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2020-10-18 28:19

2020/10/18:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(20)羊飼いと羊のたとえ

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2020/10/18 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 10:1-5


00:01
アーミン
改めて皆さん、おはようございます。
気温がだいぶ朝晩冷え込んでいます。風邪とかひかないように皆さん、健康に注意してください。
また今日もこのように皆さん元気な様子でですね、一緒に礼拝できますことを感謝いたします。
先週予告をしましたように、イエス様のたとえ、私たちへの問いかけのシリーズメッセージは、今日で終了です。20回目で終了になります。
来週から新しい説教がスタートしますけれども、先週一週間だけ祈ったわけではありませんが、ずっと祈ってですね、神様に導かれて、来週からは創石のメッセージをね、第一章からやっていきたいと思います。
いつ終わるかわかりませんけれども、50週ありますから、一週一回では多分無理だと思いますので、もしかしたら2年ぐらい、ひょっとしたらもう2年半3年いくかもしれませんけれどもね、ともに神様の御言葉の恵みを期待してですね、やっていきたいと思います。
また、今もそうですけれども、またメッセージを聞かれる皆さん、あるいは、かたある説教者のためにですね、祈って備えていただきたいなと、そういうふうに願っております。
一言短くお祈りします。
神様はこの朝もこのように素晴らしい日を迎えさせてくださって、私たちが他の場所ではなく、神の御前に集まっておることを感謝いたします。
主よ、賛礼を捧げました、祈りを捧げました、御言葉は朗読されました。
私たちのこの心の畑よ、聖霊様、耕してくださって、不要な意志や穢れ、いらないものを取り除いてくださって、良い土として新しくしてくださって、御言葉の種が蒔かれて、
30倍、60倍、100倍、実を結ぶ我らとなりますように祝福してください。
神様が一人一人にお語りくださいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
ということで、今日はこのヨハネの福音書10章から、羊飼いと羊のたとえというタイトルです。
新しい2017世書はですね、羊飼いじゃなくて牧舎と訳してますし、たとえは普通の現代語でひゆという言葉になっております。
このイエス様のたとえひゆはですね、4つの福音書があります。
03:08
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書。
それからヨハネの福音書、このように福音書が4つありますが、
このたとえひゆはですね、マタイ、マルコ、ルカにほとんどそこに出てまして、
ヨハネの福音書にはたとえひゆがあまりないんですよ。ほとんどないんですね。
今日はですね、このヨハネの福音書の中で一番知られているのが2つありますね。
イエス様がご自身を指して、私はマコトのブドウの木、それがヨハネの福音書10号書ですね。
それとこの10章に書かれている牧舎、あるいは羊の門、その部分ですけれども、
今日はこの部分でですね、いわゆる羊飼いと羊の関係、つまり羊飼いであるイエス様と羊である私たち、
つまりイエス様と私たちの関係を今日の御言葉から一緒に学んで、主の御言葉をいただきたいと思います。
まずですね、はじめにあたって、このヨハネの福音書にはイエス様が自分自身を指して、
私は何々である、いわゆる自己を宣言している有名な言葉、文章が出てくるんですね。
イエス様が自分を指して、私は何々である。
皆さん多分ね、思い浮かぶことがあるかと思いますけれども、まずは私は命のパンである。
それから私は世の光である。
また私は羊の門である。
その次は私は良い牧舎である。
それからまた何があるでしょう。
私はよみがえりであり命である。
ありますよね。
それから私は道であり心理であり命である。
そして私は誠のブドウの木である。
イエス様がですね、私はこれだとね、私たちに宣言して語ってくださった。
06:00
その中で今日は私は良い牧舎である、良い羊飼いであるというところからね、見ていきたいと思います。
この10首章ね、全部読んでないんですけれども、読めば内容は難しくないんです。
イエス様が牧舎である。
私たちはその羊である。
羊は牧舎の声を聞いて牧舎についていく。
またその牧舎はね、もう本当に命を懸けて自分の羊を守る、ケアする、管理する責任を負うとね、その話になります。
特にね、解説なくてもみんなわかるお話だと思います。
この例の大事なポイントがあるとするならば、
それはさっきすでに申しましたように、イエス様と私たちのこの関係なんですね、関係性。
キリスト教はこの関係性が非常に大事だとね、この例の話で何回お話をしました。
羊飼いは、牧舎は、羊を呼んだり、またどこかにおいしい草の多いところに連れて行ったり。
イスラエルは基本遊牧するわけですね。
今は遊牧する人は少ないと思いますけれども、イエス様の時代とか、あるいはもっと遡っていくとアブラムの時代とかいったら、
草がですね、日本みたいにどこにも行ってもたくさん1年中あるわけじゃないんですね。
だからもう季節に従ってですね、移動するわけなんですよ。
だから一度羊飼いを連れて出たらですね、半年後、あるいは1年後も同じ場所に帰ってくる、そういうふうに移動するわけなんですね。
ですから羊飼いは、羊が自分の財産でしょう、所有なんですよ。
だから必死でですね、狼とか他のものから守る、また駆け口から落ちないようにする、毒のある草とか悪いものを食べないように見張りをする、いろんなことを世話をするわけなんです。
だから羊はどうしたらいいのか、命名してですね、羊は命名当てますか、命名して、牧者の声を聞いてついていったら大丈夫なんです。
さあ、これをイエー様と私たち、神様と私たち、あるいは作り主なる神様と、被造物の人、人間との関係から話をしていきたいと。
09:08
このね、羊飼いと羊の関係を考えるときに、神様と私たちの関係にそれを照らしてまとめて言うならば、
神様は私たちに対して、全ての人々に対して、最後まで責任を負って、愛して、祝福して、守ってくださる関係。
そして、諦めず、最後まで守ってくださる、憐れみの愛の関係であると言えると思うんです。
まず、人間のことを考えていきましょう。
人は罪を犯して、堕落して、神様から離れてしまいました。
それは、祝福を拒否して、死の呪いを招いてしまったことになってしまいました。
だから、その責任は誰にあるんでしょうか。
それは、全て人、人間にあるわけなんです。
実は、神様には何の責任もないんです。
しかし、どうですか。
神様は、罪人である私たちを憐れんでくださって、自ら進んで責任を負ってくださって、
しかも、最後までそれを成就してくださる愛の神様です。
だから皆さん、神様から見れば、確かに私たちは救われた罪人ですけれども、
神様から見れば、人々は神の恵みを失ってしまった、本当にかわいそうなご自分の羊のような存在ですね。
このような私たちのために、神様は喜んで自ら進んで牧者となってくださった、
門となってくださった、道、光、命になってくださったということなんです。
私たちがお願いしたから、そうしてくださったわけでもありません。
あるいは、私たちがお願いしてお願いして、神様が面倒くさくて仕方がなくなってくださったわけでもないんです。
神様が先に喜んで進んで牧者となってくださって、愛となってくださって、光になってくださったということなんです。
12:12
しかも、もっと感謝すべきことは、これは神様と私たちのこの素晴らしい愛の関係を、
神様が先にこのような関係として設定してくださったんです。
神様はこういう関係を持たなくてはならない、何の責任もないんですよ、神様にはね。
にもかかわらず、神様は喜んで、私たちとこの愛と責任のある関係を、
神様がね、自ら設定して、そしてこれを必ず守り通す、そして完成してくださる愛の神様なんです。
今日はこの、イエス様と私たちの愛の関係について、もうちょっと具体的に3つのことを話をしたいと思います。
まず第一、イエス様は私たちの弱さをすべて知っておられますが、愛してくださるということです。
まるで牧者は羊たちの弱さを知っているわけなんですね。
この羊は足が弱いとか、この羊は食べすぎて太りすぎるみたい、
この羊は非常に目が悪いとか、あるいはこの羊は肌が悪いとか、
これをすべて知り尽くしているわけなんですね、牧者は。
イエス様は私たちのすべての弱さ、失敗をすべて知っておられる。
だからこそ愛してくださるということです。
一方、この世はどうでしょうか、皆さん。
人の駄目なところを知ったり、あるいは自分の駄目なところが知られたら、
馬鹿にされやすい、なめられやすい、そういう時代かなと思います。
例えば会社生活、あるいは夫婦生活において、
どんどん自分の弱いところ、駄目なところが知られてしまったら、
本当にひどい場合は会社の生活が難しくなって、
辞めるしかない場合もあったりするんですよね。
15:00
だからみんな自分を隠そうとするんです。
隠し上手な人になって、何とかして恥を吐くことがないようにする。
この世の中は、何かひどいこと、大きな問題になって、
本当に恥ずかしいことになったならば、
もうこの世界、世の中ではもう一度遮断できない、
そういう世の中になっているんじゃないかなと思います。
恥とか憐れみとか慈しみみたいなものを、見にくい世の中になっていると思うんです。
あるいは誰かが私たちのいいところ、素晴らしいところだけを見て愛してくれるならば、
私たちはきっと人に愛されにくいかもしれません。
あるいは人を愛することも難しいかもしれません。
そういうことね。お互い様で本当に弱いところ、
ダメなところはそれぞれみんなたくさん持っていると思うんです。
ところが、まことの牧者であるイエス様は、
私たちのそのような罪も弱さも脆さも失敗も、あるいはもどかしさもすべて知っておられます。
ある意味で、もう生まれる時から死ぬ時までのすべてのことをイエス様は知り尽くしておられる。
にもかかわらず、だから嫌だじゃなくて、だから抱きしめてください。
変わらぬ愛を持って、その愛するよという約束、それに忠実で誠実であられるイエス様なんです。
だから皆さん私たちは大胆にはばかることなく十字架の前に近づくことができるんです。
イエス様の前では皆さん私たちは恥をかいていいんです。失敗していいんです。
自分のもうダメなところがもうばらされていいんです。
ある意味で、言葉ちょっとあれですけど、イエス様の前では私たちの姿がある意味でどうでもいいんです。
隠さなくていいんです。隠さなくていい。
あるいはそうでないようなふりをしなくていいんです。
人は自分を隠そうとする、実はAなのにAじゃないようにBのふりをする時に、
18:04
もう非常に大きなストレスやあるいはエネルギーを使うみたいなんです。
イエス様の前で肩の力を抜いて、
イエス様、私はこんな失敗だらけの者です。こんな遅すぎの者です。
主よ、あなたは御存じです。私を憐れんで下さい。
あなたが誠の羊かいだから今日もこのように主の御前にやってまいりました。
主よ、私を憐れんで下さい。
そういうふうにイエス様に出会う私たちでありたいですね。
2番目。イエス様の愛は、御自身を明け渡すまで愛して下さる愛です。
親は子供に美味しい食べ物を作ってあげることができます。
素敵なプレゼントを買ってあげることもできます。
しかし、自分自身を全て明け渡す、明け与えることはできないでしょう。
しかし、イエス様の愛は喜んで自ら御自身の命を与えて下さった愛なんです。
全てなんですね、全て。
実は、私たちは神の命をもらわなければならない。
そんな私たちに何かの権利があるとか、特権があるわけではないんですね。
神様は私たちに命をあげなければならない。
その責任が神様にあるわけではありませんし、
それを要求できる権利が我々にあるわけではないんですよ。
にもかかわらず、神様は本当に一方的な愛を持って、
喜んで自ら先に命を差し出して下さい。
この愛を喜んで受け入れればいいんですよ、受け取ればいいんですよ、皆さん。
いや、そんな神の愛をもう申し訳ない、私はお断りしますとしたらダメなんですよ、皆さん。
喜んで受け入れればいいんですよ、遠慮しなくてもいいんですね、神の前では。
喜んで差し出して下さる神の愛を、その愛の前に感謝を持って、
感謝して受け取れればいいと思うんですよ。
神様にとってイエス様は全てなんですね。
その全てであるイエス様の命を、私たちのために、あなたのために差し出して下さった。
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この愛の関係を神様が先に決めて、その約束を誠実に守って下さった。
そしてそれが一回だけではなく、私たちが死ぬ時まで神様をずっとフォローして下さるんですね。
それである人は、若い時にイエス様のフォローによって、後押しによってイエス様に出会って救われた。
ある人は何度も何度も神様のフォローがあって、働きかけがあって、語りかけがあって、
いろんな後押しがあって、後々気付いて、
例えば50代、60代、あるいは70代になってイエス様に出会って救われたとか、
いろんなケースが、場合があると思いますけれども、いずれしても神様は私たちを最後の最後までフォローしてケアして下さるんですよ。
神様の保証書は3年とか5年ではないんです。
それをもらうように3千円、5千円追加の料金が発生します。そんなこともないんです。
もう永遠無料で、永遠保証付きのもの。フォローして下さい。
最後3番目。イエス様の愛は一瞬の感情によるものではなく、
イエス様の強い意思なんです。
ここでイエス様の意思、心の意思が大事なんです。
イエス様の愛は、どこか小説とか映画、ドラマに出てくるような、ロミオとジュリエットみたいな、
そんなラブストーリーの感情的なものではない。
人の瞬間的な愛は、いずれ冷めて消えてしまいやすいものではないでしょうか。
イエス様は、四晴れの苦渋にもそういう言葉がありますが、
ご自分の人を最後まで愛されるという言葉がありますが、
それはイエス様の愛は単純な感情ではないということなんです。
しかもそれが瞬間的な愛ではないんです。
イエス様の神の強い、変わらない、不変のご意思である。
永遠なる神の意思なんですよ。強い意思なんです。
だからイエス様は、私たちがある意味でどうでもいいものであっても、
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必ず私はこのものを、あなたを愛するとしたら、それは変わらない。
何者によっても邪魔されない。
その約束、契約は無効にはなれない。
その愛が、神の愛であってイエス様の愛なんです。
絶対に変わらないんです。
昔も今も未来も変わらない愛。
人の愛は、確かに素晴らしい愛もありますけれども、
変わりやすいんじゃないでしょうか。変わりやすいんですよ。
夫婦が結婚して、死ぬまでずっと一緒に愛していけばいいんだけれども、
そうでない場合もありまして。
本当に今日はものすごく親しくて、家族みたいに親しい友達関係が、
何かのトラブルがあって、明日からは全然連絡もしない。
人の名前を口にすることすら嫌だみたいに、赤の谷になってしまう場合もあります。
それが私たち人間の弱さかもしれない。
そこで変わらない愛、強い意志を持って、
必ずこの愛を愛し通してくださるイエス様の愛に、
私たちはみんな出会って、味わって、豊かに体験させていただきたいんです。
何がどうあっても、あなたが弱くても、失敗をしても、
あるいは罪が多くても、あるいは今は気づいていなくて、悔い改めが足らなくても、
それでも私はあなたをフォローするよ。
私はあなたを愛することを決めたんだからね。
それで最後まで愛を、最後まで完成してくださる、愛なんですね。
だからこの愛は、イエス様の愛はね、最後まで愛する、愛し通す。
だからもう限界がないんです。
キリがないんです。
この程度だったら愛しますよ、みたいなね。
そういう限界がないんですね。
ギブアンドテイクの愛ではない。
限りのない愛である。
メッセージを送りたいと思います。
イエス様は、そのような愛を持って、自ら喜んで、牧者となってくださいました。
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そして私たちを招いてくださっていますね。
この朝も、皆さんお一人お一人の名前を、イエス様が呼んで、
私について来なさい。
私の愛の中にとどまりなさい。
この愛を、もうたくさん受け取ってほしい。
味わってほしい。
肩がけるイエス様の声を聞いていこうではないでしょうか。
永遠から永遠まで変わらない愛を持って、強い意志を持って愛してくださる、そのイエス様。
まことの羊であるイエス様に、どこまでもついていきたいと願います。
また、この愛が既に私たちに注がれていることを信じて、
この愛を思い切り体験させていただきたい。
遠慮しないで、神の前に求めて与えられ、
この愛を豊かに経験しながら、本当に幸いな信仰生活を歩んでいきたいと思います。
お祈りしましょう。
28:19

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