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2013-10-06 40:09

2013/10/06:聖日礼拝(旧音源)

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2013/10/06 聖日礼拝(旧音源)




00:03
アーメン、賛美を感謝致します。
それでは、今日も御言葉をいただく前に、周りの方々と合掌しながら、挨拶のときをお持ちたいと思います。
はい、よくいらっしゃいました。おはようございます。
おはようございます。
それでは、一言お祈り致します。
愛する父の神様、皆が目、賛美致します。
聖日礼拝は、名谷教会設立20周年記念礼拝を、愛する教徒たちまで共に、
死の御前に神様の礼拝を捧げることができましたことを、心からおごや感謝致します。
この20年間の恵みを踏まえて、またこれからも、さらに、死と共に歩む信仰生活、
また、救いの事実のために励んでいく、我らの群れでありますように、
神様、覚えて豊かに祝ってくださいますように、お願い致します。
今から御言葉に聞きます。
神様どうぞ、今日の命の糧を一人一人に、
主が教え、示して、そして悟りを与え、教訓を与え、
行くべき道を、主が教えて下さいますように、お願い致します。
見て、にざねて、感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
今日は、使徒信条のメッセージも、もう10回目ですね。
私が信じるのは、我は、生徒の交わりを信ず、ということで、
生徒の交わり、それがいかに信仰生活において、どれほど大事なのか、
それを御言葉から教えて下さいと願っております。
キリスト教の大きな大きな恵みの、その中の一つは、
この兄弟姉妹たちが、共に交わりを持つことにあると信じます。
03:00
だから、この大事な信条なんですね。
私たちが何を信じるかという、この使徒信条の中にですね、
生徒の交わりを信ずという、それが入っているわけですから、
それほど重要なことであるということです。
単なる、この交わりではなく、キリストになっての交わりということなんですね。
まずですね、この生徒の交わりという日本語がありますけれども、
それをちょっと調べてみたらですね、言語はコイノニアハギオンと言いますが、
それは日本語の訳その通りですね。
聖なるコイノニア、聖なる交わり、すなわち生徒の交わりと言います。
その中にはこういう意味が含まれていますが、
温かく互いに思いやり、助け合い、支え合う共同体、それを交わり、あるいは生徒の交わりと言います。
ここにですね、私は一つの要素を入れたいなと思いますが、
温かく互いに思いやり、助け合い、支え合い、食事を共にする共同体と言いたいですね。
この生徒の交わりという意味は、イエス様を信じる私たちがキリストにあって一つになる、
いや一つであるその意味です。
一緒にあって我々は一つだ、ということを信仰、告白として告白しているわけですね。
今日の御言葉、三節をもう一度御意見にお読みしたいと思います。
三節です。
私たちの見たこと、聞いたことをあなた方にも伝えるのは、あなた方もイエスとの交わりです。
ここにですね、私たちの交わりがどんなものなのか。
単なるですね、一般社会の社交的な信仰会ではないんですね。
何が違うのか、今日の三節にも明確に書かれているように、
06:04
私たちの交わりは、
御父と御父及び御子イエスキリストとの交わりですから、
これが生徒の交わりという意味です。
すなわち、もう少し具体的に話しますと、
主なる神様、御子なるイエス様、そして御様の聖霊様を、そして三味一体の神様と言いますね。
三味の神様。
その三味一体の神様は、その交わりは完璧な交わりで、聖なる交わり。
何一つ果たしたものがない、完璧、完全な交わりがあるわけです。
永遠の前から永遠までにその交わりがある。
その三味一体の聖なる完璧な素晴らしい交わりの中に、
あなたも私も入れていただいて、
父と御子と御様とその中で共に交わりを持っている。
それが生徒の交わりという意味です。
ですから皆さん、私たちがこうして一緒に礼拝をしたり、
投開をしたり、何か祝辞をしたり、話し合いをしたり、奉仕をしたり、
その時には私たち目に見える誰か、たれやさん、ばれやさん、ぼくしとかだれやさんだけあるのではなく、
その集いには三味一体の神様が共におられることをいつも覚えていただきたいんですね。
それが生徒の交わりということです。
このヨハネの手紙は当然、使徒ヨハネが書き記したわけですけれども、
ヨハネ使徒は特に種にある交わり、切磋にあって種にあってという言葉が好きなんですね。
だからこのヨハネの手紙にもヨハネの福音書にも切磋にあって種にあってという表現が、
他の福音書よりもっと多く記されているんですが、その中の一箇所だけを一緒に見てみたいと思います。
ヨハネの福音書、十七章、二十一節です。
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新学生書、二百十六ページです。
では二十一節を一緒にお読みしたいと思います。
三杯。
それは父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。
また彼らも私たちにおるようになるためです。
そのことによって私を使わされたことを、与我信じるためです。
ここにですね、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。
これが聖との交わり、三味一体神様との交わりを指します。
ですから皆さん、もう想像の前から、父なら神様、巫女イエス様、三魂精霊様、完璧な、ピュアな、素晴らしい交わりをもって、
その中には衝突もない、揉め事もない、気持ち悪くさせることもない、完璧な交わりがありまして、
そしてその中で私たちも入れていただいて、その人と共に交わりを持つ、この素晴らしい交わり、
それを今ここで私たちが聖とが交わりを持つこと、これが我らの信仰だ、それが聖と神との告白なのです。
ですから皆さん、この聖との交わりを信ずという告白の第一の意味は、今申し上げたように、イエス・キリストを信じる私たちが三味一体の神様の中にいて、
そしてその交わりに、三味一体の交わりですよ。その交わりの、わかりやすくパーツとしましょう、テスジバル、祭りとしましょう。
その交わりの中にマネージェントがいたり、その交わりに入ることができないんですよね。
例えば、VIPの何かパーティーとか宴会とかには、誰にでも入ることができないんですよね。
その教材像とか教材を持った人たちが、そのパーティーに入ることができるわけなんですよ。
12:03
まさに私たちは、三味一体の神様の交わりの中に、招待状をいただきました。
それは信仰なんですね。救いなんです。入れていただいて、その中で素晴らしい交わりを持っているということです。
これからは持っていきますというのではなくて、もう既に持っている、交わりの中に入っている、この交わりは皆さん、とても嬉しくて、楽しくて、素晴らしい交わりなんです。
まるで、しかしその場所と海辺でバーベキューをしているような、楽しいパーティー、これが神様との交わりなんです。
もちろん時にはおこそかな恋愛を持つことも交わりなんです。
しかしずっとそれだけでなければならない、そういった決まりはどこにもない。
生徒の交わりは、住み合って喜び楽しむ交わり、これが生徒の交わりなんです。
ですから、その交わりは、生徒の交わりは、皆さん、世の人々の何か同窓会とか親睦会とか、それと次元が違います。
先日、マイコビラホテルで初めて行ってみたんですけれども、兵庫教区の墓地会がありました。
ある先生がよく交渉して、とても安く一泊二宿がいたんですけれども、
初めの日に一つのホールを借りて、そこで会議を持ったり、祈ったり、礼拝したり、交わりを持っていたんですね。
夜の時までずっと続いていたんですけれども、6時か7時から、隣のホールで何か同窓会があったらしい。
しばらくいたら、何の声が聞こえたかと言いますと、歌声が、カラオケの歌声が、もう結構大きく聞こえてきたんですね。
会議ができないくらい、そんなに大きくはなかったんですけれども、よく聞こえてきたり、かなりお酒を飲んで歌っているなと、
そういうことを感じることができたんですね。
世の中の神木会とか、何か郷内の祭りとか、あるいは道祖会とかに行ったら、だいたい必ずお酒があるんですよね。
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ビールとお酒か、何とかお酒があったり、あるいはもっと男性は女遊びをしたり、今の時代は女性が男遊びをする時代になっているんですけれども。
皆さん、生徒の交わりは、世の神木とはもう次元が違う。
聖なる三位一体の神様と共に交わる。
完璧で完全で素晴らしく過ぎる、もう喜び楽しむ交わりが、私たち生徒の交わりなんです。
教会はそのような交わりの場所なんです。
皆さん、毎週恋愛に来られていますけれども、わくわくして、誰だかのように会いたくて、会いたくて、たまらなくて、教会に来ていらっしゃいました。
この中の交わりが、お互いに本当に本音を言って、泣く者と共に泣く、喜ぶ者と共に喜ぶ、
本当の意味で助け合う、本当の意味で支え合う、天国での交わりのようなことを、今ここで私たちが味わいたいんです。
それが皆さん、生徒の交わりということです。
ですから、この礼拝がお交わりであり、賛美がお交わりであり、祈りが奉仕がお交わりで、
これが皆さん、賛美一体の神様にあって、主にあって、お互いに喜び、楽しみを、喜び、味わう、生徒の交わりを持っていきたいと願っています。
2番目に申しますと、賛美一体の神様と交わりを持つことと共に、また私たち兄弟姉妹と言いますね、兄弟姉妹たちがお互いに交わりを持つことです。
ある本でですね、この生徒の交わりをこのように説明していました。
ちょっと読みたいと思います。
家様が教会に与えようとしている交わりを、この世界で例えることができるものがあるとしたら、町角の酒場かもしれない。
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酒の代わりに二玉があって、そこでは上下関係はなく、みんな自分のありのままの姿が受け入れられ、誰もそれに驚くことはない。
そこには完璧な人間は一人もいない。でもそれぞれの悩みに耳を傾け、真剣に相談にぬる、涙を流す、大笑いもする。
秘密を話してもそれを守ってくれる、いたわってくれる、同情してくれる、理解してくれる。
家様が願っている教会の交わりはこのようなことではないだろうか、という生徒の交わりをこのように説明しているんですけど、私読んで、なるほどと思ったんですね。
皆さん、初代教会にはみんな完璧な人ばかりではなかったんですよ。穴にはさっぴらのような人もいましたし、誰々さんの食べないところもいわゆる人もたくさんいました。
きれいなことばかりではなかったんですね。人間ごとにあふれていました。しかし人間ごとにあふれていながら、いかにって互いに愛し合い、分かち合い、大切にし合い、
共に喜び、共に感謝し、共に悩み、共に涙する。それが生徒の交わり。それをどうやって育てていくか、それが教会の交わりの様子を決めると思うんですね。これこそ生徒の交わりの本来の姿ではないでしょうか。
このような生徒の交わりのためには、私たちにいくつかの必要なことがあるかと思いますが、その中の一つだけ申しますと、自分を託さないことだと思います。
逆に言いますと、言い表すことだと言います。まずは、主の御前に自分を言い表すことです。託さないこと。ありのままを言い表す。
自分の弱さ、あるいは自分の失敗、あるいは自分の情け深さ、あるいは自分の罪を託さないで、そのまま言い表すこと。そこから生徒の交わりが始まります。
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もう一つは、兄弟姉妹立ちの間で本音を言い表すことができる雰囲気の教会。隠し行事な関係ではなく、言い表し行事な教会です。
私、日本に来て、当枠と言いましょうか、そういう感じたことの一つは、なかなか自分の感情を表さない雰囲気があるかなと感じたことがあります。
そういう文化があるわけなんですね。感情を抑えつけて、人には絶対に言わない。弱い自分の姿を見せない。悲しいことがあっても表さない。嬉しいことがあってもあまりにも嬉しい顔をしない。
しかし皆さん、私は天国の市民として、天国の市民らしい生き方を持っていただきたい。
僕には兄弟姉妹立ちと、信頼できる方と自分のこのつらい気持ちを、悩みを分かち合う。それが生徒の交わりでしょう。悲しい気持ちを、あの大事な大事な課題を、誰にも言えないことを祈ってもらう。
このような交わりの境界であり、互いに抱きしめ合って祈り合う。その壁のない交わり、それが生徒の交わりなんです。
もしですね、私たちが中途半端な交わりを持っていて、それを禁じますとしたら、何と見素晴らしい深刻アップなんでしょうか。
生徒の交わりというものは、何の壁もなく、何の隠し事もなく、本当に三味一体の完璧な交わりを、私たちがここでお互いに持てる。それが生徒の交わりなんですね。それを目指して見習っていきたいと。
24:01
その中でですね、福井省を、今、早期に福井省が終わって、使徒行電が終わって、老末に入りましたけれども、家様の、しごろの家様の生活を福井省からまた使徒の働きまで、よく調べて考えてみて、
一つ興味深いところがあったんですね。家様は皆さん、いつも祈りばかり、伝道ばかりされたわけではないんですね。福井省を見たら、何とよく食事を持っている。
この、食卓につかれた、という御言葉が、結構多く出てくるんですね。例えば、マサイをですね、彼と初めて出会って、彼を弟子にした時に、マサイと、マサイの仲間も主治医人たちと、多くの人たちと、食事の交わりを持っていて、食事をしたんですね。
また、ザーカイがイエス様に出会った時に、彼がまたイエス様をですね、自分のお家に招いてですね、そこでまた、食事の特許を持っています。
また、ミーティングに行きますと、マリア、マルタのところでですね、マリアはイエス様の御言葉を聞いていたんですけど、マルタは料理の準備が大変みたいですね。一品、二品じゃなかったみたいですよ。多くの数を料理をしたから忙しく。
だからマリアに外に助けてくれとお願いしたわけですね。そのところにイエス様は終わりました。また、初めてのイエス様の印は、カナの婚礼の宴会だった。パーティに行かれていたんですね。
また、人の働きを皆さんよくご存知ですけれども、共にパンを炊き、共に食事をする、この交わりがありました。これを教会ではですね、愛さんといい言葉を使って言いますけれども、愛さんであろうが、食事会であろうが、何かのところであろうが、イエス様も皆さん、よくよく食事を楽しまれたんです。
イエス様はですね、いつもですね、おごそかでですね、祈り、見言葉、伝道、祈り、見言葉、伝道ばかりされたわけじゃありません。
よく自分の弟子たちと初めて信じた彼らとですね、共に食事をしたり、大笑いをしたり、もうその当時は武道酒が飲み物ですね、お茶みたいな飲み物でしたから、それを飲んでですね、もう冗談も言われたでしょう。いろんな話もされたでしょう。
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この交わりを持っておられました。福音書をよく皆さん見てください。
お酒を飲みながら、話し合いながら、そこで交わりを持てるように、喜びを持てるように作られたんです。だからそれを喜び楽しむことも神様の願いなんです。それがキリスト教の喜びであり、恵みであり、楽しみなんです。
私が覚えていることの一つはですね、草にいるときの話ですけれども、今言語牧師の京生先生は、福牧師たちによくいろいろ指導をしてくださるんですね。
その中のいろんな人がいますけれども、その中の一つは、自分の部長であろうが何か関係あって、選挙地であろうが牧師であろうが、外から自分が知っている人であろうが知らない人であろうが、教会にお尋ねになった方には必ずいいものを持っておもてなきゃいけません。
そのときには、まるで京生先生が私がおもてなしをするように、よくお客さんをおもてなしをしなさいという、それを教会の指示自体によく応じさせまして。
自分が日本語部をしていたときにも、あのときにも多分斎藤先生もお見えになったこともおありでしたけれども、日本から先生方や新都さんがお見えになったときには、部署はこのぐらいの人数でしたから予算はそんなに多くはないんですね。
でももう精一杯で、あるときには自分の財布でおもてなしをしてしまって、ときには判断から怒りあたることもありましたけれども、でも本当に心からいいものをともにしろ。
そうすると、なんと人は口が開かれると心も開かれるんですね。そしてその中でまてわりがもて、そして祈りあって、そして本当に愛が燃やされるその素晴らしい恵みのときを4年半ぐらいずっと持ち続けてきたことはありますけれども、
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そのところをともに職をしながら、そのところがただ食べるための交わりではなく、食事が一つの手段になって、そこで現役的なお交わりができることをしていきたいと思っております。
私も小さいときの経験ですけれども、母が父が4年前亡くなったんですけど、小さい食堂をやっていたんですね。中華料理屋さんですけれども、そのとき父はクリスタルではなかったんですが、
母は年に2,3回、多いときは4回とか3回とか4回、必ず教会の先生方とか、また自分が好きな神父さんを招いて、私も似たこともないような料理を作って、
いつも教会に反対する父も、あのときはよく喜んで料理を作ってくれるんですね。料理を作って、その前にもちろん礼拝もしますけれども、
それで先生とか、また教会でいろいろ報酬をしてくれる方々を招いて、よくおもてなしをする様子を私たちは小さいときからずっとずっと見て育ってきたわけなんですね。
それで、私は良い習慣だと思いますけれども、今も持っておりまして、なるべくうちの教会に来られた先生方には良い交わりを持てるようにして、
そして先生もですね、小池先生とどこの食堂で優色を持てればいいのか、比べてみたらなかなかなくって、ちょうど神戸空港の4階に良い食堂があります。
そこで食事を交えながら、そこで本当に恵みのとき、あの食材何倍の恵みがあったと私は思うんですけれども。
皆さん、このように教会の中でお互いに愛し合う交わりを教えて、私のために泣いてくれる兄弟姉妹たちがいる。また、私も誰のために共に泣くことができる教会でありたい。
そしてお互いに強められ、お互いに支えられる教会でありたい。これが生徒の交わりではないでしょうか。
もう一つ、この生徒の交わりにおいて大事なことは、生産なんですね。
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今日生産祭が行われますが、生産についてこのように、皆さんご存知だと思いますが、このように説明できると思います。
主の身体と父親に預かるとき、私たちはキリストのうちにあり、キリストも私たちのうちにおられて、キリストと一つにされて、主の聖なる命に預かります。
それに私たちは共に生産に預かる兄弟姉妹たちとも一つにされて、キリストが私たちを愛されたように互いに愛し合い、心を尽くして主に支えつつ、約束の祭りの待ち望むものとされること。
これが生産の恵みなんですね。
キリストと一つにされる、そして同じパンと同じぶどう汁をお受けする私たちが、またみんながキリストにあって一つにされること。
これが生産の素晴らしい恵みではないでしょうか。
これこそ、生徒の交わり、恋の庭というものなんですよね。
今日、生産式が持たれますが、私を救い、永遠の命をお与えになった。
私を救うために身体を鍛えた、主の身体、十字架で流された主子を記念する生産式に私たちが預かる時にですね、
イエスキリストとの交わりを覚えましょう。
そして生徒の交わりを覚えましょう。
それが同時に行われることを覚えていただきたい。
皆さん、教会での生徒の交わりというものは、
私たちがいつか入れていただく天国での、そのすべての生徒たちと、
そこにはペテロさんも、アフレアムさんも、イシャトさんも、皆さんのお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんもおられるでしょう。
その方と共に持つその同じ場所。
今ここで私たちが味わいたいです。
聖見たいです。
それが教会の本来の姿ではないでしょうか。
36:05
どうか皆さん、日々の恋愛、また聖祭、あるいは何かの食事会、あるいは祈祷会、あるいは奉仕、
そのところを通して、キリストになって、生徒、兄弟姉妹が一つになる。
そして天国でのあの素晴らしい交わりを、今ここで味わって、そして持っていきたいと願っております。
お祈りします。
今日も御言葉を覚えて、一緒にお祈りしたいと思います。
私たちのこの明太に教会が兄弟姉妹がキリストにあって一つ。
そしてお互いが本当に天国での交わりのように、
共に心を尽くして仕え合う、支え合う、助け合う、祈り合う、分かち合う、そのような教会、生徒の交わりとしてくださいとですね、
そのことを覚えて祈っていきたいと思います。
では、御一緒にお祈りいたしましょう。
ハレルヤシタ神様、あなたの恵みを心から感謝いたします。
今日の恵みを、あなたの恵みを心から感謝いたします。
どうぞ、我々一人一人を覚えて、あなたの恵みによって、恵みとして、主が主が導いて、導いて下さいますようにお願いをいたします。
我々一人一人が本当に住み合って一つになり、またキリストに会って一つになる。
そこで本当に天国の交わりが、ここで持たれる。
そして本当に心を尽くしてお仕えし合う。
そしてまた、祈り合う、助け合う、支え合う教会でありますように、
そこで喜びが、恵みが、本当に楽しみが、喜びが満ちあうれる教会でありますように、
神様どうぞ、我々の胸を、あなたの愛をもって包み込んで下さいますようにお願いをいたします。
どうぞ、私たち一人一人が、我々を一択しよう、本当に一択しよう、
降り下された人一人もなく、共に、一緒共に歩む我々として下さい。
御言葉を感謝します。どうぞ、神様。
では一言、お祈りいたします。
私たちの見たこと、聞いたことを、あなた方にも伝えるのは、
あなた方も私たちと交わりを持つようになるためです。
私たちの交わりとは、御父及び御子イエスキリストとの交わりです。
愛する神様、私たちを、死んでいた私たちを、
39:00
主が救ってくださって、御子及び御子イエスキリストの交わりを持つことができるように
救ってくださった恵みを感謝いたします。
三味一体の神様の、あの素晴らしい交わりの中に、
私たちを入れてくださって、本当に感謝いたします。
日々、死と共に歩む、死と共に交わりを持つ者として下さい。
その中で、本当に喜びと楽しみと恵みで、死を一杯にして下さい。
また教会の兄弟姉妹達との交わりも、
あの天国での交わりを、今ここで私たちが経験できますように、
兄弟姉妹達が、本当に心から愛し合う、支え合う、励まし合う、
助け合う、祈り合う教会でありますように、
どうぞ死を、我らの生徒の交わりを、死をどうぞ豊かに祝福して下さい。
御言葉を感謝します。イエス様の御名によってお祈りをいたします。
アーメン
40:09

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