1. 名谷教会
  2. 2020/10/25:創世記(1)はじめに
2020-10-25 27:54

2020/10/25:創世記(1)はじめに

2020/10/25:創世記(1)はじめに

2020/10/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 1:1-5


00:00
近くにですね、来ることを信じてですね、望みつつ、主に信頼して、近づいていきたいと思います。
さて、今日から創世記の説教が始まります。 神様の御言葉を期待しつつ、した心をもって、神の御前に近づいていきたいと願います。
また皆さんですね、よろしければ、少しずつ土曜日とか、聖日の朝、創世記をですね、読んできてくださってですね、
共に神様が語ってくださる御言葉を期待してですね、その恵みに預かりたいと願っております。
創世記は旧約・新約聖書の中で、最初の聖書です。
孟聖という人が、神の霊化によって書いた本です。
この朝は時間もですね、短い時間ですし、また、徳川の新学校ではありませんので、
概論的なこととか、そういった背景は省いてですね、直接御言葉に入りたいと思います。
何より、この創世記を私たちが御言葉を頂くにあたってですね、大事なのは、この創世記は始まりの書ということですね。
始まりの書である。これはキリスト教信仰の、そしてすべての始まりであるということになります。
この世界の始まり、人類の始まり、祝福の始まり、救い、罪、神様の選びと救い、あるいは裁きの始まりであります。
そのすべての内容が、この創世記に書かれています。
もう一度、みなさんで一緒にですね、今日の一節を一緒に読みたいと思います。
出してもらえますか? ありがとうございます。
一節だけですね、一緒に読みましょう。
3、はい。
はじめに神が天と地を創造された。 アーメン。
みなさんは、この一節を多分ですね、何度もお読みになったと思いますが、
この一節をお読みになるときに、どんなこと、何を感じたり、気づいたり、思ったりするのでしょうか。
聖書の御言葉、神の御言葉は、この世界に向けて、このように宣言をしています。
03:01
はじめに神が天と地を創造された。
キリスト教信仰は、この御言葉、もちろん一節だけではありませんが、
神の御言葉は、誤りのない神の御言葉である。
そして、それは歴史的事実であり、真理であることを信じます。
ところがですね、中道者の方とか、初めてキリスト教に触れた方が、
もし、ちょっと興味があって、聖書を開いて、ここが荘石か、
はじめに神が天と地を創造された、この御言葉で、戸惑いを感じたり、あるいは、そういう気になったり、
なるほど、神様が天と地を創造されたんだ、というふうに受け止めたりするかと思います。
ところがですね、ある方にとっては、この御言葉を信じたいんだけれども、
それが信じられなく、そういうふうにですね、思う方もおられるかなと思います。
ですから、私たちはですね、この御言葉が信じられるのは、不思議なことであり、
神の恵みであるということではないでしょうか。
私たちが、努力して、頑張って、これが信じられた、という方はいらっしゃらないと思うんです。
あるいは、たくさん勉強したから、これが信じられたわけでもないでしょう。
本当に不思議に、神の霊感によって、おのずと信じられたんです。
神様が、私たち一人一人に、精霊を満たしてくださって、
そしてその精霊の感度によって、この御言葉が真理だよ、と信じることができるように導いて、悟りを与えてくださった。
その恵みのゆえに、私たちは、この御言葉を信じられる、ということなんです。
私たちのキリスト教の信仰は、すべてこの一節、ここから始まります。
この御言葉が信じられれば、すべてが信じられるでしょう。
この御言葉に恵まれれば、すべての御言葉に恵まれるでしょう。
06:00
この御言葉に出会って、目が開かれれば、すべての御言葉に目が開かれるようになると思います。
私は、この御言葉を信じる者として、読者として、一人の信仰者として、
想像を信じるか信じないかではなくて、想像を信じるわけですから、
ではなくて、信仰者として、この御言葉、一節を、何度も何度も読みました。
そして、昨日の朝、朝焼け。
この御言葉が、今まではなかったような、全く新しい御言葉として、
私の魂の深いところに、差しず貫かれる、打ち砕かれる御言葉として、私に迫ってきました。
それは、私が信じる神様は、計り知ることのできない偉大な方である。
偉大という言葉だけでも、神を表現することはできないほど偉大な方である。
ただ、御言葉だけで、天と地を、光を、地球を、人間を、お作りになった作り主神様なのに、
この自分は、その神様の、創造主の神様の憐れみと恵みによって作られたものに過ぎなのに、
自分は今まで、どれだけ傲慢で高ぶりのものだったのか。
自分は、どれだけ高ぶって、傲慢で振る舞ってきたんだろうか。
この一節で、主に打たれました。砕かれました。心が差し飛ばされました。
夫という理由で、父という理由で、あるいは牧師という理由で、
どれだけ自分が、この偉大な神様の前で、高ぶって高ぶって振る舞ってきたんだろうか。
09:04
御言葉だけで、天と地を作られた神様がおられるのに、
その神様を信じている者として、まるで自分の上に誰もいないかのように、
傲慢な者で、高ぶりの者だった、減り下っていなかった。
それで妻や子供、あるいは教会の皆さんに、今までどれだけ多くの傷を与え、
痛みを与え、苦しくしたんだろうか。
主よ、この傲慢な者をお許し下さい。
この一節の御言葉で、主に打たれて、その御言葉によって差し飛ばされました。
そして、悔やだめました。
また皆さんにも、この僕氏の傲慢な高ぶりの言動、そのままのことにゆえに、
きっと、傷つけられたこと、辛かったこと、そういったことがきっとあったでしょう。
そういったことがもしもありましたら、皆さんに本当におわびいたしますし、
許していただきたいと願っております。
偉大な神様、たった御言葉で、天と地を創造された神様がおられる。
この御言葉で、私たちは神様にお会いすることができると信じます。
なぜなら、神様が私たちを会いたいと願っておられる、求めておられる、あるいは待っていてくださるということです。
願わくは、私たちみんな、クリジャンはクリジャンとして、救渡者は救渡者として、
12:05
それぞれこの御言葉の中で、偉大な創り主なる唯一の神様にお会いできますことを切に祈ることです。
それから、この偉大な創り主なる神様の前で、もしも私たちのように、
もしも皆さんの中で、高ぶりや、あるいは減り下りのない、そういった行いが、もしもありましたならば、
この創造主の前で、哀れみ豊かな神様の前で、減り下りずつ、主に従って歩んでいこうではないでしょうか。
だから、この一節、創世紀の一章、一節で、神様を真実に、真剣に出会った人は、なるほど、減り下る者になるんだなと、そういうふうに思わされて、
また、本当にリアルに、この御言葉で神様に出会った人は、その方を礼拝し、従う者になるんだなと、教えられました。
ヘブル人への手紙4章12節を見ますと、私がお読みいたします。
神の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるまでに差し貫き、心の思いや、計り事を見分けることができます。とあります。
神の御言葉は、今日のこの、はじめに神が天と地を創土された、というこの御言葉は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭くて、私たちの魂、霊、関節、骨髄、つまりですね、すべての存在ですね、
私たちのすべての、すべてを差し貫いて、心の思い、私たちの心の思いとか、計り事とか、すべてを、この御言葉が見分ける、ということなんです。
だから皆さん、神の御言葉の前で、本当にその御言葉で神に出会った人は、その御言葉に真剣に出会った人は、その御言葉によって差し貫かれて、また見分けられることになるんじゃないでしょうか。
15:19
神の御言葉が生き物として、私たちのすべてを差し貫いて、すべてを見分けるということなんです。
だから皆さん、私たちがさらに神にお会いしたくて、あるいはその神が知りたくて、神の御言葉を求めて、聖書を開いて、御言葉を読みますならば、この御言葉は生き物だから、生きているから、主の霊は、精霊様は働いておられるから、私たちに出会ってくださる。
見分けてくださる。導いてくださる。悟るように助けてくださる、ということなんですね。
さて、神様は最初に、この世界は、地は膨膜として何もなく、闇が大水の表の上にあり、とあります。
だから最初は、膨膜でした。混沌でした。カオスという言葉がありますが、最初は、この宇宙万物は膨膜で混沌として、カオスの状態でした。秩序がなく、闇でした。
しかし、神様は最初に何をお作りになったのでしょうか。
三節、もう一度一緒に読みましょうか。
三節、ご一緒に。
神は王政られた。光あれ。すると光があった。
神様は最初、光をお作りになりました。
この光は、太陽とか月とか星とかの光を放つものではなく、光そのものなんですね。
ところが、私たちは、神様が光あれ、日本語だったら光あれ、たった三文字ですね。
言語はそうではないし、神様はどこかの国の言葉を使われるわけではありませんが、
18:01
たったこの言葉で、この膨膜として何もない闇の世界に光が現れたんですね。
実際にですね、最初にこの御言葉に出会う人は、信じられないと思うんですよ。
信じがたい。想像できないと思うんですよ。
これだけではなく、イエス様が死なれて、三日経って、よみがえられた復活も信じがたい。信じられない。
人間の常識や人間の法則を乗り越えるお話だから、信じがたいと思うんですよ。
あるいは、信じたいんだけれども、落ちない。
信じたいんだけれども、信じることができない。
それでね、もどかしさを感じる方もおられるかもしれない。
ところがですね、先週のカースインモク、教団牧師会があって、
今年は集まることができなかったから、Zoomでネット会議になりましたが、
そこでグループで話をしているときに、
教会で50代と60代の少年の方が、修道者として学びをしている。
ところが、よく学びをしていく中で、いつも戸惑いとかつまずきを感じるところは、
この創世紀の神様の創造、またイエス様の復活、それが信じられないから、
もう1年以上学びをしているんだけれども、1000年にはまだ至っていない。
そこでですね、ある先生が逆にこう言いました。
その先生は若いときにイエス様を信じるときに、
ああ、イエス様が復活なさった。
だから人間にはできないことができる神様だったら、それは本当の神様だろうというふうに、
それでイエス様を信じたくなって、信じるようになったという話を聞いてですね、
ああ、逆にそういうふうに人間にできることをできるなら、それは神様でもないから、信じる価値もないんだと。
やっぱりできないことができる神様がおられるんだったら、信じたいと。
そう思って信仰に入って、今は牧師になっていらっしゃる。
その話を聞いてですね、ああ、それも不思議な恵みだなと思いました。
ところが、この荘石の内緒に、神様は光をお作りになりました。
聖書は、神様がイエス様、聖霊様、その方自身が光であると話しています。
ですから皆さん、光である神様が、
21:02
この膨膜として何もない闇の世界に、ご自身を表してくださったということであります。
そして、実際にも光を作られたということであります。
一箇所、私が聖書を読みいたします。
ヨハネの手紙第一章5節を読むと、私たちがキリストから聞き、
あなた方に伝える指針は、神は光であり、神には闇が全くないということです。
という見言葉があります。
神は光であり。
皆さん、神様が光を最初に作られたのは、
光であるご自身をこの世界に、闇の私たちに表すためである。
そして、膨膜として何もない闇の世界にいる全てを、
光である自分自身に導くためであるということではないでしょうか。
だから、今日の1節から5節のこの見言葉は、
あ、光を作ってくださって、私たちに光を与えてくださる。
そして、これから続きますけれども、
全てを作ってくださって、私たちに全てをプレゼントしてくださるために、
神様が創造をなさったということであります。
ですから皆さん、この1章、荘石の1章、2章を読みますと、
神様が私たちをどれだけ愛されるか、
ここまでしてくださって、ここまで私たちを愛してくださる神の愛が、
本当に熱く思われるようになると思うんです。
イスラム圏にこのような神話があると言いますね。
神がいるんだけれども、その神は力が足らない。
この世界に神がね、何か自分がやりたいことがあるんだけれども、
自分には力が、能力が足らないから、
自分を助けてくれる人間を作って、人間に助けてもらう。
そういう神がいる。
そのような神話がイスラム圏にあるそうなんです。
だから、その神には人間がいなければならないんです。
自分にできないことがあるから。
しかし皆さん、私たちが信じる神様は、そういう神ではないんです。
24:04
私たちが知っている通りに、神様は、実は神様自ら完全なお方ですから、
この世界も地球も星も、あるいは我々人間も、
実は神様は必要とされないんです。
神様はこの世界や我々を作らなくても、神の皮では困りはないんです。
あるいは、さっきのイスラム神話のみたいに、
神様に人間がなければならないんだから、
あるいは作っておいたら便利だから、
助かるから作っておいたわけでもないんです。
むしろ、これから神様は全てをご存知だから、
この世界を作って、アダムといえば人間を作って、
そしてこの後で、本当に大変な遺体を経験なさるようになる。
にもかかわらず、神様はこの世界を、私たちをお作りになった。
なぜでしょうか。
それは、我々を愛するから。
私たちから愛されるために。
私たちと愛の交わりを持つために、
この世界と私たち一人一人を作ることを決心なさったということなんです。
作りたいと願ってくださった。
作りたいから作ってくださった、という愛がそこにあるんです。
作るしかないからでもない。
作らなければならないからでもなく、
この世界や私たちを、皆さんを作りたいと神様は本当に熱く願ってくださったんですね。
そしてそれは、やはてはどんな結果をもたらすことになっても、
神様は私たちを養い、支え、愛し抜くことを決意してくださいました。
ここに実は、神の決意、覚悟、意思があるんです。
メッセージを述べたいと思います。
また来週から継続的に続きますけれども、
神様は私たちに出会うために、この世界をお作りになりました。
ご自身であるこの光を表してくださいました。
27:04
この御言葉の前で、
創造主なる神の前に神戸をたれて、
エリクタリチュス、そして、
ああ主よ、光に私を導いてくださって、アレリア主を感謝します。
はじめに神が天と地を創造されたこの御言葉の前で、
私たちみんなが、みんなが、
ああ主よ、そうですと信じますと告白しつつ、
愛もものでありたいと願います。
この神の愛の話を、
頭ではなく心から、霊から信じて、受け入れて、
そして従って歩みたいと願います。
お祈りしましょう。
27:54

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