幼少期からの病弱
今日はですね、ゲストとしておじいちゃんに出てもらっています。
名前は井上静之と言いますが、今日は実家の方で収録をしてて、
おじいさんが100歳になったっていうことでね、
記念に収録しようと思い立って、今日撮ることになりました。
ありがとうございます。
100歳になって、この間、福山市から賞賞を受けたけど、どういう気持ちですか?
これはね、やっぱり小さい時、まみんもろなから育って、
母親も父親も親を養った。つづいては、どうせ養育にやろうというようなことを
いつも話に聞いていた、子供ながらに。
それで小学校、3年生ぐらいの時にはほとんど学校へ行っていないよ。
というような病気ばっかりしようと。
ああ、そうなんだ。
これは年転1つで、これが22、23歳頃に大学病院で腹を開けて腸を20センチぐらい切ったんよ。
それがこう回っとったんよな。そこへ目が溜まって腹痛を起こしちゃった。
それが原因で、やっぱり小さい時からそういう症状があったのがわからなかった。
それが大阪へ行った時に、
それは大阪へはあれやね。
学園で。
学園。
教授所で。
それで大学病院へ、井上さんちょっと行ってみなさいよって先生が言うから、
根高の病院へ帰りに寄ったら、
お、根高じゃない、岡山の大学病院よ。
そしたら、これはちょっと腹を開けてみなよ。
いけませんね。
ということで、開けたら腸が回っとった。
円点してもった。
それで腸を20センチ、21センチぐらい切ってつないだんだ。
これが大手術ですよ。
ところが、普通ならそれがいけないんだけど、
その大学病院の先生が、うまいことついたもんだなあ、これは。
先生もびっくりしちゃったんだ。
そういうことで元気になって、
まあ今日があると思うな。
それはあれよね、子供の…
うん、十…
何歳ぐらい?
一番何歳…7つぐらいのときにずっと腹が痛かった。
そのときにすでにそういう現象があったんだ。
あったんね。
じゃあそれが最初のその大きな病気になったということかな。
うん、それが結局、どういうか病気だろうな。
お医者も初めはわからなかったんだが、どうもおかしいということで検査をしたら、
どうもこの辺がおかしいということで腹を開けた。
それで腸を出したんよ。
ああ、なるほどね。
この手術というのは大学病院でも滅多にないというような手術だった。
じゃあもう子供の頃から病弱だったのかな。
ああ、病弱だった。腹痛てもう困るわけだった。
あるよね、そのおじいさんのお母さんもすごい心配しておったって話を。
大学病院での大手術
ああ、今も心配しておった。
私の兄弟が兄貴がブラジルに行っているのよ、井上隆が。
そこから西尾雄の姉さんが行っていたのよ。
それで私をブラジルへ連れて行くということを、
うちは貧乏だったから生活が困るので思っていたらしい。
それを母親が絶対に行かないと言って、
私が8人兄弟の男が3人の一番下でおとぼうだったのよ。
そういうような状況があって、
まあ母親で見れば当然だろうな、生活が困るんだよ。
それで兄貴が、井上隆が兄貴が私が行くと言っていたらしい。
それでブラジルに行ったのよ。
まあ、だから病弱だったのもお母さんが心配していたから、
ブラジルへは行かないようにしたんだね。
そうだろうと思う。
でもご飯は食べれていた?
ご飯を食べても、時々1週間に1回くらいは腹痛をしちゃったんだ。
相当弱かったんだね。
弱かったよ。
でもそういう7歳の頃だから、今で言う小学校1年生くらいの時をね。
8年生くらいだから、3年生4年生は学校に行っていないよ。
ああ、学校に行っていないんだね。
休んでもずっと家においていたの。
それで腹痛で、どうしようと思ったのかな。
ここにぬかを入れて、
それを袋に入れて腹の時計を置いて、
ずっと看病しようとしたんだろうと思うよ。
この辺りにも大きな病院がなかったし、
近所のお医者さんにかかるしかないよね。
青陰というお医者があったよ。
そこの青陰のお医者は眼科よ。
そこへ行って、眼科だけではわからないから言うことだったんだろうが、
そこへかかる意味がなかったよ、田舎に。
まあ、そういう時期を7歳くらい?
それが小学校の大半かな。
1年生から4年生くらいまで。
ちょっとどうかしたら腹が痛いわ。
困ることもある。
母親は偉い。
末のおばあさんが、ちょうどうちの母親のお母さんよな。
両親のおばあさんが、私をいつも抱いて守るしてくれたらしい。
ああ、そう。
そういう中で、子供の頃に食べたもので美味しかったものは何かある?
その頃美味しいなと思ってた。
それは貧乏の中でオハギのものを食べて、
それを食べたらまた腹痛を起こすんだけど、
オハギを食べた味が、今でも思い出すな。
ホワリ?
オハギ。
オハギか。
オハギって。
ああ、オハギね。
オハギが美味しかったんだ。
それが今でも頭に残ってるな。
やっぱりオハギは当時だと高級なお菓子だったのかな。
いやいや、これはもう貧乏だったから、
きな粉をもぶって食べるには今のマンジュンとか何でもないよな。
それが唯一、田舎のご馳走だろうか。
ご馳走か。
じゃあそれぐらいしかご馳走はなかなかなかったんだね。
なかった、なかった。
なるほどね。
ご馳走でもなかなか貧乏だったら、
そうよ。
ないしね。
お母さんの愛情と支え
ない。
オハギが好きだった。
あとその兄弟が何人かいたじゃない。
兄弟、8人兄弟の一番強いだったんだよ。
私はな。
それで、私は貧乏で生活ができないというので、
当時は外国、マンジュンへ行ったりブラジルへ行ったり、
いろいろ田舎にして、
ちょうどユタカとミサヨというのが、
その兄弟とお姉さんだよ。
それがブラジルへ行く生活のために、
あちこちで生活をしようということで、
ブラジルは地球の反対側だからな、ブラジルへと。
そこへ行ったのは、
私が小学校1年生よりも小さかったの。
うちの貧乏の笑いの中から、
出てきて覚えているわ。
貧乏な家庭ながらも、
やっぱりそのお母さんの記憶みたいなのはどういう感じだった?
お母さんは立派だった。
立派だった。
家の上、お砂糖を言うんじゃない。
末から9月、本当にもう私は今でも、
お母さんに頭が上がらん。
それが我慢せず、賢いお母さんだったな。
今でも思う。
ああいうお母さんになるというような、
容易なことではないと思うわ。
なるほどね。
だからお母さんにもすごい可愛がられていたよね。
お母さんがもう私を頼りにしていたよ。
でもあと末っ子というのもあったし。
末っ子、それもあった。
末っ子だし、もう一番可愛い。
可愛い。
そういった中で、病弱だったかもしれないけど。
病弱あったよ。
ところが家が貧乏だね。
だから家が貧乏だったけど、
お母さんも大事に育ててくれた。
耐えられてきていたんだろう。
それで私は西武の中学校、今の中学校、高等小学校に行かずに、
小さい時に頭は良かったんだろうと思うわ。
勉強をよくしていたんだろう。
そしたら竹内先生というのが、
「井上君、君は中学校へ行くんじゃねえか?」と言ったら、
お姉さんなんか、兄貴、父親も、
中学校なんか行くって、誰が金を出すんか、
いうことを私は聞いたことがある。
それで、学校へ行かせてもらえないんだよ。
それで西武の、今の高等小学校へ行って、
鉄道へ試験を受けたんだよ。
18人、西武の学校から鉄道へ試験を受けた。
その当時の官庁へ出ると、ものすごい人気だったんだよ。
それが18人試験を受けて、3人通ったんだよ。
その中に私が入っていたんだよ。
それで広島の鉄道へ、当時は岡山か、岡山に勤めて、
もう民房の中だから、
そしたらみんな、近所の者が、
しゅうさんはいいことをしてたのか、鉄道へ出ると。
もう一番なかった頃よ、もう日本は貧乏しようとした。
それが太平洋戦争の真中次元という戦争を起こしたのもそこであったんだよ。
ほら、国そのものが貧乏だったんだ。
今と時代が違う。
もう貧乏だから、マンシュルへ行ったり、中国へ行ったり、台湾へ行ったり、
もう家の次男、三男というのはみんな、そうやってやってきた。
私を大量にしとったんだろう。
私が一番、ごちゃごちゃ言おうとしたんだろう。
あ、ごちゃごちゃ言おうとしたのか。
言おうとしたことは、しっかりしとったわけよ。
ああ、そういうことね。
でも割と末っ子ながらも、
その辺は、
お姉ちゃん、お兄ちゃんのことを見おったんじゃない?
親、両親のこともそうだけど。
だから、私を養子にくれって言って、
ずいぶん運動をしたらしいけど、
母親が絶対に死ずは出さないって言って、
頑張ったらしいの。
ああ、そうなんだ。
まあ、ほんまに世を可愛がってもらってたんだね。
それはね。
なんかそういう時に、夢みたいなのはあったの?
夢。
幼い頃。
それは貧乏だけど、
その、なんか就職を、
当時は学校の先生になるか、
何がせんと、
百鳥の小宅さんって一番貧乏だろう。
どうにもなんから、
私が哲夫へ試験受けたのよ。
18人、哲夫試験受けたの。
18人。
あ、整備中学校か。
それ、3人の中で私が入って通った。
3人。
18人受けて、今でも思い出すんだが、
6年か5年ぐらい通ったのかな。
それ、島居先生が、
竹内先生と2人、和食したりしとったんだろう。
そこで、
竹内くん、よかったー言うて、
褒めてくれたのを覚えてる。
まあ、それぐらい難しい試験が。
もう仕事がないんだよ。
みんな貧乏で。
もう哲夫へ出ると言ったら、
うわー、哲夫さんやったぞー言うて、
村中の評判になった。
それはもう、
街の評判になったってことだよね、結局ね。
その後の、
村の評判になった。
岡山機関区の思い出
哲夫さん、やったねー言うて。
それは、この間も言ってたけど、
学校の先生も喜んでくれたんだ。
学校の先生が、
うわー、稲江くんやった。
竹内先生と南の小林先生が、
はよー、やったー言うて褒めてくれた。
それはもう、なかなかね、
手仕事がない時期に、
ない時期に、やろう。
ない時期に、国鉄へしっかり入って、
言ったらまあ嬉しいよな、それはね。
それから、国鉄で私も勉強した。
真っ黒だって働くんじゃいけない学校だし、
それが、私は機関助手、機関士になって、
運転高等科言うたら、今の大学よ、国鉄の。
それ、試験受けて通って、
それで大阪の、
豊島の学園へ行って、勉強して。
それから、私、半年、一番長いのが一年行った。
あとは三か月か四か月くらい。
それで、結婚前に行ったと思うがね。
だからその頃は大阪へ行ってたんかな。
それで、まあ帰って、私が受学試験を受けて、
運転高等科言うたら、今の大学よな。
そこへ行って、戻って、受学になったんよな。
それで、試験予約まで押し上がって、
国鉄も、井上さん、井上さん、出ていい、されたわな。
当時の国鉄って言ったら、なんて言うの、エリートよな。
エリートよ。
村で一人か二人か行くだけ。行けないのよな。
まあ、なかなか行けない場所ではあるわな。
その職業として選ぼうにも、試験を通過しないといけないわけだし、
あとはもう競争率もすごい。
学校の先生なんか、それよりは。
まあ、そうやって鉄道へ入ってから、おばあさんと会うじゃない。
おばあさんと、かよこおばあさんと。
で、出会って、一緒に結婚して暮らすようになってから、
もう、いろいろ大変なことがあったと思うんだけど、
そこで、どんなことを支えてくれてたかな。
まあ、わしは、なんだろうな、国鉄に入って、
劇場が少ないといっても、いろいろなことを、
まあ、頭がよかったんだろう。
おばあさんがわしを頼りにしとったんよ。
それが今の、この小川の草原から来てくれて。
これがわしの娘。かよこ、頭がよかった。
どういうところが頭がよかったの?
まあ、勉強もしようたるし、
こういう家をしようたるし。
それが、高橋さんいう散髪屋の人がシャワーしてくれて、
井上さん、戻ってきてくれるか。
綺麗なおばあさんだった。別品さんよ。
それが、よそよっても、
彼女はもう、わしに泣きなきゃいけない件を言うたらしい。
そういう経験があるのよ。
かよこおばあさんの尊敬できるところはどんなところだった?
尊敬できるところはたくさんあると思うけど。
始末しても賢い。
こういうことは言っちゃいけませんよたら、新年終わったと。
あとはあれよね、僕もそうじゃけど、
子供の世話もよくしてくれてたなっていうのを覚えてるし、
家に帰ったらおばあさんがおって、お腹空いたら何か作ってくれて、
お菓子が食べたいと言ったらお菓子を出してくれて。
これだけ来てなくて、そのかよこも苦労してるんよ。
女学校も政治家へ行くというのは、うちらでは政治家に勝たないようで、
マスカワへ行ったらしい。
でもそうやって賢いおばあさんだったし、気遣いもできたし、
家事も一手になって、おじいさんは国鉄で働かないといけないし、
でも家のことはおばあさんが中心でやっとったわけだしね。
おまけに僕らもいたし。
それはこのお母さんよかったろう。
それはよかったよね。
ああいうお母さん、あまりおらんと思うよ。
そういった中で、今年100歳を迎えて、大正、昭和、平成、令和と生きてきて、
100年と1世紀になるけど、その1世紀の中で、もちろん戦争のこととかも記憶がすごく深くあると思うけど、
印象深かったことはどういうことがあった?
それはもう、私が兵隊に行って、48連隊の戦車隊に行って、
もう衣装を変えて家を出たんよ。
あの当時だけね。
生きて帰るとは夢のままなんだ。
それで母親も母家内も、きょうしは車で1回、2回いるわけだから、連帰に。
それで貧乏の中でも、おはぎを作ってきてくれたかな。
ああ、おはぎをね。
私が作ってあげるんだよ。
それを食べた方がいいな、今ならなかったろ。
でもその話は初めて聞くかもしれないね。
おはぎの話はね。
1世紀を生きてきた中で、幼少期は貧乏だったっていうことから、
まあ言ったら、家が貧乏だったし、
あとはその夢もあった中で、国鉄へ入れて、
おばあさんにも会えて、
あとはね、
想像する、そこへ書いてあるけど、
想像するっていうのはどういうことかなっていう。
想像する。
どこへ書く?
世の中の変化のところへ。
世の中の変化、想像するっていうのは、
おじいさんにとってどういうことなんですかっていう。
ああ、そうだな。
1世紀生きて、世の中の変化、これからしたら一番すごいことは、
ああ、そうか。
それは、1世紀も生きるっていうのは、
新しい人生をどういうふうに作っていかないといけないかということを、
考えたということだと思うな。
作り出すっていうこと。
作り出すっていうことは、やっぱりその、
その頭で考えるっていうことも。
ああ、もちろんある。
もちろんあるよね。
ああ、頭と行動よ。
行動ね。
実戦力。
それが想像だ。
頭だけじゃなく、ちゃんと行動もして、
で、あとは続けるっていうことなのかな。
あとはね、その積み重ねがあって、
1世紀を生きてこられたのかな、ということになるのかな。
それは私の母親譲りというか、人生観の中でそうだと思う。
ぬくぬくと大きくなったら、やっぱり修練と実行よ。
実行。
実行して、その、
一瞬の実行だけだと、そのね、
あんまり意味がないと思うけど、
それをこう続けていくっていうことよな。
継続よ。
継続することが大事ということよね。
継続一番。
いいことはみんな言うんや。
誰でもいいこと思うこといっぱいある。
けれども、
その実践するということは、
同時に一番大事なのは継続。
続けなきゃいけない。
で、あとはその続けていくと、
そのおじいさんはその甲羅津の会長をしてもあるし、
それはな。
それもその継続したから。
まあ、だから今からは、
もう私は何を思ってもやめさせてもらえんね。
それはね、あの、
でもそれはたぶん役割があるってことよね。
しっかりと。
まあ、あるんだろう。会長が。
そうそう。
300人くらいおったかな。
それは、会長さん会長さん言うて、
私を辞めさせないんだ。
何回か、もう辞めさせてくれ、頼むって言うて言うても、
ほらもう会長さん、そういうわけないかんって言うて、
私も音楽は嫌いでなかった。
嫌いでないから継続できたんだろうとは思う。
まあ、そうやってそのコーラスのね、
みんなが会長さんは帰られない言うて、
言うてくれたのも、
あの、生き甲斐にもなったんじゃない?それは。
それはあるね、やっぱり。
あるよね。
女性が何百人もじっと私をみんな守ってくれとったと思うわ。
まあ、そういうのも、
その、長生きにつながるんかなと思った。
あ、つながる。
ね。
その役割があるっていうこと。
だから、それは話も上手なんじゃないか。
文章も上手にならないか。
そしたら私がみんなの何百人前で話をすると、
みんなじっと聞いて、
あ、会長さんの話というのはもうとってもじゃないが、
あれだけ勉強をしている人というのは難しいなあ、
言うて上手に言ってくれよと。
まあ、上手だけではないと思うわ。
人と話をするのが好きだった。
ああ、そりゃ今でも好きだな。
それで、そういう倫理観、道徳観というのはよく話しちゃった。
それはやっぱり小さい時からの老いたちだな。
ところが真面目だけじゃ人間はいけない。
人をリードさないといけないだろう。
それがどう卒業するか。
一番大事なことだよな。
まあ、たぶん組織を受学とかやってた時期は、
組織で何百人何千人の人をうまく働いてもらわなきゃいけない。
それはもう好きなのがあるだろう。
まあ、やっぱり岡山、広島、大阪のときに、
受学部を、いきなり受学ではないんだけど、
指導係、指導員を、
卒業からやっぱり人をリードしちゃっていくというのは、
物を言わないといけない。実行もしないといけない。
指導者なんだら人をついてこない。
そういうとても大事なのが、
まあ、やっぱりテクニックはあるわな。
まあ、テクニックもあるし、やっぱりその、
助学になるまでの間に経験したことから学んで、
やっぱりその素直に学んで、それをこう実践するっていうことかな。
そうよな。
だから人の頭に立つ人間というのは、
ただ頭が良かっただけじゃ頭になってたら変なのよ。
頭に立つっていうのは、やっぱり説得力がなきゃいけない。
これが大事だと思うわ。
自分に取り入れなきゃいけない。
そうよね。
まあ、でも国鉄の中で過ごしてみて、
僕が覚えているのは、小学校のとこに、
友達と一緒におじいさんと岡山機関区へ行ったのよ。
覚えてるかな。
あのね、当時のおじいさんの知り合いが岡山機関区へ勤めてて、
で、その人に連絡をしてもらって、
で、小学校の僕の友達とみんなで各駅に乗って岡山機関区まで行ったのよ。
来たのか。
で、行ったのよ。
で、その時に、僕の友達といまだに話す時も、当時の記憶をやっぱり覚えてるよね。
機関区まで連れて行ってもらいたいって。
なかなか入れるところじゃないじゃない、普通の人が。
そこへ、孫が行きたいって言うとるからって言って繋いでくれて、
川の上さんよ。
そうそうそうそう。
それはすごい覚えてるね。
そうか。
井上静行さんの幸せ
だから当時の写真も残っとるし、
まあそういう鉄道の話があって、
ちょっとここに書いてる質問?
質問へ行こうかなと思うんだけど、ここに書いてる。
まずね、お気に入りっていうところかな。
お気に入りの場所はどこですか?っていう質問。
一番のお気に入りの場所はどこですか?
まあいろいろ旅行してるけな。
世界を回っとる。
どこ行って、中国も台湾もブラジルも行ったけど、
どこ行ってみな。
日本も行くっていうことはできんわな。
だから現地だから、
そういう中国や台湾、
それから朝鮮、ブラジル、地球をほとんど回っとる。
大きな旅行してるわ。
ほら、おばあさん連れて。
そうよね。ブラジルにおばあさん連れて行っとるもんね。
ほら、できんよ。
だって片道が24時間かかるよね。
ほら、大事だった。命だけよ。
言葉は通じないしな。
言葉は通じないしね。
言葉だけで英語を自分で勉強したよ。
勉強したの?
一応ブラジルの税関は通れて、
ブラジルの入国はできたわけよね?
それはできたんよ。
外務省通って。
だからあれよね、この世界を見たときに、やっぱブラジルというのは印象深い国でもあるよね。
印象ある。
あるよね。
兄弟に行ったんよ。
兄弟もおるし、
今現在も暮らしが続いてるわけだからね、ブラジルの子どもたちと。
でも逆にブラジルからこっちに来てくれたこともあるし。
あるある。
印象深いところって言ったらブラジルもあるし、
あとはね、中国、台湾とかもあるし。
旅行行ったところはどこも印象深いところはあるってことよね、たぶん。
まあまあ、そういう旅行というのがやっぱり一番、
ブラジル行ったり中国行ったり、
たぶん印象深かったということと、
西部の中学を行って国鉄に入ったというときの印象が喜びだった。
ブラジルの子どもみんなも、
うわあ、すずさんがいいことをしたで、言うて、評判だったんよ。
まあそれはあれやな、
印象深い、
100年の人生の中で一番大きい出来事よね。
それは私が100年ながて、
まあ女学院になったとかなんとか言うことは以上よ。
ほらもう貧乏の中だろう。
そうやって家計を助けた、言うことが大きな収穫ような。
なるほどね。
それからね、
この女房賢かった。
ほらやっぱり、
これだけの女よな、ちょっと賢いお母さんだった。
まあでもそういう中でね、そのおばあさんからも僕も影響を受けたし、
受けたろ。
たくさん受け取るし、
でもおじいさんからも当然受け取るし。
で、その、
今回100歳を迎えた福山市の中で男性が60人ぐらいしかおらんという話を聞いたんだけど、
で、その女性が350人ぐらい、
男性は60人ぐらいしかおらん。
で、まあその中に入ったっていうことになるんだね。
今回。
ああ。
そう60人ぐらいしかおらんのか。
60人の中におじいさんがおるんよ。
ああ。
そうそうそうそう。
それじゃあやっぱり。
相当希少な命なんよね。
ああ。
うん。
それでそうじゃろ、勝目の学校でも、
そう言っておった。
井上さんが一遍話をしてもらいたいようなことを言おったけど。
うんうん。
で、井上さん原稿を。
うん。
言って、私は原稿いらんのに。
うん。
もうじきで今強いって原稿書かないといけんのに言ったら、
いやそれはないんじゃけど、原稿書かないと言われんでしょうがない。
うん。
いやそんなものは入れませんよ。
うん。
だから俺たち質問してくださいよって言ったんだけど。
うん。
まあ話すのが好きだし。
話すことはないよ。
話すことはないよな。
どんな言葉でも使うけど。
うん。
そのなんか最近も今も本を読んどるじゃない?
本。
本。
本を読んどるよ。
その。
瀬戸内役所さんとか。
ああ、最近の読んだ本、瀬戸内役所さんもそうだし。
そうじゃないから。
他にどんな本がある?
あの、日野原優先生頃は。
うん。
瀬戸内病院のあの人の本も読んどる。
うん。
やっぱりああいう人というのは歴史伝柱の人よ。
うんうんうん。
やっぱりその本から学ぶことは多い?
多いよ。
うん。
あの、瀬戸内役所さんなんかいるな。
うん。
これは宗教の話かじゃけど、それを言葉に出さないなあんまり。
うんうんうん。
本に書いてない。
ああ、そう。
宗教がね、宗教の話を書いてないよ。
うんうんうん。
新しい発想のことでやっぱり話ができるよな。
それが万物の全体に通る話じゃろ。
じゃあ本もたくさんまあまあ読んできたっていうことだね。
いろいろ。
本から学んで。
本から学んだな。
それをまあ実践するっていう。
それとやっぱり本だけじゃないよ。
うん。
交際、人と話をするということが。
人の知識を自分に取り入れる。
人間自由に取り入れるよ。
どんな人でも、ああこの人、こういう経験を持ってるか、いうようなことある。
だけど人と交際ができる人というのは立派な人よ。
うんうん。
そうだね。
人から学ぶっていうこともね。
これは大きい。
そうだね。
あとはそうだね。
その、まあ食べ物はおはぎが好きっていうのが出てきたし、
あと歌、歌は好きな歌っていうのある?
好きな音楽は、私専門じゃないんだけど、
歌は好きだったな。
あの、スバル。
ああ、スバルな。
目を閉じて、何も見えずに歌う。
あの歌はよ、歌い渡ろう。
露台で歌うたら、うわー、言うてよ、と。
私も音楽はあんまり専門に免許したくないんだけど、
歌は読めんね。
まあ、スバルが好きだね。
まああとはね、その、まあおじいさんにとっての幸せっていうのはどんなことだった?
その、100年を生きて。
幸せ、おじいさんにとっての幸せはどんなことが幸せだなと思ったか。
うん。
それは、やっぱりかえこと、結婚したことが何年か一番だったの。
うんうん。
それと国鉄へ入ったいうこと。
うん。
国鉄で、まあ苦労もあったけど、
岡山県庫の留学で、800人の留学の立場で、
ものを言うたような大きなことやったろうと思うので、
岡山県庫、日本一やからな。
うん。
そういう幸せな人生だったっていうことだよね。
それは大問題に幸せよ。
うんうん。
それが、しかも健康だろう。
うんうん。
健康いうのはどうして健康できたか言うたら、
うん。
今、昨日言うたかな、
私は何十年も朝起きて、
体から全身を、
うん。
髪の毛を出してマッサージをやったよ。
やったよね。
それは覚えてるわ。
覚えてる。
あの、たわしでこう、
前に、朝かな。
うん。
まあ、夕方お風呂入った後もだけど。
やるわ。
うん。
それが腫瘍を鍛えるから、
うん。
健康だったよ。
ああ、そんな。
まあ、でもそれは、一つ長生きした理由の一つかもしれないね。
一つは大きいな。
大きいね。
それがやっぱり一番大きいであろう。
うんうんうん。
髪の毛たわしよ。
うんうん。
ヘチバじゃねえんだよ、髪の毛たわし。
ヘチバじゃないね。
うん。
まあ、そんな中でその、
なんていうのかな。
今まで生きてきたのを振り返ってみて、
自分の使命はどんなことだと思う?
どんなことだったっていう。
使命というのはな、
うん。
まず、健康に生きること。
これが人間に与えられた最大の使命。
その使命とは、命を使うと書くであろう。
うんうんうん。
要するに、自分にやることがあるということよ。
うんうんうん。
やることなくなったらもう、
人間は死以外にないよ。
うんうんうん。
まあ、健康に生きることっていうことだね。
命を使うっていうことだから。
ああ。
うん。
で、あとまあ、その、
100年生きて、
まあ、僕とかが生まれて、
その、今の子供たちとか、
若い子に対して、
何か伝えたいことがある?その。
うん。
やっぱり、
うん。
人間は、
なんだろうな、
人を制すねえけん。
うん。
人を制することは自分を制せ。
うん。
自分を制せないんだから、人を制することはできんという。
うんうんうん。
やっぱり言葉っていうのが大事なんよ。
ああ、言葉が大事。
使命と言葉
うん。
言葉。
人を制するのはまず、
その人間を、
うん。
自分の領地に入れなきゃいけんやろう。
うんうんうん。
それで初めて、人を従うわけやけん。
うんうんうんうん。
人を制するのはまず言葉。
うん。
大事な。
言葉が大事なってことね。
だからね、何本本読んだだけじゃ、
うん。
いけんのよ。
うんうんうん。
その意味を、
自分で自分なりに、
理解をして、
うん。
人と話しができない。
人と話す力
うんうんうん。
人を説得せないけん。
うんうんうん。
説得力がなきゃいけない。
うん。
人間は。
うんうんうん。
人の価値観がただね。
うんうんうん。
じゃあまあ言葉、
言葉はもう大事だし、
人と話をして、
その説得力のある話をできることも大事だってことよね。
うん。
うん。
真面目だけじゃいけんのよ。
うんうんうん。
鉄道に入った話や幼少期の話
真面目はみんな真面目にやろうと思っとるんだけど、
うん。
そうなると人を説得、
うん。
住人といる人間を、
うん。
それに合うような話を持っていって、
人が理解してくれて、
うんうんうん。
みんなのことを言ってもらえるような、
うん。
やっぱり説得力がなきゃいけない。
うん。
人の価値観がただね。
うんうんうん。
まあちょっといろいろね、
その幼少期の話から、
鉄道に入った話から聞いてきたけど、
まああとおばあさんの話もね、出てきたし。
で、その、
今100歳を迎えて、
この後の夢っていうのは何かある?考えてる?
もう要するに、
うん。
まず健康をね、
うん。
生きるということは、
うん。
命を使わないと生きられんのでから、
うん。
もう、自分でもやろうということはあまりないと思うわ。
うん。
まず、
日々を健康に、
うん。
過ごしたいというのが精一杯だろう。
うんうんうん。
だから、ここに来て、
仏さんへ、
うん。
私は必ず、
あの、
あっけ、
おばあさんとなりに来て、
うん。
あの、
仏を挙げとる。
これ大事な、先祖が大事にするという。
うんうんうん。
気になるな。
うんうんうん。
やっぱりここまで生かしてもらったんだろう。
そうだね。
100歳を迎えた井上さんの考え
うんうん。
だから、こういう仏さんをこうやって来たというのも、
俺は誰にも相談せずに、
うん。
一人ぱっとこうやって。
ああ、そう。
余裕もあったから、
ああ。
大事なんだよ。
うん。
先祖というのを、
うんうん。
思うとるだけじゃいけん。
うん。
実行せない。
うん。
あの、
こないだその霞町内会のチラシというか広報か、
ああ。
出ておったじゃない。
ああ。
あの、
おじいさんが100歳のお祝いのメッセージで、
その、
あそこに書いておいた言葉があるじゃない。
うん。
どういうことか分かんない。
やっぱその行動するっていうこと、
実践をするっていう、
そのなおかつ続けることが大事っていうのが書いてあるけど、
ああ、そうだよ。
うん。
言うな、誰でも言うんよ。
うん。
ただ言う、
言うこともそうだし、
その学ぶこともそうだけど、
学んで、
自分のできることで、
実践して、
続けていくっていうことかな。
ああ、これはもう継続一番。
うんうん。
力は継続や。
継続が力になるっていう。
うんうん。
これもうその通り。
うん。
じゃあまあ大体、
大体話が聞けたかなと思うから、
もうこのぐらいにしようかなと思うんだけど。
これどう、
刷新機にするの?
いや、これは、
あの、
編集して、
配信するの。
ラジオで。
ああ。
編集して、
うん。
ああ、そうか。
そうそうそう。
まあだから、
おじいさんの言った言葉を、
そのまま音で流せるので、
うん。
なるほどね。
うん。
だからラジオ、
ラジオやな。
うん。
ラジオはどこ、
全国放送、
中国だっけ?
いや、もう世界放送よ。
ああ、そうか。
そうそうそう。
まあだからその、
ブラジルの、
ブラジルの人にも聞いてもらえるし、
ああ。
うん。
僕から伝えて、
ああ、そうか。
そうそうそう。
で、おじいさんがこういう話をしとるっていうのも分かるし、
うん。
で、100歳になったっていうのも、
うん。
なるほどな。
うん。
そりゃいいことやな。
うん。
まあやっぱ100歳、
生きたからこそ、
伝えてもらえることもあるし、
うん。
そうだね。
伝えてもらえることもたくさんあるし。
それは単純なもんじゃない。
うん。
それはそうだろう。
100、生きるということを、
みんな寝とっても生きとるというのはあるかもしれないけど、
うん。
行動ともなって、
うん。
自分の言葉が、
うん。
自由に言えて、
うんうん。
100というのは、
この町内にも、
うん。
もちろんおらん。
うん。
福山しても、
うん。
よくおらんと思うよ。
うんうん。
じゃあまあそういうことでね、
今日はこれで終わりにしようかなと思う。
あ、
まあやってみてくれ。
はい。
これは誰でもできることやな。
うん。
じゃあこれで終わりにしようか。
あ、ありがとう。
はい。