2022-05-24 18:26

『手の倫理』#2

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こんなワークショップをしてみたい/Be your whole self/多様性と無限性

-- 本紹介 --

人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。 介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、 コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。

ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。 相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。

目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。

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第4章か5章かぐらい、なんかここの本の中で出てきた、なんて言うんだろう、スポーツ観戦しながらみんなでなんかこう、手ぬぐいを引き合うみたいな写真を載ってたと思うんですけど、あれ超面白いなと思ってましたね。それぞれが勝手に勝とうとしちゃうみたいな、こういうワークショップ楽しそうと思いながら見てました。
私ばっかり話しちゃって、あれなんですけど、ここでやっぱりすごく腹落ちしたのは、私にも体験が、こういうみたいな体験があったからで、未来言語っていう団体があって、それはテキストにこだわらずに、例えば言語にこだわってると、私たちは日本語の母語話者なので、日本語でしかコミュニケーション取れなくて、日本語と英語の人とかはコミュニケーション取れないし、
言葉がしゃべれる人としゃべれない人はコミュニケーションが取れないっていうのが、言語の不完全性だっていうふうに定義して、本当は、どんな人でも共通にコミュニケーションが取れる方法、新しい言語みたいなものがあるんじゃないかみたいなことを実験してる会社があるんですよね。
で、そこと一緒にワークショップ開発とかをしたりしてたんですけど、その未来言語さんがもともとやってるワークショップの中で、アイマスクして耳栓もして、もうしゃべっちゃダメっていう状態の人を一人作って、その人にみんなであるメッセージを伝える、例えば温泉に入るとか、ご飯を食べるとか、電車に乗るとか、
そういうことを伝えることができるかっていうワークショップをやったことがあるんですよ。で、私が実際その試験者になって、すべての感覚を塞がれて、見えない、音も聞こえない、しゃべっちゃダメっていう状態で、人に自分の体を触ってもらって、メッセージを伝えてもらう。
その時、電車に乗るっていうメッセージだったんですけど、伝えてもらったんですよ。で、わかったんですよ。私は今電車に乗ってたんだってことが。その時の体験がすごく、最初まじで意味わかんないですけど、ただ立たされてて、自分がどこに向かってるのか、本当に全然わからないんですけど、だんだんわかってくるっていう体験があって、何が痛かったんだっけ?
体の触覚だけで伝わるものってすごいあるっていう体験が、私の中にもともとあったから、このショーの言ってることとかがすごいわかりやすかったって思いました。
これも序盤に糸浅さんが目を閉じて、視覚障害を持つ人たちのランニンググループに行くくだりがあったと思うんですけど、最初はめちゃくちゃ怖かったけど、走り出して何十分かしたらめちゃめちゃ甲骨とした快感に包まれましたみたいな話をしていて、身を預けるっていう感覚だったりっていうのがすごく新鮮で、
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一定の距離を持って誰かと関わるってことから、良い感じに身を預けるっていう感覚を得ることができましたって話があったですね。
一つ塞いだだけでもかなり不自由な感じがするのに、私のあの時は全部塞がれて、それを最初に思った時は石ころになるみたいな、何もできなくなるみたいな気持ちがあったんですけど、いざやってみると意識とか全然残ってるし、全然普通なんですよね。ただ自分と変わらない人間なんですよね。
そのことをすごい思い出しました。何を言ってるんだろう、私は。
その何て言うんですかね、触覚とか、何だろう、副次的な情報っぽく見えるじゃないですか、オプションのように、目が見えてそこに保管して触覚があるから聞いてくるみたいな気持ちがあったりする。
例えば音と手があるからどっちも生きてくるとか、なんていうかその手単体で何かを伝えることができるとか何かを受け取ることができるみたいな気持ちがすごいなかったんですけど、本当に手だけで視覚とか音とかと同じぐらいの情報量があるんですよね。
そうあるんだよなって思いました。その生成的なコミュニケーションにおいて手が持ってるものってすごい大きいよなって思います。
この生成するっていう時に最初の話じゃないんですけど、手ってその触り方、例えばコップをそのガッと掴む、撫でる、ちょっとつまむとか、触覚っていろんな触り方があるじゃないですか。
だから生成にすごい向いているメディアですよね、この手っていうものが。
多分視覚とかって視覚を変えたいなとか生成モードでやりたいなと思っても自分から対象にアプローチができないじゃないですか。
なんですけど触覚は多分すぐちょっと手の裏側で触ってみようかなとか、強さを変えてみようとかっていうのがメッセージ、受け取る情報量を変化させやすいコミュニケーションのモードですよね。
あと多分思ったのが、手って確かアウトフットもできるんですけど、かなり受容器な部分じゃないですか。
私たちは触れられることを感じることができる、感覚を受容するものじゃないですか。
その時に、思い出した未来音楽ワークショップの時に思ったのが、何にも分からないのにその人たちが何をしようとしているのかってことがすごい分かったんですよね。
私をどこかに、結局電車に乗せようとしているってことが分かったんですけど最終的に。
触り方一つとかでその人がどういうことをしようとしているのかとかっていうのをすごく複雑にグラデーションつけて受容できるものっていうことをすごい忘れてたなって思ったんですよね。
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何をしようとしているかが分かるか。
でも分かる気がしますね。例えば、手の輪廻の最初の方にも言いましたけど、その人の触れ方が触れるなのか触るなのかも分かる。
それは自分をもののように、ある意味自分的なものとして処理するたびに触っているのか、何か感情的な共感を持って触っているのかっていうのとかは触れられただけで分かるみたいな。
なんかそれって確かに分かるな。それは目が見えててその人の表情が分かるからとか動作が分かるから分かるんじゃなくて、この受容器の方で分かるんだなっていうふうに改めて自覚しましたけどね。
触れるが相互的であるのに対し、触るは一方的である。言い換えれば、触れるは人間的な関わり、触るは物的な関わりということになるでしょうと。
そういうのが序盤にありますね。
そういうのは多分目を閉じてたとしても分かる気がしますね。今自分がどっちの方で触られたかって何か分かる気がしませんか。
それはするかもね。確かにそうかもね。
今まで触れる仕方とかを目で見て優しく触れてくれたとか思ってたような気がしたんですけど、多分そんなことなく自分の受容器側でちゃんと優しくしてられたとかっていうことを感じたはずなのに、すごいその辺を無視してたなっていうことを思いましたね。
うーん、なるほど。
はい、私がいっぱい喋っちゃったんですけど。
ねえねえ。
本森さんいっぱい喋りたいことある人ですよね。
いやいや、そんなに。やっぱり読んでよかった本。ずっと1年以上Kindleに眠らせてしまっていたので、改めて読んでよかったなっていうものでしたね。
ちょうど俺と並行して、森田雅夫さんの計算する生命っていう本を読んでいて、その序盤にもこの手の話が出てくるんですよ。
うんうん。
この計算をするっていうのは、生物が勝手に持っている特性ではなくて、人間が独特に、独特にというか人間は特別ではないんですけど、体とかそういうものを使って肯定的に獲得していった能力ですっていう話が序盤に出てくるんですけど、その中に手っていうものがどういう意味を持っていたかっていう話が序盤に出てくるんですよ。
うんうん。
それと相まって、すごくいい本だったなっていう感覚がより深まった。手っていうものをめちゃめちゃ考えた時でしたね。
うんうんうん。
なんですか?かつ並行して、日本の食肉業界みたいなことに関するドキュメンタリーを見てたんですけど、それもゴリゴリのヤクザもので、そう考えるとヤクザの人もすぐ小指を落とすよなみたいな。手だなっていう。そういう1週間、2週間でしたね。
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へー。特に印象に残っているのはどこですか?
私は手と倫理。倫理の中の一番最後の方だと思うんですけど、たぶんちょうど出張に行ってる時に話した人と多様性に関する話をしていて、その話がたぶんど真ん中にちょうどタイミングよく出てきたから覚えてるんですけど、倫理のたぶん一番最後の方かな。
相対主義と多様性みたいな話が確か序盤に出てきていて、倫理っていうものを考えると、つまり人によってすげえいろんなパターンがあるっていうことじゃないですか。道徳で言うと一個になっちゃうんだけど、倫理って言った瞬間にある種なんでもありになっちゃうと。
そう考えた時に、あなたの倫理、私の倫理、誰かの倫理っていろんな倫理があるよねっていう時に、じゃあ多様性があるよねっていうふうにまとめちゃうと、それってつまりお互いに干渉し合わない、バラバラであるのオッケーだよねっていう現状を肯定するためのただの免財布になりますよねっていう話が出てきて。
これずっと言われてることだと思うんですけど、そうだよなっていうふうに改めて思って、ここの内容はすげえ個人的には印象深かったんですね。
わかります。みんないいよねって言ってたら何も言ってられると同じじゃんっていうことを私はすごい考えるし、寛容な人は不寛容な人の前でどれだけ寛容であるべきかっていうのも考えるし、そう多様性を大事にするっていうことがどこまで排他的な話の態度につながるのかっていう。
さっき言ったみたいに多分法律が道徳の最低限だとすると、一応国って法治国家っていうのが今前提なわけじゃないですか。
一個一個論理的に言って、道徳って確率的な正しさとか善を思考するっていうふうに言ったときに、国っていう存在は基本的には確率的な正しさとか善っていうのを何かしら提示しなきゃいけない存在だっていうふうに一個一個積み重ねていくとなるじゃないですか。
そういうときに、人たちが言う多様性とは何ぞやみたいな話になって、そうなるとよくわからない多様性の追求っぷりになる気がするんですよ。
女性を大切にするのは大事なことだよねとか、性的指向というのは多様なものがあって、お互いにそこに関しては認め合うようにしようねっていうのって、それってそういう価値観ですよねになっちゃうじゃないですか。
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確率的な多様性の許容っていうミキさんが言ってくれた浅い量の性欲じゃないですけど、ああいうのは知らんがらみたいなふうになる多様性になるっていうことなんだろうなみたいなことを思っていて、そうだよなそうだよなと思いながら序盤読んでましたと。
その後に多様性っていうかは、一人の人間の中にある多様性、つまり無限性っていうふうに捉えたほうが正確にその人のことを捉えられるだろうっていうのが1章かな、の一番最後のほうに出てきました。
うん、一番最後。
これは本当にそうだなと思いながら読んでたですね。
be your whole selfっていうね、言葉を見かけたときにっていうのが書いてあって、そこが乙美さん刺さってたんじゃないのかなって思ったんですけど。
そうですね、糸浅さんが大学どこだっけ、アメリカのどっかの大学に行ったときにキャンパスのこの掲示板みたいなところにチラシがポンと貼られていて、大きな文字でbe your whole selfですね。
なんて訳したらいいんだろう、あなた全体であれみたいなこと?
なんて言ったらいいんだろう、be your whole self。
全体としての自分であれってことですよね。
うん、セルフ自身、そうね。
すごくいいなと思っていて、そのとある個人を見たときにいろんなカットがあるじゃないですか。
そのポスターに載ってる人はビジュアル的には黒人女性が二人載っているというときに、その人もフォールセルフじゃない個別のセルフの切り方をすると、
アフリカ系アメリカ人で南部出身で女性でこういうことに関心があって、学部はこれでみたいな、高校はここに行ってみたいないろんな切り口があるんですけど、
それの一個一個を切り取るっていうか、全部で一個じゃないですか、個人だって。
それはなるほどなーと思った。
be your whole selfってすげーいい話だなーと思っていて、
なんでそう思ってたかで言うと、仕事をしているとあなたは何ができる人なんですかっていうのをめちゃくちゃ聞かれるじゃないですか。
そういうときに多分フォールセルフって言ってもわかんないんで、一個一個切り出していくわけですよ。
こういうプロジェクトやってきましたとか、こういう人ですみたいなことを切り取っていくんですけど、それやってると辛いなーっていうか悲しいなーみたいな。
悲しい。
マーケティングの人ですみたいな。マーケターです私!みたいなので突き乗っている人もいるじゃないですか。
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すごい誤解を恐れずに言うと、汗な!みたいな風に思うところがあるわけですよ。
もっとその人っていろいろあるはずなのにっていうのを思うけど、そういうのが認められる風潮だったりもするじゃないですか。
エッジを立てて、自分をセルフマーケティングして、ブランディングしてみたいな。
いやそういうことじゃねえんだよなーっていうのを、みんなそれをやり出す社会ってすごい私は不寛容だと思うんですよ。
無限性を背して、なんかほら多様な中の一つの私はほらLGBTQの人でみたいな風にタグ付けをされちゃうとまあ悲しいだろうなーみたいな。
のを思ってたのが序盤の、すげえなんかめっちゃ長く話しちゃいましたけど序盤のハイライトですね。
そうですね。
なんか、なんて言うんだろう。
そういう意味で触覚って、
どこから得てる情報が何パーセントみたいなやつって言うと、視覚ってものすごい多いって言うじゃないですか。
7割とか8割とか9割とか視覚ですって話。
どうやって測ってるのかわからないですけど、あると思うんですよ。
なんですけど触覚っていうものって、
すごく無限に近いメディアだと思うんですよ。
確かに視覚もピクセルまで1個1個切っていくと無限ですって話はあるんですけど、
触覚の方って触り方、触り方だったり触らない方が多いんですよ。
触らない方が多いんですよ。
触覚ってものの無限性すげーあるなって思っていて、
触り続けるっていうことだったり、
触り続けるっていうのは、
触って感じるようなものがあるじゃないですか。
そういうものがあるから、
その触覚ってものの無限性すごいあるなっていう風に思っていて、
触り続けるっていうことだったり、
続けるっていうことだったりそこでやられるもののその相手の変化 まあ距離がマイナスって話もありましたけど
その感覚をすごく得られる
うんと近くの方法 なんだろうなぁと思って
ねいたですねー 触ると同時に触られているみたいな感覚
確かに触覚だけなのかなぁとかね そうね見られ見る見られるみたいな話もあったりする
けどそれがわかりやすいのは触覚 ですよね
あーそうですね手のその需要期としての側面はすごいないかしらにしたなって
台服の台服の話がどっかに出てきてて 視覚とか聴覚はもうそこにあるものを感じるっていうものだけど
触るっていうことはそのものが持っている性質を引き出すっていう能力をまあ 必然的に持っていると
グッと押すと柔らかさを感じるよねとか 触るとサラサラしてるよねっていうのは
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あの触覚だからこそ分かる
ですって話をしてたですねー 触れるねー
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