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今回はお便りを紹介したいと思います。 リスナーネーム、kotoさん。
こんにちは。97回、「ぼくたちの宗教へようこそ」の回を聞いた感想です。 この前、一緒にご飯に行った男の子との話の中で、「宗教とか大丈夫?」って聞かれました。
大丈夫ってどういうことだろう?って感じでした。 自分は、ブディストです。
私は、友人と宗教の話になった時に、大体そんな感じで自分のことを話すのですが、「〇〇団体名に入っている」という言い方を初めて話す人に対してはあまりしません。
それは多分、どういう思想や哲学を持って生きているかという話がしたいからだと思います。
あくまで自分の生き方の選択肢として団体があるのであって、その団体の付随的な位置に自分がいるわけではないと思っています。
宗教団体に入っている、入っていないというコミュニティベースで話をすると、どうしても相手と自分の間に境界線ができてしまう気がします。
そのようなコミュニティを重視する話になりがちなのが、そもそも日本的なのかなと思いました。
宗教が忌避されがちなのは、オウム神理業の件もあると思いますが、集団主義の文化があるので、個人としてのその人、ではなく何か特有の団体に属している人というのが強調されて、
その境界線を超える土壌がないのかもなぁ、ともちょっと思いました。 どんなコミュニティにも通ずることかもしれませんが、絶対的な一個人によって成り立つ団体は健康的ではないなと思います。
コミュニティを作ること自体はすごく大事なことだと思います。 その場の在り方が相互の対話の場であるかどうかというところかなぁと思いました。
教官の文化が強いから難しい面もあるのかもしれませんが、 何はともあれいろいろ考える余地を残してくれるポッドキャストというのはいいなって思います。
長文失礼しました。 ということでお便りいただいております。
ことさん、ありがとうございます。
はい、以前ですね、シャープになる前ですけれども 97回で僕たちの宗教へようこそという回を配信していて、その感想ということでいただいておりますってことですね。
そうですね、なんかその個人よりコミュニティっていうのが先に出てきちゃうっていうのは 本当に確かに日本においてはそうだなぁと思いますし、
例えば学校とか家族とかそういうコミュニティって、 なんかみんなそれぞれ大半の人が入ってるとは思うんですけど、
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宗教って入ってない人の方がなんとなく多いから自分に入ってない、 自分が持っていないコミュニティに入ってるとなんかその個人よりもコミュニティの方が大きく聞こえてしまうなぁっていうのはなんかこのお便り聞いてて思いましたね。
あー、そうだねー。 難しいんだけど、その宗教団体っていうのと宗教観、宗教に対しての距離感みたいなものっていうのが、
この書いてある通りなんだけど、団体に入っているから宗教をやっているみたいな感覚っていうのが多分僕としてはあって、
だからこういわゆるその団体に入っている人っていうと、いわゆるまあ信仰宗教の団体の人が多いかなっていう印象があったりとかもしていて、
なんかそうなるとやっぱりイメージ的に宗教観として、例えばブディストである、キリシタンであるとかさ、
そういうことの話から団体があるっていうことだと思ってるんだけども、
やっぱりイメージ的にそういう信仰宗教とかの団体の方がコミュニティとしての活動が多いような印象があって、
実際どうなんかあんまりよくわかってないんだけど、僕もそういう団体に属したことがないので、自分としては。
なんだけど、どうしてもそういう、みんなでも宗教的な行事であったり、
この話としては、それって宗教の話だよねっていうこととか、考え方のベースに宗教観があったりするんだけど、
コミュニティの問題として捉えてるっていう感じっていうことは多分、
この話では宗教っていう概念と宗教団体の話、どっちもこのエピソードはしてるんだけど、
宗教の話しようとすると、やっぱりこのコミュニティの断絶っていう話になっちゃうよなっていうところはそうだよなっていうふうには思うんだよね。
そうですね、まあ確かにね。まあなんかことさんがおっしゃってる、生き方の選択として、まずその宗教があってっていうところがやっぱり見えにくくて、
なんか団体っていうものが先あるっていうイメージがあるから、なんかすごく距離を感じてしまうっていうのはあると思うんですよね。
あとまあどうなんでしょうね、その例えばことさんはそのブディストっていうふうにおっしゃってるじゃないですか。
これってなんか結構、これもちょっとイメージで語っちゃうことになるかもしれないけど、かなり広いと思うんですよ。
めちゃくちゃ人口多いじゃないですか、仏教徒の方って。
だからなんかそのコミュニティっていうか、なんかよりももっとでかいもののイメージがあるから、そういうものとより小さい宗教っていうのの距離感もまたちゃうやろうなっていうのはすごい思うんですよね。
世界的に広まっている宗教じゃなくて、もう団体っていうようなものと、仏教とかキリスト教とか、なんかそういうもっと世界的に広まっているものだったら、なんか受け入れられるかもしれんけど、
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小さい団体とかやったら、もうよりそこで距離が断絶されてしまう感覚がある。
そうね、まあそういったらコミュニティの話で終始してしまう。
いったらコミュニティの上で成り立っている考えだとか、まあ宗教観っていう話っていうのを僕ももっとしたいなとか思って、まあそういう話をしたつもりではあったんだけど、
どうしような、その中身の話というかそういうのをする前に、ああ、ほんじゃ対話が成り立たない人かもしれないみたいなさ、感覚みたいなのは、ちょっと僕自身にもなんかあるような気は話しながらしていて、
やっぱりその書いていただいているように、なんか一つの言ったら真というか、まあ特にそういう信仰宗教の場合とかだと多いのかもしれないんだけども、
絶対的な一個人によって成り立っているものっていうところ、成り立っている団体っていうところに属されているとなると、
ああ、なんか基本的には言ったらその人の教えみたいなことがさ、ベースにすごく強い幹としてその人の中に流れていて、
なんかそこからずれることとか、そこ基準で考えてるんやろうなっていう、たぶんみんな全部が全部そんなことないと思うんだけど、
なんかそういうふうな印象を受けて、なかなか僕としてはさ、そういう対話みたいなこととか、
なんていうかな、中身的な部分の話みたいなことをすると、なんか事前に、こういう答えなんだろうな、そういう宗教のベースがあるからそういう答えなんだろうな、みたいな感じで思っちゃったりとかするので、
そういう対話みたいなことが、あんまりしたことないけど。
そうやな、なんかそれ聞いてて思ったけど、例えばある宗教を信仰しているときに、自分の考えとその宗教の教えが異なっているときってどういうふうに処理するっていうか、どういうふうに解釈するんでしょうね。
そのシャークさんの言ってることも僕めちゃくちゃわかるんですよ。なんかその教えっていうルールの中での回答しか出てこなそうな気がするっていう偏見を確かに僕も持っちゃうんですけど、でもことさんがおっしゃってるように、その前にまず個人なわけじゃないですか。
だから、まんま宗教と同じ思想になることってたぶん難しいじゃないですか。
たぶんね、そう考えたらそうなんだよね。たぶんそんなことないんだよね。
ただなんかさ、結構その幹が一つでもあるかないかっていうのってでかいっていうか、言ったら悩んだりさ、するときの救済としてこういった考えみたいなのがあるっていうところはあるやんか、宗教観っていうのはね。
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そういう拠り所になるものっていうところで生み出されたものであって、そこは自分のメンタル面って言っていいのかな。
メンタル面のところで支えになるみたいなさ、ことはすごくいいことだと思うんだよね。
それで、言ったらよく人生生きられるなら。
そうですね。辛いときに寄りかかれる存在があるっていうのはいいことですよね。
その方法が、僕のベースの考えとしてはみんな幸せになってほしいけど、その人が幸せに生きていける、他人と一緒に生きていけるのであれば、そこに関してはどんな方法をとってみても、その人なりの行動ならいいんじゃないのかなと思うんだけどね。
ただ、付随してくる問題としては、やっぱりそれが成り立たせるために、世間の多くの人と違う手段を取ったりすることになるから、そこがずれてきたりとか。
報道とか、今ちょうどね、結構タイムリーなところでやってるところで聞くと、お金の面であったりとか、生活のベースがその活動に悪い方をすると吸い取られていっちゃうみたいなさ。
言ったら個人がどんどん溶けちゃって団体になっちゃうみたいなことっていうのは、起きやすいものだと思うんだよね。すごい自分の内面の深い幹に語りかけるものであるから、そういうものが。
そうですね。自分の人生をより良くするはずやったものが、そこのコントロールって難しいんやろうなーっていうのはわかるんですけどね。
僕はそういう個人としての、一人の人としての、言ったら煩悩というか俗っぽいものみたいな、その嫌な気持ちみたいなのを解消したいみたいな感じで、エンターテイメントとか、いろんな作品だったり表現だったりっていうことが生まれているっていうこともあると思っていて。
でもさ、しんどいやん。そういう何も見機なしにさ、今社会に出て普通に俺たちが家帰って疲れてんのって、そういうさ、絶対的な基準とかはそんななくて、僕らに選択をどうするか決めてくれとか、その中に社会があったり、社会の中の会社であったりとか、その中の人間関係とかいろんなものが、いろんな揺るがせるものがあるから俺らはさ、その度に選択しないといけなくてしんどかったりするっていうのが多分あって。
全部自分の頭で判断するのあかんっていうのはしんどいよね。
そうそうそう。だからそういうことにすごく疲れてとか、そもそもそれってどうなんかなとか思ったときに、そういった個っていう部分がいらなくて、そういったらコミュニティ?そういう宗教っていう考え方だったりっていうものに自分の個を渡していく、解けさせていくっていう選択は、すごくよくわかるんだよね、感覚として。
そうやな。そこをさ、ちょっとしんどい時期は、よくかからせて笑っておいて、けど回復してきたら、さっと身を引けたらいいんですけど、なんだかそれは難しいんじゃない?って思うねんけどな。
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一回処分してしまうと、これ別に宗教にかからない、どんなコミュニティにしてもそうなんですけど、一回そのコミュニティに入っちゃうと抜けるのってやっぱり難しかったりするからね。
やっぱね、女王とか、なかなかね、真面目な人というか、ちゃんとそういった辛い、特にやっぱ辛い時に助けてもらったなっていう女王とかってすごく人間に生まれると、僕の感覚では思っていて、やっぱそこを返さないとってやっぱ思ったりとか、自分が助けてもらったんだから他の人にもとかね、そういった心理もあったりだとか。
個人とコミュニティの話みたいな感じにはなるんだけども。あれも言ったら、現在の段階での感覚とコミュニティの話?そこに宗教っていう言葉を使った?っていう感じのエピソードだったので、改めてもうちょっと。
僕こそさ、仏教とかブディストっていうことが、まずあんまりよくわかっていないみたいなさ。仏教が何なのかって、俺はほとんどわかっていないんだけども、勉強したことがないから。
そうね、僕も歴史ぐらいの知識しかないので。
ないし、仏教自体が、僕ん家は日蓮宗なんだけど、いやでもなんか日蓮宗だと思ってたらなんか、じいちゃんの葬式の時に日蓮宗じゃなかったみたいなことは発生してんな。
あー。
なんか違う宗派だったんだよな。
そうね。
なんか違うなんとか宗ってやつだったんだよな。
親父もわかってなかったっていうね。
僕はあの、僕の中で無宗教なんで、本当にお葬式とかでもお経を聞いたことがないんで、本当にわからないんですよ。そこすらわかってない。だから僕もっと無知かもしれん。
そうなんだ、寺壇町ね。寺壇はね、本当にそういう無宗教っていう態度の家庭なんやもんな。
うん、そうね、別にまあ宗教を忌避してるわけじゃないんですけど、なんか本当にそういう時すらお葬式も全然そういうお経を読むとかはないですね。
ないし、お坊さんが例えばお盆に来て、なんかこう、お経を唱える時間があって、お坊さんとお話しして帰っていくみたいなのとかがあったりするんやけど。
えー、そんなあるんや。
うーん、あると思う、そのお墓を持ってるお寺のところに、その仏壇に来てみたいなっていうことが。
だから盆とかはそう言って、お坊さんって盆の時期になると暑いのにあの服装していろんなお家に入ってたりするんだけど、それってそういう、いわゆる団家さんのお家を回っていってる。
そういうためにやってるんや、あれ。
うん、そうそう。なんかバイクとかで移動してたりするやん。
はいはい。
不思議なさ。
スケーター乗ったお坊さんね。
そうそうそうそう。あれってお家を回ってあるんだよね、団家さんの。
うん。
寺田と僕らもちょっとそこでずれがあったりとか、これはばあちゃん家でやってたから、俺もなんとなくしか知らんないけど。
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まあちょっとそのあたりはまた本読んでみたりとか、もしくは詳しい人とかに教えていただくって形でゲスト会なのかね。
いろんな話が今後もできるかなと思っているので、その辺も楽しみに今後していただければいいかなと思っております。
はい。
改めてことさんお便りありがとうございました。
ありがとうございました。