キオスの沖に達して、そしてサモス、ミレトに着いたというようなことが書かれています。
パウロは、十九章のところでも見ましたように、一度エルサレムに帰って、そしてパウロに、ローマに行くのだ、最終目標としてローマに行こうということを三玉に示されたということが書かれてありますが、
そのような中で、パウロ、そして選挙者たちが各地を訪問して、そして福音の選挙に当たったということ。
そして今、彼はミレトにいるんですが、エペソというところでの国会が終わって、そこに教会、主の群れができたわけですね。
ですから一度エペソに行って、その人たちと挨拶とお別れをしてから、エルサレムに帰ろうということをパウロは考えていたんですが、十七節のところ。
パウロはミレトからエペソに使い送って、教会の長老たちを呼んだ。ところがミレトに立ち寄る、ごめんなさい、エペソに自分が行って、そこで彼らに会って、そこからエルサレムに戻るという時間がなかったので、
逆にエペソにいるその長老たちを今いるミレトに呼んで、そこでお別れと、そして彼らにメッセージを残して立ち去ろうということをパウロは考えたわけです。
ですからパウロはミレトからエペソに使い送って、そしてそのエペソから長老たちが今いるミレトに来てくれるように願ったわけであります。
そして十八節、彼らが集まってきたときパウロはこう言った。こう言ったとありますが、この十八節からずっと続きまして三十五節の括弧が始まって括弧を閉じる。
ここまでがいわばパウロがエペソの長老たちに語ったいわゆる決別の説教、お別れのメッセージを語ったということであります。
どのようなことを彼らに語ったのか。長老と言いましても、いわばエペソにある群れの代表者として来ていただいて、そして彼らに語り、そして長老たちが帰ったときにまた教会の皆さんにそのことを伝えてほしいという、そういう思いがあったんだろうと思います。
15:09
この十八節から三十五節の中にパウロの一つは伝道に対する姿勢、彼のいわゆる伝道観というものが書かれてあります。そして二つ目に彼の教会観、教会とはこういうものだということをもう一度改めて彼は語った。
そして三つ目が聖書観、聖書とはこうだということをこの説教の中で語ったわけであります。これは非常に私たちにとっても大切なことでありますので、そのことをまず見ていきたいと思います。
パウロの伝道に対する姿勢、考え方、それは十九節にあります。
私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀により我が身に降りかかる数々の試練の中で主に仕えました。
彼の宣教の働き、それはまず主に仕えるということが基本にあったということです。いろんな法師がありますけれども、それらは全て主にお仕えしているのだ。
それはパウロだけではない、私たちの信仰者、クリスチャンとしての全ての人がこのことをもう一度基本として覚えたいと思います。主に仕えること。
キリスト御自身も私は仕えられるためではなく、仕えるために来たのだという見本を示してくださった。その主に私たちはまた仕えていくという、これがパウロの姿勢であったわけです。
ではどのように主に仕えていくのか。一つが謙遜の限りを尽くしということです。もう一つが涙をもって仕える。そして試練の中で仕えるという、この三つのことをここで言っております。
主の前にへり下って、そして伝導していくという姿勢をパウロは貫いたわけであります。キリストの十字架を全面に押し出して、そしてこの復活を人々に語るという、そして自分はあくまでも十字架の陰に隠れる。
それが私たちの務めなのだということをここでも彼は書いたわけであります。皆さんに言ったわけであります。もう一つは涙をもって主に仕えてきました。
18:00
パウロが選挙の働きにあって、あるいは勃開の働きにあって、どれほど涙を流したかということを彼は言いたかったわけですね。私たちがこの涙をもってというその言葉に何を示されるか。
どんな人も涙を流すことがあるわけですね。それは一人で涙を流すこともある。誰も見ていないそういうところで一人涙を流す。そういうこともあるでしょうし、ともに涙を流すということもあるでしょう。
そして喜びの涙、感動の涙、悲しみの涙、苦悩の涙、いろいろ涙の種類はありましょう。あるいは自分自身のために流す涙もあれば、あの人のため、この人のために流す涙もあろうかと思うんですね。
パウロは涙をもって主に仕えるというその伝道の働き、生涯を貫いたということであります。そしてもう一つが、この福音選挙の働きにあって、数々の試練の中で主に仕えた。
何も全てがうまくいくということではない。ここにも一つの例として、ユダヤ人の陰謀により我が身に降りかかる数々の試練、そういうものもあります。
あるいは陸の難、海の難、そういうような盗賊にあったり、あるいはいろいろ盗みにあったり、あるいは船で嵐にあったり、そんなこともあります。あるいはその境界を立て上げるために、なかなか理解してもらえない、そういうジレンマ、いろんなことがあろうかと思うんですね。
しかし彼はそれを神様の試練と捉えて、そして神様に願ってそれを耐え抜くことができる、その試練を耐え抜けるようなその忍耐を与えてくださいという、そのことも彼は祈ったわけですね。
そして忍耐が連達を生み出し、連達が瀕死を生み出すという、その局地に彼は達したわけですね。
ですからこのように彼の福音仙境の働きが謙遜の限りを尽くし、涙をもって、そして試練の中で忍耐をもって主に仕えてきた、これが彼の長老たちに語った伝道の姿勢であり、またこれが教会にいる私たちのまた同じような伝道に対する姿勢として教えていただいたわけであります。
21:12
もう一つのことは、この福音の仙境の働きが二十節にありますように、彼は人々の前でも家々でもあなた方を教え、あるいはユダヤ人にもギリシャ人にも神に対する悔い改めと私たちのシュウイエスに対する信仰等をはっきりと主張したのです。
彼の伝道の働きはいろいろな形をとりました。
時には人々の前で集会をもって、そして来られた人々に語るという、そういう伝道の方法と、あるいは家々でというように、例えば家庭集会のような小さなグループの中で膝を交えて語るという、そういう方法もございました。
それとユダヤ人にもギリシャ人にも、どんな人にも民族とかそういうものを越えて、いわゆる一人の人間と一人の人間としてのその交わりの中で福音を語っていくという、これは非常に私たち教会としても大事なことであります。
日本にいますとどうしても私たちは日本人に福音を語るということを前提にしますが、そうではありません。
私たちは福音というものは全世界の全ての人に開かれたものであり、教会は全ての人たちに開かれた教会であります。
ですからむしろここにユダヤ人もギリシャ人もいないということの方が本当は聖書的ではないわけですね。
聖書的であればいろんな国の人たち、いろんな民族の人たちがいてもいいし、そういうものを迎えていくという、そういうことも教会の働きでありますし、私たちがまたそういうところに出ていって、どんな人にもユダヤ人にもギリシャ人にもと言われるように全ての人にこの福音を伝えていく。
これがイエス様の言われた全世界に出て行って福音を述べ伝えよう。全世界に行って全て作られたものに福音を述べ伝えよう。そのことをイエス様はおっしゃったわけです。
もう一つはその伝道の働きは、神に対する悔い改めを促すということと、衆生に対する信仰を持つようにという、そのことを常に覚えて御言葉を語っていったということ。
24:01
そして彼は24節、この神の恵みの福音を明かしする任務を果たし終えることができたら、私の命は少しも惜しいとは思いません。
彼は福音宣教に命を懸けていたというよりも、もうこのことさえ果たせば、私はもうどうなってもいいのだ。そこまで彼は言い切ったという、そういういわば幸いな生涯を送ったと言えるでしょう。
二つ目の彼のパウロの教会間です。28節に彼はこのように長老たちに言いました。
あなた方は自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。
精霊は神が御自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなた方を群れの監督にお立てになったのです。
この28節の中に、神の教会という言葉があります。
これがパウロの、そして聖書の教会間です。
教会とはこういうものだというものを一言で表すならば、それは神の教会であるということです。
いわゆる教会は神様のものですということ。神以外の誰のものでもないということです。
当然このエペソの長老たちに語ったわけですから、長老たちあなた方のものではありませんよ。
今日で言えば役員のものでもありませんよ。教職者のものでもありませんよ。誰かさんのものでもありませんよ。
神の教会であるということ。神がキリストの血をもって贖い取られた人たちの群れ、それが神様の教会。
こういうことはあってはならないのですが、教会の私物化ということ。これは大変な罪であります。
神様のものを我が物のようにして、その教会をそういうふうにしてしまうという、これは大変な罪です。
ですからそういう、もし試みに遭うということは、これは罪を引き起こす種になるわけですね。
ですからもちろんそのものがそういう誘惑から助けられなければなりませんし、
ですから私が教会を私物化しませんようにという、そういう祈りもしないといけないし、
その私物化させるようなことも言ってもしてもいけない。
27:02
誰かさんを、あの人がこの教会をまるで作ったんだというような、
誰それさんが、あの方がこの教会を建てたんだという、まるで教祖のように建て祀ってしまう、そういう誘惑が私たちに来るわけですね。
ですからそれは大きな罪をもたらすということ。
ですから十分これは気をつけなければいけない、そういうことであります。
教会はあくまで神の教会である、誰それさんの教会、何々先生の教会、そういうものはこの世には存在しない。
パウルはここで長老たちにそのことをはっきりと示したわけであります。
政令は神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなた方を群れの監督にお立てになったのです。
その神の教会を牧させる、運営していく、あるいは管理していく、そのことは監督に委ねられて、
あるいはその教会の群れの人たちにお委ねなさった、それは当然だと思うんですね。
私たちもこの神の教会を管理させていただく、そしてそれを運営し、またそこに神様の業がなされるように私たちが主に仕えていく。
それが教会であるということであります。
そしてもう一つのことは、28節のあなた方は長老たち、あるいは教会の代表の人たちに語ったのですが、
もちろんこれは教会の皆さんにも語っているということでありますけれども、
自分自身と群れの全体とに気を配りなさい、ここで二つのことが言われています。
一つは、自分自身に気を配りなさい。
私たちはあのこともしたい、誰それさんのためにこういうこともしたい、教会のためにこういうこともさせていただきたい。
そういう思いは誰しも持っているわけですが、それじゃ自分自身はその主に仕え、主に何かを捧げるために十分であろうか。
もちろん不完全で、そして至らないところはありますけれども、
そういう中でも自分自身の、例えば健康面はどうだろうか、あるいは冷静の面でどうだろうか。
主にお使いする上でもっともっと何か必要なものはないだろうか、そういうことに気を配る。
30:04
もし身体が病み、そして魂に、あるいは霊的ないろいろな疲れを覚えているならば、自分自身に気を配る。
今日はもう主に願って休みをいただこう、こういう状態では主に仕えようとしても仕えられない、そういう時があるならば、
イエス様はおっしゃってくださっているわけです。
全て疲れた人、主に追っている人は私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげよう。
まず十分自分自身が健康を回復し、また信仰面でも霊的にも十分満たされて、そしてそのあふれる恵みをもって人々に、あるいは教会に仕えていく。
それがパオロが言いたかったことですね。自分自身にも十分な気配りをして、そして主に喜んでいただける報酬をさせていただく。
もう一つが、群れの全体とに気を配りなさい。
特にこういう監督と言われるような、そういう立場にある人は特にこの全体を見るということ、それが大事なことであろうかと思うんですね。
監督というのは一つの立場というより、そういう種類の仕事というふうにとってもいいと思うんですね。
今で言えば教会の役員のような、そういう立場であろうかと思うんですが、全体を見て気配りをするという、これも非常に大事なことなんですが、
絵でして全てを誰かさんと誰かさんと誰かさんに、もうこういうことはお任せして、私はちょっとそういう全体に気を配ることからは外れていたいという思いがあるんですが、教会としては好ましくないと思うんですね。
誰でもがそういう全体に気を配るようなことができるような状態にしていただきたい、なっていただきたいなというのが願いなんです。
ですから願わくは全ての人が、教会につながる全ての人が、どなたも一度はそういう役員、あるいはここで言う監督、全体を見るというそういうところに立っていただきたいと思うんですね。
そこから何かきっと見えてくるもの、あるいはそこで養われるものがあるんだと思うんですね。
33:01
ただ選挙があって、今は選ぶということを通してこれを決めているわけですが、ですからどの教会も同じだと思うんですが、もう役員は誰それさんと誰それさんと誰それさん、そういうふうになってしまう。
教会としてはもっと層の厚い状態になる、それが本当に土台のしっかりした教会になる一つなんですが、なぜかというといつも誰それさんと誰それさんが全体を見ているならば、その人たちもやがてそれができない時がきますし、何かで事情でそこを下りないといけないわけですね。
そうする時にやっぱりそれに代わる人が次また次、誰でもその人の穴を埋められるという、そういう状態になっていないといけないと思うんですね。
ですから、願わくはどなたも役員になってもいいでしょうし、またなって、そしてそこに訓練を受けて、そして全体を見るというその働きにも預かっていただきたい、そういうふうに思うんですね。
ですから選挙がありますけれども、自分自身を選ぶという人はなかなかないと思うんですが、そういうことであるならば謙遜を持って、こんな私でよかったら一度全体に気を配るという、そういう立場のところに立たせていただいて、自分を養っていただけたらという思いで、
なされることもいいと思いますし、誰かを選ぶ時にも誰かさんを、いつもはこの人とこの人とこの人と決めていたけれども、あの人もそういうところに一度立っていただいて、この全体を見る、そういうところに一度送ってみましょうかという、
そういうような、いわば寛容と言いましょうか、あるいはそれを神様に委ねて、そしてみんながどの人も自分自身に気を配り、または群れの全体とに気を配れるような、そういう教会、それが本当に強い教会になっていくでしょうし、
そこに神様の御業は本当に豊かに表されるんじゃないだろうか、そのように思うわけであります。
そして最後にパウロの聖書刊でありますが、これは彼は32節のところでこのように言っています。
36:01
今私はあなた方を神とその恵みの言葉とに委ねます。ここに御言葉というのが出てきます。御言葉はあなた方を育成し、全ての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。
これはパウロの言う聖書とは、あるいは神の御言葉とは何か。一つはあなた方を育成する、育てるのは御言葉であるということですね。そしてその御言葉を通して信仰いただき神様に使え、そしてやがてそれは御国を継ぐことのできるものにしてくださるということ、そのことが書かれてあります。
御言葉なくして私たちの信仰はあり得ないのは当然であります。御言葉が私たちを育てるということですね。
ですから、人はパンのみで生きるのではない。人はパンのみで生きるのではない。ご飯も食べますし、ということですよね。ではなくて、人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によるのである。
それで全体なんですね。私たちは大体前半のところだけしか読まないんですが、人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によるのである。
私たちの体を養うのは確かにパンであったりご飯であったりしますけれども、私たちの魂を養い育てるのは御言葉という糧。そこから霊の栄養をいただいて、御言葉によって魂の養いをいただくんだ。
そのことを彼はもう一度改めて長老に語ったということであります。
さて、こうして長老たちに語り、そしていよいよこのミレトから彼は旅立って行かなければならないわけですが、
三十六節語り終わったパウロは、ひざまずきそして皆の者とともに祈った。私たちがお別れのときにこのような祈りをするということがあります。
今日の一つのテーマは出会いと別れということが書いてありましたが、この出会いと別れというのは小さな出会い、小さな別れもありますし、大きな出会い、大きな別れ、そういうものもあろうかと思うんですね。
39:18
何をもって小さいか、中ぐらいか、大きいかというのは測れませんけれども、私たちも今日この礼拝を終えたらさよならと言います。
そういうことです。ですから私たちはこうして日曜日の朝皆さんとお出会いし、そして礼拝を終えたら皆さんはそれぞれに帰って行きます。そのときにお別れを言うわけです。
それも出会いと別れの一つでありますが、パウロはさまざまなところを旅して、そこで出会う人々たち、そこで福音を語り、また交わりをし、そしてここにともに主に仕え、そしていよいよお別れのときが来たという。
そこで彼は長老たちとともに祈り、そして声を上げて泣く者もあれば、パウロの首を抱いて口づけをする、そういう情景がここに書かれてあるわけです。
そしてパウロはもう二度と私の顔を見ることはないでしょう、もう再び会うことはないでしょうという、そのことを彼らに告げて、そしていよいよ彼らはパウロを見送ったという、そういうことが書かれてあります。
この歌詞を読んだときに、私たちの生涯、あるいは一生、この人生というものは、出会っては別れ、出会っては別れ、出会っては別れ、そういうものを経験してきたなということを改めて感じるわけであります。
こういう歌があるのを皆さんもご存知だと思うんですが、世代がわかるかもしれません。
会うが別れの始めとは知らぬ私じゃないけれど、切なく残るこの思い、知っているのは別れのイソチドリという歌であります。
これをご存知の方もいますし、知らない方もおられると思うんですね。
この会うが別れの始めとは、よく言う会うは別れの始めということですね。
42:01
すなわち、別れるということは、出会いがあるから別れがあるわけです。
ですから、別れをしないようにするにはどうすればいいのかというと、出会わなければいいんだとも言えるわけです。
あるいは、誰かと出会ったその出会いの時から、私たちはこの別れというものがすでに始まっていくんだということですね。
いつかは出会った人と別れがあるから、出会った時からすでに別れに向かっている。
ですから、会うは別れの始めであるという、そういう言葉がここに書かれてあるわけです。
私たちはこの世に生を受けて、どれほどの人と出会ってきたか。
そして、その人たちとお別れをしてきたかということをもう一度考えるときに、皆さんそれぞれの思いがあろうかと思うんですよね。
学校で出会った人たち、そういう人たちとも別れをしてきました。
あるいは職場で出会った人たち、そういう人たちも今どうしているでしょうかというようなこと。
あるいはこのように、パウロのように、教会で出会った人たち、教会を通して共に仕えた人たち、
共に賛美を捧げ、礼拝を捧げてきた、あの人たち、この人たち、その人たちとも別れてきました。
もっと言えば、私たちが今ここで出会って、今共に礼拝を捧げていますが、いずれお別れするときが来るでしょう。
それはいつかは分かりませんが、そういうことを私たちは口には出さないけれども、そういうことは当然のこととして知っているわけです。
会うは別れの始めですから、いつか別れるときが来るでしょう。
そんなことを思い、そして懐かしいなと思う人もいますし、その出会いが私の生涯の中に大きな影響を受けたという、そういう出会いもありました。
様々な思いが巡ってくるでしょうけれども、今思うことは、その出会いというものが全て神様のお導きであった、そのときに神様を知っていたか知らなかったか、信仰を持っていたか持っていなかったか、
45:03
そんなことを超えて、今地球上に全世界に60億人ぐらいいるのでしょうか。あるいは日本の中でも1億2千万とか3千万とか、そういう人たちがいる。
あるいはこの神戸の中でも、これだけの限られた人たちの中で出会うということは、神様のお導きがなければできないことであろうかと思うんです。
そういうことを思うときに、私たちはこの出会いというものをもう一度大切にしたいという思いもありますし、でもその中で出会った限りはまたいつかお別れするときも来るんだろうなということも、どこか心の隅に、頭の隅に置いておくことも必要だろうと思うんですね。
パウロがエペソの長老たちに語ったように、もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。もうあなた方にお会いすることはないでしょうとお別れを告げたということ。
しかし、これはこの地上での一時的なお別れであるということも私たちは信仰を持って知っております。神様が永遠のお方であるということの中に私たちは今生かされています。
ですから私たちが出会ったということも、神様のご計画の中にはもうすでに永遠の先からそういうことが計画されておった中での出会いであったでしょうし、別れもこの地上での別れとして、それは一時的な別れでありましょうが、神様の永遠というその見ての中では私たちはたとえ一時的に別れようとも、
永遠の中でいつでもお会いすることができるし、また主につながっている限り永遠の別れというものはないのだということ。そのことを私たちはもう一度覚えて、神様のその見ての中で生かしていただきたいと思うわけであります。
それではお祈りをいたします。
天の神様、御言葉をありがとうございます。
私たちもパウロのようにこれまで多くの出会いと別れを経験してきました。
すべてが神様のお導きであったことを今深く思います。
人は人との出会いと別れなしには生きられないということも学びましたし、そこからたくさんのことを教えていただきました。
出会った人たちとの交わりの中で魂の取扱いもいただきました。感謝のことも多くあり、また別れにあって悔いていることも多くありますが、すべてのことを愛働きて益となるというその言葉にすべてを委ねます。
48:16
どうかこれからも私たちはまた新たな出会いとまた別れもするでしょうが、
どんなことにおきましてもどうぞ主がすべてを導いてくださり、また私たちもそれに委ねて主につながっていくことができますように助けてください。
御手に委ねて主耶穌様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン
48:51

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