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2024-09-01 38:23

「救い論、ついでに教会論」2024年9月1日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年9月1日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) )マタイ16:18-19わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。19.わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 マタイ18:19-20また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20.二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

メッセージ題 : 救い論、ついでに教会論 (マタイ16:18-19,18:19-20)
*先週、救い論について。しかしそれで終わってはいけません。救われた信者は、生まれたばかりの赤ちゃんのようで、そのまま放置するなら? 従って、救いと共に考えるべきことが教会論!*生まれたばかりの赤ちゃんに家庭と家族がどれほど大事でしょう?私たちの子供の時を考えると…#しかし問題は、神の子供の共同体に悪魔(この世)の攻撃があるということ。 ヨハネ15:18-19、ヨハネ10:10盗まれ屠られ滅ぼされる。創3章、アダムとエバも、イエス様の弟子、ユダも…従って神様は守る為に、マタイ16,18章の約束を。*また教会だってすべて同じではない。黙示録の7つの教会の事例で示されることとは?超大型教会に対する評価?小さな教会に対する評価
*教会は建物ではなく、集められた信徒! #私たちはどんな教会を求め実践するべきでしょうか?

1.真理が正しく立てられる教会を! (真理に対しては絶対、妥協してはいけません。)

*Ⅰテモテ3:15神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です?=教会は真理を守り、正しく伝えるところ!真理が正しく立てられるところに神のご臨在が。真理には、偽りには?*間違いやすいこと。熱心にやるなら良いのでは?自己中心的な信仰は?神中心的な信仰!教会は民主主義ではない、神本主義。どんな牧師が良い牧師?人に人気がある?神様の僕!*一番祝福されるメッセージ?人を慰める恵みの?人を悔い改めさせる。マルコ1:15神の国が

2.宗教的ではなく、冷静様が働かれる教会を!

*福音書ではイエス様の働きを?ヨハネ3:34,使徒10:38 イエス様は聖霊による働きをされた=ヨハネ14:12その働きを誰ができる?個人ではなく教会。教会が聖霊による働きをしなければ
*パリサイ派の人とイエス様の違い?パリサイ派の人は聖霊を知らなかった。使徒18:24,25のアポロも、ヨハネの洗礼と聖霊による洗礼の違い?罪の赦しと人が新たに生まれる事には聖霊が
*パウロは教会をキリストの体で例え、イエス様と私たちを体の頭と肢体で、体の部分部分の繋がりを誰が?聖霊様が! *聖霊はキリストの体の部分部分である私たちに聖霊の賜物を与え、教会がまるでイエス様のように働くことが出来るように!→最後のときサタンに勝ち抜くために

3.一番大事なこと!教会はキリストの新婦、新郎であるイエス様の愛する新婦にならなければ!

*新婦というのは?1)聖い処女。2)新郎であるイエス様だけを愛する。3)愛するイエス様の為なら、どんな苦難でも担っていく献身の心をもつ、認識が!←事実、イエス様が再び来られる理由は?ご自身の新婦を連れに!しかし使徒パウロが心配するのは?Ⅱコリント11:3蛇の誘惑に
*それを象徴する例え?マタイ25章の10人の乙女の例え。なぜ5人は?またマタイ24:40,41に連れていかれる人と残される人の例え。なぜ一人は?←Ⅰコリント8:3神様は愛する人を知っておられるー>では、どうすれば愛することが出来る?ルカ7:47多く赦された人!イエス様を愛するなら信仰は自然にできる。愛もしないのに信仰?難しい。@1)2)3)充実に。子供たちも!

サマリー

このエピソードでは、救い論と教会の役割の重要性が語られています。特に、新たに救われた信者にとって、教会が家族のようなケアを提供し、成長を促す場であることが強調されています。また、教会が悪魔からの攻撃に対する防御として機能し、真理を守ることの重要性についても述べられています。加えて、教会が真理に基づいて立てられ、聖霊の働きが必要であること、そして教会がイエス様の花嫁として清さと献身を持つことの重要性についても語られます。悔い改めや罪の許しがどのように関わるか、イエス様への愛の違いが最終的な救いに与える影響も考察されています。このエピソードでは、救い論と教会論の重要性が語られ、イエス・キリストへの愛が信仰生活の根源であることが強調されています。また、信仰が自然に形成されるためには、神を愛し、教会と共に生きることが大切であるというメッセージが伝えられています。

救いと教会の役割
今日は私たちが求めている教会という対応をもってメッセージを分かち合いたいと思います。
先週は救い論について分かち合いました。 信仰に救いよりもっと大事なことはないということを皆さんに申し上げました。
ところが、それだけで終わってはいけません。
救われた信者は、生まれたばかりの赤ちゃんと同じです。
赤ちゃんを産んでそのまま放置してしまったらどうなるでしょう。 サクちゃんを産むのには母親が苦労しました。
その後、生まれてからは父親とおばあさんまで
非常に今苦労しています。 もしサクちゃん生まれたばかりでそのまま
ほたらかしておくならサクちゃんはどうなるでしょう。 赤ちゃんは絶対的に
家庭が必要です。家族が必要です。 ですから私たちが救いと共に考えなきゃいけないことが礼儀的な家庭である教会です。
家庭の環境が良ければ生まれた子供が良い子供になるでしょう。 生まれた環境が悪ければ
赤ちゃんはどうすればいいでしょう。赤ちゃんは悪くないんだけど環境が悪いから だんだんだんだん悪くなるんじゃありませんか。
ですから良い環境、良い家庭も大事だし良い教会も大事です。
以前私は伝道爆発訓練を熱心にやりました。 しかし今は伝道訓練よりは容易く弟子を作ることに力を入れています。
なぜなら伝道してそのままほたらかしておく。 そうでしょ伝道訓練は伝道したということで私伝道しましたこれが終わりでしょう。
だったら伝道された人は もうイエス様を受け入れますと言ってそれからほたらかしておく。
それからケアができなくなる。 いやーこれ非常に問題だと思いました。
生まれた赤ちゃんには家族が大事だし 私たち新たに生まれたキリスト者たちには
教会、また教会の家族のケアが大事です。 それによってだんだん成長して成人式までいく、成長するんです。
家族という概念はどれほど素晴らしいのか。 皆さん家族はすべてを共有します。
すべてを共有してもそれが恥にならない唯一の存在が家族です。
皆さんどうでしょうか。私は幼い時に寝しょうべんをしました。
そうしたらこの後母親が全部ケアしてくれました。 でも家族の中でそれを私は恥をかける人は誰もいない。
また他の人に寝しょうべんしたよということを言いつける人も誰もいない。
家族は家族なりにそれを自分の問題だと思ってみんなケアしてくれるんですね。
その問題を乗り越えて乗り越えて良い面をうまく生かして後になって立派な人になるように助けてくれる。
家族の存在がどれほど大事でしょう。 このように救われた信者たちにはケアしてくれる教会が大事です。
悪魔の攻撃と教会の防御
教会の大事さは言うこともなくこれは本当に必要なところです。
ところがこの神の子供たちの共同体である教会にこの世と悪魔から攻撃があるということは皆さんご存知でしょうか。
イエス様はこう言われました。
世があなたたちを憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んだと思えなさい。
あなた方が世に直していたなら、世はあなた方を身内として愛するはずだ。
だがあなた方は世に直していない。私があなた方を世から選び出した。だから世はあなた方を憎むのである。
この世と悪魔はキリスト者を攻撃します。
この攻撃に負けるなら大変になります。
創世紀3章のアダムとエヴァは蛇の誘惑に負けました。
エデンのその場は全部なくなり、それから全人類が今も現在によって苦しんでいます。
イエス様の弟子だといったイスカレーデユーダは悪魔の攻撃に負けました。
それで今も一番悲惨な人になりました。
ここと関わる非常に大事な聖書がヨアネ・チュッショ・チュッセチです。
盗人が来るのは盗んだりほぐったり滅ぼしたりするためのほかならない。
私が来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
悪魔、この盗人、盗んだりほぐったり滅ぼしたりするために今も私たちを攻撃します。
誘惑しています。
悪魔は粘り強い強く攻撃しているのに、
私たちは信仰生活は霊力な戦いだとあまり思っていないんじゃないかと思われます。
しかし神様は神の子供である私たちが霊力な戦いから負けないように、
教会にまた子供たちの共同体に約束してくださる大事なメッセージが今日の聖書です。
また16章で私は言っておく。
あなたはペトロ、私はこの岩の上に私の教会を建てる。
黄泉の力はこれに対抗できない。
皆さん、この黄泉の力、これはサタンの力です。
サタンが教会を潰そうとするのですが、神様は教会を守ってくださる。
私は天の国の鍵をあなたに捧げる。
教会にある一番大きな力がお祈りの力です。
これは天の国の鍵だと言います。
だから教会が祈ったら天国が開かれます。
教会が祈ったら天国は閉ざされます。
この素晴らしい力を教会に与えてくださって、
それで教会が祈りをもってサタンのように勝ち抜くようにさせてくださったのです。
また中八書で中九節から。
真理を守る重要性
またはっきり言っておくが、どんな願い事であり、
あなた方のうち二人が地上で心一つにして求めるなら、
私の天の父はそれを叶えてくださる。
また三人が私の名によって集まるところには、
私もその中にいるのであろう。
これをよく見てください。
二人また三人。
またあなたたちの中で二人が。
神様の働きは共同体の働きです。
神様は共同体を本当に好みます。
しかし悪魔は個人プレイです。
バラバラにしておきます。分裂しておきます。
ですから私たちは個人プレイをするんじゃなくて、
共同体として働くことを学ばなければなりません。
神様は共同体に主の御臨在を約束され、
友に働く力、天国の鍵、黄泉の力が対抗できないほど、
素晴らしいパワーを共同体に与えてくださります。
ところが共同体とするんだとして、
全て神様が共にしてくださることではありません。
それを見せてくださるために、
牧師録の七つの教会の例を挙げてください。
教会は建物ではありません。
神徒たちの集まりです。
ですから教会がどんな教会かということは、
神徒たちが何を求めているのか、
また神徒たちが教会をどのように運営しているのかによって、
その教会がどんな教会かになる。
そこにイエス様の叱りと称賛があるということです。
例えば初代教会の七つの教会は、
小アジア地域の大きな教会でした。
その中でも超大型教会、
今も超大型教会が難しいですけど、
当時エペス教会は何万人の神徒が至っています。
エペス教会、サルディス教会、ラオテギア教会、
超大型教会です。
その教会に対するイエス様の評価はどうなのか。
牧師録二章五節、エペス教会は、
あなたは初めの頃の愛を捨てた。
だからどこから落ちたのか思い出し、
あなたはそれを取り戻しなさい。
そうしなければ、あなたの食体をそこから取り除く。
その意味は、エペス教会があるけど、
私は教会と認めない。
ただの人の集まりだとしか認めない。
教会という意味がない。
そのような怖い叱りをされる。
またサルディス教会には、牧師録三章一節二節、
あなたは、私はあなたの行いをよく知っている。
あなたは生きているのは名ばかりで、実は死んでいる。
サルディス教会を、イエス様は死んでいると言います。
世の中の人々は生きていると言いますけど。
またラオテギア教会は、
そのラオテギア教会は、自分たちはもう全てが満足だ。
足りないことはないと言うほどの素晴らしい教会。
しかしイエス様は熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、
私はあなた方を口から吐き出そうとしている。
大きな教会だと言えているその教会が、
今イエス様から見捨てられるような、
危ない状態にあることだということを、
牧師録を私たちに教えてください。
しかし小さな規模の教会、
またその教会は迫害が多かったんです。
世の中が見たら悲惨な状況の教会ですね。
そこでスミナル教会。
その教会に対して、
あなたが受けている苦難を決して恐れてはならない。
みを悪魔が試みるために、
あなた方を10日間苦しめられたら、
死にだるまで忠実せよ。
そうすれば、あなたに命の冠を授ける。
教会は小さい、でも迫害まである。
その教会が今存在がなくなろうとしている、
その教会にイエス様を褒めながら、
イエス様はそのことを耐えなさい。
そうしたら命の冠を与える。
そこで希望まで与えてください。
またビラデルビア教会。
牧師録3章8節10節です。
私はあなたの行いを知っている。
教会が何をどうしているか、
イエス様はよく知っている。
私たちの教会のことも、
イエス様はよく知っておられます。
だから私は気をつけなきゃいけません。
みよ私はあなたの前に門を開いておいた。
これは閉ざせりゃ誰もいない。
開いた門をその教会に与えてくださる。
あなたの力は弱かったが、
私の言葉を守り、
私の名を知らないと言わなかった。
あなたは忍耐について私の言葉を守った。
それゆえ地上の住む人々が試すために、
全世界に来る試練の時に、
私はあなたを守る。
これは素晴らしいですね。
これを見ていますと、
7つの教会に大きな教会は全部叱られました。
小さな2つの教会は、
しかりがありません。
素晴らしいですね。
なぜ神様は叱られる教会を叱ったのか、
なぜ教会を称賛されたのか、
その効き目は何でしょうか。
今日一緒に距離を考えながら、
私たちも神様から褒められたい。
そして最後に、
神様からの大きな祝福で天国に入る教会になりたいと思います。
今日は3つのことを考えてみましょう。
まずはじめに、
真理をしっかり守り、正しく建てる教会。
真理に対しては妥協しないことです。
第一天文で3章15節には、
神の家とは真理の柱であり、
土台である、生ける神の教会です。
教会は真理が一番大事です。
真理を建てて、それを保ち、それを伝える。
ですから、真理がしっかり建てられる教会に、
神様が御臨在されます。
私たちの教会、真理がしっかり守られているのか、
教会は建物じゃなくて、
皆さん、追い取り追い取りが教会ですから、
皆さんは真理をしっかり保っているのか、
それを考えなければなりません。
一番間違えやすいことが、
十字架の福音で学んだことでしょう。
熱心にやればいい。
熱心にやれば神様から褒められる。
違います。
自己中心的な熱心は、
これは神様が忌み嫌うものです。
自分の目的、自分の方法、自分の熱心。
それじゃなくて、神中心的に。
神様の目的のため、神様の道、
神様の熱心、それでできる。
この信仰に神様が働きます。
事実、一割の信仰の裏には、サタンが働いたんです。
だからパリサイビットたちの裏には、
サタンが働いたということが分かります。
また錯覚しやすいことは、
教会は民主主義ではありません。
教会の信徒たちの投票、また選挙、
そのことで教会が運営されることではありません。
教会の主は神様です。
神様が王様であり、主であり主権者です。
ですから教会は民主主義じゃなくて、
新本主義にならなければいけません。
また皆さん、どんな牧師がいい牧師なのか。
皆さん牧師は神の下人です。
人に人気がある。
それが神の下人ですか。
神様の見こえを聞いて、
神の見言葉にしっかり従って伝える人。
その牧師が正しい牧師であり、
神様が認められる牧師です。
なぜこのような話をするかと言いますと、
世の人々は真理のメッセージより、
慰め、恵みのメッセージが好きです。
ここで牧師の葛藤があります。
狭い門から入りなさい。
狭い道に行きなさい。
と言うのはみんなきついです。嫌なんです。
広い門に誰もやる。
その広い門に行きなさいと言ったら楽ですから、
あまり反発がない。
しかし狭いからこれをやらなきゃいけない。
そうするならみんな嫌がります。
ここに牧師の葛藤があります。
皆さん、神徒たちに一番祝福されるメッセージは何ですか?
マルコ1章15節にこう言います。
時が満ち、神の国が近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい。
神の国が目的です。
神の国が天国です。
神様が統治される、
喜怒平和と喜びの国なんです。
その国になるためには、
教会と真理の重要性
悔い改めて福音を信じるように助けなければいけません。
悔い改めるためには、
悔い改めにふさわしい正しいメッセージが伝えられなければいけません。
慰め、またいいメッセージ、
それでは悔い改めに導くことはできないんです。
ですから、教会が真理の上にしっかり立てられる教会、
その教会を延べ伝えるのは非常に難しいです。
なぜ超多方教会が神様に敷かれるのか、
真理が立てられないんです。
なぜなら、信徒たちが好きなメッセージをするとき、
信徒たちは人が集まるでしょう。
だったら、人の要望に牧師がついていかなければいけません。
神様からのメッセージより、
人が願っているメッセージをしやすいです。
だから超多方教会は、
イエス様から敷かれるべきかなと思います。
でも私たちは、
真理をしっかり延べ伝え、
それをしっかり保つ教会になりましょう。
私たちみんなそのように思ったら、
教会がそうなるんです。
真理が立てられる教会になるんです。
そうするなら、その教会に神のご臨在があるんです。
2番目、宗教的ではなく、
聖霊の働きと教会の役割
政令が働く教会にならなきゃいけない。
牧師録2章3章、
よく見てください、7つの教会に全部、
最後に付け加える言葉があります。
霊が諸業界に語る、告げることを聞くが良い。
政令様が各教会に告げるメッセージを、
教会を聞きなさいということです。
だから、政令に語る御声を、
教会が聞く耳があるのかないのか、
これが非常に大事です。
イエス様の働きは、政令による働きでした。
だから、ヨガネ3章34節、
聖イエス様の働きには、神は霊を限りなく与えた。
使徒行伝10章38節、
神は政令と力によって、その方は油注がれた者とされた。
イエス様の働きは、政令による働きでした。
じゃあ、それでイエス様が私たちに何と言われるのか、
ヨガネ14章12節に、こう言います。
はっきり言っておく、私を信じる者は、
私が行う技を行い、
また、もっと大きな技を行うようになる。
私が父のもとに行くから。
じゃあ、父のもとに行くから、
政令を送ってくださるから、
私を聞き従う者は、私より大きな働きができるということです。
ところが、イエス様が言われたこの働きには、
個人がこの働きができる、
私がイエス様のように働くことができる、
その意味ではありません。
イエス様が初代業界に言われるのは、
全部、教会ぐるみで、
イエス様の働きができるということです。
ですから、教会がイエス様のように、
政令様による働きができなければいけません。
皆さん、イエス様とパリサイ人たちの違いは何ですか?
パリサイ人たちは、立法を熱心に守りました。
しかし、パリサイ人にはなかったのは、
政令について知らなかった。
だから、イエス様は、敵対するのではありませんか?
政令を知らない人は、パリサイ人のようになります。
使徒行伝18章、アポロという人がいました。
アポロは、素晴らしい。
聖書の学者と言われるほどの素晴らしいです。
優れた聖書の学者ですけど、
アポロは、政令を知らなかった。
だから、アポロは、福音についてメッセージをするのですが、
全部、ヨアネの先例、ヨアネのバープティスマの話ばかりです。
ヨアネのバープティスマと、
政令のバープティスマの違いは何ですか?
ヨアネのバープティスマは、
悔い改めが必要ですよ、
罪の許しが必要ですよ、これしかできない。
政令によるバープティスマは、
罪を取り除いてくださいます。
だから、政令によるバープティスマは、受けなければいけません。
ヨアネのバープティスマはいくら受けても、
ああ、そうだな、私は罪人だ、ということしかできません。
罪人は、罪を許してあげる、
取り消してあげるのは、政令しかできません。
だから、私たちは、政令のバープティスマを受けることが非常に大事です。
政令の働きができる牧師は、
罪の許しをいただく、その場まで人々を導くことができます。
しかし、政令が働きがない牧師は、
悔い改め必要ですよ、悔い改めましょう、ということで終わりです。
必要性を言うのは誰もできるけれど、
罪の許し、または癒しが伴うように働きができるのは、
政令の力を持っている牧師ができる。
だから、政令の力を持っているのか、ないのか、
これが非常に大事です。
私たちみんな、政令の力をいただいて、
その政令の力によって、悔い改めに導く、
または癒しに導く、
イエス様の花嫁としての教会
そのような教会にならなければいけないということです。
パウルは、教会をキリストの体だと言いました。
じゃあ、キリストは頭、
私たちは頭の部分部分、部分部分です。
じゃあ、頭と部分部分、部分部分である私たち、各死体、
これをつなげてくれることは誰がやりますか?
頭と部分部分、体もつなげる。
また、体の部分部分をつなげてくれること、
誰がやるんですか?
私たちは、私の体には神経があります。
また、血管があります。
筋肉があります。
だから、私の体の中のすべての筋幹がつながって、
これを連動して働きます。
そして、教会は、
教会の神と神と神と神とをつなげてくれるのは誰がやりますか?
これは、聖霊様がやるんです。
私たちがみんな聖霊に従うものになれれば、
聖霊様は私たちを一つにさせて、
私たちをイエス様の体のような一つの働きをされるのが、
聖霊様です。
また、聖霊様はこの各部分部分である私たちに、
聖霊の賜物を与えてくださっています。
ですから、聖霊の働きがどれほど大事なんでしょうか?
最後の時、
バリザイ人のように自分の熱心によって、
もう立法を守る、
素晴らしい働きによってやる人は、
最後の時に、
サタンに勝ち抜くことはできません。
ですから、私たちは聖霊による働き、
それによって教会の位置、
また、今日、聖霊様を下さる賜物で働くことができるように、
これから訓練をして、準備していかなければなりません。
3番目。
私は今日、3番目のことを皆さんに申し上げたくて、
一番大事なのは、
教会は神道であるイエス様の花嫁にならなきゃいけないということです。
私たちはイエス様の花嫁です。
教会がイエス様の花嫁にならなくて、
ダメになった教会がエペス教会です。
なぜなら、イエス様が何と言ったんですか。
あなたは初めの頃の愛を捨てた。
初めの頃の愛を取り戻しなさい。
そうしなければ、私はあなたの職大を取り抜けてしまう。
教会の存在意味と目的を、
もう、これは無視する。
もう、認めない。
じゃあ、キリストの花嫁。
花嫁ということは何を考えられますか。
まず、清さです。
花嫁は清いお方です。
また、花嫁は神道であるイエス様だけを愛する。
イエス様以外の他のことを愛するには、
イエス様だけを愛する。
また、愛するイエス様のためには、
自分がどんな苦労をしても、
どのようにしても、イエス様のために働く。
献身の意味もあります。
実は、イエス様が去りなさる理由は何でしょう。
これは、ご自分の花嫁を連れに来られます。
イエス様が去りなさる理由はいろいろありますけど、
一番大事な理由は、
自分が愛する花嫁はそこにいるから、
花嫁たちを連れにイエス様が来られるということです。
しかし、パウロが心配するのは、
最後の時になれれば、
第二五輪と七十一章三節のように、
創世紀三章のエヴァのように、
蛇の誘惑に騙されて、
キリストから離れる人が現れるということです。
たくさんいるということです。
キリストの神父ではなくなる。
キリストを愛しない。
世の中を愛する。
また、他のことを愛する人が蛇に騙されて、
エヴァが邪悪の儀式の義務を食べたということは、
神を愛するより神様じゃなくて、蛇を愛した。
だから、蛇の話を聞いた。
愛する人の話を聞くようになっているから。
しかし、最後の時になれば、
キリスト者と言いながら、
キリストを愛するんじゃなくて、
世の中を愛する人がたくさん現れる。
でも、キリスト者だと言う。
しかし、キリストの花嫁ではない。
ここが怖いこと、難しいです。
これを聖書で警告してくださる例があるんですけど、
マタイ25章の10人の乙女、
10人の娘の話が出てきます。
10人みんなが、
花嫁があって、
新郎が来るように待っています。
花婿が来るようにずっと待っています。
しかし、5人は、
花婿が来るのを迎えて出会ったんですけど、
5人は出会うことができませんでした。
その理由は何ですか?
いろいろ私たちが言ってきましたけど、
ここで花嫁ということを考えるなら、
よくわかります。
マタイ24章には、2人の人がいますけど、
24章40章40章。
その時、畑に2人の男がいれば、
1人は連れて行かれ、もう1人は残された。
2人の女が雄を引いていれば、
1人は連れて行かれ、もう1人は残された。
なぜ1人は連れて行かれるんですけど、
新郎イエス様が去りなさる時に、
私たちを空中で引き上げて、
そこでイエス様に出会い、空中で出会うんです。
その時、世の中に人々がいるんですけど、
同じ働きをしています。
だから同じ信仰生活をしていると言っていいでしょう。
でも1人は引き上げるんですけど、
1人は残された。
なぜでしょう。
私はこの答えが、
イエス様に対する愛に答えがあるのではないかと思いました。
キリスト者と言いながら、
イエス様を愛していない人もたくさんいます。
しかし、キリスト者と言いながら、
イエス様しか愛していない、
イエス様だけには、どんな献身、
命さえも捧げるような準備をして、
主を愛する人がいます。
愛の違いによって、
引き上げる人も、残される人も、
最後に現れるようになるということです。
第1コリート8章3節、これは難しい説。
しかし、神を愛する人がいれば、
その人は、神に知られていると言います。
神様は、その人が神を愛しているか、
神を愛していないか、知っているということです。
ですから、神は知っていられるから、
1人は連れて行かれ、1人は残される。
進路であるイエス様が来られる時に、
5人の人は迎えられる。
5人の人は追い出される。
この働きがあるということです。
では、皆さんこう思われるでしょう。
だったら、神を愛すればいいんじゃない。
神を愛しましょう。
じゃあ、愛しましょう。
皆さん、神様を愛することはできましたか。
イエス様を愛することはできましたか。
言葉では愛しましょうと言いますけど、
実際、心から愛することはできない場合がある。
イエス様を愛するのではなくて、
正直に何を愛していますか。
世の中のこと、お金のこと、子供のこと、
何か世の中にいっぱい愛することがいっぱいあるんだけど、
たまたま神様を愛しています。
このような状況ではないですが、
神様は知っています。
あなたが私を愛しているか、愛していないか。
第一コリエント8章3節で言っているのではないでしょうか。
知っている。
では、どうすれば私たちは、
神様、イエス様を愛することができるか。
心から愛することができるか。
その答えがルカの7章47節にあります。
だから言っておく。
この人の多くの罪が許されたことは、
私に示した愛の大きさでわかる。
許されることが少ないものは、
愛することも少ない。
そうです。
どんな人が愛するか。
たくさん許された人が愛される。
皆さん、マクダラマリア。
7つの悪霊に取り憑かれた女の子。
悪霊から追いつくわれました。
救い論の理解
だからマクダラマリアはイエス様のお墓まで
ついていく人になりました。
なぜ?
愛するから。
言葉じゃなくて、心から愛するからです。
なぜ?
たくさん許されたから。
たくさん癒されたから。
イエス様の十字架をたくさん体験した人は、
イエス様をたくさん愛するようになります。
その人たちの心からは、
我をも救いし、
くしき恵み。
これしかない。
行為も関係ありません。
私は聖書よくわかりません。
何にも距離もわからないけど、
私を愛するイエス様に出会いたくて、
礼拝に行きます。
私を愛するイエス様のために、
私のすべてを捧げます。
もうこの心で燃えていて燃えていて、
イエス様、イエス様、いつ来られますか?
いつ来られますか?
ずっと待ち望んでいる人。
その人のためにイエス様を去りなされています。
皆さん、イエス様を愛していないのに、
信仰生活をすれば何をするか知っていますか?
行為を問い詰めます。
儀式。
ああ、この業界はオルガンもないで、
ピアノじゃなくてオルガンもないのか。
もう賛美をこんなにやればいけないでしょう。
もう儀式、儀式を非常に厳しくやります。
これでまた信仰生活をしながら、
不満、不平いっぱいあります。
なぜ?無理矢理やっているから。
もう業界に行かなきゃいけないし、
もう今週、もし業界礼拝に参加しなければ、
今週私は大きなビジネス契約があるんだけど、
それが駄目になるんじゃないかと。
仕事が駄目になるんじゃないかと。
もういろいろなこと、自分の何かを考えながら、
礼拝を守ったらこれをやってくれるでしょう。
そのような考えを持って礼拝を守っているので、
そのような礼拝は取りほど、
礼拝の時間が長い。
僕はなんと口癖があって、
こんな話を聞きたくないんだけど、
いつもこの牧師はこんな話をするんだ。
厳しい厳しい、不満、不平いばかり。
それで業界を見てみたら、
神徒たち、なぜあなたはいつも赤の服を着ているんだよ。
その人は何をやっているのか。
文句ばかりありますけど、厳しいけど、
その人には神様がおられない。
信仰の力が全くない。
皆さん、信仰はどうすれば自然にできるか。
神を愛するなら、
イエス様を愛するなら、
礼拝に来たくてたまらない。
賛美が自然に出てくる。
この素晴らしいイエス様を伝えたくて、
述べ伝えたくてたまらない。
イエス様を愛すれば信仰は自然にできます。
しかしイエス様を愛しなければ、
信仰は難しい、難しい。
考えてみてください。
先週のスクイロン。
イエス様を愛していないのに、
ただ信じるから救われる。
皆さん、この話はどれほど短編的な、
難しい言葉でしょう。
愛することが大事なんで、
私は強理的に信じるから、
私は救われた。
神様はそれを認められると思いますか。
イエス様が愛する、
自分の花よみを連れに来られるんですけど、
私は信じるから大丈夫だ。
これが私たちが思っている、
今、強理の問題だということです。
モーセイ、ダビデ、パウル、
この人たちはみんな、
神様、イエス様を愛する人でした。
彼らは主のために全てを捧げ、
一生涯献身し続けました。
でもいつも感謝し賛美し、
力強い信仰生活しました。
今日、教会学校の豪快を分ける、
海を分けるパワー、
どこから出たんですか。
神様が共におられるから、
モーセイの誠意によって、
それがワーッと分けられたのではありませんか。
パワーのある信仰の力は、
主が共におられます。
主が誰と共におられますか。
主を愛する人と共におられます。
私たちの教会も、
神様もイエス様を愛するなら、
主はいつもご倫頼され、
生霊十万によって、
信仰生活は優しい、美しい、
またパワーがある信仰になると信じます。
結論を申し上げます。
皆さん、教会は建物ではありません。
私たち二人、また三人が集まるところが教会です。
ですから、信徒たちがどう思っているか、
それが教会が何をやっているかと同じです。
皆さんが私たちの教会、
真理をしっかり正しく立てなきゃ、
真理だけは絶対にダメです。
皆さんが全部思っていたら、
その教会は真理が立てられる教会になります。
また、聖霊の働きが大事だ。
誰それぞれが正しい信仰になるんだと、
私も聖霊様が働いて、
力強い信仰になりたい。
また、イエス様だけを愛する教会になりたいと、
思っておられるなら、
私たちの教会にいつも主がご倫罪され、
生霊に満たされ、
主が生きておられることが示される教会になるでしょう。
そうするなら、
使徒行伝2章47線、
主が救われる人たちを呼び集めてください。
また、最後の時に、
信仰が難しくなると言うけど、
主の保護膜の中で、
安全な信仰を生かせる時、
また、神様が私たちを天国まで連れて行かれる、
祝福になると信じます。
ですから、救い論も大事だけど、
私たちみんながどんな教会を求めているのか、
教会論も大事です。
教会の役割
ぜひ覚えてくださり、
一生に実践していきましょう。
私が一番気にしているのは、
私たちの子どもたちです。
私たち2世たち、
また3世たちまで、
私たちを見てついてくれるように、
正しい教会論をしっかり、
私たちが実行していきましょう。
お祈りいたします。
主よ、今日は私たち、
救い論、教会論を言っていますけど、
結局、距離ではなく、
イエス様を愛しているのか、
神様が神様を愛しているのか、
ということを分かりました。
神を愛するなら、
イエス様を愛するなら、
自然にできていることだということも分かりました。
私たちの信仰の原点、
元である、
イエス・キリストの十字架をもっともっと愛し、
もっともっと近づいていきたいと思います。
いつも悔い改め、
十字架による生命の生活を、
求めていきたいと思います。
主が喜ばれる教会になるように、
私たちを助けてください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン。
38:23

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