新年の挨拶と実家での過ごし方
どうもお疲れ様です、いかです。この番組では、高校の国語化教育をしている私、いかが、仕事のことや仕事以外のことを緩くおしゃべりしていきます。
新年明けましておめでとうございます。
2025年になりましたね。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
なんかね、久しぶりの配信ですよね。前回は12月28日、現代語の授業の話でしたね。ポケモンの名前のやつね。
それからもう1週間以上期間が空きました。
年末年始皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうかね。はい。
私はね、めっちゃ長期生でしたね。
12月29日から1月4日まで7日間ですかね。
こんなに長いことを滞在するのは私は珍しいんですよね。
期生すると自分一人の時間っていうのが完全なくなっちゃうんで、
ポッドキャストを更新するどころか聞くっていうのもできなくて、
家族との時間とか友達との時間を過ごしているというのは全然それはそれで楽しいんですけど、
やっぱりね、これはちょっと今やらない方がいいなというか、できないなみたいなことがちょこちょこみんなといるとあるんで、
やっぱ一人暮らしは贅沢だなというか、やめられないよなと思ったりもしますね。
ただずっと実家にこもっていたというよりかは、実家を拠点として地元の懐かしい友人と会ったりゴルフ行ったり、
いろいろね動き回ってたって感じでした。
悲惨な出来事の影響
印象深かったのはね、中学時代の剣道部の同級生に会ったことですね。
その時はね、私含めて5人集まったんですけど、
ほとんどの人たちが成人式以来だったんですね。
成人式の日もね、別にゆっくり食事したり話したりはしてなかったはずで、
なんで今回は本当に久しぶりな感じがしました。
まあその人、その人のパーソナリティっていうか、喋っている様子はもう中学の頃とね、大して変わらないんだけれど、
でももう27歳で、世界人5年目ともなるとね、
みんな遠くに引っ越したり、転職したり、結婚したり、いろいろね、変化があって、話し聞いてて面白かったですね。
この剣道部の集まりは、珍しく私が言い出しっぺだったんですよね。
普段ね私は、食事会とか飲み会誘ってもらったら、どうしてもいけない時以外は参加するようにしてるんですよね。
だけど、自分から誘うっていうことはもうほとんどないんですよ。
何人か呼ぶっていうことになると、スケジュールの調整とか、お店探しとか、
まあぶっちゃけちょっとめんどくさいじゃないですか。
で、一人で過ごす時間も私結構好きなんで、予定のない日は実はめちゃくちゃ嬉しいんですよね。
なんで、わざわざそういう何もない日を潰して、少し先の予定を自ら手間をかけて作っちゃうというのは、あんまり気が進まなくってね。
だから、誘ってくれる人は本当にもうありがとうって思うし、すごいなって思うんですけど、
だって実際ね、集まってみたらその時間楽しいんで、もう本当感謝と尊敬の面しかないんですけどね。
まあただ今回は重い腰を上げて私が召集したんですよ。
で、なんでそんな気が起こったのかというとですね、これはね、昨年の1月1日に起因すると思うんですよ。
2024年1月1日、皆さんどんな風に過ごされてましたか?1年前。
私はね、例年通り実家に帰ってゆったり過ごしてたんですよ。ボートテレビなんか見てね。
で、そしたら飛行機の衝突事故ですよね。旅客機と海上保安庁の航空機がぶつかって。
で、機体からね、炎がバッと上がってて。
で、旅客機の搭乗者の方は助かったけど、海上保安庁の航空機に乗った方は亡くなってしまいましたよね。
で、それから立て続けに起こったのが石川県の野党半島の地震ね。
建物を倒壊して道壊れて、何人も犠牲者の方がいらっしゃって。
そういう映像がまたテレビでね、流れていってましたね。
あの、私普段はテレビは見なくてほとんど。たまにAmazonプライムで映画見たり、あとはM1見るぐらいのことでね。
普段あんま見ないんですけど、その時は実家にいてずっとテレビついてたんで。
まあ、自動的にこうそういう情報、映像、まあ音とか、なんだろう。
が、いろんな五感を伝って体の中に入ってくるっていう感じだったんですよね。
で、1月1日ですよ。もう家族、親戚集まって、友達と集まって。
多くの人が穏やかな時間を過ごすはずのこの日に、そんな悲惨な出来事が起こってて。
その惨状をテレビで目にしてると、この自分が今置かれている日常っていうのは当たり前じゃないんだなっていうのを実感したんですよね。
いつどうなってもおかしくないなってその時思ったんですよ。
だから、この2024年はできるだけいろんな人に会えるうちに会おうと。
そしてこうなったらいいなという理想をできるだけ実現させようと、そういう風にね、決心しました。
そういうこともあって、剣道部の友人を誘ったのもそれが主な要因だったんじゃないかなと思います。
あとは何でもやってみようっていう思考になったからこそ、ポートキャストを始めたりゴルフを始めたり、
授業を作ることにおいても新しいことにチャレンジできたんじゃないかなと思いますね。
2025年のテーマ
1年の刑は元旦にありなんていう言葉がありますが、案外理にかなっているのかもしれませんね。
こうやってね、2024年を夜中にね、振り返っていってたわけなんですよ。
2025年1月1日午前4時ぐらいだったかな。
12月31日の延長で上野の鐘鳴らしに行ったあとね、家族のみんなが寝静まって、リビングのソファーで寝転がっててね。
もうちょっとこれ今寝たら翌朝起きらんないなとか思ってずっと起きていることにして、
起きている間そういうことを考えながら1月1日を迎えました。
同時に2024年をざっと振り返っているとやっぱり2025年どうしようかなと考えていくわけですが、
2025年のテーマはね、ゆとりでいこうかなと思いますね。
リッスンアドベントカレンダーに参加して、ベータさんと話している中でもゆとり欲しいよなみたいな話が出てきてましたよね。
あとはね、少し前にコテンラジオの深井龍之介さんがXのなんかの機能、映像を配信できるようなリアルタイムで、
ちょっと名前忘れたんですけど、機能を使って松並龍弦さんという仏教の先生みたいな方に
仏教について教えてもらっているのを配信するみたいな、そういうことをされてたんですよ。
そこで話されていたのが、豊かさとは何かということだったんですよ。
これね、確か途中で止めちゃったか寝ちゃったかで、最後の最後まで聞いたわけじゃなかったから、これが全てっていうわけではないですし、
私は仏教に全く詳しくないんで、その時にこういうことを話されてましたということしか言えないんですけれども、
仏教の中では、豊かさとは余剰なんだそうですね。
余り。この余剰、余ってるという状態は、これは必要ではないと人が判断する、そういう認知、人の認知なのだと。
言い換えるとその余剰はいつでも手放すことができるものであり、それは他者に与えることができるということでもあると。
確かにそうだよなとは思いますよね。
人って未来が不安ですよね。だから、今必要かもなと、違うわ、必要ないなと思っても、
完全に人にあげちゃっていいかっていうふうに問われると、それって微妙というか違うじゃないですか。
余剰と豊かさ
例えば、今銀行口座にね、例えば100万ありますと、これを全額寄付してくださいと言われたらできます?
私はね全然、もう全く無理できないですね。
こういう人にあげられませんみたいなものは、仏教で言うと余剰ではないそうです。
あくまでいつでも手放すことができますよっていう状態のものが余剰であって、
この余剰があります、いつでも手放せますという認知が豊かさになってくるんだという、そういう話でしたね。
この豊かさの定義を前提として、これで十分幸せだという幸せの行き地調整、
調整がメタ的にできて、ここまででいいっていう値を超過した分、つまり確定した余剰を他者に与えることができれば、
それが個人だけに留まらず、そういう人が増えていったり、そういう企業が増えていけば、豊かな社会になっていくよねと。
逆に言うと、この幸せの行き地調整ができないと永遠の欠乏に陥ってしまうよね。
現状社会は余剰作らないようなシステムになっちゃってるよねっていう、そういう現代社会の話にそれから発展していってたんですけれど、
この話を聞く中で、私も豊かさとか余剰とかについて、ふと考えさせられたんですよね。
ここからは、コテンラジオの配信で言ってたことじゃなくて、私が考えたことですけど、
職場でも素敵だなと思う人って、確かにこの余剰を持ってるなと思うんですよね。
例えばね、急遽空きコマができたと、授業と授業の合間に50分ぐらい空いてる時間ができたと。
そこで何をするかと。
私だったら、自分の授業の準備とか、授業の準備してたらいいとこですけど、
ちょっとコーヒー飲んで、お菓子つまんで、ちょっと小休憩みたいな、小休止みたいな、そんなことになってるかもしれませんね。
だけど、その職場の余剰のある人、余剰人はね、その時間の中で廊下のモップが消してるんですよ。
誰も見てないし、当番でもないし、その人がやらなくても別にいいようなことを、ちょっとの隙間の時間でやられてるんですよね。
あまりに得が高いんですが、これも自分の時間という限られたリソースを手放してもいいと認知した結果とも言えるかもしれないなと思って。
その人を見てると確かにこう、豊かだなっていう風に戻れるし、そういう人がたくさんいるような社会だったら、確かにまあいいなと思うんですよね。
私自身はまだそんな得の高い状態にないというか、そこまで寛大になれてないんですけれど、
だけど、余剰?言い換えるとゆとり?を生み出そうとする努力はしたいなと思ったんですよね。
幸せな域地調整の話とはまたちょっと違ってくるかもしれないけれど、
私はね、もう何でもギリギリにならないとやらないし、なんかこう、今やらないといけないことを出せる力以上でやろうとするというか、120%でやろうとしがちっていうか、
とにかくね、ゆとりがないんですよね。
2024年はこう、あれもこれもと手を出していった感があった気がするんですが、
それだと人に差し出せる分どころか、ちょっと借金しちゃってるっていうか、人に迷惑かけちゃってる部分もあるなぁと思うわけです。
確かに人に頼るということも必要だし大切なんだけれど、実はそれって結構自分の性格上メンタルちょっと削られるっていうか、
なんかね申し訳ないなって毎回、別に思う必要ないところもあるけど思っちゃうんですよね。
そういうメンタルの状態ってあんま豊かじゃないじゃないですか。でも豊かな人生は送りたいじゃないですか。
だからこう、自分の自然状態に任せてたら、そうやってゆとりない感じになっちゃうんで、
せめてゆとりが生まれるのを待ってるんじゃなくて、生み出す努力をしようという、そういう心持ちになっていったんですよね。
2025年のテーマ
なんで2025年のテーマはゆとり。目標はゆとりを生み出す努力をするということですね。
これ言い換えるとね、何事も後回しにしないとか、タスクやスケジュール、あとはお金管理ちゃんとやるとか、
社会人としてできて当たり前みたいなことなんですけどね。そんな感じで2025年はちょっとついに足をつけて、
ゆとりを持って、そんな努力ができるような人になっていきたいなと、そういう心がけをしていきたいなと思っております。
ということで今日はこんな感じで終わります。ありがとうございました。