声日記のはじまり
みなさん、こんにちは。関口舞と申します。今ね、自宅で撮ってるので、もしかしたら
ちょっとね、うちの猫が少し荒ぶっておりまして、2匹でバタバタしているので、その音が入るかもしれません。
この声日記というのをやってみようと思って、実はね、これね、もうテイク3とかなんですよ。
いろんなところでいろんな発信をしているからこそ、何か一番自分の本音を置いておける場所だったり、
何気ない日々の気づいたこととか思ったことを記録しておける場所があるといいなぁと思って、
始めてみたんですけど、先週にもね、2個撮って、どっちも撮った後で自分で聞き返して、
あーなんかこれはちょっと世間に出すのは微妙かもしれないとかね、これをあの人が聞いたらこう思うかもしれないとか、
なんか、あのね、こんなところまでたどり着く人の方が少ないと思うから、そこまで考えなくてもいいのにね、自分の選択癖が出てしまいましてね、
その2つがちょっとお蔵入りになってしまったというのがね、あるんですよ。本当はね、多分そういうのをお蔵入りにせずに出すことに意味があるんだとは思うんですけどね。
今ね、ちょっと猫が不満げなうなり声を上げておりますけれども。
やっぱりね、最近SNS社会になってもう10年以上が経ちますけど、私はね、中学生の頃に、まだから13歳とか、今33だからまあ20年前か、
それぐらいの頃から2チャンネルにはまってたので、そう考えるともうネット上で何かを発言するとか発信するということ自体はもうね、20年ぐらい歴があるわけですよね。
こういう時代になっていることで、やはりツイッターに出す自分の人格とインスタグラムの人格が違うとか、お母さんと喋ってる時の自分と友達と喋ってる時の自分が違うとか、
それはもう誰にでもみんなあると思いますけど、結構多分私それがすごく強い方で、その時その時のプラットフォームだったり相手によってなるべく自分を最適化しようと、
自意識にね、わざとじゃないんですけどね、結構やっちゃう方だから、割とだからこそ、最も素の状態の発言というのがね、自分でもよくわからなくなる時があるし、
そういった意味ではもうね、ずっと前から文章を書くというのがすごく好きで、日記を書いたりエッセイを書いたり小説を書いたりしてきたんですけど、私は割とこう人と喋ってる時の自分とその文章でのアウトプットにだいぶ人格的な雰囲気的な乖離があるみたいで、
私の小説を読んだ人とかがね、結構びっくりしたりするということがあって、
自分的にもね、ちょっと課題に思ってるんですよね。もう少し文章だけじゃなくて、言葉とか声でのコミュニケーションにおいても、なるべく思ったことをオブラートに包んだり加工したりしすぎずに、できるだけプレーンな状態で世の中に出せるようになりたいなって、そういう練習がしたいなと思ってる。
今日、この頃です。さっきから猫が何回か鳴いたりして、今はね、水を飲んでるんですけどね。
そうだな、最近何考えてたかな。最近私が思ってたことの一つが、人間関係におけるゴールイメージとか、この人との人間関係の上限っていうのは何だろうというね、そういう考え方についてね、最近いろいろ思うところがありました。
SNS社会における複数の自己
というのも、昔はね、例えば気の合う人と出会ったら、もちろんその人との人間関係の一番上は親友になることであるとか。
それが異性だったら、私はね、いわゆる性的指向というか、男性を好きになることが99%、1%はちょっと分からないからってところで置いておいてるけど、
なんですけど、私の場合は相手が男性だったら、すごくこの人いいですねって思ったら、その一番上というのは恋愛関係である、付き合う、それかもしくは結婚とかみたいに昔は思ってたんですけど、やっぱり最近全然そんなこともないなーなんてことを思ったりして。
この人は本当に素晴らしい人だし、めちゃめちゃ好きだけど、これくらいの関係性がおそらくMAXだなーと。それが一番この人の良さを私は感じることができるし、相手にとっても私との居心地がいい状態が続けられるし、
最もお互いに、トロの部分、マグロで言うところのトロの部分みたいな、それしか思いつかなかったよ。
トロの部分をね、これくらいが一番得ることができるかなーなんてね、思うことがあって。
それは例えば、とっても素敵なお兄さんお姉さんと仲良くなって、この人とゆっくりワインなどを飲みながら静かな場所で話をする。そんな関係になれたら一番いいなーとか。それ以上はちょっと違うかなーとかね。
もう一人あったものすごく頭のいい、とても優しい方がいたんですけど、その人は男性だったんですが、うわーめっちゃこの人素敵だなーと思ったんだけど、これはね、私がもう少し青ければというか、大学生くらいだったら、キャー素敵、好きとかね、恋愛の方にすぐ頭がいってしまったかもしれないけど、
大人になるとね、こういう感じの人はおそらく会議室以外で会わないくらいがちょうどいいんだろうなーとか。それくらいが一番ロマンがあるっていうんですかね。
何か相談して、頭の中でそれをピューッと向こうから整理して、立ち上がってホワイトボードに書いてまとめたりしてくれて、それくらいの感じがこの人との人間関係の上限かもしれない。
まあ、もう少し深めたいと思うなら、その打ち合わせというか、仕事の質や関わる頻度を上げることぐらいであって、個別にわざわざプライベートで会うとかはきっと違うだろうなーとかね。
今ね、パチパチ音がしてると思うけど、後ろで猫がご飯を食べてます。そういうことを結構考えますね。
なんかね、旅先でたまたまご一緒した人とすごく平和で豊かな会話をしたとして、じゃあその人がクラスメイトだったら、仲良くなってたらどうだったのかと。
もしかしたらその人とは旅先で少し会話をするくらいが一番いいのかもしれないとか。
こういうふうに思うに至った経緯としては、やっぱり人生それなりに生きてることによって、この人との人間関係の上限の設定を間違えてしまったなーって思った出来事が今まで何回かあったんですよね。
一番それがショックがでかい例としては、友達という関係が上限であってこの人との最もいい関係性だったのに、それがこうじて一緒に仕事をするようになったら少し変わってしまったとか。
もしくはね、友達のままでいたらきっと今でも仲良く続けていられただろうと思われる人と恋愛関係になってしまって、お別れしたことによって元々あった友情関係自体が終わってしまったとか。
なんかそういうことってね、結構あるんですよね。だからついつい私は人のいいところを見つけるのが好きだし得意だし、それを相手にすごい伝えたくなっちゃうし、それは例えて言うなら、相手の中から素敵な宝石を私が見つけ出してそれをピカピカに磨いて、
本人の目の前で手のひらに乗せて、ほら、こんなのありましたよって。そういうのをやりたくなっちゃう。そんなことをやってると、ついついね、本来の上限よりもうっかり仲良くしすぎちゃったりする時があって
でね、もう少しこれはデザイン、人間関係の上限やデザインのところをもう少し考慮できていれば、もっといい形で続けることができたのになーなんてね、思う時があるんですよね。最近そんなことをね、思ったりして
ねー、そういうことってありませんか?
まああとね、ごく稀にこの人との人間関係をどういうふうに持ってったらいいかわかんないって時もあるけどね。すごい好きだし、めっちゃ素敵な人だけど、なんかちょっとイメージ湧かないなーみたいな
それを相手に率直にご相談するのも変だしなー。そんなこんなで私は結構、人がすごく好きだったりする人にも非常に興味もあるし
だけど、いろいろ考えちゃって、なんだかんだで一人でいることが多くて、わりと一匹狼な感じになっております
だからこそ結構、私ラジオとか、あとね最近ライブ配信とかもやってみたんだけど、その一対多、たくさんの人と交流できるけれども、一人一人との人間関係がそこまで発生していない状況
結構心地いいんですよね。ってことがね、最近わかってきて。別に私の話を聞きたくない人が無理やり来ることはあんまりないし
それで何か少しでも共感してもらえることがあったり、通じ合えるところがあったりして、関わっていられる。浅く広くの究極系なのかな
だけど浅いようでいて、こっちが本当に思ってることを言えていれば言えているだけ。浅いようでいて、深いところで共感しあえているとか
そういうのをね、目指していけたらいいですよね。いい時代に生まれたいよな、そう考えると
そんな感じで、これテイク3ぐらいだけど、さすがにこれは大丈夫かな。あんまり個別具体的な事例を言っていないから、これはさすがにネット上に出しても大丈夫かと思うんで
はい。こんな感じで、これからたまに声日記アップしていけたらと思います。今後ともよろしくお願いします。関口舞でした