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2024-06-24 14:11

58 - 神様は努力に見合った報酬を与えない?

久しぶりに聖書の内容について。私的には今回は結構衝撃でした。


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日々、駐妻。この番組は、アメリカで駐妻として暮らす私、かやこが、日々の生活やその中で感じたことなどをありのままシェアする番組です。
配信は不定期です。番組をフォローすると、新しいエピソードを配信した時に通知きますので、よかったらぜひフォローしてください。
キューストンはですね、今雨です。もしかしたら、この配信にザーって音が入っているかもしれないんですけど、それもオツということで、勘弁してくださいませ。
今日はですね、久々にバイブルトークの話したいなと思います。
長らくちょっとつわりで体調崩してたので、バイブルトークもお休みしてたんですけど、最近徐々に良くなってきたので、また週に1回、聖書について勉強し始めました。
この番組聞いてるよっていう方は、ご存知と思うんですけど、私はアメリカ人のおばあちゃんたちから、聖書について教わっておりまして。
聖書を勉強することを英語ではバイブルスタディって言うんですけど、もっともっと気軽なものとして学んでいるので、バイブルトークというふうに呼んでいます。
最初はね、先生もおばあちゃん2人だったんですけど、最近はこの片方の方から学んでます。
なぜかというと、もう片方の方も生徒を他に抱えていて忙しいので、分業生になっておりますが、変わらず楽しく勉強しております。
いまだにね、一番最初の章であるマスユを、マタイによる福音書をやってるんですが、ここ最近勉強した中でも特に印象に残っている章の話があったので、紹介したいなと思います。
どの章かというとマスユ20、マタイによる福音書の20章ですね。
ここではイエスキリストが天国ってこんなところだよっていう例え話をする章です。
結構ね、章の中ではイエスキリストは天国ってこんなところだよって話を、手を替え品を替え、いろんな角度からの例え話で伝えていくんですよ。
つまりそれは、天国が物理的にどんなところかっていう話ではないんですよ。
こんなキラキラしてるねとか、天使がいてねとか、そういう話じゃなくて、天国っていうものの考え方というかコンセプトみたいなのを伝えようとして、いろいろ例え話をしてくると。
なので、そういう時のお話の始まり方はですね、いつも私が読んでる聖書だと、The kingdom of heaven is like thisって始まります。
直訳すると、天国の王国というものはこういうものであるって説明し始めるんですね。
今回する20章もそのように始まって、どんなお話かっていうと、あるところにブドウ畑のオーナーがいましたと。
そのオーナーは、ブドウ畑で働く人を探していて、早朝に市場に出かけました。
市場でブラブラーっと暇そうな人がいたので、声をかけて、1日銀貨1枚で働かないと。
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それは当時で言うと、全然買い叩いてるわけでもなく、フェアな賃金で。
相手も合意して、じゃあもう今すぐ働いてくれって言って、ブドウ畑に行ってもらった。
で、彼はその後、今度また朝9時に出かけて行って、ブラブラーっと暇そうな人に声をかけて、またフェアな賃金でということで、合意を得て働きに行ってもらった。
っていうのを、数時間おきに何度も何度も繰り返したんですよ。
お昼12時、3時、5時みたいな感じで声をかけて、たくさんの人たちがブドウ畑で働いて、じゃあ1日終わりましたと。
1日終わったので、じゃあ今日1日分の賃金を払いますって言って、じゃあ後から来た人から賃金渡すねって言って、
一番最後に来たグループである午後5時台の人に銀貨1枚をそれぞれ渡しました。
で、次に午後3時に来た人、12時に来た人みたいな感じで、後から来た人からお金を渡していく。
その様子を見ていた一番最初に来た人たち。
言ったら、もう早朝からやってるんでね。もう10時間ぐらい働いてるわけなんですけど。
で、その人たちがいよいよ自分たちの番だと。いくらもらえるんだろうと思ったら、自分たちも銀貨1枚だと。
えぇーってなって、いやいやいやと。
私たちはもう1日中働いていて、かたや午後5時に来た人なんて1時間しか働いてないのに、なんで同じ賃金なんですかと。
これはフェアじゃないでしょって、そのオーナーに苦情を言ったと。
そしたらそのオーナーが返すところによると、いやいやいやと。
私たちはあなたを含めたそれぞれの労働者と、この時間のこの労働銀貨1枚ということで合意を得てますから、何も不公平じゃないでしょって返してきたと。
いう話なんですよ。
私がこれを読みながら、次の展開としてはあれだな。
イエス・キリストがこういう不公平なことは良くないみたいな感じのことを説くんだろうなと思って読み続けるわけです。
そしたら、このたとえ話をしたイエス・キリストが言ったのは、天国ってこういうところですって言ったんですよ。
え?なんか全然がてんがいかないっていうか、バチバチに不公平じゃないですか。
かたや10時間ぐらい働いてて、かたや1時間しか働いてなくて、同じ賃金で。
それぞれ合意したかもしれんけど、それってあまりにアンフェアじゃないっていう。
でも、ジーザスは天国ってこういう考え方なんだって言うんですよ。
もうね、これ解説なしには、ちょっと素人には全く意味がわかんないですよ。
これがね、どういう話なのかっていうと、天国のルールと、今私たちが生きてるこの地上のルールっていうのは全然違うんだっていう話なんです。
これはもうあくまでたとえ話なんで、ジーザスもね、イエス・キリストもそうやって各人と合意を得たなら、別に不公平な賃金で人を雇ったっていいんだってことが話したいわけじゃなくて、
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そういうことじゃなくて、ここでイエス・キリストが言いたいのは、やっぱ努力すればするほど、サクラファイというか、自分自身を犠牲にして、
いろんなものを捧げれば捧げるほど、多い報酬をもらえる、多い見返りがもらえるっていう考え方が、私たちの社会の中で一般的じゃないですか。
頑張った人ほど報酬が報われる。たくさん働いた人ほど、多い賃金がもらえるっていう考え方が当たり前だけど、天国では決してそうではありませんと言いたい。
で、この労働とか、頑張ったみたいなものが何かっていうと、神への信仰なわけです。
キリスト教って、もう20年間ずっと神様を信じて、神様がこうあるべきだと。
例えば隣人を愛しなさいとか、親を大切にしなさいとか、周りの人に義務をしなさい、愛していきなさいっていうことをずっとずっと、何十年も真摯にやり続けて、神に祈り続けてやってきた人も、
超極悪人で、犯罪を犯しまくって、もう明日死刑です、みたいな状況の前日に、
ああ、なんて私は馬鹿なことをやってしまったんだ。自分は間違っていたって快振して、本当に心の底からその瞬間に神を信じて、自分自身を神に捧げたい、信じたいって思った人。
もう片家数十年の信仰者。片家も一日。どっちも平等なんですよ、キリスト教において。
数十年やってるからこっちの信者の方が偉いとか、数十年やってるからこっちの信者の方が天国に行った時にいい待遇が受けられるとか、そういうことは全くなくて、
たとえあなたが本当に死の淵に立った直前にキリストを信じたとしても、それはもう数十年の信者と同等なわけです。ある意味そういうフェアネスが、公平性がそこにあるんですよ。
なかなかね、この社会のルールで聞いた時に、そんなに頑張った人と死ぬ一日前に快振した人が同じ扱いってどうなん?っていうふうに考えてしまうんですけど、もうキリスト教においてはそういうことは関係ないし、
そもそも、やっぱ数十年頑張ったから叱るべき報酬、見返りがあるべきだっていう考え方が、要は見返りを目的にしちゃってるんですよね。神を信仰する目的っていうのは、自分が天国でいい暮らしがしたいとか、自分が神様にもっと愛されたいとか、そういうことではなくて、
ただただ、神が自分たちを愛してくれている。無条件に自分たちのことを愛してくれているように、自分もそのような姿勢で、神が求める姿勢で生きていこうっていうだけなんで、なんかそこに見返りを求めるっていうこと自体が、キリスト教の根本を理解していないってことになるんですよ。
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これ伝わりますかね。だから本当に私たちがこの地上において適応しているルールと、ある種真逆なんですよ。だからそれを伝えるための例え話なんですね。考え方があまりにも真逆なんで、多分エクストリームな極端な例え話をして衝撃を受けないと、多分私たちの中に入ってこないんで、こういう賃金っていうような、わかりやすい見返りとして説明したのかなっていうふうに思うんですけど。
この章はさらにいろんな話が続いていて、この次のパラグラフ、段落で語られるのは、キリストって12人の弟子がいるわけなんですが、その中の弟子のお母さんがイエスキリストのところにやってきて、もし私の息子たち、あなたの弟子であるところの2人が亡くなった時には、天国であなたの右隣と左隣に据えてくれますよね、みたいなことを言うんです。
要は、天国に行った後に、それぞれの地位を約束してくれますよね、みたいなことを話すわけです。お母さんがね、キリストに。これも、完全に理解できてない。もう、全然真逆のことを言ってるってわけなんですよ。
要はそのね、弟子たち、息子たち本人がどのような心境だったかわからないですけど、彼らは天国でいい思いをして、権力を持って富を得て、いい生活をするために神を信仰しているわけではないし、それを神は望んでいるわけではないんですよ。これはもう、すごい勘違いをしているっていう話なんです。
っていうのが書いてあったのが、私がうおーと思ったこの20章のお話なんですね。なんかこの20章の話を一緒に読んで説明を受けながら、
あ、なんか私はいつから世の中には一つのルールしかないって思ってたんだろうって気持ちになって、要は頑張ったら頑張っただけ報われるべきだし、自分のことを多く犠牲にした人にはそれぞれの良いことがあるべきだし、
っていうようなルールを知らず知らずのうちに自分の中にインストールしていて、ものすごく頑張ってくれたのにそれに対する見返りがないとか、時間を割くとか労力を割くとか、いろんなことをしたのに、それに不層な見返りがあったらおかしいみたいな考え方になってたんだなと思って。
たとえ話聞きながら、ああこれはもう葡萄畑のオーナーはダメだって言われるだろうなっていうふうに思っちゃってたんでね。でもやっぱり人を愛するってそういうことじゃないじゃないですか。私は娘が何か見返りをくれるから娘を愛してるわけじゃない。
夫が何か見返りをくれるから夫を愛してるわけじゃない。でも子供だと無条件の愛みたいなものって結構わかりやすいけど、これが自分の親とか自分の配偶者とかパートナーとか友達とか、要は自分と対等な大人みたいになってくると、見返りがあるから相手を愛したわけじゃないのに、
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その間にか自分が相手にしてあげてることって、それ相応の見返りが来るものだと思って接しちゃってることないですか。私はこんなにやってあげてるのにあなたは何もしてくれないみたいな。私はもう本当に自分で言ってて耳が痛いですけど、全然あるんですよ。全然平等じゃないみたいな。フェアじゃない私はこんなにしてるのにみたいな。逆にそういうふうに言われることもありますけど。
でもやっぱ愛ってそういうルールじゃないよな。なんで愛までそういうルールのもとに運用されてるっていうふうに思っちゃってたんだろうとか。愛じゃない人助けとかね、人に親切にするとかいうことだって、全然なんかその等価交換みたいな、与えれば与える分だけもらえるんだみたいな考えに基づいてないよなって。
それにやっぱ気づかせてくれる聖書やべえみたいな気持ちになりました。特にやっぱ労働力とお金っていうのは資本主義社会を生きている私たちからすると等価交換であるべきだし、犠牲を出したら出した分だけ見返りがあるべきだっていうふうに思ってて。
いつの間にかそれが思考の根幹を占めてるっていうのはあるよなって思ったんで。今回のね、このマセイ20、20章は自分的にはめちゃくちゃ印象に残る章でした。ということでご紹介いたしました。本日は以上です。
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