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2025-01-26 29:41

2025/01/26:新たな夜明け

2025/01/26 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -17


00:01
それでは一言お祈りをいたします。
愛せる天の父なる神様、私たちを今日も生かしてくださり、
あなたの御前へと招いてくださり、
あなた仰ぎ礼拝をできる幸いを心から感謝をいたします。
あなたが私たちを愛し抜いてくださり、
私たちのために巫女イエス様を十字架に捧げてくださり、
その流された血をによって私たちの罪を完全に許し、
神のことし、復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる死と切っても切り離せない交わりに、
永遠なる死と共に生きる、永遠なる死に担われる、
私たちの人生を始めてくださったことをありがとうございます。
もはやあなたは自分の足だけで立つのではない、
私の恵みによって歩みなさいと、
あなたは私たちを招いてくださることを感謝をいたします。
寒さの中で私たちの体も心も弱る中にありますが、
しかし永遠の主のカイナが私たちの下に常にあることを覚えて、
その支えを覚えてありがとうございます。
心の中には様々な重い煩いがあります。
しかしこの時にまた主の御前へと何一つ隔てなく出ていくことができますように、
私たちを導いてください。
御言葉を開いてくださり、
あなたが私たちに悟りを与えてくださいますように、
お願いをいたします。
祈られたように世界は混迷を極めつつありますし、
またその中で私たちは多くのことを不安に覚えて、
どう生きればよいかわからない中にあるかもしれませんが、
主を仰ぐことができますように、
その中であなたの知恵をもって祈り、
あなたの霊に励まされて、
勇気をもってこの世界を生きることができますよう、
助けてください。
お願いをいたします。
来たくても来れないお一人一人が、
痛んでおられるお一人一人がいることを覚えます。
どうか主が、その施設におられる方、
ここに来たくても来れない方、
御支度で霊波を守っておられる方、
お一人一人の上に届いてくださいますように、
お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を主が開いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをします。
アーメン。
新年正解は幸いなひとときでした。
先週私たちの教会は午前午後と新年正解を取り行いました。
松田先生、かやしまキリスト教会の松田先生が来てくださって、
私たち、私は牧師である私自身も御言葉に探られるときとなりましたが、
私が一つ受けたチャレンジは、
自分の国を壊すということでした。
そのようなメッセージが語られていたと思います。
03:03
人は自分の国を作り、壁を作り、
そこで私は正しくて、相手は間違っているというある種の境状を作り、
そこで神ではない自分自身を偶像として礼拝してしまう生き物なんだ。
そういうことを先生が語られたときにドキッとしました。
そしてはっきりと言われました。
神の国は決してそのようなものではない。
私自身も自分の国を建てているなということを思わされて、
その場で悔い改めへと導かれました。
またその話を聞きながら、今というこの世界のときにもかなっているなと思いました。
もう言うまでもありませんが、
世界は暴力、そして分断、そういうものが無視できないほど完全に現れ始めました。
数年前からそうですね。
世界のリーダーが代替わりする過渡期を今迎えています。
そのような中で、暴力や分断というのはもっとエスカレートするのではないかという不安を覚えるときに、
人は自分の国を建て偶像を拝むという話は、実に説得力のある話だなと思って聞いていました。
そしてそのような世界を見ても同じことが言えるでしょう。
そのように進む世界は決して神の国ではないのですね。
今朝読んでいただいたこの4章の12節からというのはまさに、これまでマタイの福音書を見てきましたが、
誠の王として来られたイエス様が新しいご自身のご支配を始められるというそのようなシーンです。
要はそれは言い換えるならば、この世界に新しい夜明けが訪れましたというイエス様の宣言のような箇所です。
イエス様がそのように語る声を聞きます。
食い改めなさい、天の御国が近づいたからと。
実はこの言葉は先に3章の2節でヨハネが言っている言葉なんですね。
食い改めなさい、天の御国が近づいたからと。
けれどもヨハネは新しい王様が来ますよと叫びましたが、その中身はよくわかっていなかった。
しかしその中身がこのイエス様の活動を通して明らかにされていく。
それはイエス様という王様がある種ヨハネの想像を遥かに超えていたように、
新しい王様の新しい支配というのは、実に私たちの想像を遥かに超えていくんです。
今も続く主の御支配がどういうものであるか、ご一緒に見たいと思いますし、
私たちは時折暗闇に出会う時が本当にあります。
06:02
どこに光があるのかなと思う時があります。
けれどもご一緒に覚えたいのは、イエスキリストというこの世界の光はすでに昇った。
私たちは光の下に生きている。
その希望をご一緒にこの歌詞から確認をさせていただきたいと思うのです。
さて三つのポイントを今日見ますが、一つ目それは天の御国の驚きというのがこの歌詞には記されています。
イエス様はここで新たな夜明けが訪れたと叫ぶんですね。
新しい夜明けが来ました。
この新しさ、イエス様がもたらす新しさとは一体どういうものであるかということを理解するためには、
少しこの時代の背景を理解しなければならないと思います。
ちょっとだけお話ししますと、イエス様の時代のユダヤ人たちというのは、
自分たちがどういう状況にあったと理解していたかというと、自分たちは囚われの身であるという理解なんです。
マタイの1章の12節にわざわざバビロン保守という言葉が出てきましたけれども、
当時のユダヤ人たちはまさに、私は諸国に支配されているということが強い痛みとして彼らにありました。
そのような中、当時のユダヤ人たちは先日もあれば二つの方向の運動に傾いていきました。
一つは内向きの立法を守りましょう運動です。
神の言葉をないがしろにしたがためにバビロン保守が始まったと理解した彼らは、
神様の言葉を今度こそちゃんと守りましょうと必死に守っていくその中で、
メシアの到来が早まるということを信じていました。
その代表がパリ裁判や立法学者という人たちですね。
ただ、このユダヤ人たちにはもう一つの動きがありました。
それは外向きの運動、いわばテロリズムです。
イエス様の弟子の一人に熱心党員の諮問と言いましたね。
熱心党員というのは何かというと、
当時支配しているローマ帝国を武力によって倒そうとする集団です。
テロリストです。
そして、このような武力によってローマを倒そうという動きは当時流行っておりまして、
エルサレムが崩壊するその直前の時代には、
実はシカリという暗殺集団がエルサレムで暗躍します。
新ローマ派の議員が次々と暗殺をされるという事態が記録として残っています。
何が言いたいかと言いますと、
当時のユダヤ人たちには二つのこの運動が大きかったというのがここです。
一つは熱心に立法を守りましょう。
そしてもう一つはそれによって、
この私たちを支配しているローマ帝国を武力によって打ち倒しましょう。
09:04
であるならば、彼らが望んでいたメシアは何かというと、
まさにダビデのような王様なんです。
武力によって自分たちをこの支配から解放してくれる王様を、
この当時の人々は待ち望んでいました。
メシアはダビデのように強い王様が来る。
そのような時代にイエス様は来られたのです。
そして新たな支配がまさに始まります。
今日読んでいただいた4章の16節にありますが、
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。
死の影の地に住んでいた者たちの上に光が昇ると。
真っ暗闇だった囚われの民の中に光が昇るんですよ。
イエス様はそういうお方ですよと語りますが、
ただこの大きな光とはどういう光であったのか。
これはイザヤ書42章7節の引用なんですが、
イザヤ書を読みますと42章の9節という2節後にはこういうことが書いています。
はじめのことは見よ、すでに起こった新しいことを私は告げると。
いわばそれはこれまでの常識であったり、立法理解であったり、
今も私たちの世界は思いますが、武力を武力によって制圧するという当然の論理。
実はそういうものは新しい王の下では全てが新しくなるということを告げている。
じゃあどのように新しくなるのでしょうか。
実はこの4章の18節から25節というのは、この後イエス様が活動する活動の総論みたいなところです。
その内容が書いてますのでちょっと2つ見たいと思います。
2つ目のポイントは天の御国とは、癒しと憐れみに満ちた世界だということです。
天の御国、神の御支配は癒しと憐れみに満ちた世界であるということです。
先に23節から25節をちょっと読みますとこういうことが書いてあります。
4章の23節から
イエスは彼らを癒された。
こうして大勢の群衆がガリラやデカポリス、エルサレムユダヤ及びヨルダンの川向こうから来てイエスに従ったとあります。
12:04
誠の王として来られたイエス様が迎われたのは、王が権威を振るうことのできる王宮ではありませんでした。
イエス様が迎われたのは、ガリラや善逸の病や患いのある人々のもとへと向かわれたのです。
当時は現代のような医学は存在しません。病気はほとんど治りません。
そして病の人たちは穢れているとみなされて、基本的には社会から隔絶されます。
社会は痛みを抱える人々に境界線を引きますね。
そしてその人たちを切り離して、あたかもないものであるかのように扱う。これは現代にも見られることです。
しかし、誠の王として来られたイエス様は新しいことをされる。
それは何か、なんと人間が引かれた境界線を越えていくんです。
そのようないないと思われている人々に会いに行き、そこに父なる神様の奇跡が、癒しが起こり始めるんですね。
この奇跡には重要な意味があります。奇跡と聞くと私たちはそれだけですごいなと思うんですが、この奇跡の重要な意味は何かというと、
父なる神様の愛と憐れみというのは、線を引きそこから外された、その外された先にいるあなた方の上に注がれている。
そのことをイエス様がはっきりと確証したんです。あなた方は神の愛と憐れみから決して外れてなんかいない。
それは当時においてはセンセーショナルな宣言でした。だからシリア全域からその言葉が広がり、多くの人々が集まってくるんです。
新しいことが始まった。病人だけではない、悪霊につかれた人、天官持ち、中部などの病人、みんな共通しているのは、社会から線を引かれて追い出された人たちです。
けどイエス様がその境界線を難なくと超えていくんです。
エペソビトへの言葉を借りるならば、隔ての壁を打ち壊すという御業は、このところから始まっている。
王様、王として来られたイエス様は、新しい支配を始めていかれます。
その王は、誠の王であるイエス様は、ダビデ以上の権威を持ちながら、ダビデ以上に父なる神様に謙遜に忠実に仕えられる王です。
そして世界に父なる神様の御心を実現していきます。
15:02
神様の御心というのは、正義を振りかざした武力で新しい分断を生むことではありません。
そうではない。
旧約聖書には、そのような歴史が何を夫妻とした後の世代に残してきたかということが刻々と書かれています。
でもそうではない。
神様の御心はただ一つです。
それは、一人の存在に届き、愛を示すということです。
一人の存在に届き、愛を示すということ。
戦を惹かれた先にいる人、病む人、痛む人、悪霊に取り憑かれた人、その人はきっと周りからもう狂っているとみなされた人。
誰も触れられない人。
しかしそのところに、イエス様は壁を壊して愛に行かれるんです。
父なる神様の愛、憐れみは、あなたにも注がれているんだよと宣言すること。
実はそこに神様の御業をイエス様は表していかれました。
これは私たちも同じです。
私たちも主に召されているのは、一人に愛に行くこと。
そのところで、あなたも神の憐れみのうちにいるんですよということを宣言し、そこで主の業を共に見ることです。
それがまさにイエス様が始められた、新しい王の新しい支配、神の御国ですね。
そして新たなこの支配というのは、長い期間をかけてある種徐々に歪んできた立法の理解にも切り込んでいきます。
それが実はこの後に書かれる5章から7章の3条の説教です。
3条の説教は立法のイエス様の再解釈ですね。
この箇所ちょっと内容が濃いので、この冬は扱いません。
ちょっと別の機会に扱いますが、
しかしここでされていることは、イエス様は一人を愛するために壁を壊して届かなければならない。
神の国はそのようなものだとイエス様が語られる。
神様の熱情がそこに表されているというのが、この3条の説教です。
さて3つ目のポイントを見ます。
そのような支配を始められたイエス様ですけれども、もう一つこの天の御国には特徴があります。
天の御国、それはイエス様がそれを仲間と共に築こうとされる国だということです。
天の御国はイエス様の仲間と共に築こうとされる国です。
このような新しい王様の新しい支配がこの世界に浸透し始めていくというのが、このマタネの福音書に見られる始まりですが、
18:02
いわばそれが天の御国を築くということです。
マタ先生がこの前の政界で午後お話ししていました。
天の国、それはギリシャ語ではバシレイヤと言いますが、
バシレイヤというのはこの世界の国のような境界線を引き、王様を立て、
あなたと私は違う国ですと言い表すための言葉では決してないということを先生お話しされましたね。
バシレイヤという言葉はもともとは王様の支配であったり統治ということを意味します。王様の支配ですね。
ですから、神の国バシレイヤというのは神の統治、神様の支配なのですが、
いわばそれは言い換えるならば、神様の御心や神様の愛が人の心や交わりを支配するならば、そこが神の国なんですよ。
そういう意味ですね。
そして神様の御心が一人を愛するために壁を越えることであるならば、
壁を築き、自国を築くのは神の国ではない。まさにその通りだと思います。
違いはあるんです私たち。違いはあっていいんですよ。違いはあっていいのですが、
けれども17節にあるように天の御国、天のバシレイヤに属する私たちは、違いを批判して壁を作るのではなくて、
違いを認め尊重し合う術をやはり探り続けなければならない。
実はその努力へと私たちは招かれるんです。
そして何よりもそのような新しい支配を、この王様イエス様は一人で広げようとはなさいませんでした。
イエス様は仲間を求めます。それがこの18節から22節に書いてあることです。
ちょっと読みますが、18節から22節。
イエスはそこから進んでいき、別の二人の兄弟、ゼブダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが
父ゼブダイと一緒に船の中で網を作ろっているのを見ると、二人お呼びになった。
彼らはすぐに船と父親を残してイエスに従ったとあります。
21:05
この光景というのは、想像するならば、王様が街中を歩いて、
俺と一緒に働かないかという人たちを招いているそのような光景ですよね。
主の招きはシンプルでした。
私についてきなさい。人間にとる漁師にしてあげよう。
ただ、私についてきなさいですね。大事なのは。私についてきなさい。
この一言に、ペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネは同じリアクションをしたことが書いてあります。
彼らはすぐに従ったです。同じ言葉が書いてあります。すぐに彼らはイエスに従った。
この箇所はちょっと冷静に見てみるならば、異常なことが起きている箇所です。
そうではないでしょうか。
ペテロとアンデレは20節に書いてありますが、彼らは網を捨ててと書いています。網を捨ててと。
いわばこれはガリダヤの漁師の仕事を捨てたということです。
当時ガリダヤ湖の漁師というのは大変な仕事ですが、湖の漁獲量も、そして近くに魚を売る販路も安定しているんですよ。
簡単に言うならば漁師を続けるということは、安定した生活を彼らは続けられるということです。
しかし彼らはそれをすぐに捨てたとあります。
それだけではありません。ヤコブとヨハネは船と父を残してと書いてあります。
船と父を残して彼らはすぐにイエスに従った。
家族は大事です。どう考えても家族は大事ですね。
しかしそれを手放して彼らもすぐに従った、実に異常な光景です。
仕事も家族も簡単に手放してはいけません。そうではないでしょうか。
ただこの不可思議な光景は、私たちは現在も見ることはありますね。そうじゃないでしょうか。
学的に優れて、このまま行ったら博士にもなれるだろうという人が、その道を手放して牧師になるということを私たちは目にしますね。
よくやるなあと、私なんかそんなんじゃないけど、よくやるなあと思いながら、すごいなあ、なんでそんなことが起きるんだろうと思います。
私は種に対して誠実であり続けたい。
そういう種への誠実を守り続けるがために、会社の中でグレーの選択を選ばずに、ホワイトの選択をし続けるがゆえに、出世を手放す人というのがいます。
24:05
犠牲は大きいですね。なんでそんなことをするのか、旗から見たら理解ができませんよ。
なぜそんなことをするんでしょうか。
でも私たちはキリスト社になるというのは、違う声をやっぱり聞くようになったからです。私についてきなさい。
主が私たちに語られるその御声を、私たちは聞くからでしょう。
そして時に、この声は大きく私たちに響く時があるんです。否定しようがないほど大きく響く時があります。
家族も大事です。仕事も大事です。
けれども、それをもう私についてきなさいという主の恵みに委ねて、従わなければならない時が私たちにはある。
なぜなら、この王様は仲間を求めるからです。
私と共に苦しみを担ってほしい。私と共に憎みを気づかないか。
そのように私たちを主は招かれるからです。
今朝私たちはこの歌詞から二つのことを心に留めたいと願っております。
それは、一つは、この世界に夜明けはすでに始まっているということを私たちは覚えなければならない。
神様は今、私たちを神様の愛、私たちのうちに神様の愛、恵みの支配を広げて下さいました。
ルカノクイーションの17章には、神の国はあなた方のただ中にあるとイエス様は言われましたね。
神様のご支配は私たちのうちに始まっている。私たちはそれによって変えられているお互いですね。
そして置かれた場所、私たちがそれぞれ置かれた場所で、まさに壁を越えるように私たちは招かれるんですよ。
神の愛を生き、そこに新しさをもたらしましょう。
当たり前のようにこれまで土あげられていたものではなくて、新しい神様の愛の風をそこに流しましょう。
夜明けをもたらすのは、いつも主と共に働く私たちだということ。夜が明け、光のことされた私たちであるということ。
私たちの中にもなおも夜はあります。
けれども、主がその夜を明けてくれるというお方だと知っているから、私たちをうめきながら、自分の中にある闇にも恐れずに向き合うことができるのではないか。
そしてもう一つ、ご一緒に覚えたいことは、ただ主は時に強く私たちをめされることがあるということです。
27:07
私たちは御言葉を聞くときに、私なんか先週の政先生のメッセージ聞いてと思いましたけれども、これは私のことだと思うことがあるんですよ。
これは私のことだ。他の誰でもない主は私を名指しで呼んでいるという時があるんですよ。
その時には、私たちはこのペテロとアンデレ・ヤコブのヨハネの応答に倣いたい。すぐに、すぐにイエスに従った。
仕事も家族も大事です。いや、私自身のことも私たちは大事です。捨ててはいけませんね。
ただ、そこで葛藤するならば、私たちはそれ自体を主に委ねられるようにまず祈り始めるべきなんじゃないでしょうか。
主はいつも共に夜明けをもたらしたいという私たちの願い、主と共に私はその歩みには歩みたいんですという願いと、主がもう一つ待っておられるのは一歩を進む勇気だけです。
方向を変えて一歩私は主と歩み始めるというその一歩だけです。主が待っておられるのは。一歩を踏み出すならば主が道を開いてくださるんですよ。
私たちは今朝ご一緒に覚えたいですね。主はあなたに委ねます。私のいろいろなこともあなたに委ねます。どうか私があなたについていく一歩を踏み出させてください。
私についてきなさいと言われる主の言葉に一歩踏み出す勇気を私に与えてください。闇の世界に大きな光はすでに昇っている。そして私たちの闇の中にも光を照らすのはその一歩です。
私も闇が深いなあと思って言葉を失うことがよくあります。祈りましょう。でもその中で私たちはそれが主の御心なんだと思うときに葛藤しながらでも主よと一歩進んでいく。
その闇の中で光がそこに照らされていくことを私は信じますし、ご一緒に信じていきたいと願っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。
29:41

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