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Mikiさんのこのメモの中にもある、人への興味を再認識して、自分と他人を重ねて好点を見つけるというのは、どのあたりから感じたのかな?と聞いてみようかな。
事前のお互いの性能というのがありますけど。
本全体を通して改めて思ったという話もあるんですけど、
ちょっと話は変わるんですけど、少し前に人類学者の方のワークショップを運営していたことがあって、その時に話していた文化人類学的な民族理解の方法っていうのがすごい面白かったなって思っていて、
呪術っていうものをテーマにお話ししてもらっていて、呪術って聞いたら、わら人間は髪の毛で釘を打ってとか思うかもしれないんだけど、
私たちは結構誰でも呪術っていうものは使ってますって言ってて、呪術っていうのは結局、普通にめっちゃ頑張った上で、でもなんとかしてそれを手に入れたくて、もうどうにもならないっていう時に発動するのが呪術なんですよって言われていて、
だから、例えば受験生がキットカットをなるべく食べたりとか、五角鉛筆を持って試験場に行ったりとかするのって、ついに勉強してない受験生が五角鉛筆だけ持って行ってもみんなバカにするけど、
一日10時間くらい勉強した、東大いたしますみたいなすごい頑張ってる五角鉛筆持って行ったら、私たちは応援するじゃないですか。
それはもう呪術です。最後にめちゃめちゃ頑張ってどうしようもないけどどうにかしたいっていう抗いたくて、五角鉛筆を持ってっていうのは呪術的な気持ちが働いてますって言われて、
それは例として、それはプロブリアトショットっていうところにいる民族ってカヌーで生活してるんですけど、結構荒い波に対してカヌーで生活するから、カヌーとかすごい事故っちゃって、
だからカヌーを作る時にめちゃくちゃ呪術をかけるんですよ。悪い妖精を追い払う呪い呪術とか、安全になる呪術とかっていうのをかけてて、それも適当にカヌーを作って呪術かけてるんじゃなくて、
その民族はもう代々結がれたカヌーを作る技術っていうのがめちゃくちゃあって、すっごい丈夫で成功なカヌーを作るんですよね。
それに対して最後にその妖精を、精霊を追い払う呪術とかをかけてるっていうのは、受験生とカヌーの民族がやってることって同じだって言ってて、
そういう風に見ると、私たちとその民族、30人くらいのちっちゃい民族でカヌーで暮らしてるなんて原始的だなって思わなくて、私たちの繋がりを見出すことができるみたいなことを言っていて、
すごいわかるなって思ったんですよね。
そういう風に全然違うって思ったものでも、自分の記憶とか自分の風景と他人を重ねることができればどんな人だって面白いやなっていうことを改めて思った。
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それを別に日本に暮らしてない全然違う民族とかじゃなくて隣の人とかとやってる騎士さんだし、私もそういう意味で興味があるかもみたいなことを思ったっていうか。
その文脈で言うと、充実っていうのは、ネガティブな方向に何かを作用させるっていうことではなくて、
文化関係が科学的にはどうこうっていうのはわからないことも、願いとか意思とかあるいは行動っていうものによって結果に作用できるんじゃなかろうかっていう行動だったり祈りだったりっていうのが充実っていうものってことなんですね。
なるほど。
そんな風にまさかこんなところでみたいなところで自分と他人が重なる点が見つかるとすごい面白い感じられるじゃないですか。
そういう時に私は結構想像力があんまないっていうかテキストとか文字とかでいっぱい考えがちなんですけど、
騎士さんの文章とかを読んでると匂いとか風景も立ち上がってくる感じがあって、自分の記憶とか自分の持ってる風景とこの人と話してる時に見えてきた景色とか空間みたいなものがうまく重なって、
見つかってる?重なってそれで何か交わるところを見つけてるから面白くなってるみたいな感じがすごいあるなと。
ほんとに人文学的ですね。風景か。
なるほど。
読んでてすごく風景を感じませんか?
うん、感じる。
ただ、2人の騎士さんと対象者の人のキャラクターとか風俗とかで働いてる人との会話で成り立っていくとこがあったと思うけど、なんか音声付きで再生されますもんね。
あとなんか匂いとか雑な感じ?風景かね、雑多な感じとかもすごい来るんですよね。
呪術っていうところに戻ると、長野の田舎の生まれで周りほとんど農家みたいなところで18歳まで暮らしてたんですけど、
農家の人のマインドはすげーなと尊敬してるところがあって、
一方で言うと、科学的な思考っていうのと、呪術的な思考っていうのがものすごくいい感じにミックスしてるんですよ。
例えばリンゴ農家みたいな人がいて、めっちゃ頑張ってリンゴ作るんですよね。
で、こういうタイミングでこういうことをすると、リンゴの木に抵抗作用して、結局それでサイズが上がります、糖度が上がりますみたいなことってすごい科学的に、科学的スラッシュ経験的に蓄積された何かがあるんですよね。
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で、それについてはベストを尽くすんですよ。なんですけど、めっちゃ頑張っても、今もちょっと9月なんだかんだで台風来てるじゃないですか。
台風来ると全部落ちちゃうんですよ、リンゴって。
めっちゃ頑張るんですよ、春から。
蜜鉢入れてとか、ちっちゃい実を取って一部の実に残してみたいなことやるんですけど、落ちちゃったらもう収入ゼロになるわけですよ。
どういう気持ちなんですか、みたいなことを高校生ぐらいの時に聞いたことがあって、友達のお父さんに。
そしたら、ベストは尽くすんだけど、落ちちゃうのはしょうがないよね、みたいな感じで言うんですよ。
お手本様のことだからね、みたいな。
そういう祈りは捧げるけど、さっきのカヌーの例で言うと、めちゃくちゃ祈ることによって成功は担保されないっていうか。
もちろん祈るは祈るんだけど、カヌーを作ることの手は一切抜かないわけですよ。
もっといいカヌーの作り方があったら採用するし。
とはいえ、樹立的なところに頼らざるを得ない余地が残る。
別にその人たちって、その川じゃないところで生活する方法は別にあるわけじゃないですか、工場で働こうとか。
さっきのリンゴ農家で言うと、台風の影響を受けないものを作りましょうとかっていうのは、科学的な思考というものを突き詰めていくとありそうじゃないですか。
なんですけど、台風の影響を受けるっていうのは当たり前で、その中で一部祈るけど、科学的なことも並列してますっていうのって。
高校生の時の私からするとすごく新鮮で、どっちかを突き詰めてるイメージとかってある気もしてて。
あらゆることを科学的に考える。科学的っていうのは、ある種の工学的に考える。
こうしたらこうなるよね。こうしたらこうなるよね。こういう結果が見えてるってことはこう変えるべきだよねみたいな。
科学的な考え方によっちゃうか、あるいはジュース的な、エビデンスは全くないけどニンジンジュース飲めばガン治りますみたいな。
どっちかじゃなくて、いい感じにそれが混ざってるっていうのは面白いっていうか、その番号を実践できるのはすごいなって思っていたことを今思い出しました。
めちゃくちゃ長くなっちゃいましたね。
のぞみさんの話も言ってたように、結構科学によりがちじゃないですか、21世紀って。
科学的であることが良いことだとか、ロジカルであることが良いことだとか、思いがちだけど、でも結構私たちって曖昧に生きてて、
全然なんとなく良さそうみたいな理由でサプリ飲んだりとかもしてるし、全然科学に頼って生きてない部分がめっちゃあるってことを思い出させてくれる本でもあるかもしれない。
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科学ね、難しいよな。
21世紀は科学の時代みたいなことではない。
そういう思想とは全然違うところで、自分と他人を重ねて人を理解しようとするっていう姿勢がすごく見えて、面白いですよね。
だからパーソナリティ分析とかをして、テストを受けてもらって、スレングスファインダーで1位、これだからこうなんだねとか、そういうんじゃないやり方での他者理解じゃないですか。
社会学も社会科学っていう文脈の科学じゃないですか。
科学に寄り添って、科学の幅が狭い気がするんですよね。
統計的にこうであるよねとか、理論がこうであるねみたいなものを確認できるものこそ科学である。
特に記者の方は分からないものを分からないものを解くから、断片的なものを断片と言っているのは統計的な意味付けができないというか、何か分かったようにできないものっていう。
ミニマムな単位そのままっていうものを出すみたいなニュアンスでもありますよね。
断片ね。
科学的に断片って良しとされないんですけどね。
科学的に言った時の教義と抗議の科学っていうのがある気がしていて。
抗議の科学って数字化されているとか、反証可能性がすごい広い意味で担当されている。
医学とか工学、薬学、理学みたいなところって、抗議の意味でも科学だし、教義の意味では科学な気がするんですよね。
なんですけど断片的なもの社会学って、教義の意味での科学、一般性をどれくらい担保できているかとか、反証可能性をどれくらい担保できているかみたいなところで言うと弱いとは思うんですよね。
なんですけど社会ってこうなってるなっていう、学問的な意味でも科学ってあるじゃないですか。
社会ってこうなってる知識基盤としての科学っていうのもある気がしてて、そういうので言うとこれも立派な科学だなっていう感じを読みながら感じるんですよね。
教義の科学によって言うと文学とは科学かみたいな話になるんですよね。失われた時を求めて読んだ時に解釈できるみたいなことが科学かって言われると思うんですけど。
のぞみさんは読んでみてどうでした?
いろんなテーマ、断片を取り上げていった時にいろんな方向に広がっていくキッサンの語りみたいなのがすごいいいなと思って。
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西さんが最初に言ってた家族の形みたいなテーマも中に一部取り上げられていたし、働くみたいなことも確か一部取り上げられていたし。
あるいは笑いみたいなこともテーマになっていたりしたし、いろんな方向に広がっていくなと思って読んでいて。
その一つ一つが個人的にすごく新鮮なものが多くてよかったですね。
特に私は最近の楽しいテーマではないですけど、笑いみたいなことが一つテーマになって、イマッチがずっとあって。
キッサンがどっかの章で言っていた、「最もつらいその時に笑う自由が人間にはある。」って書いてあった。
いいなと思ってたのが、これちょうど読んだ時に全然別の文脈で宇多丸さんのインタビューを映像で見て、
その時に人を怒らせたり悲しませたりするほど簡単なことがない。
一番難しいのは、人を笑わせることだって宇多丸大先生は鼻にチューってながら言っている。
人を笑わせるってすごく難しい。
どんなにつらい瞬間でも、笑う自由は人間にあって。
自由があるっていうことは、選択肢がたくさんあるとか可能性がたくさんあるとかそういうことじゃなくて、
ギリギリ何かあった時にでも何か手元に残っているっていうことを自由と呼ぶんだと思う。
広さっていうよりは、追い詰められた瞬間にゼロじゃないっていうことが自由だって書いてあって、
そんな時にも笑う自由が残っているってことは常に人は自由であるっていうことをおっしゃってたのかなと思っていて、
すごく苦労することが多かったですね。
自分の仕事を考えて、たぶん兄さんとかでコンサルトプロジェクトやってる時にめちゃくちゃつらいシーンみたいなのがあるじゃないですか。
土深夜まで働くとか、クライアントがギリギリしてるとか色々ある。
そういう時にもちょっと笑えるチームも良かったです。
土深夜なんだけど、笑い飛ばして頑張ろうやみたいな空気に慣れるチームと慣れないチームだった。
そういう時に笑えるチームって強いし、楽しいし、そういうところの方が品質的だよなぁみたいなことは、
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自分の経験を見つけたらすごくいいなぁと思って。
私もこの話はめちゃくちゃ印象に残ってるし、野辰さんの言ってることもめっちゃわかるし、
もう一個それを読みながら思ったのが、少し前に金メダル勝っちゃうおじさんいたじゃないですか。
各省で話題の。
あの時にすごい信じられなかったのが、そのシーンの動画を見ると、
金メダル獲った選手が勝ちられた時に笑っちゃってるんですよ。
それに対して、笑ってるってことは許してるってことじゃんみたいな。
面白がってるじゃんみたいな風に言う人がめちゃくちゃいて、絶対違うだろうって思って。
どうしてそういう風になっちゃうんだろうって思ってて、心書をちぎって配りてって思いながら読んでました。
笑ってるってことは許してるってことか。
そういう風にしか捉えない人がいるんだなっていうのが信じられなくて、
あの笑いってそういう笑いじゃないじゃんみたいな。
っていうことで生き残ったことを思い出しながら読んだりしてました。
確かに許せないなって思いながら笑うことあるもんな。
そういうのあるな。
どうしようもない現実が目の前に突発的に発生してしまった時に、
折り合いをつける感じで笑うこととかもあると思うんですね。
あるね。
これちょっと笑いと自分の中にある断片を出してみたいなと思うんですけど、
最近マチーシャジャンボっていう漫画を読んでて、
ジャンボっていうロン毛のヤンキーみたいなお医者さん、マチーシャ地域のクルミの人がいろんなやっていくっていう漫画でめちゃくちゃおすすめなんですけど、
医療とはなんぞやってことを考えさせられるめちゃくちゃいい漫画で、
この中にジャンボが若かりし頃に東北の田舎の雪深いところで人を見とるみたいなシーンがあるんですよね。
普通に死んでいくんですよ。
本人も別にそれが特別なことだと思ってないし、家族も死ぬよねみたいな感じなんですよ。
それを読んでた時に、俺の実家もそうだったなみたいな感じがすごくして、
全力のヘルスケアのベンチャーとかに言うと、死ぬのって悪いことだよねみたいなカルチャーは、
もちろん悲しいことっていうか大前提避けるべきことみたいなのはみんな持ってて、
それは確かにそうなんですけど、自分の田舎の社会学的断片を取り戻すと葬式は大体爆笑なんですよ。
亡くなるとこまでにみんなある種許容をしていて、
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お葬式みたいなのはお経を上げてる時に誰かにネタをやってみたりとかそういうことはないんですけど、
お艶の時とか仮想場の横でちょっとご飯食べたりとかもあるんですけど、
大体ちょっと微笑みスラッシュ笑い話スラッシュ爆笑みたいな感じの場なんですよね。
多分あれっていろんな作業があって、笑って処理するみたいなとこあるんですよね。
悲しそうな時に悲しい気持ちももちろんあるんだけど、それを楽しい話をして心のクッションみたいにして笑うっていうのがあって、
それが結構長野の田舎だとナチュラルな感じなんですよ。
東京を含めた都市圏に行くと、大体人が死ぬ時って前も後も辛くて、
陣痛の持ちで悲しむことこそ流儀みたいなのが多い感じがある。
町医者ジャンボの時のジャンボも田舎に行って、そのギャップに驚くみたいなシーンがあったりするんですけど、
死にまつわる諸々の差みたいな話と笑いで処理する何かみたいなのは、
今の話を聞きながら頭に2本並列で考えていた。
ミッキーさんのこの笑いと違うのかもしれないですけど、
ミッキーさんのショーのことに、全てを受け入れるのは何も行っていないのと同じかっていう、
ミッキーさんどうしたら哲学に走ったかっていう、
英語に直すとすごいハードそうな文章ですよ。
全てを受け入れるのは何も行っていないのと同じかって。
これ何も行っていないのと同じかって書きたかったんですけど、
言ってることに私はすごいライトっていうかあるある話なんですけど、
ここ数年ずっと答えが出てないけど考え続けてるそういうの一つに、
リベラルは何も言っていないと同じかみたいな、
私は結局どんな人の意見も受け入れたいし、そうだねって思うし、
共感できなくても理解したいと思ってるから、
Aっていう命題があったときに、私はこう思います、私はそう思いませんみたいなことがあったときに、
あなたはそう思うんですね、あなたはそう思うんですね、あなたはそう思うんですねって受け入れていきたいわけですよ。
でもそうすると、ふーんみたいなまとめるとってなっちゃって、
そういう人の意見を受け入れたくない、私は何が何でもこうがいいなって声をわーって大きく言った人の意見が通っちゃうみたいなことがあるなって思って、
それってだから私が全て受け入れたっていうか何も言ってなかったのと同じになってしまうのか、みたいな。
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だし、絶対ニュートラルになることはできないじゃないですか、人って。
どうでニュートラルに完璧なニュートラルとか完璧な中洋っていうのは無理なんだとしたら、
じゃあその自分なりの意見を少し声を大きくする努力をした方がいいのか、
でもそれでもなんかそう、努力した方がいいのかするとやっぱり全て受け入れたいと思っているんだったら、
みんなのことを尊重したいと思っているんだったら、みんなの意見を熱心に耳を傾けるべきなのか、みたいなことをすごい思っちゃうわけですよ。
なるほど、なるほど。
だからこの本とかは割と全ての人に耳を傾ける側の本だと思うんですけど、
そういうことをしていった先に待ち受けているのか、声の大きい人の意見をただわがままを通すっていうことになってないかみたいなこととかすごい気になる。
だから例えば寛容な人は寛容な人の前でどれだけ寛容であるべきかみたいな話なんですけど。
テーマがでけえなあ、なるほど。
っていうことをずっと思ってて、それをちゃんと考え始めたのってこの本がきっかけだったのかもって改めて思った。
5年間発行しているわけですね。
結構そのキッサーの本でも、さまざまな価値観を尊重しましょうっていう考えがあるけど、
なんかこれ読みますね、ちょっとまとめるの。
ここで一つの考え方がある。
それはさまざまな価値観を尊重しましょうというものだ。
だからオシャレをしたりメイクをしたりすること自体が悪いことではなくて、
それを他者からあるいは社会全体から強制されてしまうことを否定しましょうということである。
ちょっと略しますが。
ただ私はここから本当にわからなくなる。
私たちは実際にどれくらい個性的であるだろうか。
私たちは本当に社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどのしっかりした自分というものを持っているだろうか。
社会的に共有された規範の暴力をはねのけるだけの自分というものを持っているだろうかと。
なるほど。
つまりいろんな価値観ってあるよねっていうことがあったときに、
ミキさんが言うと声が大きい人っていうのがいますと。
そういう時にそういう考え方があるよねってことしてみたととて、
結局そういうのってある種の暴力としてミキさんだったり、
他の受け入れましょうっていう人のことを侵食していくかのように入っていってしまうのではなかろうかということなのかな?
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その一つ一つあるよねっていうことが大事?多様性は大事って言ってるけど、
そもそも私たちが自分の価値観だと思っているものがどのくらい自分らしいものかすらわからないのに、
そんな中で多様性を尊重することって本当に似合うんだっけ?とか。
なるほどね。難しいね。
難しいけど、そうなんだよ。
なんだろうね。