1. 名谷教会
  2. 2014/07/27:聖日礼拝(旧音源)
2014-07-27 52:50

2014/07/27:聖日礼拝(旧音源)

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2014/07/27 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
それでは、今日も御言葉に入る前に、隣の方と挨拶しましょう。
よろしくお願いします。
それでは、一言お祈りします。
神様、今日も悲しい中ですが、この暑さに負けず、主の宮に登ってまいります。
神様、どうぞ、この礼拝前代を通して、神様が日常になさって、一人一人に、あなたの恩恵と慈しみと、また、希望と、また、今宵の教訓を、どうぞ、神様に見させて、教えて、示して下さいますように。
どうぞ、我々の信仰を、どうぞ、神様が引き上げて、あなたのものへと作り変えて、日々恵んで祝して、本当に栄える道を歩ませて下さいますように。
お願い致します。
今から、神様も御言につき、また学びます。
どうぞ、主の一人一人に、その魂と霊に、神様御自身がお語り下さいますように。
神の御言葉として、受け止めさせていただき、そして戦う、実行する、我々の信仰を、どうぞ、強めて恵んで下さい。
見て、伝えて、家様の未来において、お祈り致します。
アーメン。
はい、今日は、キリスト教のエッセンス、そのシリーズの、戦役に続きのですね、戦役の聖なる神様について学びました。
大きく二つを申し上げましたけれども、皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。
まあ、忘れていいんですけれども。
二つでした。一つは、神様は、神なる神様はいつも、私たちと共にいて下さる方であることを学びました。
もう一つは、語って下さる神様、語って下さる神様について学びました。
神様の御声を聞いて、その御言葉を、昼も夜も口ずさむ、黙想し、またその御言葉に及ぼす。
そしてその御言葉を実践していく、クリスチャンでありたいと、そう願っておりました。
そうして、我々の信仰が成功していくわけなんですね。
03:03
では、その続きで、また、私たちが信じる神様がどんなお方なのか、その聖なる神様がどんなに素晴らしい良きお父さんであられるのか、
今日も大きく三つを共に、聖教から学びたいと思います。
その一つは、神様は、良き聖なる神様は、私たちの前を歩んでおられる種でした。
私たちの前を歩んでおられる種。
今日の御言葉、十四節をもう一度一緒にですね、読み替えたいと思います。
十四節、ご一緒に読みましょう。
三、この地の住民に告げましょう。
四、事実、彼らは、あなたすがこの民の内におられ、あなたすが間のあたりにあらわれて、あなたの雲が彼らの上に立ち、
あなたが、昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。
ここにですね、彼らの前、彼らはイスラエル人ですね。
イスラエル人の前を歩んでおられるのを聞いている。
皆さん、神様は、私たち一人一人個人の人生の前も、
主の教会の歩みの前も、いや、全人類の歴史の先頭に立っていて下さる。
つまり、父なる神様は、我々一人一人の人生の歴史の主観者であられ、
この世界の歴史の主観者であられることを、それを覚えていきたい。
聖書はこう言っています。もう一箇所ですね。一緒に書きましょうか。
ローマ人への手紙、11書36節。新約聖書、ローマ人への手紙、11書36節。
11書の最後ですね。新約聖書308ページ。よろしいですか。
では、36節をご一緒にお読みしましょう。
というのは、すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。
どうかこの神に栄光が常にありますように。アーメン。
皆さん、この御言葉ですね、とても大切な御言葉です。すべてのことがですよ。
一人一人の生まれることやその歩みが、あるいは世界の歴史がすべてはですね、神から発し、神によってなり、神に至ると言っています。
06:13
すべてのことは神様から始まって、神様によって動かされて、そして神様によって完成されると御言葉は宣言をしている。
皆さん、この御言葉をツインコを持ってこのまま受け止めさせていただきたい。
皆さん、この御言葉に対するツインコがですね、揺れ動かされば、我々のツインコが根本から揺れてしまうわけなんです。
すべては神様から始まって、神様によって導かれて、神様によって支えられて、神様によって満たされて、そして祝福され完成される。
それが私たち一人一人の人生の歴史であり、この世界の歴史の始まりと終わりなんです。
さあ、今日はイスラエルの神の出来事を共に考えていきたいと。
彼らのこの民族に至るまで、そしてその前後をですね、皆さんご存知でしょうけれども、一緒に思い起こしてみましょう。
彼らが大人分けで50万人ぐらいです。
ですから150あるいは200、300万にしたくなるか知りませんけれども、少なくとも50万人以上の人々が、
あのエジプトの奴隷のような身分から、そこから出てくることができたこと、
そしてアラノ王って今、カデシバルネアというところに集まっている。
ここまで来たこと、神様がどういうふうに導いてくださったのか、その歴史を見てみますと、
すべてはその出発もそのプロセスも今に至るまで、すべて誰が成してくださったんですか。
父なる神様がすべてを成してくださった。
皆さん、アラノ王ってアラノ王ってよく耳にするんです。どんなところなんでしょうか。
もちろんこの中で直接行かれた方もいらっしゃいますし、写真で見た方もいらっしゃるかと思いますけど、
一枚写真だけ一緒にちょっと見てみましょう。こんなところです。
これが、エジプトとイスラエルの南の国境に行く途中にあるほとんどの地域のエリアが、
だいたいあんなようなエリアがずっと続いています。しかもこの時代は、
1400年代なんです。だから今よりはるかに何にもない場所なんです。
そこをすり子からおときおりまで荷物を追って、あそこを歩いていくんですよ。
09:07
リムジンバスがあるわけではない。飛行機があるわけではない。カーナビがあるわけではない。
自転車すらないんですよ。
もしイスラエル人であって、私たちがそこを通ってくれたら、もう一日で、
もう無理、無理だ、死にそう、死にそう、諦めてしまったかもしれません。
車の中にあっても、暑くて暑くて、12月頭ごろに私が行ったところです。
あの時も暑くて、航海に入って泳いだわけですから、真夏はどれぐらいなんでしょう。
何もないところです。
食べ物も、着ることも、水も、道すらも、羅針盤すらも、何もないところです。
そこが皆さん、何もないところですが、しかし全てを持っていました。
何を持っていたかですか。神様を彼らが持っていたからです。
何もないんですけれども、全ての持ち主である、全ての主管者である神様が共にいてくれたならば、
いや、全てを持っているんですよ。何も持っていないわけではない。
彼らの上にいらっしゃって、彼らの内に住んでおられました。
皆さん、実は我々の人生において、これを信じることが最も重要だと思いませんか。
何も持っていなくても、今のコンディションが悪くても、最低最悪だとしても、病気であっても、
貧しくても、乏しくても、年をとっていても、人数が少なくても、金がなくても、
いや、大丈夫です。なぜでしょうか。
全ての持ち主である、全ての全ての主管者である神様が共にいてくれたならば、
あらのう、通り切ることができる。歩んでいくことができるわけなんですよね。
皆さん、この御言葉に対する堅い信仰をお持ちしたい。
皆さん、何にもないあらのうに、一人で、たった一人で立っていても、
そこに置かれていても大丈夫です。
全ての持ち主である、全てを神様がご自分の思うままに操る、
そして使う、動かして満たしてくださる神様がおられならば、
大丈夫だと皆さん信じるべきではないでしょうか。
その神様がイスラエルの前を歩んでおられました。
先頭に立って彼らをついてくださいました。
そして神様がですね、「私についてきなさい。私についてきなさい。そうすれば生きられますよ。」
それがメッセージなんですよね。
12:03
神様が何もないところ、先に何があるか知らないところ、一度行ったこともないところ、
その場所、神様が先頭に立って行かれるんです。
そしたら私たちはその神様の足跡を、神様が踏まれたそこを通りに踏んで、
右足、左足、一歩ずつ一歩ずつ歩んでついていくさえすれば栄える。
それが神様の先祖のメッセージなんです。
皆さん、神様の御言葉通りについていくこと、実はそれが信仰なんです。
先頭に立っている人も、いった足跡通りに歩んでいくことがどれほど命にかかわるものか、
私は軍隊の話なんですけれどもね。
この前、日本のニュースにも出ましたけれども、北朝鮮の近くの中戦線で大きな事故がありました。
私は軍隊の28ヶ月半の半分は、エリアは違いますけど、同じ中戦線で勤めていました。
いろんな訓練を受けるんですけどね。
こういう訓練も受けたりします。
あるいは、いさすも来たりするんですけれども、
中戦線の行きには、いろんな地雷が設置されているんですね。
この足首、人間用の地雷やタンク用の地雷があちこち設置されている。
また、夏になると川が流れているから、あふれて、こうしますと流れてくる。
そして、普通の暴露に地雷がかけたり、あったりします。
たまに、旧戦線と非武装地帯のところがあるんです。
その間をたまに入って視察するところがあります。
そのときに、いく順番があります。
一番先に、この強体操、あるいは一番先人の兵役が一番先頭に立って、
彼らがよく見ながら一歩一歩行きます。
そしたら、二番目、三番目、四番目、ついていく者は、
その踏んだところ、一センチも外れないように、五センチも外れないように、
そのところを強度踏んで、歩んでいかないといけない。
自分の思うままに、こうした意味ではないです。
十センチでも二十センチでも外れて踏んだら、外に地雷があるかもしれない。
それで落ちたら、それで終わりなんです。
15:01
足首が、あるいはそのままで爆発して、その事故が、ニュースには出ないんですけどね。
ニュースは年中にある。
さすがに舞台でも、夏に草刈りしているところに勝手に動いて、大きな爆発事故が起きて、
始発地に、そっちに行ってしまいます。
そこが事故が起こるんです。
なぜでしょうか。
踏んだ、そのよく知っている招待所や先人の経験のあるものが踏んだところ、
そこを通りに行けば事故が起こらないんです。
しかしですね、勝手に踏んだ、勝手に行っちゃうから、そこで事故が起こる。
そこで皆さん、入ったばかりの新兵の跡はついていかないんです。
誰も知らないから、何も知らないから、何も知らない新兵たちが、ここに来ますよ、はい、来ます。
そんなアホなものは、私一人もいません。
皆さん、先頭に立っている方についていくこと。
また、誰が自分の人生の先頭に立って、導いてくれるか、それがとても大事だと思いませんか、皆さん。
私はというか、自分の人生を自分で操ろうとしたら、まるで先に何があるのか、何も知りません。
明日を行ってみた人、誰もいません。
誰も行ってみたことのない人生を、自分が先頭に立って操ろうとする、行こうとする。
それはですね、まるで入ったばかりの新兵の跡をついていくことと同じであるかもしれません。
イスラエル民が今歩んでいるこの穴のは、一度も行ったことがない。地図もない、ダイシンマンもない。
ナビゲーションが出るんですね。100メートル先目的地です。右折してくださいとか、そういう案内放送が出てくるわけではありません。
しかし、何もなくても大丈夫。何ででしょうか。
すべてご存知の神様が先頭に立って導いてください。真っ暗でも大丈夫です。神様がおられるから。
その信ある神様、全能の神様の足跡をついていけばいいのです。
皆さん、実は信仰というものは、このようにですね、もう単純で簡単なものです。
神様が言われました。私はその通りに従っていけばいいのです。
信仰の人物はみんなそうです。
はい、書き込まれました。100年近くひたすら箱舟を作りました。
18:14
はい、書き込まれました。出て行ってました。
彼らがですね、今トーテムで政治読書を見ているんですけどね。幕屋を作るときに、みんな神様が示していたその通りにした。
明治家がその通りにしたその御言葉が、この旧約をですね、
エジプト記に来るまで何回も何十回も繰り返して記されているんです、実は皆さん。
信仰とは、神様に言われましたか?
そしたら、その通りに加減せずに文句を言わずに、不信仰の口を黙って、その通りに従っていくこと。
皆さん、ちょっと聞いていただきたいと願っていますが、
これが、子供とかよく訓練された人はいつも救急され、その人生が栄えます。しかしこれがなかなか訓練されていない。
そして、この一世代の民のようにですね、あらのえでですね、水がない、肉がない、チューリーが食べたい、ニンニクが食べたい、
何でここで私たちを済ませるつもりなんですか?あなたは一体何をしているんですか?
もうてに神様にいつも呟いて文句をして、不信仰の言葉を話している人は、
教会は今の時代であろうが、旧約の時代であろうが、これからの時代であろうが、
いつもその人生は窮屈で窮屈で、とぼしくてとぼしくて、それを乗り越えることができなくなってしまう。
しかし、皆さんが知っていらっしゃるように、ヨッチワットカレーブは違います。
同じ荒野に置かれていますよ。十二人が同じ金を偵察します。
しかし、同じ境遇に置かれていても、不信仰の人は御言葉に従っていく。
しかし、不信仰の人は、ここまで来させて死なせるつもりですか?
不信仰の者を言う。呟き文句をするはず。いなごだ。死んでしまうのだ。
その結果はどうなったんでしょうか?
その不信仰の思い、不信仰の言葉、麻痺を止めていたあの第一世代の人々は、
その不信仰のゆえに、荒野で一生苦労ばかりして、実は残念ながら、そこでみんな、
21:06
しかしヨッチワットカレーブは、同じ条件、同じコンディションに置かれていましたけれども、
信仰によって踏み出した彼らは、その地球この金の地に入れていました。
皆さん、神様は私たちを満たそうと、満たそうとしていらっしゃる。
そこに私たちに必要なのは、信仰の応答なんです。信仰による応答なんです。
神様は祝福を与えようと与えようとしておられるときに、それを邪魔にする、防いでしまうのは、我らの不信仰なんです。
不信仰の思い、不信仰の言葉、呟き、現実に縛られて、
それに伴うあらゆる決定によって、神様の祝福を与えてしまうということもあり得るかもしれません。
さて、神様がせっかくエキプトから連れ出したならば、もっと道路がある地球界のところとか、
いいところですね。通らせてくれたらよかったのに、なぜこんなに何もない荒野を通らせたのか。
そこには神様の御意図がありましたよね、皆さん。
聖書を一箇所開きましょう。
民俗の次の、新明記八挙二節。
新明記八挙二節。319ページです。
八挙、まず二節一緒に読みましょうか。
あなたの神主がこの四十年の間、荒野であなたが歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るためであった。
それから十六節と読みますね。十六節三回。
あなたの先祖たちの知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。
それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついにはあなたを幸せにするためであった。
アーメン。
皆さん、四十年間荒野を通らせました。
なぜだったでしょうか。
試みて、神の御言葉を守るかどうか、命令を守るかどうかを試みるためでした。
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その試みに合格した者は、実はヨシワとガレブ二人しかいなかったわけなんですよね。
もちろんモーセもその部類に入っているわけなんですけれども。
ただ、神様がこのイスラエル人を苦しめばかり、あるいは意地悪すためではありませんでした。
十六節に書かれているように、ついにはあなたを幸せにするためであった。
皆さん、これなんです。
神様が私たちに与えてくださうと知っておられるのは、それは私たちをついに幸せにするため、福をするためなんです。
この人生の先を知っている人は誰一人もいません。
明日を知っている人は誰一人もいません。
ですから皆さん、私たちは毎日毎日アダムを通っているのと同じです。
明日何が起こるか誰も知りません。
予測はできるかもしれませんけれども、誰も知れないわけです。
だから私たちに必要なのは、神とに立って行かれる神様だけに信頼して、神様だけにより頼んで、ついて行けばいいです。
そして神様が、行きなさいと言ったら行く。出なさいと言ったら出る。そこにとどまりなさいと言うと、とどまる。
禁句は単純です。禁句はシンプルです。複雑ではありません。
先週、ひとくじた知り合いのお母さんと同じですけれども、兵庫県立リュウチェンセンターで水族館で治療のために来ました。
ほぼ1ヶ月入院して治療を受けました。水族館の末期近かったですから。
いろいろその家族が情報を調べて、手術をせずに癒やされるんじゃないかなという期待を持って、わざわざ医療保険もつかない子学校の治療を受けに来ました。
たぶん、受け入れたわたしの家族もそうでしたし、その家族もそう思ったでしょう。他の合併症とかそういうものは起こらないんじゃないか。
そこで、ここで治療だけ順調に受けて、順調に帰れるでしょうと思ったと思うんですね。
しかし治療中に産児が詰まったり、終わる頃には脳梗塞が起きてしまって、他の病院にですね、三ヶ所の病院に移ったりして大変でした。
27:13
わたしは病院に行っていなくてですね、妻と今日例外にいらっしゃった卓先生が本当に大変苦労して世話してくださったんですね。
また法廷や人会においで、またみなさんと共にですね、鳥無しで祈って、何とか帰れるようになって帰国できましたけれども、
先に何が起こるか誰も知っていない。その留心線の治療を受ければそれでだいぶ治って帰れるんじゃないか、みんな期待しました、祈りました。
ところが本当に残念ながら、他の病気が起きてしまってですね、大変でした。
いわば想定外のものが、いつどこで起こるかわからない。
それから私たちがより頼むべき方は、実は神様お祈りしかないんです。
究極的に私たちがより頼むべき方は、医者でもない、いや牧師でもない、あるいは家族でもない、この国でもない、神様お祈りしかないんです。
みなさん、われわれの人生はあだものような、何にもないところです。
ここで私たちがより頼むべき方は、神様お祈りしかないんです。
みなさんは何により頼んでいますか?
みなさんの唯一のより頼みは何でしょうか?
真剣に神様にお答えしたい。
第一も神様、第二も神様、第三も、第四も、第五も、神様、あなた他にありませんとお答えできる私たちでありたい。
ですからみなさん、いつも神様に先頭に立って導いていただきましょう。
そして私たちが神様より先走ってはいけません。
一瞬一瞬、神様により頼み、神様にお尋ねしてお尋ねして歩んでいかなければならない。
神様、右に行きましょうか?左に行きましょうか?私はこれをしましょうか?
神様、私はこう言っていいでしょうか?
神様、このお金は何のために使いましょうか?
神様、この病気はあなたのどういう意味なんでしょうか?
今のときに我々の教会は何をすべきなんでしょうか?
30:03
常に神様に祈って、祈って、祈って、そして神様の足跡をその通りに歩んでいくときに、
ついに主が私たちを幸せにしてくださる。
祝福してくださるじゃないでしょうか。
どうか皆さん、神様より先走っていくことがありませんよ。
神様に先頭に立っていただきましょう。
神様に先頭に立って導いていただきましょう。
そしてその足跡通りに歩んでいく人生が栄える幸せ、
そして本当に奇跡のような働きを私たちが見ることができ、経験することができるんです。
どうか皆さん、この幸せ、祝福の原理をはっきりと覚えて、
皆さんのものに捨てられて、そして実践していただきましょう。
第二は、主なる神様は溢れるほど満たしてくださる方です。
主なる神様は溢れるほど満たしてくださる方です。
皆さん、この言葉を信じますか?
神様の世界は溢れるほど溢れるほど余る世界です。
満たされて満たされて溢れるほど、それが信仰の世界であり、神の世界なんです。
5つのパンと2匹の鵜のようにみんな満腹して、もう食べきれない。
それでも余る、それが神の世界。
ぶどう汁がなくなりました、それが満たされ、みんなが飲んでも余る世界。
それが神の世界なんです。
皆さん、信仰の世界は、神の世界は、ともひん世界ではありません。
窮屈な世界ではありません。
過労死で過労死で、ああ、やっとできた、そんな世界ではありません。
勝ち得て余りある世界が、世界が、
アルミ棒陣がいました。息子一人暮らして、二人暮らしてしまいました。
ものすごく貧しい家庭でした。
彼女たちにはあるものは、たった200グラムの小麦と、一コップのサラダ油しかありませんでした。
神様が誓わされた人に出会いました。
そして、その神の人にもてなしをしなくならなかった。
そしてその無謀人の、その婦人の方は、
もう、この小麦とサラダ油でパンを作って食べて死のうと思っています。
33:00
しかし、神の人に仕えることにしました。
その小麦粉、一握りです。サラダ油でパンを作って、神の人にもてなしをしました。仕えました。
そしたら、自分の食べるものが何も残っていないんですね。
しかし、不思議なことが起こりました。
ないはずの小麦粉が、いっしょあふれていました。
ないはずのサラダ油が、いっしょあふれていました。
これは、九百世紀に書かれている、あのエリアと山辺のお話なんですよね。
皆さん、ご存知なんですかね。
しんこの世界は、このようにあふれて、あふれて、あふれる世界です。
皆さんどうですか。
皆さんの神様を信じてから、皆さんのしんこの世界じゃなくて、
実際の皆さんの暮らしは、いつも何かが足りなくて、いつも何かが枯れていて、
何をしてもいつも乏しくて、乏しくて、
やっとやっと、かろうじて、かろうじて、ことから落ちてきた人生でしょうか。
あるいは、何をしても、世界で何をしても、身を結んで豊かであふれるほど、
かつて受け余りあるしんこの人生でしたか。
さっきのまま考えていただきたいと願っております。
皆さん、私たちが同じ神様を信じていても、同じ境遇に置かれていても、
いつもあふれていて、いつも余って、うるおされて、
満たされて、しんこの道を歩んでいる生徒、クリチャンがある反面、
同じ、ぴったし同じ境遇に置かれていても、
いつも何かが足りなくて、乏しくて、窮屈で、窮屈で、
この口先で、いつも何がない、これがない、これがない、何もない、
そういう言葉ばっかりしているクリチャンがあるんです。
皆さんはどっちのタイプでしょう。
その被害がなぜあるのでしょうか、皆さん。
それは、簡単です。
満たしてくださる神様を経験していない、
頭では神様を信じているだけでも、
実際に生きている神様が、私の人生に満たして満たしてくださる、
神の恵みを、実は知らしていない。
皆さん、先ほどお見せした荒物は、何もないところです。
あるものは、青い空と、土だらけの灰色の岩しかないんですね。
いつか神様が許してくれたならば、
領団に許可入れ、青い空へ生きたいなと、祈っているんですけどね。
36:05
皆さんが特設に行かれたら、なるほどと思われると思うんですけどね。
皆さん、その荒物で、神様は毎日ですよ。
40年間ですよ。
50万人でも人々にですよ。
余るほど、ままやうすらや肉を見させてください。
毎日が奇跡でした。
毎日が満たされる神の、その祈福をですね、味わっていただく日々でした。
皆さん、よく聞いていただきたいです。
自分が、私たちが荒物にいるかどうかは、決して重要ではありません。
荒物にいても、あふれるほぼもパラダイスにいるように生きる信者がある反面、
同じ荒物にいるが、本当に荒物でいるようにともに人生を生きる信者があります。
あるいは、パラダイスにいるのにもかかわらず、荒物にいる人のように暮らすクリスチャンがあります。
あるいは、自分が病気であろうが、健気であろうが、それは重要ではありません。
病気にかかっていても、健康な人よりもっと力強く神を礼拝し、支える人がいる反面、
病気にかかっていなくても、病気にかかっている人のように生きるクリスチャンがある。
いや、病気があってもですね、あって、そしてその本当に患者のようにやっとやっと生きるクリスチャンがあるわけです。
持っているものが少なくても、しび神様の奇跡を満たしよう、経験していくクリスチャンがある反面、
持っているものが豊かでもですね、いつもですね、乏しく生きるクリスチャンが多く、もっとリアルにちょっと申し上げますか、
同じ年金をもらって暮らしていても、私の杯は溢れていますというふうに謳いながら信仰生活して恵まれているクリスチャンがある反面、
そこそこの年金をですね、同じような年金をもらっていても、いつも足りない、いつも足りない、いつも乏しく乏しく乏しく窮屈なクリスチャンがいるわけです。
神様の満たしよう、実は経験していない。自分にとって神様が生きていない。皆さん、コンディションや状況はあまり重要ではありません。
そこで荒物に砂漠に置かれていても落とされても、ここで私が生きる神様を日々経験して見ているのかどうか、それが重要なんです。
39:09
私の家庭が日本に使わされて5年になりました。
みょうだに教会には日本一の中で、うちのみょうだにと東京教会のヤング先生のこの2人の教会は、他の先生方の教会とまたちょっと状況が違うんですよね。僕たちが選挙してある。
そして皆さんにも喜んで支えていただいているわけなんですけれども、東京のヤング先生もそうですし、私もですね、うちの家族も、韓国の様々な神父や教会から支えていただいているわけなんですよね。
ところがこの5年のうちに、一度も神様が運営させたことは一度もありませんでした。
いつも神様が満たしてくださいました。あるときは全然知らない人から金金が入ってきたり、全然知らないところから不思議にも主が満たしてくださる。
そういう日々を毎日毎日毎月毎月ここまでですね、まるで毎日がですね、毎月が神様の奇跡を体験していた連続でした。
福岡にいるときのお話なんです。今も車が持っていましたけれども、私も車を使っているし、ハンナも車を使っているからですね、中古でも軽車一台を買おうかなと。
でもお金はないし、いろいろですね、安くていいものはないんでしょうけれども、そんなものがあるのか調べていました。
よくお世話になっている夫婦がいるんですけどね、その方が福岡から離れどきまでお使いくださいと。
古い軽車でしたけれども、でも半年以上ずっと朝昼ですね、子供が来よう、一日4時間ぐらいなんですけどね、その修学をさせました。
感謝、幸いにですね、もう最後の最後に祇神山に乗ってですね、羽田鉄道に行く途中でですね、エンジンでですね、うわーと煙が出てですね、それであの車はもう終わりでしたけれども、もう肌でその車を乗らせていただきました。
そしてですね、その時にその方がですね、もう先生を持ち帰りませんとしたら、もう一回買ってさせがいますので、それを持って神戸に行きますか、で実際に見に行きました。
それで持っていくにはいろいろ大変ですから、いろいろですね、もういいですとお断りしましたけれども、あの夫婦がですね、いやいやもう先生、これはさせがたいからと言われてですね、結局ケンキのようにお預かりしました。
42:12
神戸に来たら、なんと車が用意されていました。もう買う必要がないんだね。それでも多分妻がまるまる神様にケンキにさせるかと思うんですけどね。神様が見させてくださる世界がある。
またこういうこともありました。教会がですね、月々ケンキに来てくださるんですけれども、いろいろ事情があるわけですから、
他にですね、ケンキにできません、ストップされる場合もよくあります。でも心配いりません。選挙師で送ってくださるのも神様ですし、見させてくださるのも神様です。
もし、母国から選挙研修院が止まる、ストップしたら、そしたらもう神の働きがそれで終わるかもしれません。しかしですね、ここでストップしたら神様はここを通らせて、またそこから見させてくださる。
こっちが終わったら、また神様が新しいところ、神様が対策してくださるんですね。そして送ってくださる。不思議なことが起こるでしょ。不思議なことが起こる。
皆さん、これは選挙師に、牧師にだけ起こることでしょうか。そんなことはないんです。神様が我々の人生を満たしてくださる。そしてお金の物質の奴隷にならない。
死のために溢れ流す人生であれば、死が満たして満たしてくださるんですね。皆さん、溜めて溜まって溜めてばかりいる人は、もうあなたそれで十分でしょう。神様が満たしてくださらない。
しかし満たされて溢れ流す人には、神様がさらにさらに満たしてくださって、自分も満たされて、周りも潤される人生になるんです。
皆さんはどんな人生になりたいんでしょうか。満たされて周りを潤したいんですね。明太に教会が満たされて周りを潤したいんですね。この日本中の教会を潤したい。満たして捧げたい。
そういう願いが私たちにあるんじゃないでしょうか。神様は、これは自分の物だから握り継げている物には、それで終わり。それ以上神様は満たしてくださらない。
しかし、それを自分もお預かりしている金にすぎないですから、それを預かって、それを溢れ流す、満たして差し上げる人には、神様がさらに素晴らしい祝福を満たしてください。
45:08
最近、妻がハマって聞いているある姉妹の証なんですけれども、たくさんの証があります。本当に真実な栗さんの姉妹のお証なんですけれども、
2つのぐらいのメガネ屋さんをしている。そして、ある選挙団体でフルタイムで主事のように働いているこの姉妹のお話です。
1日往復で2時間ぐらいの通勤をしています。バスで乗って、通勤するのは時間ももったいない。大変ですから、神様、車が欲しいです。
この姉妹をよく祈るんですね。お金ができた神様これを何のために使いましょうか。祈るんですね。
この時にも祈ります。神様から2億円で言いますと、5万円貯めて、毎月貯めて、それで軽車を買いなさい。
この通りに毎月5万円貯めます。10ヶ月貯めて50万円ぐらいで、例えば鈴木の聖車を行きたい、ワクワクしていました。
ところが、この時に神様からメッセージが伝えられます。あなたの入っている選挙団体の委員さんにそれを献金しなさい。
それを献金しようではないか。神様から言われます。あれ?彼女は行動します。
その選挙団体にあるあの姉妹という人は、自分の旦那さんが本当にうまくいて、よく給料をもらって、すごいビジネスをしている時に、
その自分の旦那さんをその姉妹が説得して、その仕事を辞めさせて、選挙団体に献金させた。だからまるで敵のように憎んでいた。
委員さんに神様、これをお届けするんですか。でも彼女は神様に祈りました。
自分の思いではないだろう。自分の思いだったら、あの嫌な人に助けようという思いはしない。そこの声でもない。
これは神様の見越えとしか思えない。そして50万円ですよ。10ヶ月貯めた50万円を、あの選挙団体の姉さんに振り込みました。
そしてもうしょんぼり押し込んでいました。そしたら、なんとすごい金持ちの友達から電話があって、食事でもしようかと誘われて、
すぶすぶしながら会いに行ったそうです。そしていろいろ話し合っているうちに、なんといろいろプロセスは今日だとして、
48:04
そのお友達から車の鍵を渡ったそうです。最初、実はトヨタのレクサスの鍵があったそうです。しかしそれはガソリンないや、いろいろそれぞれ置くことがある。
そしたら、もう一台車を持って、日本風に言えばクラウンがありました。そしてそのクラウンの鍵だけではありません。車もその友達からもらいました。
そしてそれを十年乗った仕事でした。皆さん、神様からいただいたもの、いや恥ずかったもの、あふれ流すものには主が、想定外の神様の人や周りを主が動かして、操って、そして満たしてください。
皆さん、これが信仰の司会なんです。皆さんは満たされてあふれ流す、そういうクリスチャーの人生を歩みたいんですよね。
日本にはそのような教会でありたいと、そう願っておるわけなんです。
明日から来るイエス文化教会の新居寺もそうなんです。私も行きましたけれども、ビールの一択を借りて、うちよりはちょっと広いかな、これぐらいなんです。開拓したばかりの教会です。
若者が多いから、教会の経済も大変厳しかったと思います。しかしそのキム先生が声援になっており、わいわいと祈って、ある人はバイトして、ある人は自分の土地を卸して、
本当に神のために使える。そしてみんな17人がやってくるんですね。神様が満たしてください。
教会は、特に全道や世界選挙に励む教会を豊かに満たしてください。
神様から受けた祝福を流すからです。だから私たちの教会も今年から選挙献金を始めているんですが、今日もその献金礼なんですが、神様は喜んでおられます。
そして一人だけではなく、2人、5人、10人、あるいは皆さんお一人で我が家で選挙票をサポートさせてください。そういう人が起こってほしい。
起こってほしい。そういう教会でありたい。そしてやがてこのミョウダニー教会が日本中に、あるいは世界に選挙票を派遣する、そういう教会でありたい。
そして福音をあふれ流す、この経済をあふれ流す、愛を、恵みをあふれ流す教会でありたいとメッセージをあげましょう。
51:05
好きなる神様は、私たちの前を歩んでおられる。好きなる神様は、あふれるほど満たしてくださる方です。
最後に一括だけ一緒に読みして終わりたいと思います。
第二歴代史、十六書、九節、七百五十六ページ。
第二歴代史、十六書、九節。
ですね、信仰をもって一緒に読みたいと思います。前半だけでいいです。
三、主はその御名をもって天めく全地を見渡し、その心が御自分と全く一つになっている人々に、自力をあらわしてくださるのです。
アーメン。この御言葉は、水曜記とかの生徒学びに神様から語られた御言葉でした。
そうなんです皆さん。神様の御名をずっと探して求めておられる。誰を探して求めておられるのでしょうか。
低くしたい、低くしたい、満たしたい、満たしたいと探しておられる誰を神様の心と一致している人が見つかったらですね、その人に、その教会に、その人が溢れるほど奇跡を起こして満たしてくださる。
こういう理性を合わせていただきましょう。お祈りします。
52:50

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