1. 名谷教会
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2014-02-16 44:11

2014/02/16:聖日礼拝(旧音源)

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2014/02/16 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、感謝します。
毎日の生活への応援を感謝いたします。
では、今日もよくいらっしゃいました。おはようございます。
では、隣の方々と挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。感謝します。
はい、昨日は、朝10時から午後4時まで、1日中と聖書通達会が、名谷教会では初めてではないかなと思うんですけど、
13名合わせですね、午前午後、また他の教会からも2人の方が参加していただいて、
多くの方がですね、時間を清別して、体も心もですね、清別して、
聖書をひたすら読む姿は、本当に神様がなんてですね、喜ばれることだろうと思うときでした。
聖書にですね、こういう見言葉があります。
マリアがイエス様の膝元で見言葉を聞いて、継承しているうちにですね、お姉さんのマルタは休事で忙しくしていたんですね。
そのときにイエス様がマルタにこうおっしゃったんですね。
マルタマルタ、あなたはいろいろなことを心配して気を使っています。
しかし、どうしても必要なものはただ一つだけです。
マリアはその良い方を選んだのです。
一つですね、申し上げますと、時間が経てば経つほど、本書を取れば取るほど、
時間がもっとたっぷりあって、余裕があってですね、
聖書を読む時間ももっと持ちやすい、祈り時間も持ちやすいと思うんですけれども、実はそうではないと思うんですね。
今の時代ってですね、どんどんどんどん忙しく忙しく忙しくなるんです。
やりたいこと多くて、したいこと多くて、見たいこと多くて、休みたいこと多くて、楽しみたいことが多くて、山ほどですね、どんどんどんどん増えていくんです。
誘惑の強さもどんどんどんどん強くなる時代になっているんですね。
でも昨日ですね、姉妹の方々が、ある方は一日中、ある方は急がちにですけれども、午前中とか午後とかですね、ともに聖書を読んで、
だいたい体から丸子までみなさん読み終えたんですね。すごいなと思いました。
03:03
神様もね、きっとエファントされたと思うんですけれども、聖書を読むことにですね、精明していかけたらと、そうでなっております。
一言お祈りします。
天の白神様、今から神の御言葉に耳を傾けて、心を作って、精神を作って、心を作って、あなたを愛して、そして御前に比例をします。
どうぞ神様、今日のおマナーを、今日の力を神様どうぞ渡り下さい。
恋愛しているうちに、御言葉を聞いているうちに、主よどうぞ、我らの魂、我らの心を、我らの考えの体を、
主よどうぞ、あなたが、あなたの右手を持って、触って、触れて、そして癒して、回復して、恵んで、祝福して下さいますようにお願いいたします。
御言葉、主よ、上から降り注いで下さい。感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はイエス様の強い習慣のシリーズのメッセージ、えーと、まあ習得と間違えてですね、3になってますけれども、第4回目です。
で、今日は使えるということですが、皆さん、日本語のですね、理解する、あるいは知るという言葉にあたる英語の単語は、
アンダステンドゥ、アンダステンドゥ、アンダステンドゥ、このアンダステンドゥの言葉は2つの言葉で合成されていますね。
アンダステンドゥ、どういう意味ですか。下に立つという意味です。
人を理解すること、知ることは皆さん、私の枠にその人や何かを詰め込むのではなく、
私が謙遜に相手の立場に立って、相手の下に立つときにやっと理解することができる、知ることができるんですね。
私の話をちょっとさせていただきますと、夫婦の間でですね、言うこともあるんですけれども、いろんなことが起こるんじゃないですか、皆さん。
で、神様に祈るんですね。祈るときによくよく神様から示される、教えられるメッセージがあるんですけどね。
一つは、妻の話をよく聞きなさい。耳を傾けてよく聞きなさい。示されますね。
06:06
で、もう一つは、あなたの立場で理解するんじゃないんだ。妻の立場で理解してあげなさい。
というですね、神様からのメッセージが示されたりするんですけれども。
この英語のですね、understandという言葉は、とても清書的だなと思ったんですね。今日のメッセージのキーワードは、使えるということです。
しかしよく考えていただきたいです。イエス様ほど私たちをよく知っておられる方はいないと思います。
私たちの実はですね、全てのことをもう完全にご存知なんですよね。
しかしその方が、私たちに使えるために神なるイエス様が地上に来てくださった。低くされた。
しもべになった。しかも十字架で死んでくださった。侮辱された。
それは私のために、あなたのために、私たちのためなんですね。
本当にですね、私たちを理解しておられる。知っておられる。
にも変わらず、私たちを理解するために、使えるために、人間の下に立ってくださって、そして使えてくださったんですね。
この日本語の使えるという言葉の言語、ギリシャ語として調べてみました。
リアコニアという言葉なんですね。リアコニア。そのもともとの意味はですね、給仕をする。
給仕をする。食卓に使えるということです。
それはですね、当時の文化から言いますと、普通の一般市民の家には、しもべ、奴隷があるわけなんですね。
奴隷も階級があってですね、上の者は寄せ府みたいにですね、財産を管理したり、人を管理したり、物を管理する、ちょっと上のしもべ、奴隷もあるわけです。
段階があってですね、給仕をする、使えるものは奴隷の中でも下の階級にあたるわけなんですね。
その奴隷が全く自分の肉を殺して、ただひたすら主人のために使える、その無私の給仕の心を表す言葉が、この使えるという言葉。
09:06
どういう意味でしょうか、皆さん。
その家様が今日ですね、読んでいただきました二言葉に、人の子が来たのも、使えられるためではなく、使えるために。
家様はですね、もう完全にですね、もう家様ご自身にこの使える心が、姿勢が、態度が身についているんです。
家様は救い主、創造主ですけれども、家様イコール使える方と言っても、そこではないと思うんですね。
今日の四十五節をですね、もう一度読みたいと思います。
今日の中心斉訓にあたりますが、四十五節です。
もう一度ですね、その家様の使える心を理解していただきながらですね、もう一度読んでいきたいと思います。
人の子が来たのも、使えられるためではなく、生えて使えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです。
皆さん、家様がなぜこの地上に、我らの人間の間に来られたのでしょうか。
使えるためなんですね。しもべになるためなんです。
私たちの舌に刺すためなんです。
私たちのために救事するためになります。
使えられるために来たのではなく、使えるために来られたんです。
皆さん、私たちはこのような出来事を察して、ありえないと言います。ありえないことです。
神様が人間になられたこと、ありえないこと、とんでもないことなんです。しかし、家様はそれをなさったんですね。
ありえないことを、とんでもないことを、そのために使えた。
例えば皆さん、日本の総理のですね、安倍さんがですね。
私は今日から総理を辞めさせてもらいます。
市松の区役所の職場の救事の仕事をさせていただきますと、ありえないことです。
あるいはですね、どこかの近くの神戸大学の総長さんがですね。
私は今日からこの仕事を辞めています。
そして一番下の千人講師と言いましょうか。千人講師をさせていただきます。
ありえないことなんです。
どこかの病院のリッドさんが、私はリッドを辞めます。
そしてエピソードから始めます。
12:00
ありえないことです。
しかし皆さん、これらのことより数百万倍、それ以上ありえないことが起きたんです。
それが家様が使えるためにおいでになったことです。
家様は永遠に賛美される方です。
永遠に仕えられるべき方です。
褒め称えられるべき方です。
その方が主もべの形になられて、
また最後の晩餐においてはですね、
そのお弟子さんのですね、愛を自ら洗って、
私だけを救うために、あの侮辱を受けられた。
十字架で死ぬほどまで使えてくれる。
これ以上偉大な使いはどこにあるのでしょうか。ないかと思います。
皆さんは誰かの悪を洗ったことあるんですか?皆さん。
自分の悪じゃなくて。
2年前ですね、派遣許可への海外選挙主がみんな集まって、
2週間のプログラムの中で2週目には夫婦セミナーがありました。
私とハンナはそのセミナーに参加させてもらったんですけどね。
その中でいろんな話がしているうちに、ある選挙主の奥さんがですね、
自分は毎晩旦那さんが仕事から帰ってきたら、
私を洗ってあげる。
忍者が羨ましいって言って。
僕も羨ましいなと思って。
皆さん、イエス様は杉越のあの最後の晩餐に、
主が下辺になって、
奥尾先生が弟子たちの足を洗った。
これはですね、下辺として使えることがどういうものなのか、
イエス様が象徴的に教えられたことなんです。
そのところをですね、ちょっと見てみたいと思います。
ヨハネの福音書13章12節から15節です。
15:11
では、さっきから読みますね。
207ページです。
ヨハネの福音書13章12節。
イエスは彼らの悪を洗い終わり、
上着を着けて再び席について彼らに言われた。
私があなた方に何をしたかわかりますか。
あなた方は私を先生とも夫婦も呼んでいます。
あなた方がそう言うのは良い。
私はそのようなものだからです。
それで、夫であり夫であるこの私が、
あなた方の足を洗ったのですから、
あなた方もまた互いに足を洗うべきです。
私があなた方にした通りに、あなた方もするように、
私はあなた方に模範を示したのです。
イエス様が模範を示してくださった。
それは、あなた方もまた互いに足を洗った方が良いではありません。
足を洗い合うべきですと仰っています。
ここに、足を洗い合うという言葉のもともとの意味は、
一度洗うという意味ではなく、
続けてやっていく進行形の意味が含まれています。
続けて洗い合いなさい。
互いに、昨日使えましたか、今日も使えなさい。
今日使えましたか、明日も使えなさい。
その意味があるのです。
まず皆さん、主に使える者でありたいです。
主に使える神の人でありたいです。
昨日までさささっと使えてくださったこの主に、
そのキリストに、神様に、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、
愛し、使える者でありたいと、そう願っております。
さらに進んで、家庭においても、妻に、夫に、あるいは子供に、
家様が弟子に使えられたように、また、弟子たちにおっしゃったように、
使える私たちでありたいと、ご自分の皆さんにお願いしたいと思います。
皆さんの奥さんを、心から使える夫でありたいと、そう願っております。
18:06
イエス様が教会のために、体を渡されたように、使えていただきたい。
また、今度は奥さんの皆様にお願いしたいと思います。
皆さんの夫を、ご親さんを、家庭の頭として知って、そして使えていただきたいと願っております。
家庭の頭として、その夫の権威を認め、愛に使えてください。
これが主の御心ではないでしょうか。
また、家庭だけではなく、親子の兄弟姉妹たちにも、心から使える私たちでありたいです。
イエス様がモンハンを示してくださったように、使える私たちでありたい。
どうしたら、私が兄弟に姉妹に、主に、教会に使えることができるのだろうか。
それを考え、それを実践に移していただきたいと、そう願っております。
皆さん、使えるということも習慣であり、また訓練なんです。
しかし、使えることがなかなかできなかったわけなんですね。
だから、イエス様がモンハンをあえて示してくださったわけなんです。
そのモンハンに見習いたいです。使えるものになりたいです。
2番目に申し上げたいことは、この使えるという言葉の意味には、従うという意味が含まれています。
従う、従順という意味です。当然なんですよね、皆さん。
従わないのに、どうやって使えることができるか。
使えるという意味は、従うという意味なんです。
イエス様は、神の御心に従う清い習慣を持っておられました。
イエス様の清い従順のクライマックスは、十字架なんですね。
〈マルコの福音書14章46節〉を一緒に見ていきたいと思います。
〈マルコの福音書14章46節〉
21:20
〈マルコの福音書14章の36節〉です。
98ページですね。一緒に読みましょうか。
〈マルコの福音書14章46節〉
皆さん、これがイエス様が従う従順のクライマックスのイエス様のお姿でした。
イエス様でさえ、到底耐えられないほどの苦しみの十字架系でした。
しかし、それを目の当たりにして、イエス様は最後の祈りにこうおっしゃったんですね。
〈マルコの福音書14章46節〉
〈マルコの福音書14章46節〉
皆さん、神様の御心に従うことはどういうことですか。
もちろん、時には理解できるイエス様の御命令もあるでしょう。
すぐに従いやすいイエス様の御言葉もあります。
しかし、聖書をよく見ていきますと、聖書に記されている多くの人物があったことを多く見ます。
ほとんどが常識的でないこと、論理的でないこと、納得できないこと、理解できないこと、世の人々から馬鹿にされること、そういったことを実はイエス様が求められたんです。
それに従ったんですね。それがイエス様の従順でした。
皆さん、従順、従うというものは実は信仰の結果なんです。
24:02
信仰がなければ従うことはできません。
皆さん、誰かを信頼しないとその人の言うものを聞かないですよね。従わないんです。
ついていかないんです。私はこの人を信頼するからついていくんです。
信頼したから皆さん、結婚したじゃないですか。
信じるから結婚しているわけですし、信じるから仕事をしていますし、信じるから信頼するから誰々さんのお話についていくわけなんです。
ついていく、従っていく、そこのベースには信仰、信頼があるわけなんです。
ですから逆に言い換えてみますと、良い信仰を持つ信者が全く従順の信者になるんです。
ですから皆さん、よく神様にどれほど従っているか、どれほど従順なのかを見れば、その人の信仰がわかってくるんです。
その良い模範の例をヘブル・オビトの手紙から見ていきたいと思います。ヘブル・オビトの手紙、第11章です。
ご存じの箇所ですが、今、総点で、昨日が12章でしたけれども、新約成語438ページ、439ページです。見ていきましょう。
信仰とは何なのか、従順とは何なのか、見ていきたいと思いますが、まず7節を見てみましょうか。
7節、一緒に読みたいと思います。
3、信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について、神から警告を受けた時、
御所で書き込んで、その家族の救いのために箱舟を作り、その箱舟によって世の罪を定め、信仰による義を相続するものとなりました。
総席を皆さん、覚えてわかるかと思いますが、総席2章、5節、6節を見ますと、ノアの大洪水の前には、この地球に雨が降ったことがありません。
地面から吹っ気が来て、植物も人も生きることができた。
ですから、ノアは雨を見たことがありません。大洪水って見たことがないんです。一滴も見たことがありません。
しかし、神様は彼に大洪水が起こる。この地球が、すべての生き物が滅ぼされる。
27:00
だから、あなたはこうして、こうして、こうして、箱舟を作りなさいと言われたんですね。
他の人たちだったら、ありえない。ありえないことなんですよ。で、花で味だったかもしれません。
皆さん、ノアは、でも、そんなありえない御言葉を聞いて、問い詰めないで、納得できませんと言わないで、
これは常識じゃないですよと言わないで、そんなことを見たこともありまして、雨って何ですか、そんなこと本当にあるんですかと考えないで、
神の御言葉ですから、それに100%従いました。一度も見たことのない大洪水のために、箱舟を、しかもですね、100年以上かかって作ったんですよ。
それがなぜできたんでしょうか。神様を信じるから、神様の御言葉だから、神の御命令だから、それを信じて従ったんですね。
皆さん、もしですね、あの当時に新聞とかニュースがあったらですね、海外、トピックニュースに出たかもしれません。
はい、今、ノアという人が馬鹿げなことを知っています。こういう変な人が今いるんですね。
ノアさん、なんであなたの本を作ってるんですか、引退ですって。
来たようですと言われたかもしれません。ニュースにですね、どこかの新聞に出たかもしれません。
ところが皆さん、実はこれが信仰なんですよ。
皆さん、ノアがですね、箱舟を作るとこからのセミナーに行ったんですか。
それで、こう作りましょう、DIYのですね、習いをしたことないんですよ。
ノアがですね、神様からそう命じられてですね、神様、箱舟を作るんですか。
私、一度も見たことも作ったこともないんですよ。箱舟を作るんですか。本当にマジですか、ってですね。
いや、うまくできませんよ。私が作ったこともありませんし、できませんよ。
そんなこと言ったことないんですよね。作り出しました。作りなさい。
すぐに従って作り出しました。
ノアはおっしゃった神様が作ることができる知恵もくださる、能力もくださる、技術もくださる、
材木も全てを備えてくださる、そしてこれを完成させてくださることを、
事柄を先取りして見て信じて作り出して完成できたんです。
これから皆さん信仰であり信仰があるから使えること、従うことができたんです。
30:04
私たちもこのような信仰を持ちたいんです。
現代人はこう言います。常識的であれば信じます。合理的であれば信じます。
自分が納得できたらついていきます。私にできたらします。
あるいは都合がよくなければします。健康であればします。引退したらします。余裕があればしますと言うんですけれども、
実は皆さん信仰はそんなものではありません。
信仰というものは常識を超える、自分の理解を超える、人間の納得を超えるもので、自分の都合を超えるもので、
信仰の目でまだ似ていないことを確信して、先取りして、そして従うことが信仰ではないでしょうか。
それが従順ではないでしょうか。それが信仰から出てくるんです。
皆さん、立派な信仰を持っている人はどんな人ですか。
福音書を読んでわかるように、何十年も病気にかかって死にそうな人であっても、死にかけている人であっても、
イエス様、あなたのお言葉、一言であれば許されることを私は信じます。
ノアのように、人間の常識を、人間の理解を納得、あるいは解いたものを、自分の体を見ても、自分の都合を見ても、過程を見ても、できなさそうであっても、
しかし信仰を持って、神の御言葉だから従うこと、それが信仰なんです。
ここも、ヘブロビと呼ぶと、また続いて見てみましょうか。
ノアの記事の後に、八節をご覧ください。八節一緒に読みたいと思います。
三、信仰によって、これに疑い、どこに行くのかを知らないで出て行きました。アーメン。
皆さん、アブラームもノアも、世の人々から見たら、もう気が狂ったような馬鹿なものが起こったと言われるかもしれません。
神様がアブラームに、あなたの父の家を出て行きなさいと言われました。
アブラームは神様に、え?神様、どこに行くんですか?行きなさいだと。行くんですよ。どこに行くんですか?となったことを言ったかもしれません。
33:10
神様はですね、どこに行くか示してくださらなかったんです。行きなさいと神様はおっしゃったのに、どこに行くのか示してくださらなかったんですよ。
どこに行くのかを知らないで出て行きました。これが実は皆さん、信仰なんです。神様の御言葉だから、従うんです。
神様がですね、アブラームにですね、健康もくださって、チケットもくださって、そしてね、食べ物も何もかもですね、記事もくださってですね、今だったらカーナビもですね、仕切ってくださってですね、
あるいは、いい経験もあってですね、馴染んでいるから、こうして行きなさいと。そういうことは一切何もありませんでした。
もちろんですね、アブラームは大切なものを持っていたから、ラクダとかいうですね、あったことですよ、食べ物もあったことですよ、お水もあったことですよ。
しかし、アブラームが出発したウルという町は、今のペルチア湾のところなんです。イラクのところです。そこから数千キロメートルも離れているイスラエルまで来たこと、
一度も行ったことはないんですよ、みなさん。見たこともありません。数年もかけて行きました。どこに行くか知らないまま行きました。これが実はみなさん、優遇信仰なんです。
このように彼らが従うことができたのは、単なる冒険心が強かったからではありません。信仰によってです。信仰があったから、従うことができたんです。
ペルチア湾に、みなさん、従事記を読まれたことがあると思うんですね。信仰によって、信仰によって、最後から最後までずっと掛かり続けたのが、信仰によってなんですよ。ノアムもアブラームも信仰によって。
みなさん、立派な信仰を持っておれば従うことができます。みなさん、旧約戦争を読んでもお分かりになると思いますし、ただヘブル11社だけお読みになっても分からないと思うんですが、
ノアムもアブラハムもモーセムもヨシハムもエリコノマチオもあらゆるその兵士たちも、みんな信仰のない人々から見たら、本当にアホなような狂ったようなものだしになったんです。
とんでもないこと、荒れないこと、常識的でないこと、馬鹿げたことばっかりしたんですね。ノアムもアブラハムもヨシハムもモーセムも。そうなんですよね、みなさん。
36:17
みなさん、聖徒は私たちにこのように生きなさいと求めておられます。ところが、私たちは従うときもありますけれども、ついつい、これはあまり合理的じゃない、常識じゃない、現実的じゃない、理解できない、納得できない。
これは非理性的だとか言って従うとしないときがあるのではないでしょうか。
みなさん、私たちがアブラハムのように、ノアムのように、モーセムのように、道あふれるユルダン川に、司祭士たちが重たい神の箱を担いで足を踏み入れたように、エリコノマチオは黙々と毎日回ったように、
理解を超えて、常識を超えて、御言葉であるから、神の御言葉であるから、戦うときに栄光を見ることができるんです。そのときに我々の人生に奇跡のようなことが起こるんですよ。なぜ起こらないんですか。なぜ神の栄光を見ることが難しいのでしょうか。
私たちがあまりにも常識的に、理解的に、納得的に生きようとするから、神の栄光を見ることができないんです。そう思えませんでしょうか。
聖書は私たちに求めておられました。信仰は従順だと。私がノアのように、アボラのように、いや、イエス様のように、神の御言葉であれば、それがとんでもないことであっても、理解しづらいことであっても、従いづらいことであっても、いや、ありえないことであっても、
従順は信仰の結果です。信仰は従順によってメッセージをおられたいと思います。
39:05
で、このゲイ様の強い宗教のシリーズメッセージは今日で終わりですが、その最後は使えることです。すなわち、従うことであり、そのベースは信仰であることを教えていただきました。教えられたことを実践していただきたいと願っております。
実践するかしないかは皆さんのやり次第なんですね。皆さんが使えるべき方はどなたでしょうか。皆さんが従うべき方は誰でしょうか。
我ら福音子がですね、ゲイ様のように、ノアのように、アブラモのように、神様の御言葉であれば、神様が言われましたら、その通りになることを信じて、いくらありえないことであっても、とんでもないことであっても、はい、書き込まれましたと。
その時に、神の栄光を見ることができるんです。お祈り申し上げます。では今日の御言葉を覚えてですね、それぞれ示されたメッセージがあるかと思います。
それを覚えて、握りしめて、あるいは決心して、あるいは悔いを貯めて、あるいは志望を持って、死の見舞いにですね、しばらく祈っていきたいと思います。その後に私は一言お祈りいたします。御一緒にお祈りいたします。
我々の御言葉に従うことができますように、神の御言葉であれば、その御言葉に従っていただきます。御従う私たちであります。心から喜んで信仰を持って従っていくことができますように、どうぞ神様助けについてください。我々の弱い信仰、本当に悪い信仰、長い信仰を許してください。
死の見舞いに近づいて、本当に従っていくことができますように、どうぞ神様助けについてくださいますように、お願いをいたします。どうぞ我々に出てくださいますように、どうぞ人間の常識を理解を超えて、神の御言葉に御言葉できますように、どうぞ我々の心を、本当にあなたが強めてくださいますように、お願いをいたします。御祈りいたします。
42:09
人も配ったのも、控えられるためではなく、控えて、控えるためであり、また多くの人のため、儚いの代価として、自分の命を与えるためなのです。神様、今日の御言葉をありがとうございました。
イエス様は、到底、耐えられなさそうな、あの十字架をあなたにして、苦しんで、褪せた気になるほど、祈っておられました。どうかできるならば、この十字架系を、この苦しみを取り除けてください。
しかし、私の願うままでなく、あなたの御心通りになさってくださいと、誓い、イエス様の御仕方を教えていただきました。どうぞ神様、我々の信徒が、あなたの御心のままなさってください。
神の御言葉であるならば、神様がおっしゃるその御言葉であるならば、とんでもないことであっても、ありえないことであっても、理解できなさそうなことであっても、私たちが、はい、主を従わせていただきますと、従う信仰を与えてください。
そのような信仰を持つときに、我々の人生に、家庭に、教会に、この日本に、神の栄光を見ることができると信じます。どうぞ我々一人一人の信仰を強めてください。イエス様のように、ノアのように、アブラハムのように、ヨチアの母親のように、信仰の先輩たちのように、信仰によって生きることができますように。どうぞ神様、我々一人の信仰を強めてください。
あなたの栄光が見たいです。神のリバイバルが見たいです。主をどうぞ憐れてください。御言葉に感謝し、イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
44:11

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