1. 名谷教会
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2011-01-30 32:07

2011/01/30:聖日礼拝(旧音源)

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2011/01/30 聖日礼拝(旧音源)


00:03
聖書をお読みします。
新約聖書、ヨハネの手紙第1、5章の1節から12節、新約聖書の470ページです。
ヨハネの手紙第1、5章、1節。
イエスがキリストであると信じる者は誰でも、神によって生まれたのです。
生んでくださった方を愛する者は誰でも、その方によって生まれた者をも愛します。
私たちが神を愛して、その命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。
その命令は主にとはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者は皆、世に勝つからです。
私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
このイエス・キリストは、水と地とによって来られた方です。
ただ、水によってだけではなく、水と地とによって来られたのです。
そして、証をする方は三魂です。 三魂は真理だからです。
証するものが三つあります。 三魂と水と地です。
この三つが一つとなるのです。
もし私たちが人間の証を受け入れるなら、神の証はそれに勝るものです。
御子について証されたことが、神の証だからです。
神の御子を信じる者は、この証を自分の心の中に持っています。
神を信じない者は、神を偽り者とする者です。
神が御子について証されたことを信じないからです。
その証とは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、
03:06
そしてこの命が御子のうちにあるということです。
御子を持つ者は命を持っており、 神の御子を持たない者は命を持っていません。
以上でございます。
続きまして、聖歌体に賛美していただきます、新聖歌382番。
その後、高取先生より、 世に勝つ者と題しまして、説教をしていただきます。
聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
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聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新
新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、新聖歌体に賛美していただきます、
新蘭は念仏一筋の信心を民衆に広めた人であります。
新蘭は言います、もし念仏という救いの道がなかったとするならば、この世はまさに煩悩愚俗の煩悔の世界である。
人間の心も体も悩ますその欲望がありすぎる。それに束縛されてなかなか仏教の悟りに達することができない。
それがこの世の中だ。それは堅く無情の世界のようであるとそのように言っています。
09:02
ちょうど家が火事になって焼かれているようなもの、全く救いようのない絶望状態にあります。
どうすることもできない。すべて焼かれて灰になってしまう。
だからすべてのことはみな空ごと玉ごと。良いとか悪いとか嬉しいとか楽しいとか言っても結局のところは焼けている家のようなもの。
つまらないところに熱をあげて道の功能としている。それが煩悩に満ちた人の姿であると言います。
一夜明けるとみな夢のように過ぎ去ってしまう。玉ごとに終わってしまう。
そういうような中にあって、誠は念仏の道だけ、念仏に一切の望みをかけていたのがこの神壇であります。
しかし、ただ念仏を唱えるだけで人間のうちから罪の許しと永遠の命が与えられてしょうか。
生きていく上での希望を持つことができるでしょうか。
決してそれだけでは得られることができません。
神壇は死にました。煩悩からの救いとして念仏の道を伝えましたけれども、死んで墓の中におります。
それまでであるわけですね。
それに比べて私たちの救い主イエス・キリストは十字架にかかられてその命をお捨てになりました。
しかし三日目によみがえってくださいました。
そして信じる者に罪の許しと復活の命を与え、復活の希望になお生かしてくださいます。
信じる者はこのことが確実なことであるそのことを知っています。
これは単なる思い込みであるとか信心であるとかそういうことではありません。
キリストの救いは尊い、たっとい救いです。
いつも救いの喜びに満たされ、神様を本当に心から褒めたたいて過ごすことができます。
それとともにクリスチャンであってもこの世にあっては悩むことや苦しむことはあります。
弥勉福音書の十六章三十三節に
あなた方は世にあっては勘難があります。しかし勇敢でありなさい。
私はすでに世に勝ったのです。イエス様はこの世に勝っておられ、勝利しておられます。
あのガイラーコの弟子たちが逆風に悩まされて本当に苦労していたその時に
イエス様は夜中にその水の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。
それは水というのはこの世を荒らしておりますが、海はこの世を荒らしておりますけれども
その世の上をイエス様は勝利して歩かれている。
そのようにイエス様はこの世というその海、大洲揺れ動いているその海の上をイエス様は勝利して歩かれることのできるお方であります。
12:13
私たちは時にこの世に負けることがあって悩むことがあります。
しかしキリストは常に勝利しておられます。勝利から勝利、敗北するということは全くありません。
ですから私たちも敗北しそうになることがありましても勝利しておられるキリストによりたのみ、キリストにあってことにあたっていくときに勝利が与えられます。
パウロは、しかし私たちは私たちを愛してくださった方によってこれらの全てのこと、患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、
その中にあっても圧倒的な勝利者になるのだと常に言っています。勝利ある生涯について語っています。
このようにキリストにあって勝利することができるのは宗谷様が既に復活してくださったことによって信じる私たちの魂が死んでいたのに生かされているからであります。
新しく生まれる恵みに預かったからにほかなりません。
イエス様を信じたとき、精霊の働きによって私たちは神様から命を与えられ、新しく生まれたものとならせていただきました。
今は神の国の一員、神の家族として生かされています。
かつては罪かと罪のためにその中に死んでいたもの、魂が死んだ状態にあった私たちでありました。
この肉体は生きていましても、魂が死んでいる状態では神の国を救うことはできません。
しかし神様は信じるものに、その魂に命を与えて生きるものとしてくださいました。
霊的に復活の恵みを与えてくださっています。これがキリストによる救いです。
ヨハネはこの救いを喜び、この手紙を通して神様から生まれたものについてどういうものであるか、そのことを記しています。
神から生まれたものはイエスがキリストであると信じます。
神様を愛し、また主にある兄弟姉妹を愛します。
そのことが一節から三節に書いてあります。
イエスがキリストである。これは信仰の告白でありますね。
また16章にペテロの信仰告白があります。
今日の教会学校ではこのところが話されて、この信仰の告白を子どもたちも本当に心からすることができるように導かれたと思います。
15:05
あなたがた私を誰だと言いますか、とのその問いかけに、ペテロがあなたは生ける神の御子キリストです、とそのように告白いたしました。
するとイエス様は、バリオナシモン、あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます、私の父です、とそのように言われました。
ペテロは聖霊のお働きを受けてこの信仰の告白をいたしました。
そしてこの告白は主を大いに喜ばせるものであったのです。正しい信仰告白であります。
誰でも聖霊のお働きを通して新しく生まれるときに、イエス様がキリストです、救い主です、
アブラス救われたお方、神の御子です、とそのように告白することができるようになります。
こうして救われると神の命が与えられ、神の子供とならせていただいて、神の家族の一員に加えられます。
救われた者は誰であっても神の子供、神の家族のその特徴は、と言いますと、それは愛し合うということですね。
イエス様を信じる私たちは神の子供でありますので、父なる神様を愛します。また救い主イエス様を愛します。
また自分を愛し大切にして、主にあるところの兄弟姉妹を愛します。
信仰の友である兄弟姉妹を愛することは、神のいましめに生きるクリスチャン一人一人の成すべきことであります。
神の愛を心に精霊によって沿っていただいて、互いに愛し合う、理解する、受け入れ合う。
親切心をもって前もって教えてあげる。結果を見て非難するような不親切なことはしないようにする。
すべきことは前もって教えてもらえば、そのように誰でも気をつけてすることができますが、教えてもらえなければ気がつかないで不手際なことをしてしまいます。
愛があるなら親切な心遣いを初めての人には特になすべきであると思います。
自分が知っていても初めての人が知っているとは限りません。
ですから愛は寛容な心で親切であることをパウロは語っています。
そしてあるときは慰め励ます。そして気に入らない人だからといって排除してはならない。
受け入れないのは人の愛があるとは言えません。
閉鎖的な態度や言葉は人を傷つけつまずかせます。
クリスチャンはそうであってはならないと思うんですね。
クリスチャン同士の関係はいつでも神を愛して、その言いましめ、互いに愛し合いなさいというこの言いましめを守るのであります。
つまり私たちはイエス様から、父のある神様から愛されている一人一人であります。
18:06
その愛をもって主にある兄弟姉妹を愛する。
それが神から生まれたもの。互いに愛し合い、神を愛することは神の御心を喜んで行っていくことであります。
愛のあるところには当然相手に対して尊敬の気持ちと従うその態度が現れます。
主にある兄弟姉妹を尊敬をもって接し、なお愛し合う私たちとならしていただきたいと思います。
神様が神の家族であるクリスチャン一人一人に与えている言いましめは、決して難しいものではありません。
実行するのが不可能、または苦痛、そうであってはならないし、そのように感じさせることも良くないと思うんですね。
神の子供は精霊によって神の愛を実践し、神様に本当に喜ばれるものでなければなりません。
このように神の子供は信じる、愛する、従うという、この三つのことをいつも心に留めて生活をしていきます。
ある本に人生を勝ち抜くための三つのことが書いてありました。
第一は世の人の人生を勝ち抜く方法ですけれども、第一は苦労することを嫌がらない、苦労は勝手でいることが大切。
第二は勤勉であること、第三は継続、とにかく続けていく、すぐ辞めてしまわない。
第四は知恵をしっかりとした考えを持つ、第五は勇気を持つ、第六は明るく愛情を持つ。
人生を勝ち抜くためにはインスタントな方法はありません。
嫌なことは避ける、できるだけ苦労しないでやってしまおうという考え方は良くないわけですね。
人間にとって最も大切なことはやはり前向きに人生に向かう姿勢であり、努力することであると思います。
そして物を見るときいつも明るい方を見るか、暗い方を見るかによって人生は大きく違って見えてきます。
アフリカの人たちがまだ靴を履いていない時のことでありますが、2人のセールスマンがアフリカへ派遣されました。
1人は、「社長、ダメです。アフリカの人は誰も靴を履いていません。靴は売れません。」と言いました。
しかしもう1人のセールスマンは、「社長、靴を送ってください。どんな靴でも結構です。アフリカの人はまだ誰も靴を履いていませんから。」とそのように伝報を訴えています。
私たちも人生は嫌だ。この人と一緒に生活していくのは嫌だ。お墓も一緒に入りたくないというようなことを言いながら、何でも悪く暗く否定的に考えていたらどうなるのでしょうか。
私たちは幸いイエス様を信じ、キリトから来るところのこの平安・安息を与えられています。
そしてこの主にあっていつも明るく前向きに生きることもできるように、御言葉の慰め、励ましが与えられ、御霊に導かれています。
21:06
そしてこの人生を勝ち抜いていくその力を神様から与えられています。
この世というのは神に敵対するこの世界を指しているとそのようにこの中華書では書いていますが、この世は悪魔が支配しています。
主を受けれない不信仰な罪と穢れに満ち霊的に暗闇にある世、異教の世であります。悪魔の世、誠に神に敵対しているこの強いこの世の中であります。
けれどもこの世の力に勝つ力がキリトを信じる者には与えられるとそのように御言葉は語っています。
しかし私たちは自分の力でこの世に対して勝つことなどとてもできません。
自分の力だけでは脆くも負けてしまうしかない。
この世には実に多くの誘惑がこの控えてまた待ち構えています。
世の楽しみ、神の御心を痛めることが本当に多くありますね。
ガルテヤ五章十九節二十一節、二句の行いが書かれてあります。
不貧行、穢れ公粛、愚僧礼拝、魔術、敵争い、ソネミ、生きどおり、東亜神分裂分破、妬み、明帝、幽教、このようなことをしている者たちは神の国を相続することはない。
世と世の欲は滅び去ります。しかし神の御心を行う者はいつまでも長らえますと弱音も言っています。
キリストにある私たち、イエス様を本当に信ずる信仰を持ってこの世に向かうとき、毅然としたその態度で信仰を働かせていくならば、この世にキリストにあって勝っていくことができます。
イエス様は十字架で上がらないよう成し遂げ悪魔に勝利されました。
そして復活によってこの勝利は確実なものとなっています。
エヴェソ1章20節に、神はその善能の力をキリストの内に働かせて、キリストを死者の中から甦らせ、天上において御自分の右の座につかせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また今の世ばかりではなく、次に来る世においても唱えられるすべての名の上に高く置かれました。と書かれてあります。
今やイエス様は全世界の支配者となるべく、神の右に座しておられます。
後節に、世に勝つ者は誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんかとあります。
キリストを信じる者はキリストにあって勝利が与えられます。
あるクリスチャンの壮年の方は、クリスチャンは地の死を世の光であるから、聖者に沿って生きていこうとすると、どうしても周りの人たちとの摩擦は避けられません。
24:03
この点については覚悟を決めておかなければならない。
今の時代はダニエルの時代とは違うので、どんなにひどいことがあっても、ライオンの穴に投げ込まれるということはありません。
せいぜい退職させられるくらいでしょう。この点、祈りの中で腹を固めておく必要があります。
酒の問題については、年々ミシンジャーの人でも飲まない、そういう人が増えているので、飲まないというその選択はやりやすくなっています。
最初が大切です。飲まない方針でいくなら、最初からそれを通していくなら、そのようになっていきます。
また、お葬式では偶像礼拝を避けます。聖行することや、遺体に手を合わせることなど、偶像礼拝をしているように見えることは避けます。
金の像を拝まなかった3人の戦員たちのように明確な態度を示していく。けれども慰めの言葉は、なおかけていくようにしなければなりません。
時間の問題は、祈り会や奉仕のことを考えて、だらだらとした懺悔はしない。この点は割り切っていく。
信仰の家に人と違うことを行うのを恐れない。地の仕様となり、世の控えとなりには異なっていて初めてできる生き方であると思います。と、そのように述べています。
信仰以外のところで、世の生き方に合わせるところは、合わせなければならないことがありますけれども、
信仰に関することで合わせなくても良いところは、自然としてクリスチャンとしてのその態度を明確に表明していくことが大切であります。
私たちは世に生活していますけれども、世に妥協して世を大使とするのではなく、いつも神様を大使とする。それによって世に打ち勝っていきます。
キリトを信ずる信仰、私たちの信仰、これこそ世に打ち勝った勝利とこのように書かれてあります。
主に委ねてベストを尽くしていくとき、主が最善のことをしてくださいます。
6節から10節のところを見ますと、キリトについての証を、この私たちはなお信じていかなければならない、そのことをこのところでヨハナが書いています。
水というのはバクテスマのことですね。血は十字架を表しています。水においてこの方こそ誠の神の御子である。
血においては罪からの救い主である、そのことが明かされています。このことを明かししてわからせてくださるのが御霊であります。
水と血と御霊がイエス・キリトのご人格と使命を明かししています。この3つは一致しています。
イエス様が救い主であることを明かししています。そしてこの救い主イエス・キリトを信じるところに誠の信仰があるわけですね。
御霊と水と血、この3つの証は実は神から来ています。神様によって計画されなされた証であります。
27:02
述説に神の御子を信じる者はこの証を自分の心の中に持っています。神を信じない者は神を偽り者とするのです。神が御子について明かされたことを信じないからです。
その証とは神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。御子を持つ者は命を持っており、神の御子を持たない者は命を持っていません。
救いの確信というのは自分のその時の気分や感情によるのではありません。
今日は気分がいいから救われている、今日は気分が悪いからイエス様が遠くに行っている、また自分は救われていないんじゃないかとか、本当にそういう風に感じるのは良くないことですね。
いつも御言葉からその確信を持つべきであります。気分とか感情は海の波のようにその時その時で揺れ動いています。
だからこれらのものに確信を置いているといつまで経っても確信を持つことができません。
それよりもいつまでも変わることのない神の御言葉に確信を置いておくと何があっても動かされることがありません。
御子を持つ者は命を持っている、神の御子を持たない者は命を持っていない。
この御言葉をいつも心に固く持ち続けて、そしてその信仰に立ち続けていくということが大事であります。
世に勝つ者、それはイエスを神の御事を信じる者です。
人生の様々な出来事の中にも、キリストは勝利を与えてくださいます。
そして様々な罪から解放して平安を与え、罪に対する勝利を与えてくださいます。
そしてこの最後の敵である死にキリストは打ち勝ち、不安を取り除いて永遠に生きる希望と喜びを私たちに与えてくださいます。
激しいこの人生の戦いの最中にあって、キリストにある勝利を世に勝つ者とさせていただいていることを感謝し、
キリストにあって神によって生まれていることを喜び、勝利の栄冠を目指して信仰生活をなお励んでいかせていただきたいと思います。
キリストにあってそれぞれの使わされたそのところで信仰の戦いを続け、勝利をなお獲得するものとさせていただきましょう。
あるところに霊媒師の母を持つ娘さんがおりました。その娘さんは悪霊を目撃したこともあったそうです。
17歳になったときにイエス様のことを聞くことを思い出しまして、以前クリスチャンの先生から聞いたことを思い出しまして、
そのクリスチャンの先生を訪ね、そのクリスチャンの先生と一緒に教会を訪れ、助けてくださいとお祈りをしました。
するとその娘さんの心に光が差し込んできました。まるで生まれて初めて光を感じたようでした。
30:03
そのうち聖書を学び、神様が偶像礼拝をすることをどれほど憎まれるかということを知りました。
その日彼女は家の中にあったすべての偶像礼拝に関係するものを捨て去ったのであります。
今彼女は偶像を拝むことをやめ、家族またオカルトに惹かれているその人々にその危険性とイエス様のくださる祝福を明かししております。
聖霊によって新しく生まれた者はイエス様を神の御事を信じます。
そしてこのキリストにあって世に打ち勝つ者となっていきます。性別されていきます。
御言葉を聞いて御言葉に従うことにより清められたその心と生活が伴ってまいります。
キリストの勝利に預かる者として私たちも信仰を持って世にあっても世の者でないことを自覚しながら
なおこの勝利から勝利へのこの人生をこの信仰によって祈りによってまた聖霊の助けを得てなお進ませていただきたいと思います。
それではお祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、世に勝つ者とは誰でしょうと、本当にイエス様を信ずる私たちであることを主よもう一度覚えてありがとうございます。
どうぞ主よ、いつもイエス様に心を傾け、イエス様のお言葉に堅く立って、どうぞ主よ、なお進ませてくださることを切にお願いいたします。
そのためにも本当に新しく、聖霊によって生まれ変わっているというその自らであること、またイエス様がキリストであるというそのことを堅く信じますと、
その信仰の告白をして、いつも主よ、御自身に本当に喜ばれるところの信仰の歩みが私たちの日々の生活であることができるように、どうぞ主よ導いてください。
主よありがとうございます。この時を感謝し、イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
32:07

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